◎白山麓住民の袖乞い慣行
今月二四日、鵜崎巨石さんのブログに、「インドネシアの乞食村」と題する文章が載った。非常に興味深い内容で、思わずコメントしてしまった。
鵜崎さんの文章を読んで、まず思い出したのは、白山山麓にあって、かつて袖乞いの慣行を持ち、「白山乞食」などと称された村民のことである。
かれこれ四〇年ほど前、千葉徳爾が「白山乞食」について考察した論文を読んだことがあった。また、一〇年ほど前、歴史民俗学研究会の席上で、飯尾恭之さんから、同じく「白山乞食」についてのご研究を拝聴したこともあった。
さて、千葉徳爾の「白山乞食」論文だが、千葉の論集である『近世の山間村落』(一九八一、名著出版)で読んだという記憶があった。しばらくぶりに同書を取り出してみると、たしかに、「両白山地住民の袖乞い慣行」という論文が収録されていた。初出は、同年の『愛知大学綜合郷土研究紀要』第二六輯である。なお、この論文で千葉は、「白山乞食」という言葉、あるいは「乞食村」という言葉を使っていない。
千葉の論文は、三〇ページに及ぶもので、全八節からなっている。本日は、そのうちの第四節「小原乞食と牛首乞食」を紹介してみたい。
四、小原乞食と牛首乞食
加賀市在住のI氏は、旧新丸村(現小松市)小原〈オハラ〉に生れ、そこがダムで水没するまで在住した。氏は民俗研究家としても知られているが、同時に祖父母の袖乞〈ソデゴイ〉体験を鮮明に記憶している数少い人である。小原谷も山間集落であって、場合によっては牛首乞食と平野部の人からは一括して呼ばれたようであるが、I氏に従えば両者の間には若干の意義の差がある。したがって、以下では氏に従って小原乞食と牛首乞食(狭義の)を別個に記述してゆきたい。
小原谷は牛首〈ウシクビ〉方面から北に流れる手取川本流に、鳥越村〈トリゴエムラ〉下野〈シモノ〉で合流する大日川〈ダイニチガワ〉上流を占め、現在のダム上流部は小松市域に属するが、白峯〈シラミネ〉地区に類した焼畑を主とする山村であった。主食は昭和三十年ころまでアワ・ヒエであって、米作は極少に止まった。夏季は焼畑の出作小屋〈デヅクリゴヤ〉に居住して一家農耕に従い、冬季のみ本村に帰住する点でも、よく知られている白峯方面の出作りと類似し、慢性的食糧不足を感じていたといわれる。牛首方面では特に記載がないようだが、ヤモメゴヤと称して結婚相手がない年長者、いわゆるオジ・オバ暮しの者が、焼畑の隅に半地下式の簡単な小屋を建てて住んでいた。
いま、I氏の知悉する小原乞食のことを中心として記述を進める。両者共に専ら乞食行動が行われたのは明治の前半までであって、もっとも盛〈サカン〉だったのは文化~文政年間から天保年間であったと伝えられている。以後嘉永・安政と新らしくなるにつれて漸次減少したというが、これらの詳細は今後の検討にまちたい。
両者ともに、乞食=袖乞いに出てゆくのは新暦の十二月中旬から一月の七日までであり、帰宅するのは旧暦の彼岸前後であった。すなわち約三ヵ月であって、高山代官が白山麓一八ヵ村の越冬食糧の準備に必要な期間とした九五日にほぼ見合っている。また金沢方面で一月二十日を乞食正月と称し、このころになると乞食がよくきたからだと伝えている点も、山村住民が、特に女・子供の行程として袖乞いをしつつ金沢に到達する時期として、ほぼ当っているといえるのではなかろうか。
小原乞食の袖乞いの目的は、I氏の言によれば、それは先祖の仏壇に供えるオボクメシとして、白米を確保するためであったという。もちろん、それと共に家族の口べらし―これを口をアズケルという―にあったことは否定されない。特に不作の年には、ワルドシコジキといって多くの家族が袖乞いに出た。しかし、村内の申合せのようなものがあったわけではなく、必要とする家々がそれぞれの都合で出るのである。
オボクメシを必要とする家庭から出るのは、オボコメ乞食といって、毎年自宅で正月をすませ、三が日が過ぎてから出かけてゆくのであるが、ワルドシコジキをせねばならぬ家族は、十二月に村を出て正月は袖乞いの旅の途中で迎えたのである。帰宅はいずれも旧彼岸過ぎであった。
乞食に出るのは家族全員ではなく、オッカ(母親)であり、子供がある場合には小さい子を一人だけつれて行く。つまり袖乞いを行うのは母子二人である。子供をつれて行くのは口べらしのためと、いま一つは同情をひいて袖乞いのもらい高を増すためでもある。そうして、幼少の子を世話するためのトト(父親)の労力を減らし、仕事の邪魔にならぬようにする心づかいもあった。
さて、ここで問題となるのは、口をアズケルことは当然として、現代人の意識からすれば、どうして先祖に捧げるオボコメは白米でなくてはならないのか、自己の焼畑でとれたアワ・ヒエを捧げては、何故によくないのかということである。I氏によれば、それは昔からの仕来りであって、御先祖様には毎日白飯を進ぜなくてはならないことになっており、一種の義務感として住民の間に定着している。したがって、隣家が乞食までして白米を確保し、先祖に毎朝白米を供えているのに、自分の家では乞食をしないでアワやヒエを供えるのは、横着な心持をもっていることになるという対抗的意識もあった。「あの家は乞食をしないで、仏様をそまつにし、ヒエママをあげている」という噂を立てられることは苦痛だったのである。しかしながら、家庭の状況によって乞食の形態はさまざまだったようで、たとえばメオトコジキといって、分家した結果、水田がなく子も親もない若夫帰が、オボク米のため口をあずけに出ることもあった。もちろん、平野部も凶作でもらいがなく、せっかく乞食に出ても白米が得られないために、御先祖様にその事情を説明して許しを乞い、ヒエ・アワの飯を供えることもあったという。
他方で、このような乞食を受入れる加賀・越前方面の平野部住民も、御先祖様にさしあげる白米がないから、として袖乞いをされたとき米を与えるだけの同情心がなくては、このような乞食行動も無効である。両者がともに一向宗という、特に祖先崇拝において大きな仏壇を設け専心念仏を心がける宗教的同類型の社会であったということが、このような袖乞いの可能であり、長い期間にわたって継続し得た有力な因子であったとも考えられる。
牛首谷の方では、食糧条件はほぼ同様であったが、水田耕作はより乏しく、大多数の住民にとって米は全く入手できないといってよかった。このため、オボクメシを白米にしなくてはならないということは、はじめから不可能なことといってよかったようである。したがって、こちらではまったく「口をアズケル」ための袖乞いが多かったようだとI氏はその方面の知人から聞いているとのことである。したがって、こちらの袖乞いは真に飢えに対する行為であって、現代的な意味での自己の食物を得るための乞食であった。牛首乞食の名称がひろく記憶され、伝えられたのは、いわばその目的がより切実なもの、全くの乞食としての意味に徹していた結果ではなかろうか。したがって、こちらの方が多かったと考えられ、平野部住民にとっては山間住民の物乞いたちの代名詞となったことがうなずかれるのである。
最初、この論文を読んだとき、芸能や祝詞といった反対給付をおこなうことなく、純粋に物を貰う乞食という存在が成り立っていたことに関心を抱いた。また、ふだんは山間に暮らす農民が、かつて、三ヵ月もの間、物乞いを続けていたという事実に驚いた。
今日、久しぶりに、この論文を読んだ感想は、右と少し違う。特に、引用した箇所に関しては、小原出身のI氏が、小原乞食と牛首乞食との違いを強調していることが興味深かった。小原乞食は、御先祖様に供える白飯を確保しようとして、物乞いに出た。一方、牛首乞食は、純粋に「自己の食物を得るため」に物乞いに出たのだという。
おそらく千葉も気づいていたと思うが、ここには、小原出身のI氏の「誇り」、あるいは牛首に対する優越意識のようなものが感じられた。これが、今日の感想のひとつ。二番目に、少なくとも小原乞食の場合、「物乞い」に出る動機は、「御先祖様には毎日白飯を進ぜなくてはならない」という、一種のイデオロギー(共同幻想)であったということが興味深かった。さらに、もうひとつ、そのイデオロギーを補強していたのが、「隣家が乞食までして白米を確保し、先祖に毎朝白米を供えているのに、自分の家では乞食をしないでアワやヒエを供えるのは、横着な心持をもっていることになる」という、地域との「関係性」であったということである。【この話、続く】
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