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奇蹟は必ずしもイエスによって起こされず、イエスを信ずるものによって起こされたのである。

2021-03-23 14:06:33 | 日記
イエスが奇蹟を起こしたのではない。イエスを信ずるものが「信ずること」によって、起こしたのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【凡そイエスの時代にも、イエスの衣にふれても癒されなかった多くの人達があるに相違ないのである。奇蹟は必ずしもイエスによって起こされず、イエスを信ずるものによって起こされたのである。多くの信仰うすきものがイエスによって癒されなかった失敗談は、一々聖書には記載されていないけれども、イエスの十二弟子が伝道に行って病者を癒やすのに失敗した記事はかかれているのである。その時イエスは弟子に対して「あの病いは重態であったから仕方がない」などとは云っていないのである。そして「汝ら信仰うすきものよ」と戒めているのである。ここに彼が如何に信仰をば奇蹟の源泉としているかが明らかである。仮りにここに「奇蹟」という言葉を使ったが、それは現代の自然科学では尚はっきりその機構が説明できない所の「祈りの実現」という意味に解すれば好いのである。】
 
 

イエスは“汝の信ずる如く汝に成る”ということを教えたのだった。

2021-03-23 13:56:41 | 日記
イエスは“汝の信ずる如く汝に成る”ということを教えたのだった。
イエスが教えたこのことは、
「信」があれば
その「信」のごとく願いが叶う、
ということである。
このことは実相というものは
創造の神が完全世界のみを造り給うたという「実相世界」への、
強い「信」があって実現することを意味する。
それであるから吾々に大事なことは、
「神の国」への「信」と「観」である。
神への信仰が奇蹟を生むのである。
ただ「信」じただ「観」じるのみである。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳)日本教文社
【イエスは百卒の長(おさ)に向って「汝の信ずる如く汝に成れ」といい給うたのであった。そして盲の人に対しては「汝、このことを私が成し得ると信ずるや」と問いを発して尋ねられている。またイエスは自分の言葉の力によって無花果(いちじく)の樹を枯らした後、次のように言い給うたのであった。「汝ら祈りて何事にても求むるとき、それを受けたりと信ぜよ。汝はそれを得ん」(『マタイ伝』第8章13節、第9章28節、第21章22節】
参考マタイ伝
8-13それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
 
9-28そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。
 
21-22それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。