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ふたりの主人

2016-03-08 21:30:57 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第1章>
(6・19―24)ふたりの主人
(19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
(20)むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
(21)あなたの宝のあるところには、心もあるからである。
(22)目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
(23)しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
(24)だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)後で投稿
・地上の宝が天国に及ぼすあなどりがたい力の評価と、それを正しく使用すること。ギリシャの詩形ストロフィで書かれている。
・19~21 天国の民は宝を地上にではなく天にたくわえなくてはならない。この三節は次の三節およびこの章全体と関係する。人生は畜財のようである。したがって富に対する考え方、使用の仕方で人生の評価は定まる。地上の宝は常に危機にさらされている。《虫》衣類を食うしみ虫。ユダヤ地方のおもな宝は豪華な織物であった。《さびがつき》金属類の腐食。《盗人らが押し入って》壁に穴をあける。ユダヤの農家はどろや編み垣で造られていた。《天に、宝を》安全な場所に、真の宝を。《心もある》宝と心とのある所は一つ。もし宝が地上にあれば心も地に、天にあれば心も天にある。
・22 23 心の視神経を健全にせよ。パレスチナの家の内部の暗さを知るとき、この節の情景がいっそう明らかになる。《目はからだのあかり》目はそこから光を全身に受け入れる意。《目が澄んでおれば》健康な目。原意は「清い」こと。いつも正しい目標(神の国)を見ている目。そうすればほかの悪に目がくらむことなく、正直に見、正直に行なうことができる。目は心、良心、信仰などに解しうる。良い目は気まえが良いこと、悪い目は欲深いことに譬えられている。《目が悪ければ》あまたの生を支配する心が利己的であるなら、あなたの全生活は利己的になるほかなかろう。《内なる光》澄んだ目を通して内にはいる光。日の光がささない生の深いところにまで達する天の光。もし光が《暗ければ》われらの生のうちに存在しないなら、人間は真の闇夜であろう。
・24 われらの生の帰属は神であるか、それとも富であるかの決断が迫られている。《ふたりの主人》神と富。このいずれも人の全体を要求し支配する力。神と富とは本質的に異なるが、人間を完全に支配する力である点においてまったくよく似ている。富(マモチ)は富の神マモ―ナスに由来し、神的能力をもっている。本来人間によって造られ、人間の僕であったが、現在人間の主人となっている。《兼ね仕えることはできない》両者とも全力を尽して仕えることを要求するが、それはわれわれには不可能であるからである。必ず一方に傾き、他方をうとんずるようになる。しかし、イエスのこの教えは、天上の生活のためわれわれに地上生活を犠牲にすることを命ずるのでなく、われわれがまず生の究極の帰属を明らかにして、地上生活を展開することを教える。

私は小保方晴子さんを支持します

2016-03-08 17:58:53 | 日記
小保方晴子さんが

「あの日」を書いてくださったのは、

本当に良かったと思います。

ヘンナことを書くと思われるかもしれないが、

この本は

読む人に生きる勇気を与えます。

また

須田桃子さんの「捏造の科学者」という本で

人々が小保方さんをまるで人格まで下劣な人物と

思い込んでいるのを

見事に否定できると思うのです。

確かに論文の不備とか

資料の扱いとか

問題点は多々あるでしょう。

でも小保方さんの「人間」は

素晴らしいと

私はこの本で確信できました。

人格まで否定するのは

間違いです。

誰が何と言おうと

私は小保方さんの人間を信じます。

この本でそう思った人はいっぱいいると思うので

小保方さんは

また科学者として

頑張って欲しいです。