今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「初金比羅」の日

2006-01-10 | 行事
今日(1月月10日)は「初金比羅」の日
毎月10日は金比羅の縁日で、一年最初の縁日は「初金比羅」と呼ばれている。
こんぴら 船々 追い手にほかけて
  しゅら しゅ しゅ しゅ
  まわれば四国は 讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり)
  象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現
  いちど まわれば・・・
よく知られている香川県民謡金毘羅船々である。
讃岐の象頭山にある金刀比羅宮(ことひらぐう)は、近世では金毘羅大権現、金比羅さんの名で知られた。
江戸時代後半、伊勢と並んで人気を集めたのが四国讃岐の金毘羅参りで、森の石松の次郎長代参の物語などは有名だね~。
この金毘羅参りでは、天狗の面を背負い、奉納の酒樽を持ってゆくのが約束ごとになっていたようだ。添付の画像は、広重画「東海道五十三次・沼津」の部分画であるが、白衣の男の背中には金比羅様の守り神でもある鼻を高く突き出した巨大な天狗の面がある。これを奉納した。また男の前には四国巡礼に行く母子が描かれており、巡礼の必需品である柄杓(厄除けのため)を持っている。
※画像はAdachi HOME PAGE浮世絵ギャラリー 【東海道五十三次】 より借用。元の沼 津 の大きな画を見たければここ
京・大坂など関西方面から来る参拝船のほとんどは、本州側を陸続きにやってきて、田の口港、下津井港をはじめとする児島の港から四国へ渡ったという。 このルートが好まれたのは、海上距離が短かく遠距離航海用の船をもてなかった、江戸時代においては、陸からできるだけ離れないことが一番の安全であったからであろう。 この図は下のHPでどうぞ・・・。
※四国の金比羅参り今も昔もこのルートで → http://homepage3.nifty.com/sophia-kojima/hanasi/konpiramairi.htm
金毘羅(こんぴら)は、天竺霊鷲山の鬼神である。薬師如来の十二神将の筆頭・宮比羅大将(くびらたいしょう)のことで、ヒンズー教の福徳の神クーベラが仏教に取り入れられ宮比羅大将となり、神仏習合によって弥勒菩薩(他に十一面観音菩薩など諸説あり)の垂迹(すいじゃく)神として金毘羅大権現が成立したといわれている。香川県琴平の金刀比羅宮が全国の金比羅神社(こんぴらさん)の総本宮となっている。
金毘羅は元々クーベラが鰐の神であったことから、水に関連が深く、象頭山が瀬戸内海を航行する船の目印になったことからいつしか船の守り神、海上交通の守り神として信仰されるようになって来た。一般に、どこも大きな港を見下ろす山の上に祀られているようだ。象頭山の前の海、塩飽(しあく)はもとは塩湧(しわく)から転じた名前と言われている。このあたりで、西は下関海峡と豊後水道からきた潮流が、東の紀伊水道からの潮流とぶつかり、そこで潮が湧き立って塩湧く海となる海上交通の難所であり、特にこの付近を根拠地とした塩飽水軍が熱烈に信奉し、「流し樽」という風習も生まれた。これは沖を通る船が金毘羅様に奉納する初穂料や神酒、お賽銭を樽に入れ、「奉納金刀比羅宮」と書いた幟を立て、海を航行しながら樽を投げ入れると「流し樽」は外洋に流れ出ることもなく潮に乗り、金毘羅様のお山の麓の海域に流れつくのだそうだ。岸に流れ着いた樽は地元の人が拾ってお宮にに届けてくれる仕組になっているという。
広重は金比羅参りの男が天狗の大きな面を背中に背負って歩く姿を画いているが、金刀比羅宮と修験道・天狗とはかなりのかかわりがあったようだ。金比羅、つまり琴平宮のある山、象頭山は海抜617メートルの大麻山の峰続きで、かって、金比羅つまり琴平宮のある山、象頭山は山岳信仰・修験道の山であった。神体山として『延喜式』神名帳にある雲気(くもげ)神社が、金刀比羅宮の原始社頭ではないかともいわれ、象頭山の一角の、雲気神社が古くから式内社とされている。又、江戸時代修験者によって唱えられた「天狗経」には日本中の高山にまじって「象頭山金剛院」の名がある。そして琴平宮の祭神は現在は、金毘羅神の垂迹とされる豊穣神、大物主神(大国主神)が祭神である。だが、もう一柱崇徳上皇が祀られている。崇徳上皇は周知のように保元の乱により讃岐に流された。上皇は都への帰心が強く、その願望がかなえられないまま亡くなられたが、その時、「怨念によりて、いきながら天狗のすがたにならせ給ふ」と保元物語に記されている。その亡くなられた翌年、1165(永万元)年7月に金比羅宮にその御霊を祀ったという。そこで金比羅というのは天狗になった崇徳院の御霊であるという伝承もあるいう。こうしてみると、金比羅宮と天狗の関係は深いのだよね。
しかし、なんか神社の祭神を見ておかしいな~?と思う人も多いと思うが、それは明治時代の神仏分離の後遺症なんだよね。
金比羅というのは、元々お釈迦様が修行したというヒフラ山の守護神でもあった。このヒフラ山は形が象の頭に似ているので、象頭山(ぞうずさん)とも呼ばれた。金刀比羅宮は昔は松尾寺という真言宗のお寺で、松尾寺の御本尊は釈迦如来で、その守護神として金毘羅様が祀られ、裏山を釈迦の修行の地に名を借りて象頭山と呼ばれたようだ。それがやがて神仏習合によって廃仏毀釈をおそれ、寺自体は廃絶させた上で、祭神を仏教とは無関係の大物主神と崇徳天皇に変更し、金刀比羅宮として生き残った。そして現在もこの祭神が踏襲されているということなのだそうだ。
江戸時代、伊勢参りとこんぴら参りは庶民にとって一生に一度の夢だった。昔は自分の居所を勝手に離れるようなことは禁止されていたが、お参りだけは許された。しかし、せっかくの旅も途中で、疲労など旅の継続を断念しなければならない人がいた。そのような人は、別の人に旅費と初穂料を渡し、代参を依頼した。森の石松の次郎長代参は有名だよね~。その頼まれた人もダウンするとこの時、犬の首に旅費と初穂料をくくりつけて、自分の代理とし、その犬をリレーしていく、ということも行われたという。この代参犬を、「こんぴら狗」というのだとか。しかし、本当に、犬が変りに代参してくれたのかな~。なんとものどかな話ではあるが、今の悪い人間のはびこっている時代だと、犬に預けた、初穂料なども取られてしまうだろうな~。
(画像は広重画「東海道五十三次・沼津」の部分。Adachi HOME PAGE浮世絵ギャラリー 【東海道五十三次】 より借用。)
参考:
金毘羅 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%AF%98%E7%BE%85%E7%A5%9E
本地垂迹(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
金刀比羅宮 美の世界-四国新聞社
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/kotohira/
◆天狗小研究◆
http://toki.cool.ne.jp/sangaku/tengu/tengu.html
十二神将
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/12shinshou.htm

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