礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高田保馬は、いつ「基礎社会衰耗の法則」を発表したのか

2014-07-30 05:18:30 | コラムと名言

◎高田保馬は、いつ「基礎社会衰耗の法則」を発表したのか

 高田保馬には、一〇〇冊に及ぶ著書、五〇〇篇に及ぶ論文があるという。正確な書誌は、まだ作られていないと思う。
 少し調べてみたが、高田が文学士の時代に、つまり、博士になる前に、「基礎社会衰耗の法則」という論文を発表していたかどうかがわからない。これについては、さらに調べてみたい。
 ただし、高田の初期の著作『社会学概論』(岩波書店、一九二二)には、「基礎社会衰耗の法則」という節が含まれていたらしい。もっともこれは、二〇〇三年に、ミネルヴァ書房から復刊された『社会学概論』を見て推測したことであって、一九二二年の初版を確認したわけではない。
 社会学者の富永健一氏は、高田保馬の研究家としても知られている。氏は、「社会保障におけるゲマインシャフト原理とゲゼルシャフト原理」という文章(一九八八、インターネットで閲覧可)の中で、次のように書いている。

 もともとは社会学理論の研究から勉強をはじめた私が、社会保障のような現実問題の実証的な研究に多少ともたずさわるようになったのは、比較的最近のことである。私にとっては新しい、この社会保障という研究頒域に出ていくにあたって、私は、私にとってのホームグラウンドである社会学理論、とりわけ社会変動(近代化・産業化)理論において立てられてきた周知の中心命題のひとつを、この新しい研究領域にもちこむことを考えた。その命題とは、近代化と産業化が、家族・親族および地域共同体によって担われてきたゲマインシャフト的社会関係をしだいに解体しつつある、ということである。この命題は、すでにはやく1922年に高田保馬によって「基礎社会衰耗の法則」として立てられたことに始まっている。私は、福祉国家の成立を、この家族・親族および地域共同体の解体という不可逆的な構造変動の結果、かつてそれらの「基礎社会」(高田は血縁社会と地縁社会とを合わせたものを基礎社会と呼び、これを派生社会ないし機能社会と対比させた)が果たしていた機能を代替してくれるものが国家以外にはなくなったため、として説明することができると考えたのであった。

 ここで、富永氏は、高田の「基礎社会衰耗の法則」について、ある程度の説明をおこなっている。そして、その法則を高田が、高田が発表した年を、一九二二年(大正一一)としているが、おそらく、この捉え方は間違っている。
 なぜなら、一九二二年(大正一一)というのは、坂上信夫の『土地争奪史論』が発表された年であって、そこで坂上が、高田の「基礎社会衰耗の法則」に言及しているからである。坂上は、同年よりも前に、高田の論文に接していたと考えるべきである。
 ちなみに、坂上の言によれば、彼は、「二千五百八十年」=西暦一九二〇年(大正九)には、『土地争奪史論』の原稿を、完成させていたという。【この話、続く】

追記 その後、『社会学概論』の第一版(一九二二年一二月)を確認したところ、そこには、「基礎社会衰耗の法則」は、収められていませんでした(2023・8・2追記)。

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