からりと晴れ上がった佐世保造船所で、1962(昭和37 )年7月10日 出光興産の当時世界最大のタンカー「日章丸3世」が進水 した。建造費約50億円をかけた長さ291メートル、13万9千重量トンのマンモスタンカーは1回で7億円相当(当時)の原油を運ぶため、単位あたりの輸送コストは3割減となったという。最初の航海はクエートであった。「日章丸」が世界一だった時期は短く、20万トン、40万トン級のタンカーがこの後続々と建造された。
”水より安価”で、工業的にも応用範囲の広い石油を、中東からごっそり、日本に運んでこようと言うのである。地底数百メートルから人の手で掘り出される石炭は、石油に比べて俄然割高になった。高度成長は日本人の豊かさをもたらしたが、炭鉱労働者の仕事をなくし、暮らしを石油付けにしてゆくことになった。
19世紀以前の石油が灯油として使われていた時代から、19世紀末の自動車の商業実用化、20世紀初めの飛行機の発明。舶も重油を汽缶(ボイラー)の燃料にするようになり、ガソリンエンジンなど内燃機関で利用されるようになっていたが、第二次大戦後、石油の新たな用途として、既に戦前に登場した化学繊維やプラスチックが、あらゆる工業製品の素材として利用されるようになった。また、発電所の燃料としても石油が利用された。
戦後しばらくして、中東に大規模な油田が発見された。中東は優れた油田が多いだけでなく、人口が少なく現地消費量が限られているため、今日まで世界最大の石油輸出地域となっている。石油の探査には莫大な経費と高い技術が必要であり、必然的に石油産業では企業の巨大化が進み、石油メジャーと言われる巨大な多国籍企業も誕生した。そして、石油の大量産出によって安価な石油はエネルギー源の主力となり、「エネルギー革命」と呼ばれるエネルギー源の変化が生まれた。石油が、エネルギー源としての石炭の役割を奪ったこの「エネルギー革命」は、1950年代半ばに始まる世界的な流れであったが、その転換が余りにも急激であったために「革命」と呼ばれたのだが、とりわけ日本では急ピッチに進んだ。
朝鮮戦争による特需ブーム(詳細は朝鮮特需参照)の後、対日講和条約が、1951(昭和26)年に調印されると、日本は自立を強く意識するようになる。1955(昭和30)年から1961(昭和36)年までの間に国民総生産は70%増えたが、中でも重化学工業部門の伸びは著しく、エネルギーの需要は急増する。そして、石油化学コンビナートが続々誕生し、日本列島の海岸線が一大変化に見舞われるのもこの頃である。
しかし、石炭は国産が可能な上、炭鉱労働者の職域確保が欠かせない問題であったことからエネルギー革命の道は平坦ではなく、「炭主石従」から「石主炭従」への転換が明確に打ち出されたのは、1960(昭和35)年の所得倍増計画の策定後であった。さらに、1971(昭和46)年のニクソン・ショック以後、ほぼ一貫して円高が進み、石炭の輸入価格は国内炭の3分の1程度になった。そして、明治以降の日本の近代化を担ってきた炭鉱の閉山が相次ぐこととなった。産業活動を活発に進めるためにはコストの安いエネルギー源を大量に安定して供給する体制を整備しなければならない。その意味で、1962(昭和37)年10月に、象徴的な出来事が2つあった。1つは原油及び石油製品の輸入に課せられていた外貨割り当てが重油を除いて廃止されたことである。石油産業自体はこれに伴う設備拡張や販売競争に明け暮れ収益減少に悩まされたが、日本経済は低廉な石油エネルギーを土台にして世界一の高度成長を謳歌するようになる。もう1つが、当時としては、世界一のマンモスタンカー「日章丸3世」が就航したことである。出光興産は、大型タンカーを自国で建造し、自社船による原油の安定供給の確保とともに、日本の造船業の発展にも貢献してきた。
しかし1970年代に資源ナショナリズムが強まると、石油を国有化する国が相次いだ。1973(昭和48)年から1974(昭和49 )年には、第四次中東戦争でアラブ石油輸出国機構がイスラエル支持国への石油輸出を削減し、オイルショックと世界的な不況をもたらした。
このオイルショックは、先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明白となった。中東以外での新しい油田開発、調査が積極的に行われるようになった。原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道をはじめとする公共交通機関を再評価する動きも出た。最近は中国などの新興経済国の需要が拡大していることから、また、原油価格が高騰を始めており、これがまた、石油ショックの再現となるのではないかとの懸念もされてい。以下参考の「原油高騰 1ドル上昇ごとに…」参照)
地球の温暖化も進んでおり、これからは、石油だけではなく、エネルギーそのものの消費を抑えてゆかなくてはならなくなるだろうから大変だろうね~。
(画像は、出光興産の「日章丸」。佐世保重工業佐世保造船所で7月10日に進水。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
社史 - 出光興産
http://www.idemitsu.co.jp/company/manage/history/index.html
出光興産-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%85%89%E8%88%88%E7%94%A3
佐世保重工業
http://www.ssk-sasebo.co.jp/ssk/jp/network/sasebo/index.html
朝鮮戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
ガソリン140円台 強気崩さぬ元売り各社
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/news/20070613ve02.htm
”水より安価”で、工業的にも応用範囲の広い石油を、中東からごっそり、日本に運んでこようと言うのである。地底数百メートルから人の手で掘り出される石炭は、石油に比べて俄然割高になった。高度成長は日本人の豊かさをもたらしたが、炭鉱労働者の仕事をなくし、暮らしを石油付けにしてゆくことになった。
19世紀以前の石油が灯油として使われていた時代から、19世紀末の自動車の商業実用化、20世紀初めの飛行機の発明。舶も重油を汽缶(ボイラー)の燃料にするようになり、ガソリンエンジンなど内燃機関で利用されるようになっていたが、第二次大戦後、石油の新たな用途として、既に戦前に登場した化学繊維やプラスチックが、あらゆる工業製品の素材として利用されるようになった。また、発電所の燃料としても石油が利用された。
戦後しばらくして、中東に大規模な油田が発見された。中東は優れた油田が多いだけでなく、人口が少なく現地消費量が限られているため、今日まで世界最大の石油輸出地域となっている。石油の探査には莫大な経費と高い技術が必要であり、必然的に石油産業では企業の巨大化が進み、石油メジャーと言われる巨大な多国籍企業も誕生した。そして、石油の大量産出によって安価な石油はエネルギー源の主力となり、「エネルギー革命」と呼ばれるエネルギー源の変化が生まれた。石油が、エネルギー源としての石炭の役割を奪ったこの「エネルギー革命」は、1950年代半ばに始まる世界的な流れであったが、その転換が余りにも急激であったために「革命」と呼ばれたのだが、とりわけ日本では急ピッチに進んだ。
朝鮮戦争による特需ブーム(詳細は朝鮮特需参照)の後、対日講和条約が、1951(昭和26)年に調印されると、日本は自立を強く意識するようになる。1955(昭和30)年から1961(昭和36)年までの間に国民総生産は70%増えたが、中でも重化学工業部門の伸びは著しく、エネルギーの需要は急増する。そして、石油化学コンビナートが続々誕生し、日本列島の海岸線が一大変化に見舞われるのもこの頃である。
しかし、石炭は国産が可能な上、炭鉱労働者の職域確保が欠かせない問題であったことからエネルギー革命の道は平坦ではなく、「炭主石従」から「石主炭従」への転換が明確に打ち出されたのは、1960(昭和35)年の所得倍増計画の策定後であった。さらに、1971(昭和46)年のニクソン・ショック以後、ほぼ一貫して円高が進み、石炭の輸入価格は国内炭の3分の1程度になった。そして、明治以降の日本の近代化を担ってきた炭鉱の閉山が相次ぐこととなった。産業活動を活発に進めるためにはコストの安いエネルギー源を大量に安定して供給する体制を整備しなければならない。その意味で、1962(昭和37)年10月に、象徴的な出来事が2つあった。1つは原油及び石油製品の輸入に課せられていた外貨割り当てが重油を除いて廃止されたことである。石油産業自体はこれに伴う設備拡張や販売競争に明け暮れ収益減少に悩まされたが、日本経済は低廉な石油エネルギーを土台にして世界一の高度成長を謳歌するようになる。もう1つが、当時としては、世界一のマンモスタンカー「日章丸3世」が就航したことである。出光興産は、大型タンカーを自国で建造し、自社船による原油の安定供給の確保とともに、日本の造船業の発展にも貢献してきた。
しかし1970年代に資源ナショナリズムが強まると、石油を国有化する国が相次いだ。1973(昭和48)年から1974(昭和49 )年には、第四次中東戦争でアラブ石油輸出国機構がイスラエル支持国への石油輸出を削減し、オイルショックと世界的な不況をもたらした。
このオイルショックは、先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明白となった。中東以外での新しい油田開発、調査が積極的に行われるようになった。原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道をはじめとする公共交通機関を再評価する動きも出た。最近は中国などの新興経済国の需要が拡大していることから、また、原油価格が高騰を始めており、これがまた、石油ショックの再現となるのではないかとの懸念もされてい。以下参考の「原油高騰 1ドル上昇ごとに…」参照)
地球の温暖化も進んでおり、これからは、石油だけではなく、エネルギーそのものの消費を抑えてゆかなくてはならなくなるだろうから大変だろうね~。
(画像は、出光興産の「日章丸」。佐世保重工業佐世保造船所で7月10日に進水。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
社史 - 出光興産
http://www.idemitsu.co.jp/company/manage/history/index.html
出光興産-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%85%89%E8%88%88%E7%94%A3
佐世保重工業
http://www.ssk-sasebo.co.jp/ssk/jp/network/sasebo/index.html
朝鮮戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
ガソリン140円台 強気崩さぬ元売り各社
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/news/20070613ve02.htm
この日章丸、私が九大造船科を出まして、SSKに入社しましたときに進水、就航しました。とても印象にのこっております。現在73歳になります。懐かしい思い出です。
ftmp2009@gmail.com
関係者にブログ見てもらえて光栄です
かって海運王国日本と言われた時代私の周りでも船に乗っている人が多くマカにはタンカーに乗っている人もいました。
港神戸に生まれ育った私などもあなたと同じような年代、学生時代には船乗りにあこがれたこともありましたが、結果としては船会社ではなく商社に入社しました。
今の神戸は震災も重なり港が衰退し非常に残念に思ています。