都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2023年2月 記事一覧

2023-02-28 | 記事一覧 

02/03 旧 陸上自衛隊十条駐屯地 赤羽分屯地
02/06 旧陸軍兵器補給廠の煉瓦塀
02/09 風見酒店
02/12 旧医院の煉瓦塀
02/15 クスリ千寿堂
02/18 丸二青果
02/21 あけぼの荘
02/24 三福荘
02/27 旧佐藤武夫邸

ブログ内記事のタグ一覧   Tokyo Lost Architecture

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旧佐藤武夫邸

2023-02-27 | 東京都下 
旧佐藤武夫邸
所在地:西東京市 東伏見1-18
建設年:1930(昭和5)
構造・階数:木・2F
解体年:2019(令和元)
Photo 2010.1.8

 早稲田大学教授だった佐藤武夫(1899−1972)の自邸。西武新宿線に乗っていると車窓に一瞬見えて気になっていた洋館だったが、当初は詳細を知らなかった。しかし下記「★近代建築探訪★」の記事やFacebookで流れてきた情報などから、佐藤武夫邸だったことを知ることとなった。写真の時は既に他の方の住宅だったようだが、同ブログ記事などによると、住所が一致しており外観も同じとのこと。

 佐藤武夫は早大大隈講堂(1927)を、佐藤功一、内藤多仲と共に設計したことでも知られる。そのような方の住宅がひっそり現存していたのには少々びっくり。

 いつも川越へ行く電車の車窓から見るだけだったのでいつか下車して見に行こうと思っていたのだが、最近になって既に解体されていたことに気付いた。Google ストリートビューで確認したところ、2019年6月の写真に解体作業の様子が写っていた。残念。
 結局、近くへ行って写真を撮らないうちになくなってしまった。この写真は電車の車内から撮ったもの。

佐藤武夫 - Wikipedia
udf weblog 佐藤武夫 自邸
佐藤武夫自邸: ★近代建築探訪★

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 都下  #洋館・洋風住宅  #近代建築  #佐藤武夫   ブログ内タグ一覧
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三福荘

2023-02-24 | 足立区  
三福荘/旧赤線のカフェー?
所在地:足立区 千住柳町20-13
構造・階数:木・2
建設年:戦後
解体年:2018〜19
Photo 2006.10.8

 千住柳町の旧赤線エリアの中央を通る南北の道沿いにあった建物。元はいわゆるカフェーだったのではないかと思われるが、本当にそうだったのか、またそうだった場合の屋号などは不明。1960年代以降はアパートだったようで、最後の頃には三福荘というアパートだった。

 正面が左右対称になっているあたりは旧カフェー建築系の建物を思わせるが、それだけなので旧カフェー建築なのかどうかははっきりしない。1階部分の店舗?の様子が分かればと思ったが、シャッターが閉じられた状態しか知らない。玉の井や鳩の街、洲崎ほど明瞭な洋風デザインの建物ではなかったのでやはり確証はない。


 東南側からの全景


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#失われた建物 足立区  #遊興施設  #集合住宅  ブログ内タグ一覧
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あけぼの荘

2023-02-21 | 足立区  
あけぼの荘/旧曙楼・旧旅館光楽
所在地:足立区 千住柳町19
構造・階数:木・2
建設年:戦後
解体年:2001〜03(平成13〜15)
Photo 2001.5.27

 赤線時代は曙楼として営業していたという建物。赤線でなくなった後は「光楽」という旅館だったようだ(注)。
 旅館としての営業がいつごろまで続いていたのかは未把握。撮影時は「あけぼの荘」というアパートで、表通り側の1階には居酒屋とスナックが入居していた。
 遊廓系建築でしばしばある左右対称のデザインではなかったが、左右2ヶ所に入口があるあたりはその系統と言えなくもない。軒先に白い円があるが、往時はここに屋号かなにかが記されていたのではないだろうか。

 千住柳町には90年代までは赤線時代の建物が数軒残っていたが、現在はほぼなくなっている。この建物も撮影後数年のうちに解体されたらしく、2004年版の住宅地図では既に月極駐車場になっている。

  注)東京都全住宅案内地図帳 足立区(1962発行?)による。

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丸二青果

2023-02-18 | 足立区  
青果 八百政・丸二青果(株)
所在地:足立区 千住龍田町18
構造・階数:木・2
解体年:2001〜03(平成13〜15)
Photo 2001.5.27

 千住柳町の旧赤線エリアの西南端に面してあった青果店。通り抜けられる路地には庇が差し掛けられ、いくつかの店が並んでいた。都心部には少なくなった小規模店が建ち並ぶ路地空間。

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#失われた建物 足立区  #木造店舗  #路地  タグ一覧
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クスリ千寿堂

2023-02-15 | 足立区  
クスリ千寿堂
所在地:足立区 千住龍田町15
構造・階数:木・2
解体年:2006〜09(平成18〜21)
Photo 2006.10.8

 鋭角になった角地に建ってた薬屋・化粧品店。戦後の建物ではないかと思うが、コーナー部に赤い字で「クスリ」と大書されているのがかなり目立つお店だった。

 現場は北千住駅から旧日光街道や国道4号を越えて、やや屈折した道を千住柳町の旧赤線の方へ向かう道の途中。写真の右側の道、お店の前を通って奥へ向かうとかつての赤線エリアに至る。現在は静かだが往時は多くの人が歩いた道だったのかもしれない。そしてこの薬屋もそのお客さんなどに薬を売っていたりしたお店だったのかもしれない。

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#失われた建物 足立区  #モルタル看板建築  ブログ内タグ一覧
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旧医院・妓楼の煉瓦塀

2023-02-12 | 板橋区  
旧医院・旧妓楼の煉瓦塀
所在地:板橋区 仲宿41
構造 :煉瓦
解体時期:2010〜14(平成22〜26)
Photo 2009.11.15

 旧中山道の板橋宿の中で旧街道から東へ小路を入ったところにあったレンガ塀。昔はお医者さんだったお宅で塀はその頃のものらしかった。医院はどうやら1990年代に診療をやめ、建物も建て替えたようだったが塀はその後もしばらくは残っていた。
 煉瓦は長手積み。倒壊しないよう鉄材で補強されていた。ただ数年後にここを訪れた時には数軒の家が建てられており、塀も撤去されていた。


2023.5.11追記
 下記『江戸四宿を歩く』のp.86に、「石井医院には、かつての妓楼「伊勢孫楼」の面影をとどめるレンガ塀が残っている。」という記述があり、写真のレンガ塀はかつては妓楼の塀だったもののようだ。

『江戸四宿を歩く−品川宿・千住宿・板橋宿・内藤新宿』
 江戸・東京文庫⑦ 江戸の名残と情緒の探訪、街と暮らし社、2001

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#失われた建物 板橋区  #遊興施設  #旧中山道 
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風見酒店

2023-02-09 | 荒川区  
風見酒店
所在地:荒川区 南千住1-55
構造・階数:木・2
解体年:2010〜14(平成22〜26)
Photo 2006.9.30

 都電荒川線の三ノ輪橋駅前から北へしばらく行ったところにあったお店。
 店が建っていたのは日光街道のひとつ西側の道ぞいで、道幅は4mほどであまり広くないが、人や自転車は意外に多く通る場所だった。
 敷地が鋭角になっていたようで北側の妻面が細く、また棟と商店街の通りが平行でないため1階と2階の軒が斜めになっており印象的な姿を見せていた。2階の軒先は出桁造り、1階はモルタル看板建築状。


 Photo 2008.3.8

 店名の文字が右から左に描かれているので戦前に建てられたものだったのだろう。南千住のこの辺は戦災での焼失を免れている場所もあり、少し前までは古い長屋や看板建築が多く残っていた。


 Photo 2006.9.30

 風見酒店の南隣はバーバー・ミナミ。昔風の店先のデザイン。内部の様子までは撮っていなかったがおそらくそちらもレトロだったのではないかと思われる。


 Photo 1995.6.17

 2階の棟は風見酒店とは別のようだったが、1階の軒は連続しており、風見酒店とバーバー・ミナミは連続した建物だったようだ。

風見酒店、四軒長屋/南千住1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
南千住 風見商店 - 東京あるけあるけ

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旧陸軍兵器補給廠の煉瓦塀

2023-02-06 | 北区   
旧陸軍兵器補給廠の煉瓦塀
所在地:北区 西が丘3-3
構造 :煉瓦
解体年:2002〜03(平成14〜15)
備考 :西が丘住宅への建て替えに際して撤去
Photo 2002.9.29

 環七の姥ヶ橋陸橋・交差点の少し西北側にあった煉瓦塀。撮影時は知らなかったのだが、調べてみたら旧陸軍の兵器補給廠を囲んでいたものだった。この場所は明治19年に東京鎮台の武器庫が置かれた場所。その後、名称は変わったりしたが終戦まで陸軍、戦後はGHQに接収され、いずれも武器庫・兵器庫として使われていた。

 接収が解除されて日本に返還された後、同所には国関連のオフィスが建てられたが、塀は部分的に残されていた。しかし最終的には西が丘住宅の建設に際して往時の記憶を残すこの塀は撤去された。
 この地区の移り変わりは以下。

 1886(明治19) 東京鎮台武器庫
 1906(明治39) 陸軍省板橋兵器庫
 1928(昭和3) 東京陸軍兵器支廠(岩淵町全図1931でも同様の表記)
 1945(昭和20) 終戦時は東京陸軍兵器補給廠
 戦後 GHQに接収され、TOD第1地区となる。
 1958(昭和33) 日本に返還
 1965(昭和40) 住居表示が西が丘になる
 住宅地図 1973(昭和48)版 東京地方検察庁第二庁舎
 住宅地図 2001(平成13)版 東京入国管理局第二庁舎
 住宅地図 2003(平成15)版 空白
 2004(平成16) 4月、西が丘住宅竣工

Tokyo Lost Architecture  
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旧 陸上自衛隊十条駐屯地 赤羽分屯地

2023-02-03 | 北区   
旧 陸上自衛隊十条駐屯地 赤羽分屯地(赤羽駐屯地)
所在地:北区 赤羽西5-2
建設年代:1917〜30(大正6〜昭和5)
解体年代:2002〜03(平成14〜15)
パノラマ画像:左右にスクロール可能です。
Photo 2002.9.29

 十数年前にナショナルトレーニングセンター陸上トレーニング場と北区の赤羽スポーツの森公園に転用された場所。1995年までは陸上自衛隊の十条駐屯地赤羽分屯地でどうやら兵器庫だったらしいが、廃止された後は数年間使われていなかったようだ。

 写真は解体の直前に西側の都営アパートから撮影したもの。左奥の方に見えるのは1999年に開園した赤羽自然観察公園の緑。

 この場所は戦前は旧陸軍の兵器庫だったが、それがいつ頃建設されたのか詳細は未把握。以下は手もとの地図や航空写真、その他の情報による把握状況。大正時代後半から昭和初期の時期に建設されたものではないかと思われる。
 「陸地測量部 25,000地形図」(1917〜28年測図・修正)にはまだ記載がない。
 「岩淵町全図」1931年発行では、陸軍兵器庫。
 終戦時には陸軍東京兵器補給廠。
 戦後、GHQに接収されてTOD第2地区となる。一部(おそらく自然観察園の側)は米軍戦車練習場。
 1958年、日本に返還され、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区となる。
 1970年代〜90年代前半の住宅地図では、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地。
 1995年 陸上自衛隊の当該地の機能が茨城県土浦市に移転。
 2001年の住宅地図では、施設名の記載なし。建物外形の記載はあり。
 2003年の住宅地図では、敷地全体が空白になり、建物も解体済み。
 2008年1月21日 ナショナルトレーニングセンターの陸上トレーニング場が開設。
 2010年4月1日 赤羽スポーツの森公園競技場が開園。

 2003年には住宅地図でも建物の記載がなくなり解体済みになっているので、この写真の少し後には解体作業が始まったようだ。

 敷地内西南側にある建物が分屯地で最大のものだったようだ。外観上は2階建て(中央部は3階建て相当)で、東西の長さが100m近い大きな倉庫だった。


 南側中ほどの門から

 自衛隊が使用していた頃は撮影できなかったのではないかと思うが、この時は既に移転した後だったので門の前で撮ることもできた。


 西が丘サッカー場交差点の歩道橋から

 かつては同施設西南端の西が丘サッカー場交差点に歩道橋が架かっていた。この写真はその歩道橋上から撮ったもの。塀で囲まれた場所で内部の様子はあまり分からなかったが、周辺にはある程度の高さの場所があり、覗き込めないわけでもなかったのでした。

 この写真も同じく歩道橋上から撮ったもの。外から2階へ上がる階段や、2階へ直接物資を搬入する台など、独特な設備も印象的だった。

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