(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第1章>
(6・5―15)祈る時
(5)また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
(5)あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(7)また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞き入れられるものと思っている。
(8)だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(9)だから、あなたがたはこう祈りなさい。
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
(10)御国がきますように、
みこころが天に行なわれるとおり、
地にも行なわれますように。
(11)わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
(12)わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
(13)わたしたちを試(こころ)みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
(14)もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
(15)もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・神を信ずる者の善行の一つである祈りが、見せかけの偽善に陥ることを戒める。ただしわえわれは偽善の祈りよりも、祈らない罪が問われなければならない。祈りの正しい態度が示されている。祈りは神との交わりであることを忘れる時《人に見せようとして》祈ることがおきる。ユダヤ人は祈るとき普通は《立って》祈った。毎日一定の時間が祈りの時間として定められ、その時間には《会堂や大通りのつじ》で祈った。
・公祷に反対しているのでなく、神に祈るという祈りの本質を示す。《自分のへや》における密室の祈りから公祷が生まれる。その反対でない。文字どおりに取る必要はなく、野でも人々の中でも、密室の祈りはありうる。《戸を閉じて》神のほかだれもはいらないようにし、また心を開いて何事でも祈れるようにするため。《父に祈りなさい》祈りの本質は父なる神との交わりであって、見せるための祈りは神との人格的交わりの心を破壊する。7-15節は挿入句であろうか。
・7 《くどくどと》原語は口びるを意味なく震わせる。どもることを意味しているが、やがて多弁、反復の意となる。
・8 祈る時、必ずしも多弁である必要のない理由。《求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じ》神が人間の必要なものを知らないかのように報告したり、また異邦人のように甘言でもって神を動かそうとする必要はない。しかし一切をご存じなら祈らなくともよいと言うのでなく、それだからこそ「父」に祈るのである。祈りは信頼のうえに立脚するものである。
・9 上述の祈りの理論の例証として祈りの模範を示された。祈りは理論でなく実行であるから。《こう祈りなさい》とイエスが教えられた祈りであるから、「主の祈り」と呼ばれている。ルカによる福音書の簡潔な形(11・2~4)が原形に近いであろう。マタイは主の祈りを公礼拝用に定形したと思われる。まず祈りの対象を《天にいますわれらの父よ》と呼び《御名》と、《御国》と、《みこころ》に関する三つの祈りで主の祈りは始まる。御名、御国、みこころの“み”は、「あなたの」であり、神をさす。したがって、主の祈りを構成している6つの祈りの初めの半分は神の栄えの現われることを祈る祈りである。ここに主の祈りの特徴がある。「御名」は神の名前、神ご自身のこと。「御国」は神のご支配。「みこころ」は神のご意志。すでに《天に行われ》ている神のご意志が、《地にも行われ》ること。
・11 主の祈りはまず神の栄えを祈ることから始まっているが、しかし人間の必要を祈ることを忘れていない。すなわち10-13節の祈りが、それである。《日ごとの食物》食物に限ることはなく、毎日の生活の必需品。「着物、はき物なども」(ルター)。霊の食物と解する者もあるが、(アウグスティヌス)、肉の必需品をさす。「日ごと」はその日一日の必需品、一日のあてがいぶちであり、ぜいたく品を意味しない。富者によってもこの祈りは必要。
・12 神のゆるしを受けうる者は、他人をゆるしうる者である。《ゆるしましたように》は条件と言うより比例であり、人をゆるすことと神のゆるしが正比例である。したがって人をゆるす謙虚な心で、はじめて神のゆるしを願うことができる。《負債》ルカによる福音書はのちの負債を「罪」と呼んでいる。罪は他人に対する負債。人格間において生じる負債の清算は「ゆるし」の形においてのみおきる。もし債権者の側にゆるしがないなら、負債は永久に解決しない。
・13 われらのための祈りの第三祷。前祷で罪のゆるしを祈り、ここでは罪のゆるしによって開始される神との交わりの生活がきよく保たれ、ふたたび新しい罪に陥ることのないように神の祈りを祈る。《試み》とは試錬でなく誘惑のこと。試錬は愛する者を鍛錬する目的をもつが、誘惑は堕落にみちびく目的で行われる。前者は、神から生じ、後者は《悪しき者》から出る。「悪しき者」の語性を男性にとるか中性にとるかにより、解釈が分かれる。男性にとれば悪魔の意味となり、(テルトリアヌス、オリゲヌス)、中性にとれば一般的「悪」の意味となる。(アウグスティヌス、ルター)。しかし神の守りと救いとがなければ悪魔からも悪からものがれることができないゆえに「この点についてあまり討議する必要はない、両者は同意味であるから」(カルヴィン)。
<マタイによる福音書第1章>
(6・5―15)祈る時
(5)また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
(5)あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(7)また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞き入れられるものと思っている。
(8)だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(9)だから、あなたがたはこう祈りなさい。
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
(10)御国がきますように、
みこころが天に行なわれるとおり、
地にも行なわれますように。
(11)わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
(12)わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
(13)わたしたちを試(こころ)みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
(14)もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
(15)もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・神を信ずる者の善行の一つである祈りが、見せかけの偽善に陥ることを戒める。ただしわえわれは偽善の祈りよりも、祈らない罪が問われなければならない。祈りの正しい態度が示されている。祈りは神との交わりであることを忘れる時《人に見せようとして》祈ることがおきる。ユダヤ人は祈るとき普通は《立って》祈った。毎日一定の時間が祈りの時間として定められ、その時間には《会堂や大通りのつじ》で祈った。
・公祷に反対しているのでなく、神に祈るという祈りの本質を示す。《自分のへや》における密室の祈りから公祷が生まれる。その反対でない。文字どおりに取る必要はなく、野でも人々の中でも、密室の祈りはありうる。《戸を閉じて》神のほかだれもはいらないようにし、また心を開いて何事でも祈れるようにするため。《父に祈りなさい》祈りの本質は父なる神との交わりであって、見せるための祈りは神との人格的交わりの心を破壊する。7-15節は挿入句であろうか。
・7 《くどくどと》原語は口びるを意味なく震わせる。どもることを意味しているが、やがて多弁、反復の意となる。
・8 祈る時、必ずしも多弁である必要のない理由。《求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じ》神が人間の必要なものを知らないかのように報告したり、また異邦人のように甘言でもって神を動かそうとする必要はない。しかし一切をご存じなら祈らなくともよいと言うのでなく、それだからこそ「父」に祈るのである。祈りは信頼のうえに立脚するものである。
・9 上述の祈りの理論の例証として祈りの模範を示された。祈りは理論でなく実行であるから。《こう祈りなさい》とイエスが教えられた祈りであるから、「主の祈り」と呼ばれている。ルカによる福音書の簡潔な形(11・2~4)が原形に近いであろう。マタイは主の祈りを公礼拝用に定形したと思われる。まず祈りの対象を《天にいますわれらの父よ》と呼び《御名》と、《御国》と、《みこころ》に関する三つの祈りで主の祈りは始まる。御名、御国、みこころの“み”は、「あなたの」であり、神をさす。したがって、主の祈りを構成している6つの祈りの初めの半分は神の栄えの現われることを祈る祈りである。ここに主の祈りの特徴がある。「御名」は神の名前、神ご自身のこと。「御国」は神のご支配。「みこころ」は神のご意志。すでに《天に行われ》ている神のご意志が、《地にも行われ》ること。
・11 主の祈りはまず神の栄えを祈ることから始まっているが、しかし人間の必要を祈ることを忘れていない。すなわち10-13節の祈りが、それである。《日ごとの食物》食物に限ることはなく、毎日の生活の必需品。「着物、はき物なども」(ルター)。霊の食物と解する者もあるが、(アウグスティヌス)、肉の必需品をさす。「日ごと」はその日一日の必需品、一日のあてがいぶちであり、ぜいたく品を意味しない。富者によってもこの祈りは必要。
・12 神のゆるしを受けうる者は、他人をゆるしうる者である。《ゆるしましたように》は条件と言うより比例であり、人をゆるすことと神のゆるしが正比例である。したがって人をゆるす謙虚な心で、はじめて神のゆるしを願うことができる。《負債》ルカによる福音書はのちの負債を「罪」と呼んでいる。罪は他人に対する負債。人格間において生じる負債の清算は「ゆるし」の形においてのみおきる。もし債権者の側にゆるしがないなら、負債は永久に解決しない。
・13 われらのための祈りの第三祷。前祷で罪のゆるしを祈り、ここでは罪のゆるしによって開始される神との交わりの生活がきよく保たれ、ふたたび新しい罪に陥ることのないように神の祈りを祈る。《試み》とは試錬でなく誘惑のこと。試錬は愛する者を鍛錬する目的をもつが、誘惑は堕落にみちびく目的で行われる。前者は、神から生じ、後者は《悪しき者》から出る。「悪しき者」の語性を男性にとるか中性にとるかにより、解釈が分かれる。男性にとれば悪魔の意味となり、(テルトリアヌス、オリゲヌス)、中性にとれば一般的「悪」の意味となる。(アウグスティヌス、ルター)。しかし神の守りと救いとがなければ悪魔からも悪からものがれることができないゆえに「この点についてあまり討議する必要はない、両者は同意味であるから」(カルヴィン)。