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新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳

2021-03-21 11:48:35 | 日記
新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳
1章 最初の弟子たち
38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが「ラビ・・・『先生』という意味・・・どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。

神は吾々の周囲をとりまき、一切のものの中に存在まします所の真実在であるから、人間が心の波を起こした通りに其の波の姿を実現させてくれる所の力であるのである。

2021-03-21 10:41:33 | 日記
「神は人間が心の波を起こした通りに其の波の姿を実現させてくれる所の力である。」
と下記に記されているが、
この真理は過去の自分を顧みて恐ろしいまでに真実だと感じるようになった。
でも逆にいえば、
人間は“神の子”であるとさとれば、
神の国に相応わしい善きものが続々と流れ入るのであって、
本当に素晴らしい状態が続出するようになるのである。
(参考 祈りの科学 谷口雅春)
【祈りが叶えられるためには、世界のありとしあらゆるものは人間に於いて最高に自己実現している所の神が、自己自身の創造を享受せんが為に人間が喜びうけてそれを楽しまんがために造られたものであるということを知らなければならないのである。この事は法華経の如来壽量品の自我偈に「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり。宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓を打ち諸々の伎楽を奏す・・・」云々とあるのを見ても明らかであり、旧約聖書の「創世記」にアダムとイヴとがおかれたるエデンの楽園の世界を見ても明らかであるのである。神は宇宙に充満せるラジオの波の如き存在であって吾々が波長を起こした通りのものを感受してこの世界に実現するのであるから、もし吾々が神を以って、与えることを惜しむ所の存在であると信ずるならば、即ち「豊かには与えられないのである」という信念の波を自分に起こせば、その心の波が具象化して、自分に於ける供給状態は貧しく現われてくるのである。だから吾々はまず神が無限の智慧であり愛であり生命であり、無限の供給であって何を求めてももしこちらが波長を合わしさえすればそれは直ちに与えられるものであるということを知らなければならないのである。即ち神は吾々の周囲をとりまき、一切のものの中に存在まします所の真実在であるから、人間が心の波を起こした通りに其の波の姿を実現させてくれる所の力であるということを知らねばならないのである。】
 
 
 

本来神の世たる現象世界には「人間の生き方」(実相)というものが、本体として厳然と「実在」しているのである。そこに心の波長を合わせるのが“信仰”であるのだ。

2021-03-21 10:20:06 | 日記
神のみ心の成る世界は手の届くところにある(at hand)という意味が、今日のご文章でとてもよく理解できた。要するに、祈りによって実相の波長に、現象の心を高め上げて合わせればよいということであった。このことがわかるまでに、私には時間が必要であったのだ。
(祈りの科学 谷口雅春)
【「頼まないでも与えられているおかげ」は「聴取を申し込まないでも放送されているラジオ放送」の様なものであるのである。それは既に放送されているのである。しかしそれを具体的に現象世界に於いて受けとる事ができるのとできないのとは、吾々がラジオ・セットをそなえて放送に対して波長を合わせると否とにあるのである。神が宇宙を創造したのは前述の通り「心の波」によってであるから吾々が神の創造に対して波長を合わし、それを見えざる波動の世界から現実の世界に浮び上らせて来る力も、「心の波長」でなければならないのである。即ち目に見えざる放送の波を現実に受け取る為のラジオ・セットは、吾々各々の「心」であり、吾々は心の波長を神の創造の波長に合わせることによってそれを現実化することができるのである。すでに吾々になくてならぬものは実在界に於いて創造済みなのである。この事が即ち「み心の天に成る世界」の意義である。それを「地の世界」即ち現実界に持ち来たすには、「祈り」即ち「心の波長」を起こす事が必要なのである。即ち「祈り」とは実在界にすでに存在する所の事物を求めるに従って現実界に浮び上らせるための「心の波動」を起こす事になるのである。信仰はその心の波動の起こし方の強いものをいうのである。】