◎七尾駅5時00分発、上野駅21時59分着
以前、このブログに、〝七尾から羽咋までの切符で上野まで「乗越し」〟というコラムを書いたことがある(二〇一七年九月一五日)。これは、村田守保さんの『日本切手精集――村田守保コレクション』(日本郵諏出版、一九七八)に出てきた話を紹介したもので、それによれば、村田さんの妻子は、戦争末期、七尾駅から羽咋駅までの切符で、上野駅まで「乗越し」てきたことがあるという。
村田守保さんの文章を、再度、引用してみる。
召集令状 東京がほとんど焼野原となった、昭和20(1945)の、5月5日にとうとう私にも召集令状がまいりました。七尾にいる家内のよし子に知らせると、すぐ帰京すると、到着の日時を知らせてきました。当日私が上野駅にいくと、列車が着いて、長女喜美子を背負った家内が、「お父さん、お父さん」と連呼しながら、改札係があっけにとられている間に、出てきてしまいました。入隊前に会えるとは思わなかったので、嬉しさがひとしおだったのでしょう。
しかし、よくまァ長距離切符が買えたなァと思って聞くと、最初は七尾駅で事情を話しても、そんなことは毎日のことで、キリがないからと売ってくれず、次の羽咋【はくい】までは切符を売っているので、それを買って乗車して、そのまま乗越しで、上野まできてしまった。というわけで、改札係にもとがめられなかったのは、幸いでございました。
ここには、「そのまま乗越しで」とあるが、運賃を精算していないので、正確には、「無賃乗車で」というべきところだろう。
さて、ここには、村田守保さんのところに召集令状が来た日は書いてあるが、よし子さん母子が上京してきた日が記されていない。しかし、一九四五年(昭和二〇)五月上旬のことであろう。
そこで、戦中の時刻表(東亜交通公社発行『時刻表』昭和十九年十二月号、通巻二三五号)に拠って、村田よし子さん母子が利用した列車を推定してみた(あくまでも、この「時刻表」の上で)。
夜行を使うケースと使わないケースとが考えられるが、子どもを連れているということであれば、おそらく、夜行は、使わなかったのではないだろうか。その場合、考えられるルートは、ほとんど、次の一種類のみ。
・七尾線2列車(和倉駅4:44始発、金沢行き) 七尾駅5:00発、津幡駅6:45着。
・北陸線515列車(大阪駅23:00始発、直江津行き) 津幡駅7:57発、直江津駅12:58着。
・信越本線326列車(直江津駅始発、上野行き) 直江津駅13:15発、高崎駅19:19着、同駅19:25発、上野駅21:59着。
いま、「ほとんど、次の一種類」と言ったのは、高崎駅までやってくれば、いったん列車を降りても、同駅20:20始発の上野行き(704列車、上野駅22:56着)を利用することができたからである。
夜行を使ったケースも調べたが、紹介は割愛する。
なお、村田守保さんの文章には、列車が上野駅に着いた時刻が書かれていない。こういうことは、書いておいてほしかったと思う。また、細かいことだが、「次の羽咋まで」というのは、正しくない。七尾駅から羽咋駅の間には、徳田、良川、能登部(のとべ)、金丸(かねまる)、千路(ちじ)と、当時は、計五つの駅があった。
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