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新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳

2021-03-22 13:59:32 | 日記
新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳
1章 最初の弟子たち
39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

この現象の「今・ここ」に、見えない「神の国」が厳然としてあるのだ。要はその真実を信じられるか否かである。

2021-03-22 12:04:32 | 日記
ここでは信仰とは如何なるものであるかが、
明確に示されている。
信仰とは強烈な「信」であり、
それが奇蹟を起こすのである。
「即ち実在界にすでにある所の不可視の波を可視的世界に浮び上がらせて来るには、強烈なる信仰の波長によってそれを受信しなければならないのである。真に強烈なる波長だに起こせば如何なる場合にも如何なる時にも自己の欲する所を実現することができるのである。」
これが奇蹟の源であり、
信仰というものなのだ。
この現象の「今・ここ」に、
見えない「神の国」が厳然としてあるのだ。
要はその真実を信じられるか否かである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【イエスといえども、信仰なき村々に於いては、殆ど奇蹟を現わすことはできなかったのである。即ち実在界にすでにある所の不可視の波を可視的世界に浮び上がらせて来るには、強烈なる信仰の波長によってそれを受信しなければならないのである。真に強烈なる波長だに起こせば如何なる場合にも如何なる時にも自己の欲する所を実現することができるのである。かつてイエスの奇蹟をきいて強き信仰を起こした百卒の長が、イエス御自身をそのあばら屋に招じ来たるは畏れ多いとして、「ただ癒えよ」と命じたまえば必ず癒ゆべし」と信じ、イエスにこれを願った時、イエスはただ一語「癒えよ」といいたまえば、其の時間に百卒長の家族は癒えていたのであった。これは無論イエスがその霊力によって癒したのではないのである。イエスを信ずることあつき百卒長の信仰が、イエスの「癒えよ」といいたまいし言葉を契機として非常に昂まったからこそ癒えたのである。即ちクリスチャン・サイエンスの始祖エディ婦人が自分自身まだ病弱なる頃、目の見えざる一人の子供を伴い来たる婦人に対し神を信ずる様に話したのが契機となって即座にその子供の盲目が癒えた奇蹟もこれによって解釈することができるのである。即ちたといイエスといえども、目が癒えた奇蹟もこれによって解釈することができるのである。即ちたといイエスといえども、信仰なき村々にては奇蹟は起こらず、信仰によってのみ奇蹟が起ったのである。十数年間血漏(ながち)を患いし婦人がイエスの衣の総にだに触れれば癒ゆべしと信じて触れた時忽ち癒えた実例も、信仰とはかくの如き力を有するものだとの証(あかし)である。イエスはこのことを指摘してはっきりと「汝の信仰汝を癒やせり」と教えているのである。】

ラザロ復活の奇蹟には、真理の裏付けがあった。イエスは現象の心の波長が実相の心に既に到達していたのだった。

2021-03-22 11:35:20 | 日記
イエスの祈りによるラザロ復活の奇蹟は、
吾々には普通信じ難いのではあるが、
真理の眼からみて、
「現象ナシで実相あるのみ」を考えると、
既に放送されている実相という神の放送の波長に
イエスが心を完全に合わせた結果、
起った出来事であるとわかる。
人間は“神の子”であり、
“神の国”に現に今存在しており、
それこそが本当の自分が現に実在している真実の世界だ、
という真理である。
吾々の心が“神の子”の心になると、
その通りになるということである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【一切の存在は時間空間を超越せる実在世界にすでに存在するのであるが、それを所要の時間空間面に出現せしめるのは心のラジオ的波動によるのである。これを祈りというのである。イエスはまことにこの受信セット的心の波を如何に起こすべきかによく通達していたのであって、その為に彼は多くの奇蹟をなし得たのである。彼は「汝ら祈る時それをすでに受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを受くべし」と教えたが、実際イエス自身もそのように実行していたのである。彼はまず神に対して「汝は常に吾が願いをきき給うを知る」といって神に感謝しているのである。既に受くるに先立って受けたる如く感謝する所に、すでに受けたと同じ波長が起るのであって、その波長に従って実在世界にある所の人間不滅の姿が、祈りによって指示した時間空間面に、現れて来てラザロがたちまち復活したのであった。】