現象の心が“神”および“神の国”を感受すると、
現象の心が“神”を顕すので、
「人間は、“霊”と“心”と“体”との三位一体的な存在である」ので、
“体”も“神”の状態になるのである。
ということは心が“実相”を観ることができるかどうかが、
鍵となるのである。
ここのところが実際は少しむずかしいのであるが、
エメット・フォックスは「神を観ぜよ」と言っている。
私自身は「ありありと神の子の完全さを直接観じること」が必要だと思うし、
「実相円満完全」という言葉は決め言葉であると思う。
これを「内」に居る「神」に対して
強烈に主張するというか、
神に認めてもらうのである。「内」イコール「神」です。
「受けたり」と確信できるまでやるのだ。
真理(キリスト)を観じるのだ。
「実相人間」という“実相アサガオ”の理念を人間にあてはめた如き、
理念(生きた観念的存在である見えない神の子)を観じるのである。
「内に神の子が存在している」ことを
見えなくたって“心で観ずる”のだ。
どういうイメージで実相を観るかについてであるが
試行錯誤して探り当てていく努力の中で
実相の観もだんだんと生長していくのである。
一発で実相を把握できるといった類のものではありません。
(奇蹟の時は今 アディントン著 谷口雅春訳)
【人間は、“霊”と“心”と“体”との三位一体的な存在であるのである。わたし達は肉体的世界に生活しているのである。そして神癒は霊的な事象であるけれども、それは肉体に顕現する事象なのである。霊の癒しを受けると、それは“正しい想念”として“心の世界”に翻訳せられ、その“正しい想念”が“正しい生き方”として肉体の世界に具象化して来るのである。兎も角、“栄光”は、宇宙唯一の力であり、唯一の生命であり給うところの神に献げらるべきものであることを記憶せよ。】