礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岩波文庫『古事記』再版(1927年11月)の解題

2014-07-11 05:41:00 | コラムと名言

◎岩波文庫『古事記』再版(1927年11月)の解題

 今月八日のコラムで指摘したように、幸田成友校訂の岩波文庫『古事記』の「解題」は、初期のものと、一九三七年(昭和一二)三月以降のものとで違いがある。その違いは、かなり大きい。
 本日は、一九二七年(昭和二)一一月発行の再版にある「解題」を紹介してみよう。【  】は原ルビを示す。

 解題
 古事記は元明天皇の和銅五年に出来た書物で、撰者を太【オホ】ノ朝臣安万侶【アソミヤスマロ】といふ。和銅といへば今を距る〈ヘダテル〉こと一千二百余年、日本で著された記録で、現存して居る分では之が最も古い。古事記以前に於て種々の記録のあつたことは明らかに証拠がある。
 しかるに天武天皇は、それ等の記録に伝へて居る事実に彼是〈カレコレ〉誤謬があるから、それを改定して後世に伝へようといふ御思召〈オンオボシメシ〉で、舎人〈トネリ〉稗田【ヒエタ】ノ阿礼【アレ】なる者に勅して、「帝皇の日継【ヒツギ】及び先代の旧辞」を誦み習はしめ給うたといふ。帝皇の日継といふは古来の言伝を指すのであらう。間もなく天武天皇は崩御となり、事業は一時中断したが、その後二十余年、和銅四年九月に至り、安万侶に詔し、阿礼の誦む所の帝紀旧辞を撰録せしめ給ひ、翌年正月を以て出来上つたのが本書である。さすれば本書の撰述は本邦古代の伝説及び史実を正確に伝へるを以て目的としたものである。近時古事記を以て一篇の叙事詩と見做す〈ミナス〉学者もあるが、それは撰述の目的を度外視し、その結果即ち古事記そのものから帰納した議論に過ぎない。
 古事記が出来てから九年目に日本書紀が出来て居る。古事記と同じく本邦古代の歴史を書いた書物であるが、之は立派な漢文で書いてある。古事記ば漢字こそ用ひてあるが、訓【ヨミ】を主としたもので、いはば国文である。さうして古事記の撰者たる安万侶が、書紀の編修者の一人であることから考へると、同人は歴史に通じ且文筆に長じた人と思はれる。阿礼については知る所少いが、人となり甚だ聡明で、一たび見聞に触れたことは決して忘却しなかつたとある。
 古事記がこの両名の力によつて成つたことは言ふ迄もないが、その仕事の分担は、阿礼の誦む所の勅語の旧辞を安万侶が撰録したと序文にある所から、先輩は阿礼の暗誦する所の帝紀及び旧辞を、安万侶が筆録したと解釈するのみか、更に一歩を進め、阿礼の暗誦する所の帝紀及び旧辞は、天武天皇が口づから〈クチズカラ〉阿礼に授け給うたものであるとまで言つて居るが、之は誦字及び勅語の二字に余りに拘泥した説と考へる。それでは阿礼は一種の蓄音機となり、又安万侶は一の速記者たるに過ぎない。
 古事記の本文を熟読すると、決して一人の語る所を筆録したもの、又は一箇の史料を潤色削減したでないと心付く。一人の物語や一箇の史料によつたものとすれば、叙述は自ら〈オノズカラ〉単純で、衝突矛盾は有るべき筈はない。仮令〈タトイ〉あつても極めて稀なるべきである。日本書紀には本文にあげた記事と多少相違のある説は、「一書に曰」として、本文の次に一字下げて列挙してある。書紀の編纂に際して多数の史料を有してゐたことは之で明瞭である。古事記はさふいふ書き様〈カキヨウ〉ではないが、或事項については、書紀の本文よりも一書のどれよりも委しい記事がある。即ち書紀の本文に用ひられた史料や、之と多少相違のある若干の史料を、湊合〈ソウゴウ〉して書いたのではないかと思はれる箇条がある。又前後に無関係な記事が中間に介在し、木に接ぐに竹を以てすといふ感の起る場合もある。又一条の物語中、同一であるべき神の名や物の名が前後相違して居る場合もある。是等から考へると古事記は一人の物語を筆録し、一箇の史料を潤色削減したものとは何うしても思はれない。
 古事記が出来てから間もなく日本書紀が出来た。短い年月の間に日本の記録が二つまでも引続いて出来た所以は、当時国民の自覚心が大いに高まつた為であらう。海外諸国に対して日本あることを知り、この光輝ある我が国家の起源を語り、尊厳なる皇室の由来を明らかにしようとした結果が、二大記録の編纂となつたのであらう。但し繰返していふ如く、古事記は訓を主とし、書紀は文を主としてゐるため、後世書紀の方が弘く行はれ、宮中で博士を召して日本紀を講ぜしめ、業畢つて宴を設けられたことも見える。書紀の古写本は種々残つて居り、中にも応神紀の残欠には、奈良時代の筆写と認められるものさへあるのに、古事記の方は最も古いとせられてゐる名古屋の真福寺本でさへ、今を距る五百六七十年、応安四年及び五年に僧賢瑜の書写したものである。古写本の少いこともその書の行はれなかつた一証であらう。それを近世本居宣長が発奮して古訓を考へ、まづ古訓古事記三巻を出し、次いで古事記伝四十八巻を著し、本書を弘く世に行はれしめたは非常な功績と言はねばならぬ。当文庫本も、実に古訓古事記を底本としたのである。
 昭和二年九月    幸田成友

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