礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

渋沢栄一、伊藤博文との交遊40年を語る

2019-04-11 00:19:20 | コラムと名言

◎渋沢栄一、伊藤博文との交遊40年を語る

 次期一万円札の肖像は、渋沢栄一になるという。この報道を聞いて、五年ほど前に、このブログで、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章に一部を紹介したことを思い出した(「伊藤博文、徳川慶喜に大政奉還の際の心中を問う」二〇一四・六・一五)。
 この文章は、国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)という冊子の末尾に置かれている。
 同冊子は、一九二九年(昭和四)一〇月二六日夜に、東京市公会堂で開催された「伊藤博文公遭難二十周年」を記念する講演会(主催・国民新聞社)の記録である。
 渋沢栄一は、実は、この講演会には参加していない。参加して講演する予定だったが、病気のために断念したという。渋沢は、講演会の翌日、国民新聞記者を招いて、講演の内容を口述したという。そういう経緯から、同冊子の末尾には、渋沢栄一の「講演」が載っているが、厳密に言えば、「講演」記録というより、記者に対する「口述」の記録といったところだろう。
 ともかく、本日以降、何回かに分けて、この「辱知四十年の回顧」という文章を紹介してみたい。

 辱 知 四 十 年 の 回 顧      子爵 渋 沢 栄 一

 編者曰く、講演会当日、老子爵は微恙を冒して熱心に出席講演を主張されたが、家人並に医師の切なる勧告があつた為め、遂に出演を思ひ留まられた、こゝに掲げたのは講演会の翌日、特に記者を招いて当日の講演要領を口述せられたものである。(文責在記者)

 諸君伊藤公と私との関係は、公が政党を組織せられてから、稍々親みが薄らぎましたが、併し間もなく両者間の意思も疏通して、晩年には矢張り昔の親密に立帰つたのであります。回顧して四十年間に亘つた綿々尽きせぬ好意の跡を尋ねると、実に公と私との間は、世に云ふ奇縁とも申す程に、公も感じられたと思ひますし、私も今以てさう感じてゐる。私は何も進んで世に蝶々する訳では無いが、折から公の薨去二十年祭が挙げられ、其の功勲を記念する為めに講演会が開かれる一方に、遺墨展覧会も催されて、此の偉大なる国家の功臣に対する国民的尊敬が払はるゝ時に際して、親しく高誼を承けた一人として、一場の追憶談を試みるのも、決して徒爾〈トジ〉ではないと信ずるのであります。
 諸君、私が初めて大蔵省に出仕したのは、明治二年〔一九六九〕十一月初旬の事であつたと記臆して居ります。
 私は初め〔一八六七〕徳川民部大輔(昭武)に随つて仏国に往きました。これは慶喜公が将軍になられると、公は色々未来の事に深き考慮を払はれて、恰も〈アタカモ〉巴里に大博覧会が開催せられたのを機会に、表面は特派使節の名義として、実は親しく海外の事情、文物制度を硏究調査せしむるのが目的だつたのであります。仏コ久普ツ佛国政府から招かれて巴里に出掛けたのは、多くは其の国の元首でありましたが、我国からは慶喜公自身の旅行は凡ての事情から出来やう筈がない、そこで云はゞ名代として実弟の民部大輔を派遣したのであります。

  一、余が最初の洋行
 民部大輔の一行は一通り博覧会の実視が済むと、皇帝奈翁〔ナポレオン〕三世に頼んで、五年間ばかり勉強してから帰朝すると云ふ予定でありました。此の行に加つた人で、民部大輔の御附人としては七人もあつたが、何れも水戸藩の人々でありましたから、少し気慨のある者は必ず攘夷家と定まつてゐました。理屈も何も無しに外国人は排斥する、外人とさへ見れば直ぐ手を挙げると云ふやうな危険極まる人々であつた。その頃私はまだ十四歳の小僧でしたが、攘夷党の一人であつた事は申す迄もない。けれども私は幼少から支那文学などを少々研究したし、他少世間馴れしても居ましたから、他の人と比べると、同じ攘夷仲間でも、幾らか角〈カド〉が折れて居たと云ふ訳でした。
 当時幕府の外交上の仕事を担任して居たのは向山隼人正〈ムコウヤマ・ハヤトノショウ〉(黄村)でしたが、民部大輔を巴里へ特派するに就ては、特に此の人の尽力が厚かつたのであります。また慶喜公が将軍になつた時に、特に御目附役を仰付られた水戸藩士で、藤田東湖先生の高弟の原一之進〈ハラ・イチノシン〉と云ふ人がありましたが、此の人が却々〈ナカナカ〉よい人で、民部大輔を留学させるには第一番に骨を折つた人でした。これからの日本はどうなるか解らぬ、本来ならば将軍が親しく海外の事情を研究せねばならぬのであるが、今日の場合それは出来ぬから、親身の実弟を派遣して、五年か十年充分に勉強させたい、と云ふ慶甚公の意見を体して、当時一般では、民部大輔は外国へ人質に取られるのだと云ふ様な流言さへあつたにも拘らず、断乎として派遣する事になり、それには誰ぞ頼みになる者を附けて遣りたいと云ふので、将軍から原に御相談があつた。その時原が、御附人として行く者が攘夷家ばかりでは困る、それには渋沢徳太郎(私の前名です)は弱年ではあるが、角も折れて居るし、将来に見込のある男であるから、彼れを御附けになつたが宜しいと云ふお話があつた。私が身分もない一少年であつたに拘らず、特に随行の内命を受けたのは恁う〈コウ〉した関係からでありましたが、何分身分の低い者ですから、直接の御側仕へなどは出来る筈もなかつたのであります。

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