礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

落合直文、善美なる日本文を論ず

2014-02-09 05:11:40 | 日記

◎落合直文、善美なる日本文を論ず

 本日も、『国文沿革史』(一八九一?)から。本日は、国文学者・落合直文〈ナオブミ〉の「日本の文章」という演舌筆記を紹介する。落合はここで、いかにすれば、「善美なる」日本の文章を作り出せるかということを、真剣に論じている。引用にあたって、変体がなは普通のひらがなに直し、句読点を追加してある。なお、落合直文と落合直澄〈ナオズミ〉は、同時代の人で、ともに国語伝習所に関与しているが、まったくの別人である。

 日本の文章(演舌筆記)   落合直文
 今や日本の文章をみわたすに、その体、種々なり。擬古文といひ、漢文といひ、翻訳体といひ、通俗文体といひ、書簡文体といふ。その他、言文一致体あり、歌謡詞曲体あり、実に枚挙するに暇あらざるなり。要するに今の文学世界には、これぞといふ日本普通の文章はなきなり。かゝるありさまなれば、文学の上よりも、教育の上よりも、社会交際の上よりも、その不便すくなからず。さて、はやくこを〔早くこれを〕一〈ヒトツ〉に定め、善美なる一個普通の文体をつくり出さむとは、今日文学社会の輿論〈ヨロン〉なるがごとし。いとよろこばしきことゝいふべし。
さはいへ、その善美なる文章をつくり出さむに、いかなる方法かある。また、いかなる手段かある。予は、その方法をきかまほし。また、その手段をきかまほし。今の文学者中、果してその方法手段を論じたる人ありやは、或はあらむ。予はいまだきかざるなり。予はいまだ見ざるなり。

 本日は、とりあえずここまで。
「演舌筆記」となっているが、一向に演舌(演説)らしくない。周到に練られた書き言葉になっている。実際の演舌は、話し言葉でおこなったのであろうが、この印刷物には、演舌用に用意しておいた原稿を載せたのであろう。

今日の名言 2014・2・9

◎今の文学世界には、これぞといふ日本普通の文章はなきなり

 国文学者・落合直文の言葉。『国文沿革史』(一八九一?)所収の、「日本の文章」という演舌筆記に出てくる。この演舌は、おそらく国語伝習所の講義としてなされたものであろう。

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