礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある

2024-09-16 01:43:07 | コラムと名言
◎十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある

 バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)の紹介に戻る。
 本書には、バッヂ博士による「概論」というものが置かれている。これは、197ページに及ぶ詳細にして周到な解説で、全20節からなっている。最後の第20節は、「支那陝西省西安府大秦景教流行中國碑」と題されている。本日は、同節の全文を紹介してみたい。

  (附記第二)
    二〇 支那陝西省西安府大秦景教流行中國碑


 西安府に在る唐代景教流行中國碑は支那に於ける景教の興亡盛衰の歴史を研究するに当つて欠くべからざるものである。故に茲にこの碑文に関して附録として稍〻詳しく述べる所以である。この碑文に関した著書も頗る多い。其の最も興味あるものは一八九五年上海及び巴里で出版せられたエイチ・アーブレー師(H. Havret)の「西安府景教碑」(La Stèle Chrétienne de Si-ngan-fou Paris,1895)である。漢文並にシリヤ文の各部の写真版が一冊となりこれに仏語訳があり且つ毎章に有益な記述で充たされて居る。第三図と第十一図とはアーブレー師の著書から転載したものである。一九一六年には東京の佐伯〔好郎〕教授が「支那に於ける景教碑」(The Nestorian Monument in China)と題して此の碑文の歴史と本文の活字版とを出版し之に英語訳と難解の個所に幾多の有益な註解とを施したものを出版した。此の碑は初め崇聖寺と言ひ(旧名崇仁寺)後に金勝寺となつた寺の境内に在つた。而して崇仁寺は北緯三十四度十七分東経百九度三十分に在る陝西省西安城外の西郊に在る。一九〇七年六月フリツ・フオン・ホルム(何楽模)博士は百難を排して此の有名な石碑を此の地方の官憲から購求せんが為に西安府に行つた。然るに此の事が陝西省総督の耳に入るや直〈スグ〉に景教碑は移された。即ち西紀一六二五年に発見せられてから後間もなく安置せられてあつた此の金勝寺(旧名崇聖寺)から漢、唐、宋の古碑の保存せられてゐる『碑林』に移された。ホルム博士は此の景教碑の購入には失敗したが其の正確なる模造碑【レプリカ】を西安の現場で製作することには成功した。而してこの模造碑は米国に輸送せられ一九〇八年六月十四日ニユー・ヨーク『美術博物館』(The Metropolitan Museum of Art)に安置せられた。此の碑の石材は黒色にて半粒状鮞状〈ジジョウ〉石炭岩であつて陝西省富平県の石坑から切割り出されたるものである。此の石碑の大サは高さ九呎〈フィート〉強幅三呎六吋厚さ廿二吋であつて其の重量は約二噸である。碑頭は二匹の仏教的の『蚊龍』の意匠の彫刻をもつて飾られて居る。此の『蚊龍の飾』の中央に宝珠がある。此の宝珠の直下に二線併行の三角形がある。而して(一)白雲が彫刻せられたる上に安置せられた十字架(二) 蓮台があり(三)花咲く樹木の枝が左右に一本づゝある。(第十一図参照)十字架は基督教を示し白雲は大雲寺の称号で明なるが如く回教を示し蓮台は仏教を示すことは疑なきところである。但だ〈タダ〉左右に在る樹木の一枝は何物を代表するものとなすべきか少しく解釈に苦しむところである。此の景教碑に在る十字架はマルク十字架の一変形であつて景教僧が西欧教会、就中、東羅馬帝国の首府の建築物に於て浮彫にせられる十字架に倣つたものであると思ふ。此の景教の十字架をかの聖・多黙墓の十字架に比較すれば其の相違に著しいものゝあることを発見する。
 それよりも更に興味あるものは一九二八年四月にエイ・シー・モール(A. C. Moule)氏が「ローヤル・アジアチツク雑誌」で発表した二個の十字架である。(モール氏著「一五五〇年以前の支那基督教」八七頁参照)此の二個は北京附近の十字寺(阿北省房山県三盆山)で発見せられたものである。此の十字寺はモール氏の説に拠れば掃馬法師が七年間修業して居た景教の寺院であるといふことである。其の一個は本堂の前に在つた壇の一隅に在つて他の一個は東南の一隅に在つた。其れにはシリヤ語があつた。之はぺシト訳の聖書の本文から引用したもので『汝此に向ひ此に在つて望め』(詩三十四篇五)といふ訳である。併し希伯来〈ヘブライ〉語の本文に拠れば『彼等は主を仰ぎのぞみて光を被りたれば彼等の顔は恥あらんことな』(詩三四篇五)といふ文句に相当するのである。是等の二個の十字架はモール氏の云ふところに拠れば同一形ではない。例へば十字架の横の桁に何等の飾もなく且つ両端が尖つて居る。また本図(一)は一六三八年に南支閩〈ビン〉の泉州の水陸寺で発見せられたものである。(二)は閩の泉州府城仁風門外一哩の地に在る東湖畔で発見せられたものである。前者は蓮台の上に在る十字架であつて後者は白雲の中から出現して居る十字架である。其の他の支那から出た十字架の説明に関しては前記モール氏の次の著書を参照するがよい。(本書附『支那の景教に就いて』参照)
 (一)一九一九年アール・ジヨンストン氏が北京の西南三十哩許の山地に在る房山県附近に在る十字寺といふ荒廃した一小寺で発見したものである。
 (二)一六一九年に閩泉州南邑西山で発見せられたものである。それが二六三八年に当時の基督教徒の手に移つたものである。
 (三)三角形の下に十字架及び白雲並に蓮台等が彫刻せられ其の下に大字で「大秦景教流行中國碑」とある。即ち大秦から伝来した景教か支那即ち中国に流行したといふことを記念する石碑である。其の本文は一千九百字の漢文と五十余のシリヤ語文と七十二名の景教僧の名前がエストランゲラといふシリヤ文字で書かれてある。
 此の碑文の歴史的部分が非常に重用である。先づ第一に阿羅本といふ者の一団体が大秦即シリヤ猶太亜と云ふ処から貞観九年即ち西紀六三五年に長安に到着した。而して唐の太宗は宰臣房玄齢を使はし儀杖を惣へて之を西郊に賓迎せしめた。また阿羅本が将来したる景教の経典は太宗が書殿に於て飜訳せしめられ、道を禁闈〈キンイ〉に問ひたる後深く景教の正真を知つて特に之が伝授を許し貞観十二年(西紀六三八年)には詔勅を出して『其の教旨を詳〈ツマビラカ〉にするに玄妙無為である。其の元宗を観るに生成立要である。辞に繁説がなく理に忘筌がある。物を済し人を利するを以つて宜しく天下に行はしむべし』とあつた。而して大秦寺は建てられ先づ二十一人の僧侶が任命せられた。高宗(西紀六五〇年~六五三年)は諸州に景教寺を置き阿羅本を崇めて鎮国大法主となした。玄宗至道皇帝(西紀七一二~七五五年)は寧国等五王をして親しく福宇に臨み壇場を築かしめた。又、粛宗文明皇帝(西紀七五六年~六二年)は霊武並に五郡の土地に於て重ねて景教の寺院を建てた。而して代宗文武皇帝(西紀七六三年~七七九年)は聖運を恢張し無為に従事し景衆を盛〈サカン〉ならしめたのである。
 尚ほ末文に大唐建中二年即ち西紀七八一年に景教の法主寧恕が束方の景衆を統治して居た時代とある。寧恕とは最教の法主へナン・イシヨ第二世の漢名である。(訳補者曰ふ。其の意味は「イエスの仁慈」即ち寧恕といふ漢字に該当するのである)この法主は西紀七七四年から同七八〇年まで景教法主の位に在つた。即ち此の石碑が建立せられ其の除幕式があつた建中二年一月(西紀七八一年)には永眠して居た。併し陸上交通の不便であつた当時に於ては法主の訃音〈フイン〉が此の石碑彫刻の完成するまでには支那に達しなかつたのであると思はれる。シリヤ語の文章に拠ればトルキスタンの一市へルクアから来た僧でミリオの子であるイヅブジツドと云ふクムダン(関内)の僧が希臘〈ギリシャ〉年号の一〇九二年(西紀七八一年)に建立したとある。尚ほ其の他に七十二名の景教僧の名がシリヤ文字と漢字とで対立してある。此の碑石か発掘せられた場所に関しては諸説が紛々として一定して居ないが佐伯教授は一六二五年頃に西安盩厔間の一地点に於て此の石が発掘せられたものと断定して居る。発掘者又は発見者の姓名は詳でない。モール氏は碑石は最初盩厔に建てられたものであつたが後に西安の西郊に移されたものであると云つて居る。〈189~197ページ〉

 この碑の最上部は、△形の囲みがあって、そこに十字架などが描かれている。そのすぐ下には、3×3の大きなマスがあって、そこにタテ書きで、
  大秦景
  教流行
  中國碑
と書かれている。教は「敎」でなく「教」、國は、国でなく「國」である。
 バッヂ博士は、この一文において、「東京の佐伯教授」に言及している。佐伯好郎は、1916年(大正5)に、ロンドンのキリスト教知識促進協会(Society for Promoting Christian Knowledge)から、『支那に於ける景教碑』という本(英文)を刊行していた。ウィキペディア「佐伯好郎」の項によれば、佐伯は、1913(大正2)から熊本で、第五高等学校の教授を務めていた。1916年以降は、東京高等工業学校で教鞭を執っていたというが、同校の教授だったか否かは不明。

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(24・9・15)

2024-09-15 03:22:52 | コラムと名言
◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(24・9・15)

 本日は、当ブログへのアクセス・歴代ベスト30を紹介する。
 順位は、2024年9月15日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった日の順位であって、アクセスが多かったコラムの順位ではない。

1位 2016年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 2015年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 2019年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 2016年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位 2018年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位 2016年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位 2023年12月14日 大江健三郎氏は「一本調子」がかなり改まっている
8位 2024年8月17日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(24・8・17)
9位 2014年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
10位 2024年7月3日 その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)

11位 2021年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
12位 2021年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
13位 2024年7月4日 「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎
14位 2018年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      
15位 2017年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
16位 2021年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
17位 2018年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
18位 2019年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)
19位 2024年8月19日 陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)
20位 2018年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5

21位 2022年12月30日 読んでいただきたかったコラム10(2022年後半)
22位 2024年8月15日 御座所にはRCAのポータブルラジオが……
23位 2017年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
24位 2023年3月9日 松蔭を斬り、雲濱を葬りたる幕府当局を想起す(愛国法曹連盟)
25位 2023年12月12日 かうした地方を私は一型アクセントの地方といふ
26位 2018年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
27位 2024年9月14日 A・フジモリ元大統領の訃報
28位 2022年8月2日 朝日平吾は昭和テロリズムの先駆か
29位 2024年8月19日 近衛文麿公は、独り晩秋の軽井沢に赴いた
30位 2022年12月20日 「開帳は夜ふけに限る」と敬道師はいった

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A・フジモリ元大統領の訃報

2024-09-14 01:00:23 | コラムと名言
◎A・フジモリ元大統領の訃報

 新聞報道によれば、ペルーの元大統領アルベルト・フジモリさんが、今月11日に亡くなられたという。追悼の意味をこめて、当ブログの過去の記事を再掲したいと思う。
 記事中に有元正雄氏の名前が出てくる。有元正雄氏は、歴史学者、広島大学名誉教授。本年1月14日に亡くなられた(1930~2024)。

◎A・フジモリ氏の両親は九州門徒地帯の出身 2014/02/21

 昨日、有元正雄氏の『宗教社会史への構想』(吉川弘文館、一九九七)という本から、富山の薬売りの話を紹介した。
 同書の冒頭に、次のような話が出てくる。

 一九九〇年五月、ペルーの大統領選挙が日本の新聞・テレビなどで大きく取扱われた。アルベルト・フジモリという熊本県からの移民二世が立候補していたからである。彼は選挙スローガンとして「正直・勤勉・技術」の三つを掲げ、ペルーの新しい国作りをこれによって実現しようと訴え、見事に当選した。
 ちょうどこのころ、わたくしは真宗の宗教社会史に関する最初の論文を発表し、そのなかで真宗門徒の中心的な徳目は、正直・勤勉・節倹・忍耐の四つであるとしていた(拙稿「真宗門徒宗教社会史序説」)。彼の選挙スローガンと正直・勤勉の二つがダブっているので、彼の両親の宗旨を調べてみるとはたせるかな両親とも真宗門徒であった。A・フジモリの父藤森直一は一九二〇年ペルーに移民し、農園の綿摘み労働者として骨身を惜しまず働き、一九三四年嫁をもらいにいったん帰国し、親戚の井元ムツエと結婚して、ふたたびペルーに渡った。ちなみに、「門徒」〈モント〉というのは、浄土真宗の信者を指す言葉である。

 ウィキペディアの「アルベルト・フジモリ」の項は、アルベルト・フジモリ氏の出自について、次のように書いている。

 1938年ペルーの首都リマのミラフロレス区で仕立物屋を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれる。両親は日本の熊本県飽託〈ホウタク〉郡河内〈カワチ〉村(現・熊本市河内町)出身であり、ペルーに1934年に移住した移民である。彼が誕生すると両親はリマの日本公使館に出生届を提出して日本国籍留保の意志を表したため、フジモリは日本国籍を保有することになった。

 河内村は、飽託郡が成立する前は、飽田〈アキタ〉郡に属していた。有元氏の前掲書によれば、この飽田郡は、「九州門徒地帯」に位置づけられ、明治前期における「真宗寺院率」は、四〇%以上であるという。
 有元氏が、アルベルト・フジモリ氏の両親の宗旨を、どのようにして調べたかは不明だが、おそらくその通りなのだろう。なお、有元氏が言及されている「真宗門徒宗教社会史序説」というのは、雑誌『思想』一九九〇年五月号(通巻第七九一号)掲載のご自身の論文を指す。

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書中の迷信的記事には註解を施さなかった

2024-09-13 00:56:09 | コラムと名言
◎書中の迷信的記事には註解を施さなかった

 バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)から、「原序」、すなわちバッヂ博士の序文を紹介している。本日は、その後半。

 幸にしてシリヤ語の原文は大体に於て完全に保存されてあつて破損のために不明となつた箇所が極めて少かつた。それがため余は出来る限り原文を直訳して之を読者に伝へることにした。併し、二三の箇所に於ては原文の紙面が破損したり又は変造せられたりしてあることを発見した。而してこれらの箇所は一々指摘して読者の注意を喚起しておいた。本書の最初の原文は波斯〈ペルシャ〉語で綴られてあつたものである。それを何れの時代に於てかシリヤ語に翻訳せられたものである。而してその之をシリヤ語に翻訳したる訳者は自分のシリヤ語の訳本を読む当時の読者が本書の記事中に掲げられたる出来事の時代に活きて在つて其の歴史に精通してゐるものと仮定して居たらしいのである。従つて本書の詳細なる記事が後世の読者に取つて如何に難解のものになるかといふ様な問題は少しも考へて居なかつた様である。
 故に、余は本書の記事を了解するに必要なる歴史的並に考古学的の肝要なる事項を集め之を本書の概論に収めて予め〈アラカジメ〉読者の一覧に供し各頁に脚註を施すことを避くることとした。蓋し脚註と云ふものは往々にして訳文を一気呵成的に興味を以て通読することを妨げるからである。更に又、余は書中に現はれたる諸聖徒の遺物や其の他の旧跡墓地等に関する迷信的の記事に対して註解を施す必要を認めなかつたのである。そは第十三世紀に於ける東西の基督教国民は一般に斯の如き事柄を信仰して居たからである。而して其の迷信的記事の当否は今更説明するまでもないことと思ふ。だが、其の原文の著者が彼の使徒ペテロがイエスを知らずと答へた時にペテロ自身が腰をかけて居たといふその庭石を発見したと真面目に本書中に記載して居るに至つては余は読者と共に一驚を喫せざるを得ないのである。そは第十三世紀に於ける東西の基督教国民は一般に斯の如き事柄を信仰して居たからである。而して其の迷信的記事の当否は今更説明するまでもないことと思ふ。だが、其の原文の著者が彼の使徒ペテロがイエスを知らずと答へた時にペテロ自身が腰をかけて居たといふその庭石を発見したと真面目に本書中に記載して居るに至つては余は読者と共に一驚を喫せざるを得ないのである。
 余は大英博物館の理事会がその東洋文献原稿本部三六三六号の撮影を許可せられたること及びバーネット博士が其の保管にかゝる回鶻語【ヴイーゲル】文献を調査することを余に許可し又たサー・ジョン・モレーが蒙古牌札【パイザ】の写真をユール氏名著『マルコ・ポーロ旅行記』中より写し取ることを許可し、ベルナード・カーリッチ会社の専務取締役ドリンク氏がマルチン氏の名著(一八九二年出版)『波斯絵画及び画家』中より六枚の画を写し取ることを許し、大英国博物館のウエーレー氏が元主忽必烈汗の肖像の掲載を許可せられたことを深謝する次第である。成吉思汗〈ジンギス・カン〉の肖像は『支那亜細亜協会雑誌第五十六巻(一九二五年)より転載したもので全くウエルナー氏の賜〈タマモノ〉である。大秦景教流行中国碑の絵は三個ともアブレー氏の大著たる『景教碑研究』に拠りアルコーシユのホルミツド法師の僧院の図は一八三六年倫敦〈ロンドン〉出版のリッチ氏著『クルヂスタン住居者の物語』から転載することを許可せられたものである。
 尚ほ本書の校正は倫敦宗教書籍出版会社総務アルウヰン博士の好意に負ふものである。著者が同博士より親切なる助言を受けて本書の面目を新にすることを得たることは一二に止らない。茲に謹んで謝意を表す。
  一九二八年七月十七日  倫敦へツドフオード寓居に於て
                 イ・エ・ワリス・バツヂ  〈3~6ページ〉


 署名に「イ・エ・ワリス・バツヂ」とあるが、正しくは、Sir Ernest Alfred Thompson Wallis Budgeである(1857~1934)。イギリスの考古学者で、大英博物館に勤務した(ウィキペディア「ウォーリス・バッジ」)。
『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』という本は、ウォーリス・バッジのThe two Monks of Khûbilâi Khân,1927を、日本の佐伯好郎が翻訳したものである。
 フビライ汗によって欧州に派遣されたふたりの景教僧があった。その景教僧が「旅行誌」を残した。その原本はペルシャ語で綴られていたが、あるとき、これがシリヤ語に翻訳された。そのシリヤ語訳「旅行誌」は、今日まで伝わった。ウォーリス・バッジは、これを英語に翻訳し、周到な「概論」を付して出版した。これが、The two Monks of Khûbilâi Khânである。
 日本の佐伯好郎(1871~1965)は、その本を日本語訳し、巻頭に「訳補者の自序」、巻末に「附録」を付して出版した。これが、『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(初版1932)ということになる。

*このブログの人気記事 2024・9・13(8位のフジモリ氏は時節柄か、9・10位は、いずれも久しぶり)
  • 二人の景教僧はエルサレムに向って支那を発った
  • バッヂ博士『景教僧の旅行誌』の再版を入手
  • 胸中の血は老いてなほ冷えぬ(高田保馬)
  • 高田保馬の『終戦三論』(1946)を読む
  • 礫川ブログへのアクセス・歴代ワースト30(20...
  • 某社の『経済学事典』には高田保馬の名前がない
  • 高田保馬、教職不適格者指定を受ける(1946)
  • A・フジモリ氏の両親は九州門徒地帯の出身
  • 愛知県小牧市のブラジル人少年殺害事件(1997)
  • 「大機小機」と日本社会全体を分析する視点



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二人の景教僧はエルサレムに向って支那を発った

2024-09-12 00:47:16 | コラムと名言
◎二人の景教僧はエルサレムに向って支那を発った

 昨日に続いて、バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)の紹介である。本日は、同書の「原序」、すなわちバッヂ博士の序文を紹介する。やや長いので、前後二回に分けて紹介する。

     原  序

 本書は把・掃馬【パールソーマ】及び馬可【マコス】と云へる二人の景教僧に関するシリヤ語で書かれたる歴史の全訳である。掃馬は汗・八里【カーンパリツク】(「汗の都」と云ふ義にて今の北京を指す)の人で、馬可は綏遠〈スイエン〉省帰化城托克托〈トクト〉即ち東城の産である。(訳補者曰く二一一頁の註を見よ)
 本書に収むるところのものは波斯〈ペルシャ〉王伊児汗〈イル・カン〉王朝のことに関する記事である。而して其の主なるものは蒙古の景教徒との交渉顚末であるから本書の興味と重要性とは全く此の点に在ると謂つてよい。之を通読すれば支那は勿論、中央亜細亜及びイラク・アル・アジヤミ等に於ける景教勢力の消長とその教会の盛衰興亡の歴史とが判明するのである。加之〈シカノミナラズ〉その記事は多く当時の時局に関係して四囲の事情の変遷を目撃したる人々の説明や陳述に基くものであるから歴史の資料としては実に一種特別の価値を有するものである。若し夫れ、これを所謂学界の『大掘出物【セレンデイピテー】』といふことが出来なかつたら何処に『掘出物』があるであらうか。本書こそは、実に英語の『掘出物』といふ言葉の語源となつた、かの『サレンデ(錫侖【セイロン】島)の三子物語』といふ波斯の昔話よりも遥かに珍らしい話である。
 ベニヤミンの一族であつたソウロが嘗て其の父の為に驢馬を索し〈サガシ〉に出かけた。而して驢馬を獲ずして遂に王国を策し出したといふ話がある。それと同じ様に此等の二人の支那の景教僧は救世主イエス・キリストの御墓所で祈祷を捧げたいといふ目的でエルサレムに向つて支那を出発したのである。而して彼等は誠心誠意エルサレムの神殿で祈祷を捧げ自己の罪科旧悪の洗潔と自己の心霊の慰安とを得たいと思ふたのである。然るにこれらの両人は遂にエルサレムには到達し得なかつた。併し二人の中の年少者であつた馬可は先づ第一に景教の大徳に挙げられ後には景教総本山の教父第五十八代の法主に任命せらるゝに至つたのである。而して当時の景教総本山の全領土は東は支那より西はパレスタインに拡がり北は西比利亜〈シベリア〉に亘り南は錫侖島に達して居たのである。又年長者であつた掃馬も挙げられて大徳となり全亜細亜の景教の巡錫〈ジュンシャク〉総監に任命せられ、後には阿魯渾汗〈アルグン・カン〉の特命全権使として東羅馬王、羅馬法王、仏国王及び英国王エドワード第一世等に謁し大いに国事に関して樽俎折衝〈ソンソセッショウ〉するところがあつたことは明瞭である。さればこれら両僧の伝記は人間の運命に対する上帝の摂理の深遠にして測り難きものであることを吾人に如実に物語るものであると言はねばならぬ。〈1~3ページ〉【以下、次回】

「大掘出物」に【セレンデイピテー】というルビが振られている。英語の綴りは、serendipity。「予期することなく大きな発見をすること、または、その能力」という意味である。

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