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本当に「内」を神の国と思わないとダメです。

2020-08-24 15:06:37 | 日記
神想観で大事なことは、
イエスが説いた「内なる神の許に往く」ことです。
つまり祈りの姿勢をとり目をつむったら
そこはもう神の国であり、
神さまがそこにいるのです。
ということは目をつむらなくたって
ここは見えない神の国であるのです。
「我れ今五官の世界をさって実相の世界に入る」と言うくせに、
ここが神の国と思っていないのは、
マンネリでやっているからなのです。
だから目をつむったらここは神の国と
本気で思うことです。
そしてその神の国に自分の本体“神の子”“実相”がいます。
もともといます。
「神の言」は初めから存在し、「神の言」の肉化である「神の子」もいます。
その自分の本体である“神の子”を「神の子円満完全」と念じて存在を認めうけいれます。
何故神の許に”神の子”がいるのかの理由はヨハネ伝の
「初めに言あり。言は神とともにあり。言は神なりき。」
「言肉となりて我等のうちに宿り給えり」
が根拠です。「甘露の法雨」も一所です。
だから吾等人間の本体“神の子”は“神”の許にいるのです。
だから目をつむればそこは神の国であり、
“神の子”はそこにいます。
だから「神の子円満完全」「実相円満完全」と観じるのは、
実際にそうであるからです。
神さまに対して観じるのです。
本当にそうだと思えば現象に神が顕われます。

“我の慢心”を落とし切れれば“神の子”即ち本当の神さまの子ども(神)になり、因縁因果を超えられると教えてくれた小山伊松先生。

2020-08-24 13:59:42 | 日記
用賀先心道場を建設され世田谷区の光明化運動の中心であられた、
世田谷区用賀の小山伊松講師は
世田谷を代表する用賀の地方講師でした。
東京を代表する霊的中心者でもありました。
いつでも依頼があれば
出かけて診察することを町医者としてのご自身の生活信条とし、
医師として信仰者としての生活に命をかけておられましたので、
行動なさることすべてに迫力がありました。
偉ぶるところは全くない方で
静かな影響力は抜群でした。
「私は谷口先生と心中するつもりで信仰に生きた」
とおっしゃっていたのを覚えています。
小山先生は口数多い方ではなかったですが、
なさることすべてが神に導かれていたので、
先生の姿、生き様そのものが、
まさに伝道でありました。
うしろ姿の伝道者です。
小山先生に私が病気になり切羽詰まった時に、
小山先生をご自宅の前に見つけて
やっかいな病気になってしまったことを告げ、
これは治るでしょうか、と質問をしました。
そうしたら、
「それはどこまで“我”を落とせるかどうか、です」
とお答えになったのです。
たった5分間のご指導でした。
でも今考えてみると、
小山先生のお答えは正解でありました。
どこまで“我の慢心”を落として
神の心に立て替えることができるかが
“神の子”になれるかどうかの分岐点であるからです。
また小山先生はある幹部の男性信者が病気の苦痛を訴えた時、
「○○さん、それは因縁を超越してしまえばいいのですよ」
とお答えになりました。
要するに実相超入で
心配の無い生活に入れますよ、
というお答えでありました。
実相を顕わした方だから言える
一言の解答でした。
神さまになってしまえば
病気や不幸などないのですから・・・。
この小山先生のご指導内容からわかることは、
唯神実相哲学の目的は、
人間が実際に“神”に成ることなのであります。
ただ真理をしらない普通の患者さんには、
「お医者さんを神さまと思って病気を治しなさい」
とご指導なさっていて、
神に導かれた医学指導をなさっていました。
生長の家のみ教えの目的は
実際に人間が“神の子”つまり神になることなのであり、
これを外したら一切の人生苦を救うという目的は
不可能です。
小山伊松先生は
実際に“神の子”を顕わされ、
神に成られた数少ない地方講師でした。


“実相は既に完全である”という真理の悟りによる癒しがその“観”の反映として“生命の世界”にも“物象の世界”にも起っているのである。

2020-08-24 10:17:25 | 日記
プラトンの思想は
“実相”(ロゴス)の哲学と同一であると、
アディントンは書いている。
一番大事なことは
“実相は既に完全である”
という大真理である。
従って現象世界も円満完全のイデアだ。
この悟りが
クリスチャン・サイエンスや唯神実相哲学の
根幹真理なのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
【本書の全巻を通じて、あなたは“完全”という語を見出されるであろう。そして人々は言うであろう。「罪と病と、あらゆる状態の苦痛に満たされている人生に於いて、完き生活などということが、果たしてあり得るであろうか」と。わたしたち人間の考えでは“完全”とか“完き”とかいう語を相対的な意味に考えるのである。しかし今、私はこの語を、あらゆる生命の奥にあるところの究極的な“完全なる実相”を意味して用いているのである。プラトンはこれを称して“神聖原理”(Divine prototype)と称している。わたしはここで、もう一度、イエスの「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」という言葉を繰り返したいのである。これこそがイエスをして即座の奇蹟的神癒を可能ならしめたところの“実相は既に完全である”という真理の悟りであるのである。“実相の完全さ”を一瞥しただけでさえも、男も女も何らかの形に於ける癒しが、その“観”の反映として“生命の世界”にも“物象の世界”にも起っているのである。】

神想観は霊の流れを妨げるところの倨傲な自我の心を空じ去ることで効果を得るのであり、“我の慢心”が無にならないと神の力が流入しないのである。

2020-08-24 09:47:14 | 日記
ここで説かれている内容は
「神想観とは何であるか?」
と置き換えることができる。
心霊治療とは、
宇宙普遍の神の力が解放されて
神のもちたまう最善の方法を表現して方法である。
それは神の神聖なる霊の流れを妨げるところの倨傲な自我の心を空じ去ることによって為されるのであり、
“我の慢心”を除かれないと、
神の力が流入を得ないのである。
実はこの“我の慢心”を除くことが一番難しいのである。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
【心霊治療とは一体どんなことを謂うのであるか? 心霊治療とは科学的な祈りによる治療である。それは、人間の想念が、その必要事又は当面する問題を掴むことを放して、神の方に振向き、神の“み心”と直接に真っすぐに繋がることによって、神のもちたまう最善の方法を表現して頂くための人それぞれの想念の過程であるのである。心霊治療に用いられる祈りは、それが自分自身のために行われるにせよ、他(ひと)のために行われるにせよ、宇宙普遍の神の力が解放されて生ずる神聖完全なるハタラキが、祈る人の心を通じてあらわれ得るように、自分の心を潔めてそれを明澄にすることである。それは神の神聖なる霊の流れを妨げるところの倨傲な自我の心を空じ去ることによって得られるのである。】