今日のご文章で特筆すべきは
吾々人間一人一人は、
この与えられた生において
その人だけが持つ個としての独自能力をもっているはずなので、
そのことが
魂の永久存続と深く関わってくると、
書かれていることである。つまり、
「「他」と区別して「自己」を認めんとする「観念」が吾等の心のうちに永遠に本能的に把持されているならば、此の「観念」の力によって、吾等は宇宙の内に、何らかの相に於いて永久に個別体として存続するに相違ないのである。」
と記されているのだ。
人間は‟神の子”であるから
一回一回の与えられた人生において
その人だけの独自個性を持って
この世に誕生してきている。
“神の子”の観念を生来もっているので
永久に個別体として存続を続けるのである。
(心と運命 谷口雅春)
【「生命」は創造の生々力の流動である。そしてそれに提示された一枚の「観念」を現実にしなければならぬ。生命はこれ等の「観念」の周囲に生命の原質を抛(な)げかけながら、その「観念」を吾等人類が把持している間じゅう、その「観念」通りに創造作用を続けるのである。然らば、「他」と区別して「自己」を認めんとする「観念」が吾等の心のうちに永遠に本能的に把持されているならば、此の「観念」の力によって、吾等は宇宙の内に、何らかの相に於いて永久に個別体として存続するに相違ないのである。吾等は不滅である。ギリシャの神、ローマの神といえども、吾々各人の心情のうちに動いている斯かる偉大な、生得の、光栄ある力より高くは聳えることは出来ないと思われる。吾等は自己のうちなる信念の力によって、何と云う光栄ある「不滅と永存」とを受け得べく掟てられていることだろう。如何なる悩みも、無智による制約も、落胆も、此の「自我の永存」の信仰の根を抜くことは出来ないのである。この原理をよく知れる大教主耶蘇はラザロの死についてその妹のマルタにこう云っているのである・・・「吾れ(自我)は復活なり生命なり、吾れを信ずるものは、死すとも活くべし、何人にてもあれ、吾れを食物とし、吾れを信ずるものは、永遠に生命を失わず」と。】