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ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。

2020-01-27 10:54:49 | 日記

人間は“神の子”であるから、

“神の子”を自覚すれば

実相の自由を得るのである。

因縁因果の法則を超えた世界に

入るからである。

 

これが“神の子”である人間の本当の生き方である。

人間としての自分が

“神”の生き方にその時にはなっているのである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

<「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」>

【「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」とベンジャミン・ディズレーリはいったのである。聖パウロは「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。されば堅く立ちて、再び奴隷のくびきに繫がるな」(ガラテア書第5章1節)といっているのである。ここに言う‟自由”とは“霊的自由”であり“神の子としての自由”である。わたし達すべては、今こそ立ち止まりて、脚下照顧し、人間は環境の奴隷としてその絆に縛らるべきものでもなければ、人間関係をも含む色々の条件にも屈従しなければならぬような者ではないことを想起せよ。然り、時には、肉眼には如何にも現実に存在するかのように見える肉体の症状にさえも屈従して奴隷の絆に繫がれる必要はないものなのである。】

<今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。>

【人間が自由であるのは、“神の子”であり、至上者(いとたかきもの)の子であるからである。それであるから、己が人生、己が環境を支配する権を与えられているのである。今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。それを奇蹟と見るならば、それはまことに奇蹟でもある。まことに奇蹟の時は今であるのである。】


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