今日は、大相撲の元大関貴ノ花のニ子山親方が2005年(平成17年)5月30日に亡くなられて4年目の日になる。
細身の身体と驚異的な粘り腰で絶大な人気を博し「角界のプリンス」とよばれた華やかな土俵生活と、引退後は二所一門ばりの猛稽古で2横綱、1大関を育て上げ、藤島、二子山部屋を角界一の勢力にまで育て上げた親方としての成功とは裏腹にその人生は、波乱に満ちたものであり、最後は病(口腔底癌)に勝てず55歳という若さで亡くなった。
貴乃花利彰(本名は花田満)は、1950(昭和25)年2月19日、青森県弘前市出身で、土俵の鬼と呼ばれた元横綱初代若乃花幹士と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。元横綱・3代目若乃花で実業家・タレントの花田勝と一代年寄貴乃花光司の父である。夫人は元女優でタレントの藤田憲子(1970年【昭和45年】結婚。2001年【平成13年】離婚)。
マスコミ報道によれば、中学3年の時中学記録を更新し将来五輪候補と期待されていたそうだが、「水泳では飯が食えない」と角界入りを決意し、1965(昭和40)年、実兄である元横綱若乃花幹士が横綱を引退後年寄・二子山を襲名し、10代目二子山親方として1962(昭和37)年9月2日に花籠部屋から分家独立して創設していた二子山部屋へ入門。だが兄二子山親方は現役時代にもう一人の弟である若緑陸奥之丞が自分と同じ部屋に入り、挫折したのを目の辺りにしていただけに大反対するが、それを母親がとりなし「兄弟の縁を切る」を条件に渋々入団を許可されたのだとか・・・。そして、兄から師匠へと立場の変わった二子山親方は「弟だから甘くしている」と言われないため、貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。また、兄弟子たちからもひどいしごきを受けたとも伝わるが、これは、二子山の指導が厳しかったため、親方の弟と言うことで弟が仕返しされるという図式のようだが、そんないじめとやしごきに耐えながら、夏場所本名のままで初土俵を踏み序ノ口から17場所連続勝ち越し3年足らずの1968(昭和43)年春場所、18歳0カ月で十両に昇進、同九州場所の18歳8カ月での新入幕(幕内)はともに当時最年少記録である。その後一度十両に下がるが1970(昭和45)年1月場所貴ノ花と改めて再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得。そして、翌・1971(昭和46)年5月場所5日目には、大横綱大鵬と対戦し寄り倒しで破る金星をあげ、大鵬はこの取組後引退を表明した。この取り組みは、以下参考に記載の「貴ノ花 利彰 - goo 大相撲」で見れる。
その後「行事泣かせ」と言われた足腰の強さで数々の名勝負を繰り広げ、1972(昭和47)年初場所中日に、横綱北の富士の外掛けに体をのけぞらせながら左側に振り手をつかせ、これが「かばい手」か「つき手」かで物議(物言い)を醸したり、1980(昭和55)年秋場所では高見山の小手投げを耐える際に髷が土俵をはいて黒星といった際どい相撲で沸かせた。
又、同門の花籠部屋に入門してきた輪島とは、ライバル同士になり、激しい争いを演じている。1972(昭和47)年9月場所の皇太子ご一家をお迎えしての千秋楽では、輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に、2 人は揃って大関に昇進した。この時の画像は以下参考に記載の「貴ノ花 対 輪島 - goo 大相」撲で見れる。
輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱をとったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは貴輪(きりん)時代を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖(現在日本相撲協会理事、前理事長)に実力面で追い抜かれ、輪湖(りんこ)時代が訪れることになる。
しかし、1974(昭和49)年7月場所、休場明けで万全な体調ではなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関北の湖と12日目に対戦し、吊り出しで破った一番などは、小兵の貴ノ花が巨漢の力士を豪快に破った名勝負の1つとして記憶される。
そして、1975(昭和50)年春・3月場所千秋楽、ただ1人1敗の貴ノ花は2敗の横綱・北の湖と対戦、勝てば初優勝だったが負けるが、休憩後の決定戦で北の湖を下し、大関15場所にして彼岸の初優勝を果たした。この時、本来は審判部長の高砂(元横砂朝潮 )が渡すべき優勝旗は、協会の配慮により、貴ノ花の兄であり師匠でもある二子山の手から渡されたが、優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目にうっすらと涙が浮かんでいたのが印象的であった。冒頭に貼付の画像は、横綱北の海との優勝決定戦に勝ち初優勝の祝賀会。後方から大盃に酒を注いでいるのが兄でもある二子山親方である。(1975年3月23日、朝日クロニカル「週刊20世紀」より)。兄弟優勝は史上初。兄である双子山親方の嬉しい気持ちが良くわかる。
また、同年9月場所にも13日目、横綱北の湖に敗れたものの千秋楽まで、輪島・魁傑を破り3敗で北の湖と並び決定戦となるが、決定戦で見事上手投げで破り、2回目の優勝を決めた(この時の映像も先に紹介した以下参考に記載の「貴ノ花 利彰 - goo 大相撲」で観れるよ)。
この2回の優勝後、兄若乃花に次いでの兄弟横砂が期待されたが、怪我や内臓疾患に苦しみ横綱への昇進はかなわなかった。
実兄であり師匠でもある双子山親方(初代若乃花)に見出され急成長し、同じ二子山部屋で大関となっていた若三杉(初代若乃花の娘婿。後に離婚)が、1978(昭和53)年5月場所後には横綱に昇進。明治神宮での新横綱奉納土俵入りでは、若三杉の兄弟子に当たる大関・貴ノ花が太刀持ちを務めたのは有名であるが、貴ノ花ファンからは「かわいそうだからやらせないで!」という声も上がったが、師匠の二子山は、ファンサービスと同時に、貴ノ花に奮起を促す為、あえて弟弟子の太刀持ちを命じたとも言われている。そして、若三杉は、横綱昇進を機に師匠の四股名を継承し、2代目「若乃花」となった。
貴ノ花にとっては、この2回の優勝の時期が力士としての全盛期だったのだろう。当時前人未到の大関在位50場所目を迎えた1981(昭和56)年1月場所の6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳でついに引退することとなった。綱とりは実現しなかったとはいえ、細い身体で大きな相手に真っ向からぶつかっていく悲壮感あふれる取り口には、判官贔屓のファンが数多く付いており、人気面ではナンバーワンだった。又、その甘いマスクから女性ファンからの人気も絶大であった。
引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方を経て、翌・1982(昭和57)年には藤島(12代)に名跡変更し、二子山部屋から2月に、数名の内弟子を連れて分家独立し、藤島部屋を興した。
1988年(昭和63)年2月に長男の若花田勝(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田光司(後の横綱・貴乃花)が入門し、その活躍が話題になった。他にも関脇・安芸乃島勝巳(現在:年寄千田川虎央)や貴闘力忠茂(現在:年寄・大嶽)、後に大関となる貴ノ浪貞博(現在:年寄・音羽山)らの有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。
そして、10代目二子山親方が、1993(平成5)年3月に停年退職を迎えるため、同年2月1日付で二子山親方と藤島親方が年寄名跡の交換を行い、二子山親方が13代目藤島親方、藤島親方が11代目二子山親方となっている。この時、ともに多くの幕内力士を抱えていた部屋同志が合併したため、平成5年春場所(1995年)では11代目二子山親方を師匠とする二子山部屋は一気に、幕内力士10人を含む総勢50人の大部屋となった。この2つの部屋の合併により、同部屋対決は優勝決定戦以外には行われないため、当時の新大関の貴ノ花にとって苦手の三杉里が又、若花田も若翔洋戦などがなくなり、ファンの楽しみが半減することとなった(同部屋対決については、同部屋・4親等以内の取組回避を参照)。
1994(平成6)年11月場所後には、次男の貴ノ花が横綱に昇進し、次いで、1998(平成10)年5月場所後に同じく長男の若乃花が横綱へと昇進。1990年代後半には2横綱を抱えることとなった。さらに、これと同時期に大関貴ノ浪や関脇安芸乃島貴闘力、若翔洋を輩出し、部屋は全盛期を迎えることになったが、そのために、普通なら横綱との対戦のない幕内中位の力士が横綱と対戦するなど、取組編成上支障をきたす様なことも起こるようになったが、若・貴をはじめとする新二子山部屋力士などにとっては、有利な取り組みになっていたといえるだろう。
1996(平成8)年には、二子山親方と藤島親方(兄弟)間での年寄株「二子山」名跡の譲渡にあたり、後援会からの贈与金およそ3億円の所得の申告漏れを東京国税局により摘発され、巡業部長の職を解かれた。この摘発により、年寄名跡の高額売買の実態が明らかにもされた(以下参考に記載の年寄株問題参考)。
実子の若・貴兄弟が揃って横綱になった直後から二子山部屋の周囲には、若・貴兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」問題など暗雲が漂い始めていた。
兄の方は、2000(平成12)年3月場所5日目に現役引退を表明、年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない同年12月18日に突如日本相撲協会を退職。その後、タレント・実業家として意外な方面で能力を発揮している。
一方弟の方は、2003(平成15)年1月場所限りで引退した後、一代年寄・貴乃花を襲名して二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた。しかし、2003(平成15)年秋頃から父・二子山親方は体調を崩し、入退院を繰り返していたが、部屋の運営をめぐる確執、千田川親方(元関脇安芸乃島)の移籍問題などで衝突することがあったようだが、翌・2004(平成16)年2月1日付で、貴乃花が二子山部屋を継承し、部屋の名称も貴乃花部屋に変更して親方業に就いた。
しかし、2005(平成17)年5月30日、父・二子山の死に際して、兄弟間の確執が噴出し、マスコミを介して大騒動に発展したことはテレビなどで報道され、誰もが知っての通りである。その後、貴乃花部屋も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001(平成13)年に不倫疑惑が報道される中で別居、後に離婚するなど、「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。
兎に角、有名なだけに、この一家には、スキャンダルも多く、度々週刊誌やワイドショーをにぎわせてもいたが、これも、人気者たちの宿命か?それとも、スキャンダラスの中には隠された意外な事実もあるのだろうか?(ネット上には、以下参考に記載の「貴乃花親方&花田勝の二子山部屋遺産相続」といったようなものがあるが・・・)。
(画像は、大関貴ノ花が横綱北の海との優勝決定戦に勝ち悲願の初優勝。後方、大盃に酒を注いでいるのは実兄でもある二子山【元横綱若乃花】親方。1975年3月23日、朝日クロニカル週刊20世紀より)
参考:
大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
貴ノ花利彰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E3%83%8E%E8%8A%B1%E5%88%A9%E5%BD%B0
貴ノ花 対 輪島 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_shobu/request7.html
年寄株問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E5%AF%84%E6%A0%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C
nikkansports.com > 社会TOP > おくやみ「さよなら貴ノ花、二子山親方がんに逝く」
http://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2005/pe-050530.html
貴ノ花 利彰 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/takanohana.html
貴ノ花 健士・生涯星取表(昭和40年-45年)
http://deliciousway.sakura.ne.jp/sumo/hoshi/takanohana01.htm
貴ノ花 利彰 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/takanohana.html
大相撲記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
貴乃花親方&花田勝の二子山部屋遺産相続
http://homepage3.nifty.com/nonu/gsumou.html
細身の身体と驚異的な粘り腰で絶大な人気を博し「角界のプリンス」とよばれた華やかな土俵生活と、引退後は二所一門ばりの猛稽古で2横綱、1大関を育て上げ、藤島、二子山部屋を角界一の勢力にまで育て上げた親方としての成功とは裏腹にその人生は、波乱に満ちたものであり、最後は病(口腔底癌)に勝てず55歳という若さで亡くなった。
貴乃花利彰(本名は花田満)は、1950(昭和25)年2月19日、青森県弘前市出身で、土俵の鬼と呼ばれた元横綱初代若乃花幹士と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。元横綱・3代目若乃花で実業家・タレントの花田勝と一代年寄貴乃花光司の父である。夫人は元女優でタレントの藤田憲子(1970年【昭和45年】結婚。2001年【平成13年】離婚)。
マスコミ報道によれば、中学3年の時中学記録を更新し将来五輪候補と期待されていたそうだが、「水泳では飯が食えない」と角界入りを決意し、1965(昭和40)年、実兄である元横綱若乃花幹士が横綱を引退後年寄・二子山を襲名し、10代目二子山親方として1962(昭和37)年9月2日に花籠部屋から分家独立して創設していた二子山部屋へ入門。だが兄二子山親方は現役時代にもう一人の弟である若緑陸奥之丞が自分と同じ部屋に入り、挫折したのを目の辺りにしていただけに大反対するが、それを母親がとりなし「兄弟の縁を切る」を条件に渋々入団を許可されたのだとか・・・。そして、兄から師匠へと立場の変わった二子山親方は「弟だから甘くしている」と言われないため、貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。また、兄弟子たちからもひどいしごきを受けたとも伝わるが、これは、二子山の指導が厳しかったため、親方の弟と言うことで弟が仕返しされるという図式のようだが、そんないじめとやしごきに耐えながら、夏場所本名のままで初土俵を踏み序ノ口から17場所連続勝ち越し3年足らずの1968(昭和43)年春場所、18歳0カ月で十両に昇進、同九州場所の18歳8カ月での新入幕(幕内)はともに当時最年少記録である。その後一度十両に下がるが1970(昭和45)年1月場所貴ノ花と改めて再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得。そして、翌・1971(昭和46)年5月場所5日目には、大横綱大鵬と対戦し寄り倒しで破る金星をあげ、大鵬はこの取組後引退を表明した。この取り組みは、以下参考に記載の「貴ノ花 利彰 - goo 大相撲」で見れる。
その後「行事泣かせ」と言われた足腰の強さで数々の名勝負を繰り広げ、1972(昭和47)年初場所中日に、横綱北の富士の外掛けに体をのけぞらせながら左側に振り手をつかせ、これが「かばい手」か「つき手」かで物議(物言い)を醸したり、1980(昭和55)年秋場所では高見山の小手投げを耐える際に髷が土俵をはいて黒星といった際どい相撲で沸かせた。
又、同門の花籠部屋に入門してきた輪島とは、ライバル同士になり、激しい争いを演じている。1972(昭和47)年9月場所の皇太子ご一家をお迎えしての千秋楽では、輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に、2 人は揃って大関に昇進した。この時の画像は以下参考に記載の「貴ノ花 対 輪島 - goo 大相」撲で見れる。
輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱をとったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは貴輪(きりん)時代を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖(現在日本相撲協会理事、前理事長)に実力面で追い抜かれ、輪湖(りんこ)時代が訪れることになる。
しかし、1974(昭和49)年7月場所、休場明けで万全な体調ではなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関北の湖と12日目に対戦し、吊り出しで破った一番などは、小兵の貴ノ花が巨漢の力士を豪快に破った名勝負の1つとして記憶される。
そして、1975(昭和50)年春・3月場所千秋楽、ただ1人1敗の貴ノ花は2敗の横綱・北の湖と対戦、勝てば初優勝だったが負けるが、休憩後の決定戦で北の湖を下し、大関15場所にして彼岸の初優勝を果たした。この時、本来は審判部長の高砂(元横砂朝潮 )が渡すべき優勝旗は、協会の配慮により、貴ノ花の兄であり師匠でもある二子山の手から渡されたが、優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目にうっすらと涙が浮かんでいたのが印象的であった。冒頭に貼付の画像は、横綱北の海との優勝決定戦に勝ち初優勝の祝賀会。後方から大盃に酒を注いでいるのが兄でもある二子山親方である。(1975年3月23日、朝日クロニカル「週刊20世紀」より)。兄弟優勝は史上初。兄である双子山親方の嬉しい気持ちが良くわかる。
また、同年9月場所にも13日目、横綱北の湖に敗れたものの千秋楽まで、輪島・魁傑を破り3敗で北の湖と並び決定戦となるが、決定戦で見事上手投げで破り、2回目の優勝を決めた(この時の映像も先に紹介した以下参考に記載の「貴ノ花 利彰 - goo 大相撲」で観れるよ)。
この2回の優勝後、兄若乃花に次いでの兄弟横砂が期待されたが、怪我や内臓疾患に苦しみ横綱への昇進はかなわなかった。
実兄であり師匠でもある双子山親方(初代若乃花)に見出され急成長し、同じ二子山部屋で大関となっていた若三杉(初代若乃花の娘婿。後に離婚)が、1978(昭和53)年5月場所後には横綱に昇進。明治神宮での新横綱奉納土俵入りでは、若三杉の兄弟子に当たる大関・貴ノ花が太刀持ちを務めたのは有名であるが、貴ノ花ファンからは「かわいそうだからやらせないで!」という声も上がったが、師匠の二子山は、ファンサービスと同時に、貴ノ花に奮起を促す為、あえて弟弟子の太刀持ちを命じたとも言われている。そして、若三杉は、横綱昇進を機に師匠の四股名を継承し、2代目「若乃花」となった。
貴ノ花にとっては、この2回の優勝の時期が力士としての全盛期だったのだろう。当時前人未到の大関在位50場所目を迎えた1981(昭和56)年1月場所の6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳でついに引退することとなった。綱とりは実現しなかったとはいえ、細い身体で大きな相手に真っ向からぶつかっていく悲壮感あふれる取り口には、判官贔屓のファンが数多く付いており、人気面ではナンバーワンだった。又、その甘いマスクから女性ファンからの人気も絶大であった。
引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方を経て、翌・1982(昭和57)年には藤島(12代)に名跡変更し、二子山部屋から2月に、数名の内弟子を連れて分家独立し、藤島部屋を興した。
1988年(昭和63)年2月に長男の若花田勝(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田光司(後の横綱・貴乃花)が入門し、その活躍が話題になった。他にも関脇・安芸乃島勝巳(現在:年寄千田川虎央)や貴闘力忠茂(現在:年寄・大嶽)、後に大関となる貴ノ浪貞博(現在:年寄・音羽山)らの有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。
そして、10代目二子山親方が、1993(平成5)年3月に停年退職を迎えるため、同年2月1日付で二子山親方と藤島親方が年寄名跡の交換を行い、二子山親方が13代目藤島親方、藤島親方が11代目二子山親方となっている。この時、ともに多くの幕内力士を抱えていた部屋同志が合併したため、平成5年春場所(1995年)では11代目二子山親方を師匠とする二子山部屋は一気に、幕内力士10人を含む総勢50人の大部屋となった。この2つの部屋の合併により、同部屋対決は優勝決定戦以外には行われないため、当時の新大関の貴ノ花にとって苦手の三杉里が又、若花田も若翔洋戦などがなくなり、ファンの楽しみが半減することとなった(同部屋対決については、同部屋・4親等以内の取組回避を参照)。
1994(平成6)年11月場所後には、次男の貴ノ花が横綱に昇進し、次いで、1998(平成10)年5月場所後に同じく長男の若乃花が横綱へと昇進。1990年代後半には2横綱を抱えることとなった。さらに、これと同時期に大関貴ノ浪や関脇安芸乃島貴闘力、若翔洋を輩出し、部屋は全盛期を迎えることになったが、そのために、普通なら横綱との対戦のない幕内中位の力士が横綱と対戦するなど、取組編成上支障をきたす様なことも起こるようになったが、若・貴をはじめとする新二子山部屋力士などにとっては、有利な取り組みになっていたといえるだろう。
1996(平成8)年には、二子山親方と藤島親方(兄弟)間での年寄株「二子山」名跡の譲渡にあたり、後援会からの贈与金およそ3億円の所得の申告漏れを東京国税局により摘発され、巡業部長の職を解かれた。この摘発により、年寄名跡の高額売買の実態が明らかにもされた(以下参考に記載の年寄株問題参考)。
実子の若・貴兄弟が揃って横綱になった直後から二子山部屋の周囲には、若・貴兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」問題など暗雲が漂い始めていた。
兄の方は、2000(平成12)年3月場所5日目に現役引退を表明、年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない同年12月18日に突如日本相撲協会を退職。その後、タレント・実業家として意外な方面で能力を発揮している。
一方弟の方は、2003(平成15)年1月場所限りで引退した後、一代年寄・貴乃花を襲名して二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた。しかし、2003(平成15)年秋頃から父・二子山親方は体調を崩し、入退院を繰り返していたが、部屋の運営をめぐる確執、千田川親方(元関脇安芸乃島)の移籍問題などで衝突することがあったようだが、翌・2004(平成16)年2月1日付で、貴乃花が二子山部屋を継承し、部屋の名称も貴乃花部屋に変更して親方業に就いた。
しかし、2005(平成17)年5月30日、父・二子山の死に際して、兄弟間の確執が噴出し、マスコミを介して大騒動に発展したことはテレビなどで報道され、誰もが知っての通りである。その後、貴乃花部屋も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001(平成13)年に不倫疑惑が報道される中で別居、後に離婚するなど、「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。
兎に角、有名なだけに、この一家には、スキャンダルも多く、度々週刊誌やワイドショーをにぎわせてもいたが、これも、人気者たちの宿命か?それとも、スキャンダラスの中には隠された意外な事実もあるのだろうか?(ネット上には、以下参考に記載の「貴乃花親方&花田勝の二子山部屋遺産相続」といったようなものがあるが・・・)。
(画像は、大関貴ノ花が横綱北の海との優勝決定戦に勝ち悲願の初優勝。後方、大盃に酒を注いでいるのは実兄でもある二子山【元横綱若乃花】親方。1975年3月23日、朝日クロニカル週刊20世紀より)
参考:
大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
貴ノ花利彰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E3%83%8E%E8%8A%B1%E5%88%A9%E5%BD%B0
貴ノ花 対 輪島 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_shobu/request7.html
年寄株問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E5%AF%84%E6%A0%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C
nikkansports.com > 社会TOP > おくやみ「さよなら貴ノ花、二子山親方がんに逝く」
http://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2005/pe-050530.html
貴ノ花 利彰 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/takanohana.html
貴ノ花 健士・生涯星取表(昭和40年-45年)
http://deliciousway.sakura.ne.jp/sumo/hoshi/takanohana01.htm
貴ノ花 利彰 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/takanohana.html
大相撲記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
貴乃花親方&花田勝の二子山部屋遺産相続
http://homepage3.nifty.com/nonu/gsumou.html
初代貴乃花の元嫁さんは未だ時々TVに出ていますね。随分面の皮の厚い人だと感心します。そんな人だから亭主が九州に仕事に行っている間に男を連れ込んだりしたのも事実かもしれませんね。彼女を使うTV局もTV局ですが。