静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

書評 067 「ロックの英詞を読む~世界を変える歌~」  ピーター・バラカン 著 2016.5.刊  集英社

2017-03-06 16:38:26 | 書評
 ≪ 書評 066 ≫でバラカン氏(PB)の「ラジオのこちら側で」を紹介した。あれは放送メディア経歴を通した幅の広い文化論ともいえる内容だったが、こちらはPBが好きなロックナンバーを紹介しつつ、歌詞が秘める様々な社会への怒り、不条理への叫びなどを解説する構成である。
 その怒りや叫びは、経済格差に関するものもあるが、寧ろPBの視線は民族/人種差別を受ける側に向いている。 彼自身、白人で植民地主義の極みだった大英帝国の末裔であることの痛い自覚に苛まれているように読めるのだ。 それは歌詞の英語が示唆する内容を解き明かす文意に注意すれば、誰にでも伝わると私は思った。
 日本語の書名タイトルは<ロックの英詞を読む~世界を変える歌~>、一方、PB自身がつけた英語タイトルは・・Rock Between The Lines. Songs. With A Conscience・・・これでPBが言いたかった事とは、『歌の行間に滲む”良心”を読んで欲しい』というものである。 この違いには、単なるキャッチフレーズ優先ではない、出版社の何某かの憚り(良心という言葉への)があるのかもしれない、と直感した。

 ところで、私は前の書評コラムにおいて、クラシック音楽との対比で”ポップス音楽には現実生活との共時性がある”と述べた。 集英社が付けた日本語タイトルの<世界を変える>に、偶然ではあろうが、私の感じ取った特徴と共鳴するものが若しあったなら、PBの意図した(良心という言葉への憚り)以上の価値を編集者は見出したのかも知れない。  仮にそうなら、それはそれで良い。

 それにしても Conscience という語を選ぶバラカン氏の視線の奥には、大衆音楽を通した日常生活への慈しみがあり、如何なる人権侵害や不条理にも声を上げる彼の「良心」がある。 我々日本人の多くが【スピードと効率/物的豊かさ】を追うことで、人生や社会/国家の在り方までも善しとする習性を身に着けてしまった浅ましさとは対極にある態度だ。 此の習性は、今朝書いた別のコラムに綴った<ソロバンと前垂れ丁稚根性>のことでもある。
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≪ 自民党ひとり勝ちは 日本の将来に幸せか? ≫  経済安定が最優先国是 の時代は もう終わったのだ

2017-03-06 09:52:03 | 時評
◆ (朝日・社説)自民党大会 異論なき1強の危うさ http://www.asahi.com/articles/DA3S12827557.html?ref=nmail_20170306mo
・ 党や内閣の方針を、多様な視点から吟味する。そんな政党として当たり前の機能が、今の自民党は劣化していないか。
  「1強」ゆえのおごりや緩みも目につく。昨年の臨時国会では、首相の所信表明演説中に若手議員らが「スタンディングオベーション」で応えた。
  今国会では、森友学園の国有地売却問題で参考人招致に難色を示すなど、解明に後ろ向きと言われても仕方がない。
・ 選挙での公認権や政治資金、内閣や官僚の人事権を握る首相官邸に異を唱えれば、自らの立場を危うくしかねない――。そんな空気が党内を覆う。
   一方で「1強」を支える民意は、積極的な支持ばかりとは言えない。国政選挙での連勝は、民進党が旧民主党政権の挫折から立ち直れていないことに
  助けられている面が大きい。
 ⇒ ここまでは何度も耳にする指摘であり、私がこれまで何度か言及してきた「小選挙区制度の弊害」「野党勢力の貧弱さ」にも触れている。
  そして、社説子は<異論や批判に耳を傾け、常に自省する。そんな姿勢がなければ権力は腐敗する。その影響は広く国民に及ぶ。歴史が教える権力の危うさを
  自民党はいま一度、胸に刻むべきだ>とジャーナリズムの立ち位置から ”権力が腐敗する”可能性を訴えている。
   ← 現状が孕む問題は、果たして「権力の腐敗」だけか?  私には、<理念なきエコノミックアニマル国家の肯定>の方がより深刻な問題と思えるのだ。

★ 先日、或る集まりで80歳を既に超えた知己が「自民党政府のお蔭で我々はこうして安定的な暮らしができている。左の連中が戦後を牛耳っていたら日本は
  こんなに豊かにはなれなかったと思うよ。安倍さんのこと悪く言う人は多いけど、他に誰か任せられる人は居るかな?」と言った。

その言葉は、居酒屋での政治談義の中での一コマにすぎぬが、私は、なぜ自民党が得票率は低くても選挙で勝てる現象を得られるのか、小選挙区制度の仕組みだけでなく、同時にこういった庶民感情こそが真の、自民1強支配の礎ではないかと感じた。 
 因みに、此の人は満州生まれ、中学生の年齢で引揚げ、苦学した世代。戦後経済の復興すなわち人生だった年齢層である。  だが、これだけでは何故、いまも
 自民或は保守派が日本を支配できるのかを説明しきれない。 
 つまり、過去の高度成長を幸せに記憶する世代とは逆に、今の中堅どころに当たる世代は「高度成長を知らぬ/落ちぶれた日本しか知らぬ世代」ゆえに経済成長と政局安定が至上価値に映る、それしか拠り所は無い、という事ではあるまいか? 言葉はきついが、中堅世代が抱く<理念なきエコノミックアニマル国家の肯定>は、嘗ての古い世代が無我夢中で、ある意味無邪気に信じ切った心理ではなく、これしか他に国家の進むべき価値体系=国是を見つけられない 消去の結果ではないか?

 だとすれば、実務社会を退役した我々世代ではなく、社会の中核に居る現役の人達自身が、いま一度自問自答して欲しい。 
  ソロバン/前垂れ丁稚根性は、却って有害なのでは?  理念としての国の在り方は、経済優先から生まれないのでは?と。
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