都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2009年4月 記事一覧

2009-04-30 | 記事一覧 
04/09 ひさびさに東京の階段 DBを更新(東京の階段)
04/14 市谷亀ヶ岡八幡宮男坂(階段で花見)
04/17 三田の藩邸長屋風建物(失われた江戸時代風建物)
04/20 静岡浅間神社百段階段(静岡の名階段)
04/23 奥野ビル(銀座の近代建築再発見)
04/26 朝日生命ビル その1(東京新旧写真比較 No.35)
04/29 朝日生命ビル その2(東京新旧写真比較 No.36)


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朝日生命ビル その2

2009-04-29 | 新宿区  

東京新旧写真比較(2001/2009) No.36 新宿区西新宿

朝日生命ビル
所在地:新宿区西新宿1-7-3
建設年:1963(昭和38)
構造・階数:SRC・9F?
解体年:2006(平成18)
Photo 2005.5.19(朝日生命ビル解体の様子(ノーマル時))

モード学園コクーンタワー
建設年:2008(平成20)末
Photo 2009.4.18(コクーンタワー完成後(マウスオン))

 解体される前に撮りに行こうと思いながらぐずぐずしていたら、あっという間に足場が組まれてしまっていた。仕方がないので、写真は解体中の様子と現在の様子。

 コクーンタワーの完成後、同所を訪れたら、やはり全然違うことになっていた。
 モダニズム系のオフィスビルは今まであまり撮っていなかった。だが最近は、次第に解体事例が増えてきて、撮っておけば良かったと思うことが増えている。撮影対象がどんどん広がるのもどうかと思うが、写真に残しておきたいと思ってしまうのだからしょうがない。


 ところで、都市の風景の中で、球体を配するというのは、馴染みがあまりないせいかなかなか難しいことだと思う。お椀を伏せたような半球型の屋根はあるが、下半分の側もある球形は極めて少ない。思い浮かぶのは、湘南台文化センター(設計:長谷川逸子)の球体型ホールとか、フジテレビの球体展望室程度。
 球形は、建築物としては重力に沿った形でないためか、自然な感じにならない。極めて人工的で意図的、自己主張の強いデザインだ。だからだろうか、普通はあまり使われない。また、球体だと壁面も全て球面になってしまうため、結構使いづらいかもしれない。

 だが、コクーンタワーで、もし自分が別棟をデザインするとしたら、メインのあの超高層棟の脇にはどんな形を配するだろうか? 結局は傍らに球形を置きたくなるのではないだろうか。背の高い紡錘型の建物と球体。置物的なバランスとしては、そうしたくなる気持ちはなんとなく分かる。直方体や円筒、三角柱、三角錐ではなく、やっぱり球のような気がする。紡錘型のデザインが強いので、直方体では面白みがない。三角柱や三角錐だと、紡錘形の曲面的デザインと拮抗してややうるさい。曲面と調和しつつ、埋没しないのはやはり球かもしれない。

 とはいえ、それは模型の上での話。実物はやはり違う。遠くから単独で見るぶんには格好がいいけど、街並みの中にあると、やはりうるさい。直方体系の街並みの中で、球形はやはり異質だ。建築と都市景観の間にはいつもデザイナー的な自己主張と、街並みの調和という対立というか緊張関係が存在する。両者の共存共栄の道は無くはないはずだが、高次元にそれを達成している例はやはり少ない。
 フジテレビでも湘南台文化センターでも、球形は敢えて違和感を出すために扱われている。その意味では余計なお世話なんだろうけど、やはり街並み的には自己主張が強く目障りな気がする。

 繭と卵ってことか?。モスラが羽化しそうだな。

Tokyo Lost Architecture

#東京新旧写真比較 新宿区  #失われた建物 新宿区  #新しい建物 新宿区 
#オフィス  #銀行・保険  #モダニズム  #高層ビル
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朝日生命ビル その1

2009-04-26 | 新宿区  

東京新旧写真比較(2001/2008) No.35 新宿区西新宿

Photo 2001.10.21(ノーマル時)、Photo 2008.12.23(マウスオン
朝日生命ビル(左)
所在地:新宿区西新宿1-7-3
建設年:1963(昭和38)
構造・階数:SRC・9F?
解体年:2006(平成18)
モード学園コクーンタワー低層部(左)
建設年:2008(平成20)末

 朝日生命ビルは全景を撮らずじまいになってしまった。戦後、昭和30年代〜40年代頃までの中層大規模モダニズム系オフィスビルは、そんなにすぐには無くなったりするとは思っていなかったので、あまり撮りためていなかった。また、近代建築のように、外観に際だった特徴が無いため、なんとなく写欲を掻き立てられなかった、というのもあった。だが、最近はこのてのモダニズムオフィスの解体が相次ぐので、俄然、気になりだしている。

 モード学園コクーンタワーが建設されることになり、昔の写真を引っ張り出してみたが、全景写真はなく、建物前の歩道の様子を偶然撮ったものがあるだけだった。コクーンタワーが完成した頃を見計らって、同一ポジションから撮影してみた。

 改めて比較してみると、以前の様子は、殺風景なようではあるがモダンなオフィス街の街並みだったのだなぁと思う。歩道も広々としていて、整然としてなんだか結構美しい街並みだったんじゃないの?と思う。

 で、現在。冬場の夕方に撮ったせいもあるんだけど、うーん、なんかちょっと・・・。
 一つは、舗装がタイルではなく、透水性アスファルトになったこと。機能的には優れているし、歩き心地も悪くない。ヒールの女性などもタイルより良いと思っているかもしれない。でも写真で見ると、かなり殺風景に見えてしまう。

 もう一つはコクーンタワーの足まわり。公開空地ができて植栽も造られ、これも悪くはないのだが、昔のようなクールでモダンな格好良さはない。垂直の壁面が続くさまは、空間をスクエアにフレーミングしていたのだが、妙な球体とアミアミの斜めな壁面が主張してしまっている。また、今までは見えておらず、見えないままでよかったはずのスバルビルの西側壁面が見えるようになってしまった。ここで見る限り、以前よりなんとなく乱雑な印象になった気がする。

 コクーンタワーに限らず、超高層ビルは公開空地を設けることで、容積率ボーナスを得ている。その結果、沿道景観(ストリートファサード)が失われる。ストリートファサードはまちあるきの際に、あるいみリズムを創るものでもあるように思うのだが、困ったことに西新宿や汐留にはストリートファサードがない。超高層ビルの足下には茫漠とした公開空地空間が広がってしまっている。

Tokyo Lost Architecture

#東京新旧写真比較 新宿区  #失われた建物 新宿区  #新しい建物 新宿区 
#オフィス  #銀行・保険  #モダニズム 
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奥野ビル

2009-04-23 | 中央区  

 先日、銀座のギャラリーツープラスへ「kaoru photo...2」のカークさんの写真を見に行った。御本人もいらして、お話など出来て満足。

 さて、帰りに銀座の方へ行こうとして、工事現場に遭遇。おや、奥野ビルのお隣が建て替えだ。

 昭和初期に建てられた奥野ビルの方はそのまま残されているが、それより新しい隣のビルの方が先に建て替えになってしまった。

 そのため、今まで見えなかった奥野ビルの南側壁面が見えている。非常階段があんな所にあったのね。側面には円い窓もあったのね。そうか煙突もあったのか。7階が増築だというのもはっきり分かる。ちょっと発見した気分。
 新しく建つビルは10階建てらしい。それができるまでのわずかな間の風景。

#古い建物 中央区
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静岡浅間神社百段階段

2009-04-20 | 静岡県  
静岡浅間神社百段階段
所在地:静岡市葵区宮ケ崎町102-1
段数 :108段
幅  :約5.5m
全長 :約35m
全高 :約20m
蹴上げ:18〜19cm
踏み面:30〜32cm
傾斜 :約30°
Photo 2009.2.8
静岡浅間神社Website

 久しぶりに静岡の浅間神社を訪問。静岡浅間神社は、3つの神社(浅間神社、神部神社、大歳御祖神社)といくつかの境内社の集合体の総称。
 一つの建物が二つの神社の拝殿になっているのと、この拝殿はかなり変わった形をしているので面白いのだが、そのへんの話題はまた別の機会に扱うことにして、今回は「せんげんさん」もしくは「せんげんやま」の百段階段について。

 この階段は境内社の八千戈神社の南側を西向きに上るもの。階段を上りきると左手に賤機山(しずはやたま)古墳があり、右へ行くと麓山神社(はやまじんじゃ)、浅間山(せんげんやま)、更に賤機山及び、賤機山城跡に至る。階段は山上の奥社ともいうべき麓山神社への階段として造られたものだろうか。
 久能山東照宮の1,159段の階段は、つづら折りの山道に造られた石段だが、百段階段の方は、神社の男坂などでよく見られる一直線に山を上る階段だ。

 私がこの階段をしばしば体験していたのは高校生の頃。神社の近くに母校があり、体育の時間に体力づくりと称してしばしばこの階段を上り下りさせられていた。学校から浅間山の山頂までを往復し、その後、学校の周囲を5周なんてのを体育教師に指示されてハアハア言いながら走ったりしたものだ。

 当時、階段を「一段とばし」しながら上り下りした記憶もあり、最近になってそれを思い出し、下りの一段とばしなんてずいぶんと危ないことをしてたもんだなぁと思ったりしていた。ただ、記憶というのは随分いい加減なもので、東京、愛宕の男坂と同じくらい急だったような気がしていたのだが、今回改めて訪れてみると、蹴上がさほど高くなく、踏み面もそれなりにある。これなら走って上り下りするのはもちろん、一段飛ばしながら上り下りするのも、注意しながらならできるかもしれない。途中に踊り場がないので、下手に踏み外すと下まで転げ落ちてしまう可能性があり、なかなか手強いものだったことは確かだが。

 今回は巻き尺などを持ち合わせておらず、傾斜や幅などを測りそこねてしまった(後日測ったら27°(50%)だった)。また段数はぴったり百段ではなく、105段ある。賽銭箱の下にも3段あるので、計108段。もちろん、百段以上はあるので、名に偽りがあるわけではない。浅間神社は当然、神道だが、この階段の段数が、仏教で言うところの煩悩の数と同じなのは、たんなる偶然なのだろうか。

 階段下にある八千戈神社は江戸時代の極彩色の漆塗り建築で、きらびやかな装飾が施されたお社。神社の正面から眺めると、左後方の木立の中に百段階段が見え隠れして、上り下りする人が屋根の軒先のあたりに見えたりするのも面白い。

静岡の街並み
#階段・坂 静岡県  #神社  #古い建物 静岡県
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三田の藩邸長屋風建物

2009-04-17 | 港区   

 文化財だとばかり思っていた建物もいつのまにか解体されてしまっていた。

三田の藩邸長屋風建物
所在地:港区三田2-3(三井倶楽部敷地内)
建設年:明治40年代、関東大震災で被災し昭和初期に大改装される。
構造・階数:木2
2008年7月頃解体
Photo 2007.7.1

 ネット上の記事の中には、この建物は、江戸期にここにあった砂土原藩の長屋の遺構であると記しているものがあり、「砂土原藩邸長屋」とされていたりすることも多いのだが、いろいろ調べてみたらどうもそうではないようだ。大名屋敷に造られた長屋を模した建物なので「藩邸長屋風建物」としておく。


 かなり前のことになるが、昨年10月末に早稲田大学芸術学校の「現代作家作品論」なる公開授業でお話をさせて頂いた。私自身は建築家でも映像作家でもなく、とりたてて作品があるわけでもないので、ちょっと申し訳ない気分だったが、とりあえず、東京という都市とそこで写真を撮るということについて、少しお話をした。

 その講義の中で、とりあえずいろいろ写真を撮っておくと、あとあと意外な展開になることがあるなどと言いつつ、幕末のフェリックスベアトの写真などを引き合いに出しながら、記録的写真の性格について触れ、ついでに三田1丁目には江戸期に建てられたとも言われる藩邸長屋の建物が現存しているんですよというお話をした。

 さて、授業後、受講生の方々が感想を書いて下さったのだが、その中に「あの長屋建物はもう無くなってますよ」というものを発見。
 えっ?!、あれって文化財じゃなかったの? 三井倶楽部の敷地内にあって、保存されてきた建物じゃなかったの? と思ったが「毎日、通勤で通ってる途中にあった建物なんです」という文面もあり、いぶかしく思いながら帰宅。


 後で検索してみると、その話がやはり事実だったことが判明。とあるブログには現場写真もあった。うわぁ、やっぱり壊されちゃったんだ。がーん。おーい、三井倶楽部さんよう、なぜ保存してくれなかったんだ・・・。
 ちなみにこの建物は「港区の文化財」港区教育委員会(1984年発行)にも載っていて、そこには木造二階建てで、幕末か明治初年頃の建物と記されていた。

 三井倶楽部さんは、J.コンドルの洋館には使い道があると考えたけど、長屋には用がなかったのだろうか。
 三井倶楽部のHPには、なにもお知らせは載ってないようだった。ちょっと残念な扱い。こっそり壊しちゃった感じもする。残す時にはたいがい「保存します」って大々的にプレスリリースするのに、壊す時にはだんまりというのが、往々にしてあるようだけど、それって企業姿勢としてどうなんだろう。それともそんな気も起こらないほど価値のない建物だと考えてたんだろうか、などといろいろ考えてしまう。

 今まではあの高台をまちあるきコースにもしていた。それは三井倶楽部だけでなく、あの建物があったからで、幕末期の江戸を忍ぶよすががあったから。それがなくなってしまったのなら、三田1丁目の高台は私にとってあまり魅力的な場所ではなくなってしまう。今後はもう通るのを止めようかと考えたりしている。


 解体の事実を知った直後は、三井倶楽部のせいで取り壊されたのだと思っていたのだが、その後、なぜこの建物が壊されたのか、そして跡地がどうなるのかについて、いろいろ検索してみたら、港区議会の総務常任委員会記録(平成20年6月25日)がヒットした。

港区議会総務常任委員会記録

 その中の4頁に、用地活用担当課長の説明があり、港区が都市計画道路の整備のために三井倶楽部の土地の内、道路に面した約600平米を購入したことがわかる。

6頁には

「まず委員ご指摘の門とか塀でございますけれども、これは昭和初期に建てられたものでございます。三井不動産と協議していく中で、当時の設計の原図が残っておりますので、移設に当たってはその原図をもとに三井倶楽部、創設当初の大正の姿をよみがえらせる形で、その雰囲気を壊さない形で、再整備するとお聞きしております。
 2点目の道路沿いの建物でございます。建物につきましては、明治時代後半、明治40年代と言われておりますが、建築されまして、大正12年の関東大震災により壊れた経緯がございます。それで、昭和4年ごろに大改造をしておりますが、江戸時代の表長屋の趣を残している貴重な建物でございます。ただ、文化財的価値はございますけれども、文化財の指定までいくものではございません。区といたしましては、ひき家をして中に残すように協議をしておりますが、何分建物がちょっと古い関係もありますので、今後、一番いい保存方法について、これから担当の方で協議していくということを聞いております・・・」

 とあって、三井倶楽部が開発をしたくて壊したわけではないことが判明。逆に考えると、都市計画道路予定地で、開発のしようがなかったから、ほったらかしにされて、今まで残っていたというのが実態だった。古い建物なのにほとんど利用されていなかったのもそのへんの事情なのかもしれない。

 三井倶楽部のHPで全く扱われていなかったのも、これが区の都市計画道路建設による結果で、三井倶楽部の事業ではなかったためなのかもしれない。何らかの建物を建てるために壊したわけではなかったのだった。

 確かに今まで、あそこは歩道が無く、歩きにくかった。西側のオーストラリア大使館の前などは既に広い歩道が造られているが、三井倶楽部の前は昔のままだった。

 三井倶楽部から道路用地を購入してはいるのだが、敷地面積を減らして貰ってるわけで、狭くなった敷地に曳屋をして建物を残せというのは、その原因となった道路を造る側の区としてはあまり強く言えなかったのかもしれない。

 しかしそこまで考えると、あの道は、そうまでして拡幅する必要があったんだろうかとも思う。むしろ車道を少し狭くして歩道を付けるだけで良かったんじゃないかと思うのだが、そういうことを言うと、都市計画決定をしておきながら今さらそれを取り消すなんて、開発権・利用権の侵害だと言われかねない。いったん都市計画決定をしてしまうと変更しにくいことが、諸々の開発を強行することに繋がってしまっている。

 あちこちのHPには、江戸時代の建物であるとか、別の藩邸内にあった建物が移築されてきたとかいう記述がある。公的なものでは、前述のように1984年に発行された「港区の文化財」で、幕末か明治初年頃の建築とされているが、今回の議事録では明治40年代築で、昭和に大改造されたと、いつのまにか新しい時代の建物になってしまっていた。最近の調査により、比較的新しい建物だったことが判明したのだろうか。

 議事録の記述は公的なものだし、他の情報より詳細だ。個人のHP上の情報は、私のHPやBlogも含めて、伝聞や他の記事の引用が非常に多く、間違っているケースもある。文化財を調査する専門家ではないので、とりあえず、明治40年代に建てられて昭和に大改造を受けた、という議事録を受け容れることにする他ない。

三井倶楽部説明板(港区教育委員会設置) Photo 2009.3.31

 さて、確認のため、現地を訪れてみたところ、既に塀の位置が大きく後退して歩道が広がっていた。そして三井倶楽部の説明板も建て替えられていた。ご丁寧に「かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました」と記されている。昔の説明板を撮った写真が手許にあったので確認すると、そちらでは「・・・前面道路ぎわに建っていた木造の建物には、もとの武家屋敷の長屋のおもかげがうかがえる。」となっていて、現在の記述とは若干異なっていた。壊すにあたって誤解が無いようにするためか、少しだけ詳しく加筆したようだ。

 比較的新しかったとはいえ、それでも昭和初期。80年近く経った古い建物だったことは事実だ。また、「文化財的価値はあるけれど文化財指定するほどではない。」というのも微妙だ。文化財指定はされていないが、少なくとも過去においては文化財の資料に掲載されていたのも、微妙な扱いである。

 同時期に建てられた近代建築などの中には、当時の建築技術、建築文化を良く残すものとして、文化財に指定されるものもある。一方この建物は、確かに古いけれど、その前の江戸時代の建物のレプリカであり、特に建築技術や文化の面で先進性があるわけでも、当時の状況を示すものではない。また武士が住んだり使った建物ではないし、改築されちゃってる。だから文化財指定には至らないというのは、やはり仕方ない面はあるなと思う。

 でも・・・。レプリカでも、私たち一般人にとっては、江戸の町の雰囲気を知る手掛かりだったことは間違いない。私も含めて、相当数の人が、武家屋敷の遺構だと思っていたのも事実だ。

 ブログには後日談も載っていた。港区の担当者の話として、江戸時代の建物ではなく、明治時代の建物で、内装としても江戸期の状態を残しておらず、あまり文化財的な価値がなかったのだとか。江戸期のものなら移築なども働きかけたのだが、とのこと。

 少なくとも外見は武家屋敷の建物を模した建物だった。ああいう建物は、都心にはもうほとんど残ってなかった。明治の建物でも数少なくなっているのだから、多少でも文化的価値があるのなら、もうみんな保存すべき文化財ってことにはならないのかしらと、考えは行ったり来たりする。詰まるところやはり残念な結果だ。

Tokyo Lost Architecture

#失われた建物 港区  #道
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市谷亀ヶ岡八幡宮男坂

2009-04-14 | 新宿区  

 東京ではもう桜も散ってしまったが、遅ればせながら、桜の階段をひとつ。

市ヶ谷八幡宮男坂
所在地:新宿区市谷八幡町 15
Photo 2009.4.5
東京の階段 DB > 市谷亀ヶ岡八幡宮 男坂

 階段を上がった先の境内にある桜の花を振り仰ぎながら階段を上る。

 参拝者と宮司さんの話しがちょうど聞こえた。ソメイヨシノだけでなく、いくつかの種類の桜が植わっているそうで、この時期はいつ来ても、どれかが咲いているのだという。

 階段の上からは、桜と鳥居越しに、外濠と総武線の電車が見える。ふと、それなら逆も可能なのかもしれないと思い、帰りの車中から目を凝らしてみる。だが、外濠沿いの桜の花がじゃまをして、階段はよく見えなかった。葉や花がない、冬場なら瞬間的に見えそうだった。残念ながら今度の冬まで電車からの写真はおあずけ。

#階段・坂 新宿区  #神社
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ひさびさに東京の階段 DBを更新

2009-04-09 | Weblog 

東京の階段 DB、ひさびさにまとめて更新しました。

東京の階段 DB

今回は、港区12件(元麻布・六本木)、新宿区6件(西早稲田・四谷・荒木町)を追加。

今回の更新分は、2008.12.20~2009.1.23に割り当ててあります。

もう少しすると、港区や新宿区以外の階段を掲載する予定です。

 更新しないでいると、徐々にアクセスが低下するのですが、こうして更新するとアクセスも急増。ありがたいことです。

 今後も時々追加していくつもりですので、どうぞよろしく。

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