礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

書中の迷信的記事には註解を施さなかった

2024-09-13 00:56:09 | コラムと名言
◎書中の迷信的記事には註解を施さなかった

 バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)から、「原序」、すなわちバッヂ博士の序文を紹介している。本日は、その後半。

 幸にしてシリヤ語の原文は大体に於て完全に保存されてあつて破損のために不明となつた箇所が極めて少かつた。それがため余は出来る限り原文を直訳して之を読者に伝へることにした。併し、二三の箇所に於ては原文の紙面が破損したり又は変造せられたりしてあることを発見した。而してこれらの箇所は一々指摘して読者の注意を喚起しておいた。本書の最初の原文は波斯〈ペルシャ〉語で綴られてあつたものである。それを何れの時代に於てかシリヤ語に翻訳せられたものである。而してその之をシリヤ語に翻訳したる訳者は自分のシリヤ語の訳本を読む当時の読者が本書の記事中に掲げられたる出来事の時代に活きて在つて其の歴史に精通してゐるものと仮定して居たらしいのである。従つて本書の詳細なる記事が後世の読者に取つて如何に難解のものになるかといふ様な問題は少しも考へて居なかつた様である。
 故に、余は本書の記事を了解するに必要なる歴史的並に考古学的の肝要なる事項を集め之を本書の概論に収めて予め〈アラカジメ〉読者の一覧に供し各頁に脚註を施すことを避くることとした。蓋し脚註と云ふものは往々にして訳文を一気呵成的に興味を以て通読することを妨げるからである。更に又、余は書中に現はれたる諸聖徒の遺物や其の他の旧跡墓地等に関する迷信的の記事に対して註解を施す必要を認めなかつたのである。そは第十三世紀に於ける東西の基督教国民は一般に斯の如き事柄を信仰して居たからである。而して其の迷信的記事の当否は今更説明するまでもないことと思ふ。だが、其の原文の著者が彼の使徒ペテロがイエスを知らずと答へた時にペテロ自身が腰をかけて居たといふその庭石を発見したと真面目に本書中に記載して居るに至つては余は読者と共に一驚を喫せざるを得ないのである。そは第十三世紀に於ける東西の基督教国民は一般に斯の如き事柄を信仰して居たからである。而して其の迷信的記事の当否は今更説明するまでもないことと思ふ。だが、其の原文の著者が彼の使徒ペテロがイエスを知らずと答へた時にペテロ自身が腰をかけて居たといふその庭石を発見したと真面目に本書中に記載して居るに至つては余は読者と共に一驚を喫せざるを得ないのである。
 余は大英博物館の理事会がその東洋文献原稿本部三六三六号の撮影を許可せられたること及びバーネット博士が其の保管にかゝる回鶻語【ヴイーゲル】文献を調査することを余に許可し又たサー・ジョン・モレーが蒙古牌札【パイザ】の写真をユール氏名著『マルコ・ポーロ旅行記』中より写し取ることを許可し、ベルナード・カーリッチ会社の専務取締役ドリンク氏がマルチン氏の名著(一八九二年出版)『波斯絵画及び画家』中より六枚の画を写し取ることを許し、大英国博物館のウエーレー氏が元主忽必烈汗の肖像の掲載を許可せられたことを深謝する次第である。成吉思汗〈ジンギス・カン〉の肖像は『支那亜細亜協会雑誌第五十六巻(一九二五年)より転載したもので全くウエルナー氏の賜〈タマモノ〉である。大秦景教流行中国碑の絵は三個ともアブレー氏の大著たる『景教碑研究』に拠りアルコーシユのホルミツド法師の僧院の図は一八三六年倫敦〈ロンドン〉出版のリッチ氏著『クルヂスタン住居者の物語』から転載することを許可せられたものである。
 尚ほ本書の校正は倫敦宗教書籍出版会社総務アルウヰン博士の好意に負ふものである。著者が同博士より親切なる助言を受けて本書の面目を新にすることを得たることは一二に止らない。茲に謹んで謝意を表す。
  一九二八年七月十七日  倫敦へツドフオード寓居に於て
                 イ・エ・ワリス・バツヂ  〈3~6ページ〉


 署名に「イ・エ・ワリス・バツヂ」とあるが、正しくは、Sir Ernest Alfred Thompson Wallis Budgeである(1857~1934)。イギリスの考古学者で、大英博物館に勤務した(ウィキペディア「ウォーリス・バッジ」)。
『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』という本は、ウォーリス・バッジのThe two Monks of Khûbilâi Khân,1927を、日本の佐伯好郎が翻訳したものである。
 フビライ汗によって欧州に派遣されたふたりの景教僧があった。その景教僧が「旅行誌」を残した。その原本はペルシャ語で綴られていたが、あるとき、これがシリヤ語に翻訳された。そのシリヤ語訳「旅行誌」は、今日まで伝わった。ウォーリス・バッジは、これを英語に翻訳し、周到な「概論」を付して出版した。これが、The two Monks of Khûbilâi Khânである。
 日本の佐伯好郎(1871~1965)は、その本を日本語訳し、巻頭に「訳補者の自序」、巻末に「附録」を付して出版した。これが、『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(初版1932)ということになる。

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