今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ミニーマウスの日

2014-03-02 | 記念日
日本記念日協会(※1)の今日・3月2日の記念日に「ミニーマウスの日」がある。
オシャレで女の子らしく、楽しいことが大好きなミニーマウスの魅力を伝え、ミニーマウスとデイジーダックのように仲良しの女ともだち同士が素敵な時間を過ごすことを応援する目的で、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社が制定したものだそうだ。
日付は3と2で「ミニー」と読む語呂合わせと、女の子がオシャレを楽しみ輝く早春であり、女の子の節句「ひな祭り」と同じ時期などから・・・。
ミニーマウス (Minnie Mouse) ディズニーアニメのキャラクターミッキーマウスの恋人として登場する。女の子であるが、多くの作品にミッキーマウスと共に出演している。
冒頭の画像はマイコレクションより、旧三菱銀行のミッキーとミニーの貯金箱である。
今日が「ミニーマウスの日」であることは、以前このブログで「ミニーマウスのひな祭り」と題して取り上げた。そこでは、冒頭のような私のコレクションの中から三菱銀行(現:三菱東京UFJ銀行)の貯金(CorectionRoom1)の紹介をさせてもらった。
また、11月18日が、「ミッキーマウスの誕生日」であること。6月9日が、「ドナルドダックの誕生日」であることなどもこのブログで簡単に紹介させてもらった。
ここ参照→ http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%DF%A5%CB%A1%BC

さて、ウォルト・ディズニーの看板キャラクターである「ミッキーマウス」。その生みの親がウォルト・ディズニーだということはよく知られている話だが、実際にミッキーを作画したのは、ウォルトの親友の天才アニメーターアブ・アイワークスだった。
そこで、今回は「ミニーマウスの日」のことについては、もうあまり書くこともないので、ミニーマウス関連で、ディズニーアニメ「ミッキーマウス」とその恋人「ミニーマウス」の誕生の変遷についてWikipediaや※2:「カートゥーン:アニメーション100年史」等を参考に簡単に書いてみよう。
1901年12月5日生まれのウォルト・ディズニーは、少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあったという。
1914年第一次世界大戦が勃発、1917年12月アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し陸軍に志願した。
しかし16歳という若年であったことから軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに赤十字社の衛生兵としてフランスに渡ったが、大戦終結後、一年振りに故郷のアメリカに帰国し、カンザスシティで画家としての活躍を目指していたものの、仕事も少なく、見かねた兄が頼んだ知人より、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事を紹介してもらうが、彼はここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合い、コマーシャル・アーティストとして生計を立てていこうとしていたが、翌年にアート・スタジオから二人はともに契約更新を打ち切られて失業する。
そこで、1920年1月、ウォルトとアイワークスは、デザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。
しかし、設立早々に、ウォルトはアイワークスを置いてカンザス・シティ・フィルム・アド社(Kansas City Film Ad Company。後のユナイテッド・フィルム・アド社)にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。
初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中で、アニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭し、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。
1920年、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品としてカンザスシティの映画館チェーン「ニューマン劇場」向けに、『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。以下でその貴重な映像を見ることが出来る。


LOG1 ニューマン劇場のお笑い漫画 Newman Laugh O Grams19210320 ディズニー – YouTube

質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは、個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張すべく、親友のアブ・アイワークスを初めとする数人の若いアニメーター仲間(その中にはヒュー・ハーマンルドルフ・アイジングもいた)を呼び寄せ、弱冠20歳の若さで、ラーフ・オ・グラムズ社(Laugh O'Gram Studio)を設立。ウォルトにとって、最初の成功となり、仕事が多く舞い込んでくるようになった。
この頃の作品では、オリジナルショートアニメ『Laffets』のほか、『赤ずきんちゃん』(1922年7月。童話はここ参照)や『長靴をはいた猫』(1922年11月。童話はここ参照)、『シンデレラ』(1922年12月。童話はここ参照)などの童話を原作としたコミカルな作品を多く制作しているが、これら作品は、普通に童話を漫画にしたものをイメージしているとちょっと違うよ。興味があれば以下を見られるとよい。

LOG2赤ずきんちゃん(Little Red Riding Hood)
LOG6 長靴をはいた猫 (Puss in Boots )– YouTube
LOG7 シンデレラ(Cinderella )– YouTube

当初こそ前途有望かと思われたが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。
ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ新シリーズのパイロットフィルムとして制作していた 『アリスの不思議の国』(Alice's Wonderland。「漫画の国のアリス(The Alice Comedy)」の名でも知られる)のシリーズ続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。
事業の過程で「アリスシリーズ」のアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集め、ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。
実写の子役の少女が、アニメの絵の中に入るというのが基本アイディアのこのシリーズ=「アリスコメディシリーズ」は、1923年から1927年にかけて制作され大好評を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。
これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロサンゼルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。
この『漫画の国のアリス』も、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をもとにしたパロディーであり、皆さんが知っているキャロルの作品イメージとは大分違うだろうが、この時代に、実写とアニメを織り交ぜたこれだけの技法は素晴らしい。また、少女子役のヴァージニア・デイヴィス(Virginia Davis)がめちゃ可愛い。先ずは以下で、そのシーンを見てみると良い。

AC1 アリスコメディー Alice's Wonderland (1923) ディズニー - YouTube
AC4 アリスコメディー Alice's Wild West Show (1924) ディズニー - YouTube

ウォルトとアイワークスが映画プロデューサーで配給業者でもあるチャールズ・ミンツの下で製作した実写を織り交ぜたアニメ『漫画の国のアリス』は「オズワルド」シリーズに取って代わられるまで57本が制作された人気シリーズであったが、このアニメに使われているキャラクター、「ジュリアス・ザ・キャット」は黒猫をモチーフにしたフィリックス(フィリックス・ザ・キャット=英:Felix the Cat)の漫画(漫画のクリエーターは、オットー・メスマー。英:Otto Messmer)の模倣であると、プロデューサーであるパット・サリヴァン(Pat Sullivan)による抗議があったため、新しいアニメーションシリーズを計画しなければならなくなった。
そこで2人は実写なしでのオールアニメーションを作り出すと同時に体に丸みを帯びさせて親しみやすくなるようなキャラクターを創造するにあたってウサギの案が浮上した。これがオズワルドの始まりだそうだ。
フィリックスが誕生したのは、なんと1919年(大正8年) のこと、アメリカでは、ミッキーマウス誕生以前から大人気であり今でもミッキーマウスと並ぶ人気を誇っている。

上掲の画像は、笑うフィリックス(オットー・メスマー原画による初期のもの)Wikipediaより。

【カートゥーン・アニメ】フィリックス・ザ・キャット - YouTube

ウォルトの実写合成の短編「アリスコメディー」にでてくる黒猫のキャラクター「ジュリアス・ザ・キャット」は『フィリックス・ザ・キャット』を模造したものと言われるが、両作品を比較して見るのも面白い。
1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「しあわせウサギのオズワルド」を考案し、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作するようになる。
「オズワルド」はシリーズスタートと同時に子供の間で人気を得て、第2作目『トロリー・トラブルズ』(Trolley troubles)から大ヒット。ウォルトはその後もカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。以下で、オズワルドの漫画を見ることが出来る。

「しあわせウサギのオズワルド」(Trolley Troubles.。1927)- YouTube

「オズワルド」シリーズは全26作品が制作されたが1928年2月配給先のユニバーサル・ピクチャーズと所有権をめぐり交渉が決裂し、ウォルトとアイワークスはオズワルドの作品を放棄させられた。さらにウォルトを二重に落胆させたのは、チャールズ・ミンツによる従業員引き抜き工作によってオズワルドに関する全ての権利に加えて、この引き抜き工作で、アイワークスを除く殆どの有能なアニメーターを手離すことになってしまったことであった。
契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた訳だが、スタジオを手中に守った事でウォルトは諦めずに、若い時と同じくアイワークスとの二人三脚で、ディズニー再建に取り組み、その後、世界で最も有名なネズミのキャラクター「ミッキーマウス」を作り上げることになった。

1928年12月18日に、ニューヨークのコロニー・シアター(現ブロードウェイ・シアター)でプレミア上映されたディズニー初のトーキー・アニメ『蒸気船ウィリー』(英:Steamboat Willie)が大成功を収め、主人公のネズミ、ミッキー・マウスはまたたく間に世界中で愛される人気キャラクターとなった。
一般的には、この作品がミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作とされているため、公開日の11月18日はミッキーとミニーの誕生日、もしくはスクリーンデビューの日となっている。当時ウォルトが声優を務め、劇中のミッキーやミニー、ピートなど全ての声をウォルト自身が演じている。タイトルと内容は喜劇俳優バスター・キートンの『キートンの蒸気船』(Steamboat Bill Jr.)のパロディである。

Buster Keaton - Steamboat Bill, Jr./キートンの蒸気船(1928)

厳密には本作の前に作られたチャールズ・リンドバーグ(Lindbergh)の大西洋横断飛行人気に便乗した映画のひとつでフィリックスのヒット作『ノンストップ飛行』のパロディ版『プレーン・クレイジー(飛行機狂)』(Plane Crazy。)がこの新シリーズの最初の作品である。
この作品は、配給会社も未決定のまま製作されていたものであり、当初サイレント映画として作られた本作品は当時の他のサイレントアニメーション映画と特に代わり映えするものではなく、配給会社には相手にされなかったが、『蒸気船ウィリー』がヒットしたのち、本作もそちらに合わせトーキー映画として作り直され、シリーズ3作目として初めて一般に公開されたものである。
尚、2作目は『ギャロッピン・ガウチョ』(The Gallopin' Gaucho)である。このアニメは、ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks)の『ガウチョ』 The Gaucho (1927のパロディー版だそうだ。ダグラス・フェアバンクスの映画『ガウチョ』の解説は※3を、ミッキーのアニメ映画の解説は※4を参照されるとよい。

『プレーン・クレイジー』のミッキーは、リンドバーグ(Lindbergh)の大西洋横断飛行に興奮してパイロットになることを決心する。彼は農場の動物たちをそのプロセスに巻き込み、挙げ句の果てにはフィアンセのミニーを飛行に連れて行ってしまう。二人は事故を起こすが、ラストは五体満足で終わる。.
公開順としては第2作目であるはずの『プレーン・クレージー』のミッキー方が、『蒸気船ウィリー』のミッキーよりある意味、古く、より個性の強い顔をしている。
額に見えている顔の上の部分全体が目・・・つまり白目であり、上を見る時は、頭のてっぺんに近いところまで、黒目が移動する。眼球のラインが入っていてこの目の構造がよくわかる。
一方『蒸気船ウィリー』の顔は、よく言われるところの“オールド・ミッキー”の顔にきわめて近い顔をしている。あの黒目のミッキーにである。
衣装も、『プレーン・クレージー』のときは、裸足で素手だったものが『蒸気船ウィリー』では靴を履いている。
面白いのは、『蒸気船ウィリー』の時のミニーはブラジャーをしている。『プレーン・クレージー』のときも又、『蒸気船ウィリー』以後もブラジャーをしていないが、このころは、ミニーなど女の子らしさをどう表現するかまだ試行錯誤していたのだろう。
なお『プレーン・クレージー』でミニーがミッキーにプレゼントした蹄鉄は、西洋では幸運のお守りと信じられているラッキーグッズである。ここにも、ミニーの女の子らしさが表現されているが、個性としては、まだミッキーもミニーもやんちゃで、ミニーは、活発なヤンキー娘といった印象が強い。
『蒸気船ウィリー』には、山猫をモデルにして描かれたピートも初登場しており、今も活躍している3人?のキャラクターの原型が既にできあがった状態である。以下でこれらのこと意識しながら見られると面白いのでは・・・・。

蒸気船ウィリー Steamboat Willie 1928年11月18日 ) -YouTube
ギャロッピン・ガウチョThe Gallopin' Gaucho1928年12月30日-YouTube
プレーンクレイジー(飛行機狂) Plane Crazy1929年3月17日-YouTube白黒

1915年頃から漫画映画を量産していたポール・テリー(Paul Terry) が設立したイソップ・フェーブルズ(Aesop's Fables)・スタジオが、イソップ物語(イソップ寓話)に似た動物寓話を題材とする『イソップ・フェーブルズ』(イソップ物語)シリーズで成功を収めていた。
そこにテリーの『アルファルファじいさん』(Farmer Alfalfa)がこの新しいグループとして加わったが、そこには、色々な動物やネズミ(その中には1927年版のミッキー・マウスそっくりのものもある)が大量に出るという点で、当時デビューしたばかりのウォルト・ディズニーのアニメにも影響を与えていたといわれている。ポール・テリーの『アルファルファじいさん』の動画は以下参考の※5:「ポール・テリー【古典アニメ上映館】」で見ることが出来る。
もともと、フィリックス・ザ・キャット』の作成者パット・サリバンによる抗議を受けたとき『オズワルド』はポール・テリーの『クレージー・キャット』を元に、アブ・アイワークスがデザインしたものだった。
多くのスタッフが作画にかかわるアニメーション作品において円滑にかつ素早く作画する目的で、円定規と楕円定規で簡単に描けるようアブ・アイワークスがデザインしたものだといわれている。
「ミンツの件で落胆し、ハリウッドに戻る列車の中で、ウォルトは、カンザスフィルム時代に飼いならしていたネズミをよく研究し、彼が醜いと思っていた耳・口・足などを大きくしポイントを付け1927年にミッキーマウスを考案した。」・・・といった一般に知られるエピソードは、権利処理の問題をクリアするために後年後付け設定されたものだそうである。
実際には、ミッキー・マウスに対する功績はそのキャラクターのパーソナリティを作ったウォルトと、ネズミのキャラクターをデザインしたアイワークス双方に等しく帰せられるべきでものであった。つまり、ミッキーに関して、ウォルトは主としてプロデューサーであって、アニメーターではない。
アイワークスはミッキーを奪ったとしだいに共同経営者のウォルトを憎むようになり、ウォルトと決別し自身のスタジオを持つに至ったという。
ウォルトは元々ミッキーをモーティマー(Mortimer)と名付けるつもりだったが、彼の妻がより親しみやす「ミッキー」と命名したと言われる。その代わりにミッキーの恋のライバルであり、ミニーマウスの幼なじみとして、モーティマー・マウスが登場する。
冒頭の画像に見られるように現在は大きなリボンのスタイルが定着しているミニーであるが、『蒸気船ウィリー』で見られるように、デビュー当初は帽子に花を一輪つけるスタイルで登場していた。

ミッキーのアニメは大成功し世界中で愛されるようになったが、その成功はそれだけ世間からの反響も呼ぶこととなり、デビュー当時のミッキーの性格は今に比べ子供っぽく随分と、短気な面の見らるわんぱく小ネズミであったが、子供の親からのクレームなどを受けるようになり今の温厚な性格に変化し、元の性格はドナルド・ダック(Donald Duck)へ受け継がれることとなる。
2作目の『ギャロッピン・ガウチョ』では、タバコを吸い、ミニーにダンスに誘われたミッキーは、ビールを一杯ひっかけてから、タンゴを踊りだしたものだが、今やわれわれの知るミッキーはアルコールも飲まず、煙草も吸わず、家畜をいじめることもない。そんな、ミッキーが世間からお仕置きを食らったってことになるのだろう。
そして、1939年、『ミッキーの猟は楽し』以降キャラクターデザインが変更され、それまでの黒目がちであったものが、この変更により白い眼の黒い瞳に変わった。

105 ミッキーの猟は楽し The Pointer 19390721 - YouTube

これほど成功したアニメキャラとしては、ミッキーは驚くほど短命であった。彼は1928年に誕生し、121本の短編に出演した後(最後の登場である『ミッキーの魚釣り(The Simple Things)』ではプルートと一緒に魚釣りに行く)、1953年にはそのキャリアを終えた(1983年の『ミッキーのクリスマスキャロル (Mickey's Christmas Carol)』などを除く)。
それに注目すべきは、ミッキーが主役として行動しない現象は1930年代初頭から始まっている。つまり、世界中の人から愛されるようになったミッキーは「清潔かつ幸福で、礼儀正しく、十分に賢い」キャラクターとなったものの、このような「善人」には滑稽さが似合わない。
従って彼の周囲にはもっとお上品ではなく、笑いを誘うことの出来る共演者が必要となり、。ドナルド・ダック(かんしゃく持ち)やとグーフィ(Goofy。愚鈍な友人)、そしてプルート(Pluto、トラブル好きの犬)といった仲間たちが自分たちの勢力を拡大していったのであった(詳しくは、ディズニーの短編映画参照)。

ミッキーマウス”は当初、粗野なネズミという設定であったことから、アメリカでは「Mickey Mouse」という単語を「大したことない、ちゃちな, ささいな、安っぽい、とるにたらない」などの意味の形容詞として使うこともあるようだ(goo辞書参照)。
これはディズニー映画が、最初、単純でワンパターンの内容でしかなかったのが由来だそうで、他に、“take the mickey” で「人をからかう、ばかにする」という意味があるらしいが、英語圏内の人にとっても「ミッキーマウス」は愛らしいネズミキャラの意味になるのがほとんどであり、所詮は、ただのスラングのようだ。
ウォルト・ディズニー成功はたった「一匹のねずみから、始まった」.。もともと、ウォルト・ディズニーは、子供向きの映画を作っていたのではない。家族すべての人が楽しむ映画を作っていたのだが・・・。その夢は、今のディズニーランド建設等で生かされる。
最後に、今の大変な時代に、夢を失いかけている若者にウォルト・ディズニーの名言を・・・。
ウォルト・ディズニーの名言は夢の言葉 - YouTube
今日は、記念日の「ミニーマウスの日」に因んで、ミニーとは直接関係のないことを書いてしまったが、今は、ネット上でいろいろ貴重な動画も見れる時代。今日は、ミニー誕生までのディズニー漫画を理屈抜きで楽しまれてみてはいかがですか・・・。

※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:カートゥーン:アニメーション100年史
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/index.html#chap6
※3:ガウチョウとは - 映画情報 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6
※4:A Walk in Disney's Footsteps短編アニメ紹介
http://blogs.yahoo.co.jp/pinkoloveswdw/folder/1188351.html
※5:ポール・テリー【古典アニメ上映館】アルファルファじいさん「The Dancing Bear」
http://oldanimation.seesaa.net/article/361013967.html
大いなるメディア・アニメーション
http://animation.oka-hero.co.uk/site/histry_01.html
日本と戦時中のディズニーアニメ
http://www.youtube.com/watch?v=oy6aOYjieTc
ミニーマウス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%B9