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皇室会議において皇太子徳仁親王の婚姻の相手を外交官の小和田雅子と決定

2008-01-19 | 歴史
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において皇太子徳仁親王の婚姻の相手を外交官の小和田雅子と決定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
徳仁親王(なるひと しんのう)は、1960(昭和35)年2月23日、当時皇太子であった今上天皇明仁)と皇太子妃であった皇后美智子の第一皇子として、宮内庁病院で誕生した。
同年2月29日には、命名の儀が執り行われ、名は徳仁(なるひと)、称号は浩宮(ひろのみや)とされた。「徳仁」は四書五経の『中庸』を典拠として祖父昭和天皇が命名した。
美智子さまは、1959(昭和34)年4月10日、皇太子明仁親王(今上天皇)と結婚、明治以降初めての民間(士族以下)出身(日清製粉社長令嬢)で皇太子妃となっ方である。明仁親王と出会ったときから非常に話題を呼び、皇太子妃に迎えられることが発表されたときから、ミッチー・ブームが起こった。
美智子妃が、ご懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿で出産を行わないなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の皇子誕生も、広く国民に注目されたが、そんな 皇太子夫妻による子育ても、国民の関心の的となった。
天皇家には、子供を生後間もなく両親の元から離し、しかるべき臣下の家に預けられる習慣があり、昭和天皇は生後70日で枢密顧問官伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育された。そして、1908(明治40)年、学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。初等科在学中の1912(大正元)年、皇族身位令(皇族身位令については、以下参考に記載の「中野文庫 - 皇族身位令」参照)の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914(大正3)年3月、学習院初等科を卒業した。父・明仁陛下も生後3ヶ月ではなかったものの満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。 1944(昭和19)年、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で敗戦を迎え、終戦後帰京。しかし、皇太子は陸海軍少尉に任官するのが常であり、軍部からも要請があったようだが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。 また、1946(昭和21)年10月から昭和1950(昭和25)年12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にして、狂信的でないクリスチャンであるクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人。以下参考に記載の「ヴァイニング夫人の思いで」参照)が家庭教師として就き、民主主義の教育を受けられた。
このような、皇太子夫妻(明仁皇太子と美知子妃)は、長年にわたる宮中の因習を改め、乳入制度も廃止し、「あづかれる宝にも似てあるときは吾子(わご)ながらかひな畏れつつ抱く」1960年、徳仁親王を生まれたときの皇后陛下のみ歌)と徳仁親王(今上天皇の第一皇子であるため、現在の身位は皇太子であり、(皇室典範による、皇位継承順位第1位である)に、専任の養育係を置かず、しっかりと自分の胸に抱き、夫妻のみによって子育てを行った。皇太子夫妻の元で、弟の礼宮(秋篠宮文仁親王)、妹の紀宮(黒田清子)とともに育つ浩宮たちの様子は、マスコミを通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近い戦後の幸せな家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。又、徳仁親王は学業についても、幼稚園から大学院までを一般学生と同じコースで一緒に学んだ。そして、それまでの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻したライフワークとして歴史学を学んだ。
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇の崩御により、今上天皇が践祚。これに伴い、徳仁親王は皇太子に就いた。今上天皇の即位の礼などを経て、1991(平成3)年2月23日、満31歳となった日に立太子の礼(以下参考に記載の宮内庁ホームページ「用語について」参照)が執り行われた。そして、1993(平成5)年の今日(1月19日)、皇太子徳仁の婚姻に関する皇室会議は、時の宮沢首相以下10人の議員が出席し、全会一致で外交官の小和田雅子を婚姻の相手に決定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。皇太子はお妃選びは『自分で決める』という思いをたびたび口にされて、そして、自分を信じる両親に対しても「自分が『この人なら』と紹介するひとなら喜んでくれるはず」と強い信頼感を示していたという。そして、出会い。小和田雅子さんと始めてあったのは1986(昭和61)年10月東京・元赤坂の東宮御所(現赤坂御所)で開かれた茶会の席だった。1987(昭和62)年秋までに4回顔を合わせたがその後5年間交際は途絶えたが「プロセスが大切。お互いが何回か合うことが必要」の言葉どうり、機が熟すのを待ち、1992(平成 4)年夏再会。同年冬思いを遂げられた。きっとご両親や周辺の人達も早いご成婚を願っていただろうが、マスコミや国民も長い時間を要したことに、少々、イライラさせられたものであったが兎に角、目出度し、目出度しであった。
2001(平成13)年12月1日には、長女・愛子内親王が誕生。
2004(平成16)年5月10日、ヨーロッパ歴訪前の記者会見において皇太子徳仁の「人格否定発言」が報道機関に大きく取り上げられ(人格否定発言参照)、皇室及び宮内庁が問題を抱えていることを浮き彫りにした。また、そのことから実父である今上天皇や実弟である秋篠宮文仁親王宮内庁からの批判も受けた。
その後、雅子妃の健康問題、皇太子の公務に対するご発言に様々な意見が出た。とりわけ、男子の誕生がないことなどから、皇室典範改正問題(皇位継承問題 参照)などが取沙汰されることとなった。
そして、昨・2006(平成19)年9月6日、雅子妃に先駆けて秋篠宮妃紀子悠仁親王を出産した。現在のところ、悠仁親王が皇位継承順第3位であり、今上天皇の孫の世代では唯一の皇位継承権者である。皇太子徳仁、雅子妃には複雑な心境であろうが、とりあえず、天皇の皇位継承問題については、今しばらくの時間的猶予が出来たといううことか。
皇太子徳仁・雅子妃及び皇室関係のことに関することはこれ以上述べるつもりはない。
最後に、先に、美知子妃(皇后)の子育てについて述べたが、その中でも、1960(昭和35)年9月22日~10月7日、生後7ヶ月の徳仁親王から離れて皇太子夫妻は、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待された。その訪米をする際に、美知子妃が側近の世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」が、子供を預けて働く母親たちの子育て指針として大きな共感を呼んだ。「ナルちゃん」とは、もちろん浩宮徳仁(なるひと)親王の“なる”から名づけられたもので、子供の躾の方針を示した手記であるが、それが、40余年の時を超えて、昨・2006(平成19)年9月、悠仁親王誕生に合わせたように、 日本文芸社 より同じ「ナルちゃん憲法」(松崎 敏弥 著)のタイトルで出版されている。私達の年代の女性なら知らない人はいないだろう「ナルちゃん育児法」であるが、美智子さまから紀子さまへの育児メッセージとして囁かれているのが本書である。今の時代に小さな子を持つワーキングウーマンンの育児書としても役にたつだろう。子育て中の若い女性なら一読しておくと良い。以下参考に記載の「美智子さまのナルちゃん憲法 - [幼児教育]All About」など参照されるとよい。
(画像は、1月19日、ご婚約が決まり東宮仮御所で記者会見をされている皇太子と雅子さま。アサヒグラフ・臨時増刊アルバムより)
参考:
徳仁親王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
中野文庫 - 皇族身位令
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/km43-2.htm
ヴァイニング夫人の思いで
http://subsite.icu.ac.jp/prc/bird/bird-song/72.html
つれづれなるままに /愛しの増田恵子様の日記
http://plaza.rakuten.co.jp/pinkladylove/diary/?PageId=1&ctgy=10
日米修好通商条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
用語について(宮内庁ホームページ)
http://www.kunaicho.go.jp/language/language-06.html
美智子さまのナルちゃん憲法 - [幼児教育]All About
http://allabout.co.jp/children/infanteducation/closeup/CU20020107A/
ナルちゃん憲法
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031773608&Action_id=121&Sza_id=A0