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真理探究と間断なき祈りという修行によって、実相の呼び水を行う。

2020-08-11 11:06:27 | 日記
<真理探究と間断なき祈りという修行によって、実相の呼び水を行う。>
実相はもともとあるのだから
修行は必要ないという考え方がある。
しかし修行が必要な理由は
現象の心を高め
心の波長を実相の心に近づけるためなのだ。
そして井戸で呼び水を行う如く、
信と言葉と観にて
実相を鳴り響かせるためなのである。
これが真理の勉強と
間断なき祈りが必要な理由である。


(正法眼蔵を読む 古鏡の巻 谷口清超)
<人は泥団にあらず>(その2)
 さらに又こう疑うかも知れない。古鏡を磨いて行くと、あやまって磨いて塼(瓦)にしてしまうことはないであろうかと。そんな馬鹿なことを今ここで考えてもはじまらない。「磨く」という行為を、それ以外の時に考えても、真実が分るものではないのである。だが、南岳の言葉は、まさに真理をついた説法であるから、この問答それ自体が「磨塼作鏡」の一部なのである。これが分るのは、そしてこれによって馬祖が悟りをうるのは、そこに塼ならざるもの、仏性があるからである。

「宇宙霊」と一体になるための神の約束は「求めよ、さらば与えられん」「ひたすら信ぜよ」「叩けよ、さらば開かれん」である。此の時吾人の魂の奥底の静寂のうちにて神は宣う「静かであれ、吾れ汝に宿れり」と。

2020-08-11 10:01:40 | 日記
人間の共通の源は実相なる宇宙霊である。
吾等の「念」が
「宇宙霊」の念波と合致する時、
誰でも「宇宙霊」の意識を目覚めしむることができる。
「求めよ、さらば与えられん。探(たず)ねよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん」であるが、
「宇宙霊」の意識は
ただひたすら「宇宙霊」(実相)を
信じ切る「信」と「観」によって開かれるというのが
神の約束なのである。
その時宇宙霊の囁きが聴こえる。
「静かであれ、吾れ汝に宿れり」と。
(心と運命 ホルムス・谷口雅春)
【幾百の言語が此の世に用いられるにしても一つの共通の言葉は「念波」である。個我の意識中枢が無数にあるとしても、その共通の源は一つの「心」即ち「宇宙霊」である。幾千の力がこの世に発現しているにしても、その共通の本源的力は「霊」である。「求めよ、さらば与えられん、探(たず)ねよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん」と。存在の高所によじ登り、自己の裡に宇宙霊の意識的中心を強烈に目覚めしめようと欲する人々にとっては、神の此の約束はひたすら信頼し、真生命の歓喜を味わい、すべてが「霊」なる此の世界の驚異を瞑想し、或いは星のうちに神を見出し、或いは日没のうちに神を見出し、野の小さき昆虫の囁きに神の声を聴くにも優(ま)して意義と歓喜の多き修養法はないのであろう―神は此の時吾人の魂の奥底の静寂のうちにて宣(のたま)うのである、「静かであれ、吾れ汝に宿れり」と。】


「神にひたすら委せたるものに、神は完全なる平和をば与え給わん。」

2020-08-11 09:37:10 | 日記
神の存在の証明は天にあるのではない。
神は「内」にいる。
「内」なる神に
“神の子”(実相)であることをひたすら
委せ切るのである。
絶対他力の無条件無我全托である。
“「内」なる神”ということが
鍵であるのだ。
神は何処にいるのか?
自分の「内」にいるのです。
(心と運命 ホルムス・谷口雅春)
【神の存在の証明は天にあるのでもなければ、教権にあるのでもない。また所謂る「霊示」にあるのでもないのである。それは人間の魂の静寂のうちに横たわる。吾等が無限の神の愛にまかせ切り、法悦あふれる無限の平和の心境にある時、神は自己のうちに自証されるのである。「神にひたすら委せたるものに、神は完全なる平和をば与え給わん。」】