ここでは信仰とは如何なるものであるかが、
明確に示されている。
信仰とは強烈な「信」であり、
それが奇蹟を起こすのである。
「即ち実在界にすでにある所の不可視の波を可視的世界に浮び上がらせて来るには、強烈なる信仰の波長によってそれを受信しなければならないのである。真に強烈なる波長だに起こせば如何なる場合にも如何なる時にも自己の欲する所を実現することができるのである。」
これが奇蹟の源であり、
信仰というものなのだ。
この現象の「今・ここ」に、
見えない「神の国」が厳然としてあるのだ。
要はその真実を信じられるか否かである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【イエスといえども、信仰なき村々に於いては、殆ど奇蹟を現わすことはできなかったのである。即ち実在界にすでにある所の不可視の波を可視的世界に浮び上がらせて来るには、強烈なる信仰の波長によってそれを受信しなければならないのである。真に強烈なる波長だに起こせば如何なる場合にも如何なる時にも自己の欲する所を実現することができるのである。かつてイエスの奇蹟をきいて強き信仰を起こした百卒の長が、イエス御自身をそのあばら屋に招じ来たるは畏れ多いとして、「ただ癒えよ」と命じたまえば必ず癒ゆべし」と信じ、イエスにこれを願った時、イエスはただ一語「癒えよ」といいたまえば、其の時間に百卒長の家族は癒えていたのであった。これは無論イエスがその霊力によって癒したのではないのである。イエスを信ずることあつき百卒長の信仰が、イエスの「癒えよ」といいたまいし言葉を契機として非常に昂まったからこそ癒えたのである。即ちクリスチャン・サイエンスの始祖エディ婦人が自分自身まだ病弱なる頃、目の見えざる一人の子供を伴い来たる婦人に対し神を信ずる様に話したのが契機となって即座にその子供の盲目が癒えた奇蹟もこれによって解釈することができるのである。即ちたといイエスといえども、目が癒えた奇蹟もこれによって解釈することができるのである。即ちたといイエスといえども、信仰なき村々にては奇蹟は起こらず、信仰によってのみ奇蹟が起ったのである。十数年間血漏(ながち)を患いし婦人がイエスの衣の総にだに触れれば癒ゆべしと信じて触れた時忽ち癒えた実例も、信仰とはかくの如き力を有するものだとの証(あかし)である。イエスはこのことを指摘してはっきりと「汝の信仰汝を癒やせり」と教えているのである。】