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2020年8月勉強会資料

2020-08-23 09:04:25 | 日記
「磨く」という行為の中に、仏となり、鏡となる本質が秘められている
2020/8/9

吾等は吾等の肉体を、境遇を、吾々自身を、「宇宙霊」なる本質の「顕現」として自覚するのである。これこそ「宇宙の本体」とその「顕現」との聖婚である。2020/8/10


真理探究と間断なき祈りという修行によって、実相の呼び水を行う。
2020/8/11

『神の国は汝の内にあり』とはどういう意味であるのか、また仏教はどのように説くのか『翳眼に空華を見る』。2020/8/12

“生きることの喜び”“生きることの素晴らしさ”は“神の子実相”の自己表現のよろこびの中にあるのだ。2020/8/13
藤原敏之先生は「此の世の正体は『神の命と心』である」と説いています。現象世界は心の影にすぎない。その影(現象)の正体(実在)が『神の命と心』なのです。2020/8/13
吾等はここにイエスが教えたまいし「運命を招ぶ法則」に着目する―パンを予期する者にはパンが与えられ魚を求める者には魚が与えられるのである。
2020/8/7

人間は神の自己実現なのであり、“神の子”つまり“神”である。万教の帰一するところはこの真理であるから、この真理が世に伝わって行くことのみが大事なのである。
2020/8/16

放蕩息子の帰還  2020/8/15


「磨く」という行為の中に、仏となり、鏡となる本質が秘められている
2020/8/9
人はもともと“神の子”であるが、
修行しなければ“神の子”(実相)は現われない。
このことに気づき
真理を学び神想観にいそしまねばならないのである。

(正法眼蔵を読む 古鏡の巻 谷口清超)
<人は泥団にあらず>
 そこで鏡を磨いて、古鏡をあらわすのである。このようにして「鏡を磨く」ところの修行をするが、もともと鏡は汚れてはいないのである。塼(かわら)にちりがあるのではない。塼(かわら)と見えていても、本当は鏡だ。そこで塼をただ磨く。するとそこに鏡となるという功徳が現成する。これが即ち仏祖の修行である。塼を磨いてもし鏡にならないならば、鏡を磨いても鏡にはならない。それは同じことだから、誰が知っているだろう、「磨く」という行為の中に、仏となり、鏡となる本質が秘められているということを。いくら磨いても鏡になるものでないただの瓦なら、誰も磨きはしない。磨くという以上、もはやそこには鏡なるものが現れている、それが作仏であり作鏡である。

吾等は吾等の肉体を、境遇を、吾々自身を、「宇宙霊」なる本質の「顕現」として自覚するのである。これこそ「宇宙の本体」とその「顕現」との聖婚である。
2020/8/10
この「心と運命」という本が
谷口雅春先生の実相のお悟りに直接つながった處の、
重大なご本であったと、
録されている。
何と雅春先生は「我を救える此の書~『心と運命』に序して」
と本書の一番初めにお書きになっているのである。
生命の実相が現象化することの原理を
以下の引用文は説明している。
さればこそ
「宇宙霊」それ自体の現象顕現が大事なのだ。
迷い心を取り除いたストレートな「本来の面目」、
即ち“神の子”(実相)を
現成させよう。
「実相」が自分自身の本体であると、
自覚すること、これが、
「宇宙の本体」とその「顕現」との聖婚である。
(心と運命 ホルムス・谷口雅春)
【吾が霊的治療に際して為されるところは、「宇宙霊」を斯くの如く認めることを以って全てとする。吾等は吾等の肉体を、境遇を、吾々自身を、「宇宙霊」なる本質の「顕現」として自覚するのである。これこそ「宇宙の本体」とその「顕現」との聖婚である。吾等が如何なる精神治療の方法に従おうとも、此の「聖婚」こそ霊的自己の自覚に到達するに重要なる事項と云うべきである。自分の経験では此の方法を行わしめた患者の場合には治療の成績が極めて良好であったのである。併し自分は痛んだり腫脹(しゅちょう)したりした患部は手で触れることは差し控えるが好いと思う。そして斯かる場合には、「宇宙霊」が患部に於いて活動しつつあること、即ち宇宙に満つる完全なる生命が、宇宙霊それ自体の至上の完全なる模型に従って患部を改造しつつあることを黙念するが好いと思う。】

真理探究と間断なき祈りという修行によって、実相の呼び水を行う。
2020/8/11
実相はもともとあるのだから
修行は必要ないという考え方がある。
しかし修行が必要な理由は
現象の心を高め
心の波長を実相の心に近づけるためなのだ。
そして井戸で呼び水を行う如く、
信と言葉と観にて
実相を鳴り響かせるためなのである。
これが真理の勉強と
間断なき祈りが必要な理由である。


(正法眼蔵を読む 古鏡の巻 谷口清超)
<人は泥団にあらず>(その2)
 さらに又こう疑うかも知れない。古鏡を磨いて行くと、あやまって磨いて塼(瓦)にしてしまうことはないであろうかと。そんな馬鹿なことを今ここで考えてもはじまらない。「磨く」という行為を、それ以外の時に考えても、真実が分るものではないのである。だが、南岳の言葉は、まさに真理をついた説法であるから、この問答それ自体が「磨塼作鏡」の一部なのである。これが分るのは、そしてこれによって馬祖が悟りをうるのは、そこに塼ならざるもの、仏性があるからである。


『神の国は汝の内にあり』とはどういう意味であるのか、また仏教はどのように説くのか『翳眼に空華を見る』。
2020/8/12
【キリストは『神の国は汝の内にあり』と云い給えり。】
という聖経『甘露の法雨』の言葉の意味を考察したい。
イエス・キリストは
「神の国は汝らの内にあり」と説教した。
【ルカ伝17:20神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。】
「神の国」が「内」にあるとはどういう意味なのか。
イエスは祈り方について、
「内なる神の許に往く」ようにと教えた。
「内」なる”神”の所に“神の子”もいるし、
“神の国”も存在している。
人間の内になぜ“神の国”が存在しているのかはヨハネ伝が説く。
【ヨハネ伝の1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 
1:2この言は初めに神と共にあった。 
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 
1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。】
を見ればわかる。人間が「神の言」(ロゴス)それ自体である。
さらにこの真理と自己の心が一体化し
自分が真理そのものとなれば実相が実現する理由は
【1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。】
という聖句にある。
以上の説明は信仰に深く入り込んだ説明であるので、
善であり愛である神の存在を信じることが大前提となる。
神の存在を信じることが先ず最初の関門だ。

このキリスト教が説く真理を
実は仏教も似たように説いているのだ。

(正法眼蔵を読む 空華の巻 谷口清超著)
<翳眼空華>(えいがんくうか)
 【こういう輩は実にあわれむべき存在であって、釈尊の説き給う「空華」のことは何一つ判ってはいないのだ。諸仏の説かれる「翳眼に空華が見える」という道理は、到底凡夫や外道には判らない。つまりそれは肉眼をこえた世界に「空華」があるということだ。諸仏如来は、この「空華」を修得して、如来の説法の資格(衣座室)を得る。又空華を修行して得道し、その果実を得るのである。釈尊が拈華し瞬目される。これみな翳眼にて空華を現成するという公案である。正法眼蔵涅槃妙心(真理そのもの)を今にいたるも正伝し断絶しないのを「翳眼空華」という。菩提涅槃・法身自性などは、空華が開いて、五葉三葉と伸びている様子である。】

神の国はこの現象世界と別の次元において存在している。
どうしても現象とくっつけて考えたいのが人間智慧だが
何しろ“神”の国、見えない“いのち”の世界だから
時間空間上にはないのである。
だが現象は“神の国”の物質的表現であるから、
心が“神の子”の心に高まった時に
表現の母体である霊と一体になり、
表現される一コマ一コマが“神の国”の直接投影となるのである。

“生きることの喜び”“生きることの素晴らしさ”は“神の子実相”の自己表現のよろこびの中にあるのだ。
2020/8/13
吾等は人間の真の生きる喜びを
知る必要がある。
幸福とは何か。
自己を出口としての“神”の自己表現をすることにあるのだ。
生き甲斐はそこから感じられる。
表現は表現でも
実相(神)の表現に
幸福を感じるのである。
つまりそのことは
吾等が現象の心を“神の子”の心に立て替えて
“生命の実相”(神のいのち)の表現口に
なる必要があるということである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【それ故に、「幸福」は自己表現のよろこび及び創造せんとする活動の中から生れ出るのである。諸君がいま「幸福」でないならば、その因って来たる源を探し出すが好い。創造せんとする心的内容を考え始められよ。実現せんとする夢を心に出来るだけ描かれよ。そして心に描いた夢を形にあらわすべき機会を求めるがよいのである。ついには、諸君は、神が生命と愛と智慧とを、諸君のうちに形象(かたち)にまで実現しようと望んでいられることを知り得るだろう。神は諸君を出口として自己を表現しようとしていられるのであるから、諸君は出来るだけその出口を広く大きくしなければならないのである。創造せんとする本能は神においても人においても一体である。創造せんとする意匠、構図、理念等が欠乏せるように感じられる読者は次の如き言葉を思念することによって治癒せられるであろう。】

藤原敏之先生は「此の世の正体は『神の命と心』である」と説いています。現象世界は心の影にすぎない。その影(現象)の正体(実在)が『神の命と心』なのです。
2020/8/13
此の世に本当にあるものは「神の命と心」です。
此の世に本当にあるものは
「神の命と心」です。
だから現象世界で仕事したり、
家族で食事したりする時に、
現象的事物の代わりに
見えない「神の命と心」が
ここに本当にはあるんだと、
決めてしまえばよいのです。
「生命の実相」伝道者である所の藤原敏之先生はユーチューブ動画で
「無いものはない」と決めてしまわないと
実相は現われない、と仰っていますが、
現象は見えていても心の影だから
実在じゃないんだと、
スッパリ現象否定してしまわないと
実相が見えてこないです。
見えていても本当にはないと決め込む智慧と勇気が要ります。
藤原先生はこの世に本当にあるものは
見えない「神の命と心」だと断定しています。
実相世界について
キリスト教ヨハネ伝は「神の言」(ロゴス)だと書いていて、
道元禅師は「空華」(佛世界)だと言い、
唯識仏教は「真如」と説明してますが、
どの宗教も現象を超えたところに
実在の世界があると説きます。
現象を超えた所に
時間空間世界の大元なる実相世界「神の命と心」があるという点では
共通の真理を説いています。
超えたところにあったとしても、
現象はそれの表現体です。
だから現象世界は「神の命と心」なのです。
この真理は谷口雅春先生の「生命の実相」の根幹でありますから、
藤原先生はそれを伝えているにすぎません。
もっとも谷口雅春先生ご自身が
自分は真理のラッパと仰っています。

吾等はここにイエスが教えたまいし「運命を招ぶ法則」に着目する―パンを予期する者にはパンが与えられ魚を求める者には魚が与えられるのである。
2020/8/7
パンを予期する者にはパンが得られるのである。魚を求める者には魚が得られるのである。
心の法則は峻厳なる法則である。
しかしこの第二義的な法則の上に君臨する、
神の創造の法則(生命の実相の法則)こそが
神の真の法則なのだと
知らねばならない。
私自身が
数えきれないほどの考え方の錯誤の末に、
心の法則を超越できる神の法則を
知ったわけである。
天の父のたまものを得る方法を
神は教えてくださったのである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【吾等はここに耶蘇(イエス)が教えたまいし「運命を招ぶ法則」に着目する―パンを予期する者にはパンが得られるのである。魚を求める者には魚が得られるのである。更に、吾等がもし石を予期するならば石が得られるのである。天より、吾等のパンは、天に対して吾等がとりし態度に応じて与えられるのである。(社会組織に従って吾等のパンは人より与えらるるが如く見えるけれども、根本的には天より与えられるのである。天より与えられると思う者のパンは無尽蔵であるが、人より与えらるると思う者のパンは有限となるのである。これ思想と運命との相応ずる法則によるのである)それ故に吾等のなさねばならぬことは、吾等の心に孕むところの思想を深化し、拡大化し、よってもって吾等の受け得る力を増大することである。今より吾等はこの宇宙を信頼の念をもって眺めるのである―凡ての物に、すべての人に、そして神への全きを信頼の念をもって眺めるのである。】

人間は神の自己実現なのであり、“神の子”つまり“神”である。万教の帰一するところはこの真理であるから、この真理が世に伝わって行くことのみが大事なのである。
2020/8/16
人間が実は“神”であるという宗教的真理は、
キリスト以前の文明社会でも存在していた真理である。
人間の本質に関する真実であるから、
あるのが当然である。
これを釈迦がつき止めたしイエスが説いていた。
イエス以降キリスト教社会において脈々と伝わってきたこの実相独在の大真理を
19世紀後半において主として西洋において
探究するキリスト者が続出した。
これがいわゆるニュー・ソートと言われる宗教運動であって、
一時は米国中の本屋を席巻したと雅春先生は書いている。
この思想を日本に伝えたのが谷口雅春先生だ。
先生はこれに“生命の実相”“神の子”と名付けたが、
雅春先生が“実相独在思想”そしてまた“唯神実相哲学”の創始者ではない。
雅春先生は古くから脈々と伝わり、
もっぱら米国で流行していたクリスチャン・サイエンス理論を
日本に於いて日本の言語で紹介したに過ぎない。
しかしこの真理が万教に帰一すると言葉で明言したのは谷口先生であり、
真理自体が神の直接の関与であるから、
誰に神が天降っても、
その人は神の真理を説くことに必然成る。
比較宗教学においてこのことを突き止めた神学者は
トーマス・トロワードをはじめ多数いたのである。
だから万教帰一という考え方も雅春先生がはじめではない。
なぜ私が真理を人に帰してはいけないと強調するのかというと、
思想を人に帰すると真理で人を救えなくなるからである。
大事なのは真理自体であって、
人ではないのである。
真理自体が人を救うわけだし、
第一人間が“真理そのもの”であるのだから、
この思想を人に帰してしまうと、
真理の探究と獲得が第二義的になり、
真理を伝えた人の名のみが独り歩きするのである。
すべての人が釈迦でありイエスであり、谷口雅春先生の説いたところの
「真理それ自体」である。
神は見えない存在であり、“神の子”も見えない超越的存在だ。
その見えない、つかめない、しかもそれが“生きもの”であり向上的で「円満完全それ自体」である、つまり“神の子”であるとなってくると、
この“神の子”の把握というか捕捉(自己に一体化する)ことが至難な技であるので、
更なる実相探究をあきらめてしまい普通の人はしないのである。
でも「最後まで求め続ける者は救われる」のである。
人間は“神の子”“佛の子”であり、
すでに即身成仏しているのである。
「白隠禅師坐禅和讃」は云う。【當所即ち蓮華國(れんげこく)此身(このみ)即ち佛なり】と。
このことの自覚だけが問題となる。
 

 さらに聖経『続々甘露の法雨』は
【汝ら「人間・神の子」の自覚より
更に進んで「神の子・人間」の自覚に入るべし。】とある。
こうなって初めて“神の法則”は働き始める。
即ち因果を超える法則が動き出し、
実相に属するものが現成し始める。
繰り返し云うが、
見えなくてもここに実在し、
見えている現象的事物のまさにその場所において
実在している神を(神の国)を
直観できるべく、魂の向上をはかることが、
谷口雅春哲学を学ぶ者のつとめである。

放蕩息子の帰還
2020/8/15
自分の「内」に父なる神が居るというのに、
その父を忘れ、
自分の人間力のみで生活できるという我の慢心を乱発して
生きてきた。
挙句の果て、
健康に行き詰まり、
その他いろいろと挫折を繰り返し、
やっと神が本当の父だと気がついた。
神想観の中で
父なる神に対して
「私は子でございます。神様の子供でございます」と
はっきり申し述べて、
本来そうであった神様の子供に
戻してもらわないといけない。
はっきりと
父なる神の子どもだとっ主張し、
認めてもらわないといけない。
そして観の中で
“神の子”を頂いておりまして
ありがとうございました」と感謝の言葉を述べ、
既に実相を頂き済みであることを
感謝せねばならない。
そして「もう“神の子”を頂いている」という気持ちが起こるまで、
何度も間断なき祈りを
継続しなければならない。

神は我を赦したまいて其の無限の愛もて我を抱き我を包みたまう。我は既に癒されてあり。