本書は戦後になって書かれた随筆22本、座談会記録3篇、3人による追悼文から成っている。此の内、随筆6本と並び、私が興味深く読んだのは意外にも座談会だ。
其のわけは、座談の相手が音楽界の人であれ、美術界からの場合でも、日本と西洋の文化対置から日本の音楽や芸術全般の将来を案じる信時氏(1887-1965年)の真摯な姿勢が
終始一貫しているからだ。それは、氏の生きた時代背景に照らすと頷ける。77年の生涯最後20年が戦後であり、前の57年は明治期に成人してからの人生であった。
同時代を生きた山田耕作氏(1886-1965)が東京音楽学校の指揮科を出てドイツに留学したあと、日本初の交響楽団づくりに奔走し、オペラ上演に燃えた生きざまと比べ、
信時氏の歩みは対照的に質素きわまりない。弟子だった高木東六や団伊玖磨によれば「女性関係にルーズで猥談好きだった」という奔放な山田氏と信時氏は対極を生きた。
唯、山田・信時の両氏が残した作品の殆どは歌曲だが、山田と違い信時が遺した作品に映画音楽・管弦楽曲・交響曲はなかった。此のあたり信時には「唱歌」「童謡」「歌曲」の作曲が精一杯のレベルだったと言わざるを得ない。
戦時中は両氏とも軍部の圧力で戦意高揚歌・軍歌を創らされたが、山田が作った曲の数はここでも信時とは比べ物にならないほど豊富だ。戦後の戦犯追及に際し山田は無言だったが、信時は本書で遠慮した言い回しながら『海ゆかば』が学徒出陣や戦意高揚番組のテーマ音楽に用いられた悲しみを冷たく述べている。
よほど辛かったのか、随筆で饒舌な信時はそこにいない。とかく信時の名前は『海ゆかば』に紐づけられがちだが、それはジャーナリズムの狭量さを示すものだろう。
さて、次からは、印象に留まった随筆6本から私が感じ取った事について述べてようと思う。 < つづく >
其のわけは、座談の相手が音楽界の人であれ、美術界からの場合でも、日本と西洋の文化対置から日本の音楽や芸術全般の将来を案じる信時氏(1887-1965年)の真摯な姿勢が
終始一貫しているからだ。それは、氏の生きた時代背景に照らすと頷ける。77年の生涯最後20年が戦後であり、前の57年は明治期に成人してからの人生であった。
同時代を生きた山田耕作氏(1886-1965)が東京音楽学校の指揮科を出てドイツに留学したあと、日本初の交響楽団づくりに奔走し、オペラ上演に燃えた生きざまと比べ、
信時氏の歩みは対照的に質素きわまりない。弟子だった高木東六や団伊玖磨によれば「女性関係にルーズで猥談好きだった」という奔放な山田氏と信時氏は対極を生きた。
唯、山田・信時の両氏が残した作品の殆どは歌曲だが、山田と違い信時が遺した作品に映画音楽・管弦楽曲・交響曲はなかった。此のあたり信時には「唱歌」「童謡」「歌曲」の作曲が精一杯のレベルだったと言わざるを得ない。
戦時中は両氏とも軍部の圧力で戦意高揚歌・軍歌を創らされたが、山田が作った曲の数はここでも信時とは比べ物にならないほど豊富だ。戦後の戦犯追及に際し山田は無言だったが、信時は本書で遠慮した言い回しながら『海ゆかば』が学徒出陣や戦意高揚番組のテーマ音楽に用いられた悲しみを冷たく述べている。
よほど辛かったのか、随筆で饒舌な信時はそこにいない。とかく信時の名前は『海ゆかば』に紐づけられがちだが、それはジャーナリズムの狭量さを示すものだろう。
さて、次からは、印象に留まった随筆6本から私が感じ取った事について述べてようと思う。 < つづく >
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