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全托の神想観に必要な三つのこと

2020-08-23 22:23:03 | 日記
今日投稿した三つのブログから
神への全托に必要な三つのことは
①真理(実相)を観じてそれと一体化すること・・・内なる神の許に往き、神の子(実相)であることを「神の子円満完全」「実相円満完全」と念じつつ、神に委ねます。
②一切の我を捨てること(絶対他力の無条件無我全托)・・・完全に無防御(構えがとれたら)になれたら成功です。
③結果については神のみ心(実相)に委ね切ることであります。・・・結果を期待する心を捨てるのです。

①ベイルズは自分と実相とが一体であるという観Realizationを行った。真理との一体化である。・・・(全托のやり方その1)
②ナアマンのように一切のプライドを捨て(一切の我を捨て)赤子のように素直になれるか否かである。・・・(全托のやり方その2)
③誰かが、瀕死のこの赤ちゃんを謂わば人身御供として祭壇の上にお供えして神様のみ心に委ねたらと言った。・・・(全托のやり方その3)





誰かが、瀕死のこの赤ちゃんを謂わば人身御供として祭壇の上にお供えして神様のみ心に委ねたらと言った。・・・(全托のやり方その3)

2020-08-23 10:49:08 | 日記
私は今日の引用文を見て、
少しも人間的執着なく完全に執着の把みを放って神委せの解脱心境になるこのやり方が、
本当の全托と理解した。
善なる愛なる神のみ心に
結果を考えず、
お任せするのが全托である。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春著)
【この赤ちゃんは科学的見地からは妊娠しない筈の両親が真に奇蹟的に妊娠して生まれたところの謂わば神からの授かりものであったから、親のルーイズ・エグレストンさん始め、教会の牧師たちは皆、神が癒し給うにちがいないと感じていた。皆の者はこの幼い女の子が、癒されるために絶えず祈りつづけた。到頭、これ以上この幼児は生きることは不可能だと見える状態にまでなったとき、誰かが、あのアブラハムがイサークを悦んで神に献げたと同じように、この赤ちゃんを謂わば人身御供として祭壇の上にお供えして神様に差し上げてしまったらと言った。若いこの子の両親はこの子を生かして置きたくて仕方がないものであるから、その子を神さまに差し上げてしまうということは真に神に対する全托の信仰を必要とするのであった。それは神に無条件降伏して夫婦の全ての希望と願いとを神にゆだねるという象徴的行事であった。それゆえにこの象徴的行事はこの教会に集まっている信者にとっては非常に意義ある行為であったのである。それで彼らは実際にこの瀕死の赤ちゃんを祭壇に奉安した。そして、彼女の父なる神の御心におまかせして、皆寄って「御心の如くならしめ給え」と祈ったのであった。奇蹟がその時起ったのだ。その瞬間からこの赤ちゃんは健康を快復し始めたのであった。エグレストン夫人の報告によると、彼女がリッチモンドからウエスト・コーストに来る直前、彼女は当時の赤ちゃんだった此の娘の顔を見て別れを告げて来たのであったが、今や彼女は健康で活発な、どこから見ても完全な9歳の少女になっているのだということであった。】





ナアマンのように一切のプライドを捨て(一切の我を捨て)赤子のように素直になれるか否かである。・・・(全托のやり方その2)

2020-08-23 10:08:48 | 日記
今日の引用文では
聖書から例をとり、
ナアマンがヨルダン河に全托の沐浴をして
癩病から神癒したということについて
書かれている
「それは、実相界の大生命の流れの中に完全に全心身を浸して融合することだったのである」
という部分については
祈りの中で「実相に全心身を委ねること」と
置き換えることができる。
ヨルダン川を実相の海と
考えるのである。
「神の子円満完全」「実相円満完全」と念じつつ、
自分の本体“神の子”を実相の海(神)に全托する。
「神にすべてをあずけてしまう」ことが全托である。
ただナアマンの全托の話に隠れている教訓は、
“我の慢心”をどこまで落とせるか否かが、
ポイントなのである。
一切のプライドを捨て(一切の我を捨て)赤子のように素直になれるか否かである。
【明らかに、ナアマンは、今までこの預言者の言葉をそのようには考えていなかったのだった。彼は周囲を見廻して、プライドを脱ぎ捨てて、自分の体をヨルダン河に七度浸して沐浴した。すると聖書の報ずるところによると、「その肉もとにかえり、嬰児(おさなご)の肉の如くになりて清くなりぬ」とある。ナアマンはエリシャの許に戻って来て、その癒されて清くなった体を見せたのであった。神癒を受けるには忍耐と宗教行事を忠実に励行することが必要なのである。ナアマンは預言者の示した修行~七たびヨルダン河に身を浸して体を洗え~を忠実に実行した。それは、実相界の大生命の流れの中に完全に全心身を浸して融合することだったのである。かくして彼は浄められたのであった。ここに大なる教訓があるのである。自己の、しっかり握っているプライドを棄て、両股(ふたまた)信仰の偽善を棄て、完全に実相大生命の大河に身を浸すために、私心を去り、悦んで教えのままに、無我随順に奉行する者が我々のうちに、どれほどの人数あるだろうか?】


ベイルズは自分と実相とが一体であるという観Realizationを行った。真理との一体化である。・・・(全托のやり方その1)

2020-08-23 09:33:56 | 日記
糖尿病であったベイルズは
“科学的祈り”(神想観)において
自分を“実相”に
全托したのであった。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
<ベイルズは自分と実相とが一体であるという観Realizationを行った。真理との一体化である。>
【『わたしは瞑想のうちに、自分の想念の最後の一筋の糸までもことごとく、わが全身のすべての細胞を貫いてわたしの全身を生かしてい給う神の“透徹せる健全の想念”の中に投げ入れたのである。
『わたしはわが内に神の構図の美しさを観るのである。言語を絶するその調和を観るのである。どんな障碍からも完全に自由なる実相を観るのである。神が瞑想によってこの世界を創造し給いし時、“すべて善し”と宣いしその息吹をわたしは今観ずるのである。心静かに、今、わたしは、天地を創造し給いし、“無限者の心”の奥殿にまします中核体の中に自分自身を投げ入れてそれと融合し、その“無限者の心”はわたしの心となりわが全身を貫流しつつあることを如実に知って、揺るがざる金剛の平和を獲得したのである。
 このような言葉を心の中で唱えながら、無限者なる神の力を繰り返し念じつづけ、その神の力の貫流せるわが身の聖なる完全さを心に繰り返して念じ、最後に“既に、神癒は完了せり”と宣言して、この神癒を授け給うた神に感謝してそう祈ったのであった。そしてこの祈りの最後の結語は『既にあるが如くみこころのままに』という慣用句であった。
 その後、診療所の研究室からのリポートによると、“糖”の排出はゼロであった。】