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人間は‟神の子”であるから 一回一回の与えられた人生において その人だけの独自個性を持って この世に誕生してきている。 “神の子”の観念を生来もっているので 永久に個別体として存続を続けるのである。

2021-03-10 12:28:27 | 日記
今日のご文章で特筆すべきは
吾々人間一人一人は、
この与えられた生において
その人だけが持つ個としての独自能力をもっているはずなので、
そのことが
魂の永久存続と深く関わってくると、
書かれていることである。つまり、
「「他」と区別して「自己」を認めんとする「観念」が吾等の心のうちに永遠に本能的に把持されているならば、此の「観念」の力によって、吾等は宇宙の内に、何らかの相に於いて永久に個別体として存続するに相違ないのである。」
と記されているのだ。
人間は‟神の子”であるから
一回一回の与えられた人生において
その人だけの独自個性を持って
この世に誕生してきている。
“神の子”の観念を生来もっているので
永久に個別体として存続を続けるのである。
(心と運命 谷口雅春)
【「生命」は創造の生々力の流動である。そしてそれに提示された一枚の「観念」を現実にしなければならぬ。生命はこれ等の「観念」の周囲に生命の原質を抛(な)げかけながら、その「観念」を吾等人類が把持している間じゅう、その「観念」通りに創造作用を続けるのである。然らば、「他」と区別して「自己」を認めんとする「観念」が吾等の心のうちに永遠に本能的に把持されているならば、此の「観念」の力によって、吾等は宇宙の内に、何らかの相に於いて永久に個別体として存続するに相違ないのである。吾等は不滅である。ギリシャの神、ローマの神といえども、吾々各人の心情のうちに動いている斯かる偉大な、生得の、光栄ある力より高くは聳えることは出来ないと思われる。吾等は自己のうちなる信念の力によって、何と云う光栄ある「不滅と永存」とを受け得べく掟てられていることだろう。如何なる悩みも、無智による制約も、落胆も、此の「自我の永存」の信仰の根を抜くことは出来ないのである。この原理をよく知れる大教主耶蘇はラザロの死についてその妹のマルタにこう云っているのである・・・「吾れ(自我)は復活なり生命なり、吾れを信ずるものは、死すとも活くべし、何人にてもあれ、吾れを食物とし、吾れを信ずるものは、永遠に生命を失わず」と。】



観るべし『田坂広志氏ユーチューブ動画』「すべては導かれている~逆境を越え人生を拓く覚悟」

2021-03-10 11:28:12 | 日記
多摩大学大学院教授の田坂広志先生の
「すべては導かれている~逆境を越え人生を拓く覚悟」
と題するユーチューブ動画を、
たまたま昨日観たのですが、
これを観たこと自体が
神の導きと感じました。
逆境というものが
実は人生を豊かにし、
その人を真の成功に導く鍵であることを
氏はご自身のつらかった逆境体験をもとにして、
深く神秘な真理を解いてくださっております。
私自身が人生の全部が逆境だったものですから、
強い感銘を受けつつ拝聴しました。
更にこの逆境というものは
実は天が与えた素晴らしいチャンスなのであり、
神がその人に最大の期待をこめているからこそ、
与えて頂けたのであるという、
その深い深い意味をとらえることができたところに、
自分が生長する最大の恩恵を受けるだけでなく、
自分独自の使命を自覚しその使命で人様のお役に立てるのであると、
教えてくれています。
このユーチューブ動画は
ユーチューブ動画の古典として末永く残ると
私は思いました。
多くの方々にご視聴をお勧め申し上げます。

現象は虹のような一瞬の映像・・・現象をつかまないこと

2021-03-10 11:25:07 | 日記
現象世界は「心が描く芸術」であります。
一瞬の幻のごときものであり、
過去とか未来とは本等は存在してないです。
永遠の‟今・ここ”があるだけです。
宮沢賢治の『めくらぶどうと虹』という童話の
虹みたいなものが現象というものです。
過去に絵筆で絵を描いたみたいに、
‟神の子”が心を使って描いたのが現在の現象というものです。
現象とはこういうものなので
どんな現象が現われていても
実相世界である‟神の心”が現象世界の本体なのだという真理を、
たった今からでも堅く把持してゆくならば、
何も恐れるに足らずであり、
今後神に属するものが
続出するに到るでしょう。
やはり「真理は汝を自由ならしめん」であります。

神は吾らの生存中も死後であっても、永遠に「生ける者」の神であるのです。

2021-03-10 10:45:42 | 日記
神は吾らの生存中も死後であっても、永遠に「生ける者」の神であるのです。
(心と運命 谷口雅春)
【吾等すべては「個別的自我の存続」を本能的に信じている。それ故に吾等すべては永遠に個性としての自由を有する自我として存続するに相違ないのである。それ故に所謂る死者の復活に関して耶蘇は云っているのである。「死にたる者の蘇ることに就きては、汝神が汝らにまで告げ給いし言葉を読まざるか。吾れはアブラハムの神、イサークの神なり、ヤコブの神なり、神は生ける者の神にして死せる者の神にはあらざるなりとあるを汝未だ読まざるか」と。真に然り、神にとっては全てのもの生々として活きているのである。そして「永存」の本能は吾々自身の霊魂の内に宿る「神」自身の本能なのである。】
「吾れはアブラハムの神、イサークの神なり、ヤコブの神なり、神は生ける者の神にして死せる者の神にはあらざるなり」と聖書マタイ伝22章-31節にイエスの言葉として記されているのは、
「復活」について云っているのです。
神は具体的に一人一人の神であります。
神は一人一人の人間の「神」なのだから、
生きているときも死後であっても一人一人の「神」であります。
つまり永遠に「神」は私の、そして全ての人の「神」であるのです。