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自分が実相人間って決めちゃえばいい!

2021-03-16 19:50:02 | 日記
アサガオに実相アサガオという
見えない「霊的アサガオ」があって、
それが本当のアサガオであるのと同じように、
人間にも実相人間という人間の本体実在があって、
それが本当の人間なのです。
それは自分の「いのち」でもあり、
「神の子」でもあります。
見えないし、違う次元にある存在ですが、
それこそが本当の自分と思い込んでしまうとよろしいです。
次元が違っていたとしたって
それが現象の自分になっているんだから、
実相人間が自分の本体です。
簡単にいうと
アサガオの本体である実相アサガオという「霊」みたいに
自分が「見えない実相人間」だと決めちゃえばいいです。
自分の本体は「見えない実相人間」と思い込んじゃえばいいです。
「見えない神の子」ってことです。
思い込んだとおりになるのです。
ただの木片の十字架をキリストの十字架と思い込んで
病気が治った人がいるそうです。
本気で思い込んだら神癒は起こると
アディントンも言ってます。
でも人間が霊なる実相人間ってことは真理なので
決めちゃえばいいです。
後は思い込む修行をすればいいです。

青山は運歩する

2021-03-16 13:21:08 | 日記
私は今自宅に居るが、
もう一時間もすれば
駅のベンチに座っていよう。
自宅は
私のいのち(実相)の展開とともに
動いたわけである。
山は運歩する。
いやすべての存在物は歩むのである。
この真理を
道元は伝えていると
私はみた。

(正法眼蔵を読む 山水経の巻  谷口清超)
<青山運歩す>
 山が常に歩むから、それは不動である。青山の運歩はその速きこと風の如し、否それ以上だが、山の中の人々にはそれが分らぬ。山の中とは、花が咲いたら花が咲いただけの世界だ。ただそこだけを見ている。又山が運歩しても、山の外の人にはそれが分らない。山の真実を知らないし、山から離れている。山を見る目がないから、覚らず知らず、見ず聞かずであるのは当然だろう。
 もし山が常に動くことを汝が疑うならば、汝は自己の動きもまだよく知らないのである。自己が運歩しないのではない。自己の運歩をまだ知らないのである。その実体を明らめていないのだ。汝は自己の動きを知らなければならぬ。その如く青山の運歩も、知らなくてはならないのである。

新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳

2021-03-16 12:19:13 | 日記
新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳
1章 神の子羊
33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。

吾等が真の幸福を得るためには先ず「霊はすべての渾て、霊ならざるもの一つもなし」と云う此の事実に目覚めなければならない。

2021-03-16 12:11:35 | 日記
吾等が真の幸福を得るためには先ず「霊はすべての渾て、霊ならざるもの一つもなし」と云う此の事実に目覚めなければならない。
このことが真の幸福生活の基盤である。
現象世界の一切事物は
霊なのである。
現象の展開は、
本体実在が物質的形態をまとって
現れ出ているのである。
この現象展開を貫く実相というものを
吾等はつかむべきなのだ。
(心と運命 谷口雅春)
【斯ようにして吾等は「霊」を徹頭徹尾「渾てなる者」として認めねばならぬ明瞭な必要・・・人間の想念の必死的要求の一つ・・・に逢着(ほうちゃく)するのである。一切事物は事物現象として顕現しつつある本体実在なのである。それはあたかも幻燈の映画の端から端までが本来同一な光で成り立っていると同様なのである。そして吾々の住むこの時代は何よりも先ず「霊はすべての渾て、霊ならざるもの一つもなし」と云う此の事実に目覚めることを必要とするのである。】


吾等は現象界に顕現せる実有である。吾等は真理の示教よりも真理の体現者を要求するのだ。吾等は肉として体現せる神の「言葉」を見なければならない。

2021-03-16 12:01:22 | 日記
吾等は真理を真理として学ぶのではなく、
真理を体現せねばならない。
神の「言葉」を実現させるべきなのだ。
(心と運命 谷口雅春)
【神は「霊」即ち「生命」である。そして吾等は神の中に棲み、動き、その存在を維持しているのである。そして吾れ等は神と自己とが一体であると云う事実を悟らねばならない。が、涅槃なる寂滅のうちに自己の個性を滅却し去ってはならない。吾等は吾等自身よりも少なきものとなってはならない。吾等は吾等自身より多きものとならねばならない。これこそ吾等の念願である。吾等は宇宙霊の意識的中心、焦点的なる顕現である。吾等は現象界に顕現せる実有である。とは云うものの実有と顕現とは本来一体なのである。それ故現代の最も要求するところのものは単なる神の言葉ではなく神の使者である。言葉をして使者とならしめよだ。吾等は真理の示教よりも真理の体現者を要求するのだ。吾等は肉として体現せる言葉を見なければならない。】