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「神わが内に在(いま)す」という自覚の内に生きることによって、彼は間断なく“祈り”の状態にあったのである。イエスの“神”に触れて神癒が起こったのだ。

2020-08-03 10:37:50 | 日記
イエスは「内」なる神の許に往き、
間断なく祈ったのである。
その祈りによって「神」を顕したので、
人々はイエスの「神」に触れるだけで
神癒が実現したのであった。
「内」自体が「神」なのです。
(奇蹟の時は今 アディントン著 谷口雅春訳)
【イエスは弟子から祈ることを教えてくれと求められた時、祈りの言葉を唱えたことはあるけれども、彼は神癒伝道に出かけて行ったとき、普通は、決して一定のノリトのような祈りの言葉を用いなかった。読者もお気づきのことであろうが、イエスはひとり、人のいない処で深く祈ったのであった。彼は、人里はなれて、唯、神と霊交することによって自己の意識を高めたのであった。「神わが内に在(いま)す」という自覚の内に生きることによって、彼は間断なく“祈り”の状態にあったのである。だからイエスをただ目のあたり見ることによって癒されたり、イエスの衣に触れるだけのことによって癒されたのであった。私はイエス様を、常に祈りの愛念に溢れていられる方で、神癒の祈りに満たされている意識の体現者であると観たいのでさる。それゆえに、必要に応じて神癒が成就するのであった。】
藤原敏之先生は宇治の練成会のユーチューブ動画の中で、
病気で苦しみ今、夜のようだと感じている人に、
「今昼だよ、煌々として明るいんだよ」
とおっしゃるのである。現象世界は実相世界なのだ。
人はこの現象の世が物質世界で苦しみに満ちていると、
思っているのであるが、
たっだ今我らは「煌々としてして明るい神の国」に
いるのである。
我らは現象世界に居ながらも
実は「見えない神の国」の中にいて
買い物したりパソコンしたりしているのだ。
だから現象世界で何をしていようが、
「神の国」にいるんだと
思わねばならない。
夜中に目覚めた時でも
「見えない神の国」にいるんだと
思わねばならない。
神想観しててもしてなくても
常時神の国にいるのです。
この信念が強くなると、
実際に自分に“神”が顕われ
はじめます。
自分が神に本当になるのです。
元々神なんですがそれを顕せなかったのですが
いよいよ神を現象化でき、
本当の神になるのです。


心が霊の癒しを受けるとそれは“正しい想念”として“心の世界”に翻訳せられ、その“正しい想念”が“正しい生き方”として肉体の世界に具象化して来るのだ。

2020-08-03 10:03:28 | 日記
現象の心が“神”および“神の国”を感受すると、
現象の心が“神”を顕すので、
「人間は、“霊”と“心”と“体”との三位一体的な存在である」ので、
“体”も“神”の状態になるのである。
ということは心が“実相”を観ることができるかどうかが、
鍵となるのである。
ここのところが実際は少しむずかしいのであるが、
エメット・フォックスは「神を観ぜよ」と言っている。
私自身は「ありありと神の子の完全さを直接観じること」が必要だと思うし、
「実相円満完全」という言葉は決め言葉であると思う。
これを「内」に居る「神」に対して
強烈に主張するというか、
神に認めてもらうのである。「内」イコール「神」です。
「受けたり」と確信できるまでやるのだ。
真理(キリスト)を観じるのだ。
「実相人間」という“実相アサガオ”の理念を人間にあてはめた如き、
理念(生きた観念的存在である見えない神の子)を観じるのである。
「内に神の子が存在している」ことを
見えなくたって“心で観ずる”のだ。
どういうイメージで実相を観るかについてであるが
試行錯誤して探り当てていく努力の中で
実相の観もだんだんと生長していくのである。
一発で実相を把握できるといった類のものではありません。
(奇蹟の時は今 アディントン著 谷口雅春訳)
【人間は、“霊”と“心”と“体”との三位一体的な存在であるのである。わたし達は肉体的世界に生活しているのである。そして神癒は霊的な事象であるけれども、それは肉体に顕現する事象なのである。霊の癒しを受けると、それは“正しい想念”として“心の世界”に翻訳せられ、その“正しい想念”が“正しい生き方”として肉体の世界に具象化して来るのである。兎も角、“栄光”は、宇宙唯一の力であり、唯一の生命であり給うところの神に献げらるべきものであることを記憶せよ。】