この現象の世が心の“影”であり真実にあるものではなく、
本当にあるものは見えない“神の国”(いのち世界)なのだから、
まさに「神の国は今此処にある」のである。
でも“神の国”を手中にするには、
自分が人間じゃなく“神の子”なのだと分からねばならない。
人は“超”的存在であり
現象世界も「神の国」という“超”的存在だ。
しかもその父なる神たるや
自己の「内」自体なのである。
「内」が神であり、
人間の本体も「内」にいる。
「内」を神と信じ
その神が絶対存在だからこそ
“神の子”も完全存在なのだ、と信じる。
これこそが「信」である。
(奇蹟の時は今 アディントン著 谷口雅春訳)
【イエスは「神の国は今此処にある」と教えられたのであった。今此処にある(is at hand)と説かれたのであった。また「われは“道”である、“真理”である、“生命”である」と現在形の語でいわれたのであって「あるであろう(will be)」というような言葉は使われなかったのである。
神癒が生ずるあらゆる場合に於いて、心の内に“神の完全さ”が今此処にあると、その実相の完全さを直視して、それをそのままに承認し給うたのであった。そして“心”に承認せられたものが即座に実現したのであった。そして癩は即座に潔められて癒え、盲者は即座に眼ひらきて見え、而して即座に発熱は彼女から逃げ去りて癒え、また久しく病の床にありし者は、即座に起きて寝床をとりかたづけて群衆の前に姿をあらわし、さらに、跛者の娘は直ちに起ちて歩み出し、生まれつき視力なき者は即座に視力を与えられた。またある男は即座に健康を回復した・・・等々。あなたはこのような神癒が即座に起ることがあることを疑問に思ったことがありましたか?】
【われわれ大多数の人間にとっては、イエスが常にもち給いしほどの信仰を築きあげるためには、徐々に信仰を深め行く“時間”が必要なのである。】