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「神は一切であり、渾てである」・・・これは「聖癒」の根本となる哲学である。

2020-08-29 11:24:49 | 日記
「神は一切であり、渾てである」・・・これは「聖癒」の根本となる哲学である。
ここに来て始めて
神癒が成立するのである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【「神は一切であり、渾てである」・・・これは「聖癒」の根本となる哲学である。これは吾が哲学の「聖癒」を行うものの確信である。この真理が実現してはじめて健全は獲得されるのである。吾等は宇宙の究極的本質が物質ではなく霊であること、一時的なものではなく、恒久的なものであることを知らねばならない。本質の深い所には神がいますのである。
種子のうちに生命の胚子が存在し、樹液の中に生命の原理が存在しないならば、植物は決して発生しないであろう。それと等しく、この宇宙もその根底に永遠なる霊が活気凛凛として存在することによってのみ存在しているのである。使途パウロが言ったように、神は一切であり渾てであるが故に、すべてのものは神に従属しなければならぬのである。】
【神のほかに、一切所には何物も存在しない。そこには唯一つの世界があるだけである・・・・それは神の世界である。唯一つの実在する世界は神の心の内に、そして人の実相の内に存在する世界である。吾等は神が至上であるところの霊的宇宙に生活するのである。】


神は争いや飢饉や死や苦痛やを殊更に創造したのではない。彼は吾等に意志と選択との自由を与えて、吾々が何を想念しようとも全然吾々にまかせたのである。

2020-08-29 11:09:42 | 日記
想念の自由ということは
他の何にもまして
価値あるものである。
しかし想念の結果責任せについては
吾等神の子人間が背負うべきであるのだ。
その責任を持つべき理由は、
吾等は“神の子”という神であるということ及び、
彼は吾々に想念の自由を与えたという理由である。
彼は吾等に意志と選択との自由を与えて、
吾々が何を想念しようとも全然吾々にまかせたのである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【何故神は争いや飢饉や死などをこの世に顕現せしめているのか」と云う問がいつも発せられるのである。神は争いや飢饉や死や苦痛やを殊更に創造したのではないのである。彼はそれらと関わるところはないのである。彼は吾々に想念の自由を与えたのである。彼は吾等に意志と選択との自由を与えて、吾々が何を想念しようとも全然吾々にまかせたのである。もし吾等が制約あるものとして、自己及び世界を思考するならば、吾等は制約ある世界に生活せねばならぬが、これは「想念は現実化する」と云う法則の結果であることを知らねばならない。吾等の暁(さと)らねばならないことは世界には全人類の要求を完全に満足さすだけの供給があると云うことである。何故なら宇宙は無限であり、その供給は無限であるからである。この真理を吾吾が自覚しなくとも、それは神の過誤でも神の仕事でもないのである。もし吾々が苦痛や損害を自分の上に蒙ろうとも、吾等は神をそれ連塁者とすることは出来ない。】

神想観

2020-08-29 10:55:27 | 日記
①内なる神の許に往く。
眼をつむればそこに神様がいます。
神さまの許には自分の本体“神の子”がいます。いると決めます。何故そこに“神の子”がいるか。
ヨハネ伝「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」
②神のみ心に「神の子」であることをまかせる。絶対他力の無条件無我全托である。結果は考えない。「神の子円満完全」「実相円満完全」を念じる。徹底的に委ね切る。
鍵はどこまで“我の慢心”を落とせるか、です。