今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

北天佑(元大関)の忌日

2007-06-23 | 記念日
今日(6月23日)は、北天佑(元大関)の2006(平成18)年の忌日。
北天佑勝彦(ほくてんゆう かつひこ)、本名・千葉 勝彦は、1960(昭和35)年8月8日、北海道室蘭市出身、三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士である。
最高位は大関。昭和から平成にかけて足掛け8年もの長きに渡って大関を務め、大関在位数は貴ノ花千代大海に次ぐ歴代3位、44場所の記録を持つ。のち年寄13代・二十山となった。
四股名は「北の天に生まれ人の右に出る」の意味だそうだ。体格に恵まれ、スカウトした先代三保ヶ関親方(元大関初代増位山)のみならず角界関係者からは大いに期待され、将来は横綱間違いなしと太鼓判を押される程の逸材だった。
1976(昭和51)年 3月に初土俵を踏み、1980(昭和55)年 5月十枚目、同年11月 新入幕,、1981 (昭和56)年 3月場所、横綱若乃花の必殺右上手投げを土俵際、左下手投げで切って返し大物の名を不動にした。7月小結となって3場所保ったが、1982(昭和57)年1月、右足首を怪我をし幕下に下降するも、11月には、小結に復帰、翌1983(昭和58)年 1月には、新関脇に昇進。新関脇になってからは、3場所連続10勝以上の好成績で、3場所目の1983(昭和 58)年5月場所には14勝で優勝し、大関昇進の目安条件の33勝を大幅に上回る、37勝8敗で見事大関に推挙された。
均整の取れた柔軟な体格で足腰が強く、握力が左右ともに100kg近くあり、角界で3本の指に入る程の怪力でも知られた。上位力士に対する強さにも際立つものがあり、当時の横綱若乃花千代の富士に対してもたびたび横綱相撲を展開して土俵を沸かせた。特に千代の富士に対してはがっぷり四つからの吊り・寄りを武器に一時期は5連勝(ただし不戦勝1を含む)しており、大関2年目時点での対戦成績は不戦勝を除いても9勝9敗と、全くの互角だった。同じく怪力で千代の富士を圧倒した隆の里と似た戦法ながらも、隆の里とは一味違う大胆かつ豪快な取り口を身上とし、「北海の白熊」と呼ばれたその均整のとれた体とパワーは、当時の九重親方(元横綱北の富士)をして「うちの幕下全員と北天佑を交換したいぐらい」と言わしめたという。
特に記憶に残る試合は、1984(昭和59)年5月場所13日目の試合である。北天佑が隆の里に勝てば、14場所ぶりに兄弟子・北の湖の優勝が決定するという一番で、北天佑が見事援護射撃を果たした試合である。その瞬間北天佑は、控えに座っていた北の湖の方を振り返り、思わず土俵上でニッコリ微笑んだ。すると、なんと北の湖の方も、弟弟子の北天佑を見て笑みを返すというひと幕があり、このなんとも言えない場面はテレビ中継でお茶の間にも流れた。
また同年11月場所では、前9月場所で急激に成長し上位力士を圧倒した小錦と対戦。堂々たる相撲で210キロの巨漢の挑戦を寄り切りで退けた。以後も小錦に連勝するなど、その強さを見せ付けた。
1985(昭和60)年7月場所、千秋楽、北尾、大乃国がそれぞれ勝ち12勝を守り、12勝の北天佑は朝潮と対戦することとなった。破れれば三つ巴戦となる取組を、上手出し投げで朝潮を下し、13場所ぶりに2回目の優勝を決めた。
以下では、「1984(昭和59)年5月場所13日目の試合:対隆の里戦」と「1985(昭和60)年7月場所、千秋楽1985(昭和60)年7月場所、千秋楽対朝潮戦」の懐かしい動画が見れるよ。
北天佑 勝彦 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/hokutenyu.html
この優勝で、いよいよ待望の綱取りかといわれたが、結局昇進には至らなかった。
得意は左四つ寄りと左下手投げとなっているが寧ろ右上手投げの方が強かったのではないかと思われ、攻防兼備型の取り口ではあったが、「こうなれば絶対」に負けないという自分の型を持っていなかったのが泣き所であった。そして、豪快な技が多い反面、取り口が力任せだった事も災いして負傷による休場も少なくなかった。1987(昭和62)年3月場所の小錦戦で膝を負傷してからは、大関昇進前及び昇進直後の荒武者のような大胆な取り口があまり見られなくなり、糖尿病を患ったこともあってか相撲も小さくまとまってしまった。そのようなことから、大関となってからの北天佑には関脇時代の荒武者のような荒々しさがなくなり、おとなしい試合が多くなり、下位との取りこぼしも多かったことから、大関としての成績そのものは平凡なものであった。
2回目の優勝以降、怪我や病気で思うように勝ち星があげられない事については本人も重圧に感じており、本人の考えていた大関として望まれる最低10勝以上の勝ち星が1990(平成2)年1月場所での試合が最後となり、同年9月場所途中に引退を表明することとなった。引退会見では2連勝の後の4連敗で引退を決意したと語り、あと6場所で大関在位記録1位の50場所に並ぶと言われながらも、退き際の美学にこだわった「潔い引退」として惜しまれつつ土俵を去った。
引退後は二十山部屋を興し、ロシア出身の白露山を関取に育てたが、2006年3月場所中に体の不調を訴えて緊急入院。精密検査の結果は多発性脳梗塞と発表されたが、同時に腎臓癌を発病していた事が判明したという。それからわずか3ヶ月後の2006(平成18)年6月23日、腎臓癌のため東京大学医学部付属病院で死去。45歳の若さだった。
当時、私の一番好きな関取であった。性格も明るく、大関になるまでの関脇時代は、本当に強く、必ず横綱になると思ったのだが、成れず残念であった。病気や怪我で持ち前のパワーが発揮できなくなったことが大きい。特に、大きな外国人力士を相手に力相撲をして足を怪我したことは大きかった。
今や日本の相撲界は両横綱が外人になってしまった。やがては、三役以上は外人が占めてしまうのではないだろうか。相撲は勝つことだけを目的のスポーツではない。本当は、それぞれに、これが自分の相撲だという型を持って、その型で相手を倒す。それが、面白かった。もう、強さだけを争うような競技になってしまった。私は、大の相撲ファンであったが、もともと、人気取りの為に日本の国技に外国人を入れることには大反対であった私は、若乃花(花田勝)や舞の海など身体の小さな力士が、大きな外国人力士を相手の相撲に体力の限界を感じて角界を退いてからは、もう、相撲を見ることはなくなった。
(画像は、まな弟子の白露山【左】と共に、入幕を喜ぶ元二十山親方(北天佑)。2005年6月27日写真。2006年7月31日朝日新聞写真より)
参考:
北天佑勝彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A9%E4%BD%91%E5%8B%9D%E5%BD%A6
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
大相撲 記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
遺恨相撲 (Linda)
2007-06-23 08:34:17
よーさん、お早うさんです。
北天佑さんの弟さんも力士でしたね。関取になったのじゃないかと思いますが、千代の富士の虐めで視力がなくなったとかで廃業したんじゃなかったかと思います。ですから千代の富士戦は北天佑が遺恨相撲で闘志を燃やしたとかと読んだことがあります。千代の富士って言う人も横綱として立派な人格を持っていなかったようですね。
返信する
千代の富士 (よーさん)
2007-06-24 07:17:14
Lindaさん、そういえば、そんな話聞いたように思います。
千代の富士も横綱になってからはそれらしい横綱になりましたが、それまでは、ウルフと言われていたように荒っぽく、しかも余り態度の良い方ではなかったようですね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。