今日(3月30日)はフランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日。
1969(昭和44)年3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺した。
AFP電として日本の新聞でも報道されたところによると、フランシーヌ・ルコントさんというこの女性はベトナム戦争、ナイジェリアに心をいため、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたという。また、ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれるが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるという。(1969年3月31日付 朝日新聞夕刊)
1人の女性の焼身自殺で何が変わるわけでもない。家族の話のように、精神を病んでのことかもしれないが、いずれにしても、かなり思い詰めての行動であろう。
この事件に、心を動かされた日本人によって、一つのフォークソング(反戦歌)が作られた。いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲「フランシーヌの場合」である。
フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えた いのちひとつ
フランシーヌ
この歌は3ヵ月後の6月に発売された。新谷のり子さんのデビュー曲であるこの歌は80万枚を超える大ヒット作となった。以後、新谷のり子さんは反戦、反核、反差別をテーマにコンサートを続けておられるという。思えば、この曲が大ヒットした1969(昭和44)年は、学生運動がもっとも盛り上がったときであった。ベトナム戦争、沖縄闘争のうねりと共に時代の心を代表し、多くの人々の支持を得た。恐らく、今の50代以上の人には、忘れられない曲ではないだろうか。
1960年代は、後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や(新左翼)の学生が武力闘争を展開する学園紛争(学園闘争)が起こった。全共闘の学生達は大学当局との団体交渉(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。そして、ついに、1969(昭和44)年1月、前年の東大医学部の無期限ストライキに端を発した、「東大・安田講堂事件」が起こった。全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。18日早朝、守る学生は400人、攻める機動隊8500人。300台を超す放水車、投光車、防石車、そしてへりが投入される。東大・安田講堂の屋上からは何百本の火炎瓶が投げ落とされる。上空警視庁のヘリコプターからは、催涙弾、地上からも猛烈な放水とガス弾。空陸一体になっての攻撃が始まった。まるで戦争である。大学紛争のシンボル、東大・安田講堂をめぐる攻防戦は実に35時間。東大全共闘の最後の砦は落城した。逮捕者は、東大構内で633人、安田講堂で377人(東大生は20人)。(朝日クロニクル・週間20世紀より)。幸い、学生・機動隊とも負傷者は多かったが死者はなかった。この安田講堂(砦)の落城が、全共闘運動の分水嶺だった。この東大全共闘を支えたのは、団塊の世代であった。「出入り自由の柔軟な集合体」の全共闘は、セクト嫌いのノンポリをひきつける魅力があったが、この柔軟性が新左翼各派の付け入るところとなり、東大闘争を複雑にした。党派の思惑に振り回され、非妥協を競い合った挙句武装闘争というスタイルが前面に出てしまった。このあと、大学紛争は関西を中心に全国に飛び火する。その数はピーク時77校。だが、秋には、1校また、1校と正常化した。それは、安田講堂事件後、強行採決された大学臨時措置法が圧力となり、紛争が長引くことによる「閉校」を恐れる大学側が、積極的に機動隊を導入したからである。
安田講堂事件の終焉後、学生達の間ではシラケが進行していたが、一部のセクトは過激化、武装化への道を進み赤軍派など過激なグループが出てくる。そして、赤軍による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍によるリンチ事件、あさま山荘事件、へとつながっていくのである。
思えば、1969(昭和44)年のこの年は、経済が成長し、人々の生活と意識が大きな変化していた一方で、日本の政治・経済・社会はもちろん、水俣病に象徴される環境公害被害など、すべての面で大きな問題を抱えていて、その矛盾が噴出した年でもあった。この年を特徴づけるものは、何と言ってもデモと集会で、一番よく知られているのは、ベトナム反戦・反安保をかかげる集会やデモである。その先頭を走ったのは、青年労働者であり、学生だった。学生たちは街頭で政治的課題で行動しただけではなく、自分たちの問題である教育制度や中身の歪み、学歴中心社会の問題や旧態依然たる学問の現状に激しく厳しい批判を投げつけた。全国の大学や高校で学園紛争が生じた。その象徴的なものが、前年の日大紛争であり、この年の東大・安田講堂事件であった。この年、映画では、高倉健の任侠もの、藤純子のお竜さんが大流行。網走番外地の健さんも 緋牡丹のお竜さんも裏街道をゆくはぐれ者。はぐれものが受けた時代だった。安田講堂内の学生たちは、敗北を承知で機動隊と対決し、火炎びん、催涙ガス弾が飛び交うこととなった。当時の加藤一郎学長代行の最終提案は学生達の要求を大幅に取り入れたもので、受諾すれば一応の勝利になるものなのに、「東大紛砕」を叫ぶ学生達は恐怖と戦いながら安田砦にとどまった。そこには、玉砕の美意識見たいなものがあった。今の人の大勢や権力や高度成長や生き残り競争を支配する価値観からすればまことに、馬鹿な生き方に見えるだろう。しかし、任侠の封建的な世界と先鋭的な革命の理論をもつ若者の行動には、抑圧された者が止むに止まれず決起したときには、美しく負けようといった精神につながる面があっったように思われる。当時、東大全共闘を支えた、団塊の世代も同じ気持ちで、任侠ものの映画を観ていたのではないか。
今の時代は、これまでの価値観が崩壊し、すべてが行き詰まったあのころとよく似ているように思われる。いや、それ以上だろう。しかし、今の日本の若者からは、そのような社会に対して、何の反抗をする気概も見られないのが哀しい現実である。
以下の二木紘三のMIDI・歌声喫茶でフラシーヌの場合のMIDIが聞けます。
二木紘三のMIDI・歌声喫茶「フラシーヌの場合」
(画像はDENON(日本コロムビアCD、「フラシーヌの場合」新谷のり子)
参考:
東大安田講堂事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
東大闘争(安田講堂攻防戦)事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage141.htm
雑感・戦後日本の世相と流行歌(26)
http://www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/essay_26.html
70年安保闘争史略年表
http://www.asahi-net.or.jp/~GR4T-YHR/zennen.htm
PICK UP 新谷のり子
http://event.sbrain.co.jp/pickup/sintani_noriko.html
1969(昭和44)年3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺した。
AFP電として日本の新聞でも報道されたところによると、フランシーヌ・ルコントさんというこの女性はベトナム戦争、ナイジェリアに心をいため、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたという。また、ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれるが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるという。(1969年3月31日付 朝日新聞夕刊)
1人の女性の焼身自殺で何が変わるわけでもない。家族の話のように、精神を病んでのことかもしれないが、いずれにしても、かなり思い詰めての行動であろう。
この事件に、心を動かされた日本人によって、一つのフォークソング(反戦歌)が作られた。いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲「フランシーヌの場合」である。
フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えた いのちひとつ
フランシーヌ
この歌は3ヵ月後の6月に発売された。新谷のり子さんのデビュー曲であるこの歌は80万枚を超える大ヒット作となった。以後、新谷のり子さんは反戦、反核、反差別をテーマにコンサートを続けておられるという。思えば、この曲が大ヒットした1969(昭和44)年は、学生運動がもっとも盛り上がったときであった。ベトナム戦争、沖縄闘争のうねりと共に時代の心を代表し、多くの人々の支持を得た。恐らく、今の50代以上の人には、忘れられない曲ではないだろうか。
1960年代は、後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や(新左翼)の学生が武力闘争を展開する学園紛争(学園闘争)が起こった。全共闘の学生達は大学当局との団体交渉(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。そして、ついに、1969(昭和44)年1月、前年の東大医学部の無期限ストライキに端を発した、「東大・安田講堂事件」が起こった。全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。18日早朝、守る学生は400人、攻める機動隊8500人。300台を超す放水車、投光車、防石車、そしてへりが投入される。東大・安田講堂の屋上からは何百本の火炎瓶が投げ落とされる。上空警視庁のヘリコプターからは、催涙弾、地上からも猛烈な放水とガス弾。空陸一体になっての攻撃が始まった。まるで戦争である。大学紛争のシンボル、東大・安田講堂をめぐる攻防戦は実に35時間。東大全共闘の最後の砦は落城した。逮捕者は、東大構内で633人、安田講堂で377人(東大生は20人)。(朝日クロニクル・週間20世紀より)。幸い、学生・機動隊とも負傷者は多かったが死者はなかった。この安田講堂(砦)の落城が、全共闘運動の分水嶺だった。この東大全共闘を支えたのは、団塊の世代であった。「出入り自由の柔軟な集合体」の全共闘は、セクト嫌いのノンポリをひきつける魅力があったが、この柔軟性が新左翼各派の付け入るところとなり、東大闘争を複雑にした。党派の思惑に振り回され、非妥協を競い合った挙句武装闘争というスタイルが前面に出てしまった。このあと、大学紛争は関西を中心に全国に飛び火する。その数はピーク時77校。だが、秋には、1校また、1校と正常化した。それは、安田講堂事件後、強行採決された大学臨時措置法が圧力となり、紛争が長引くことによる「閉校」を恐れる大学側が、積極的に機動隊を導入したからである。
安田講堂事件の終焉後、学生達の間ではシラケが進行していたが、一部のセクトは過激化、武装化への道を進み赤軍派など過激なグループが出てくる。そして、赤軍による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍によるリンチ事件、あさま山荘事件、へとつながっていくのである。
思えば、1969(昭和44)年のこの年は、経済が成長し、人々の生活と意識が大きな変化していた一方で、日本の政治・経済・社会はもちろん、水俣病に象徴される環境公害被害など、すべての面で大きな問題を抱えていて、その矛盾が噴出した年でもあった。この年を特徴づけるものは、何と言ってもデモと集会で、一番よく知られているのは、ベトナム反戦・反安保をかかげる集会やデモである。その先頭を走ったのは、青年労働者であり、学生だった。学生たちは街頭で政治的課題で行動しただけではなく、自分たちの問題である教育制度や中身の歪み、学歴中心社会の問題や旧態依然たる学問の現状に激しく厳しい批判を投げつけた。全国の大学や高校で学園紛争が生じた。その象徴的なものが、前年の日大紛争であり、この年の東大・安田講堂事件であった。この年、映画では、高倉健の任侠もの、藤純子のお竜さんが大流行。網走番外地の健さんも 緋牡丹のお竜さんも裏街道をゆくはぐれ者。はぐれものが受けた時代だった。安田講堂内の学生たちは、敗北を承知で機動隊と対決し、火炎びん、催涙ガス弾が飛び交うこととなった。当時の加藤一郎学長代行の最終提案は学生達の要求を大幅に取り入れたもので、受諾すれば一応の勝利になるものなのに、「東大紛砕」を叫ぶ学生達は恐怖と戦いながら安田砦にとどまった。そこには、玉砕の美意識見たいなものがあった。今の人の大勢や権力や高度成長や生き残り競争を支配する価値観からすればまことに、馬鹿な生き方に見えるだろう。しかし、任侠の封建的な世界と先鋭的な革命の理論をもつ若者の行動には、抑圧された者が止むに止まれず決起したときには、美しく負けようといった精神につながる面があっったように思われる。当時、東大全共闘を支えた、団塊の世代も同じ気持ちで、任侠ものの映画を観ていたのではないか。
今の時代は、これまでの価値観が崩壊し、すべてが行き詰まったあのころとよく似ているように思われる。いや、それ以上だろう。しかし、今の日本の若者からは、そのような社会に対して、何の反抗をする気概も見られないのが哀しい現実である。
以下の二木紘三のMIDI・歌声喫茶でフラシーヌの場合のMIDIが聞けます。
二木紘三のMIDI・歌声喫茶「フラシーヌの場合」
(画像はDENON(日本コロムビアCD、「フラシーヌの場合」新谷のり子)
参考:
東大安田講堂事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
東大闘争(安田講堂攻防戦)事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage141.htm
雑感・戦後日本の世相と流行歌(26)
http://www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/essay_26.html
70年安保闘争史略年表
http://www.asahi-net.or.jp/~GR4T-YHR/zennen.htm
PICK UP 新谷のり子
http://event.sbrain.co.jp/pickup/sintani_noriko.html
僕たちは10年前の60年安保世代でした。安保闘争では樺美智子さんの死、岸首相の声なき声発言、その他に勤評問題、政暴法などでデモに参加しました。未だゲバルトはなかったと思います。フランス式ジグザグデモ、座り込み程度でした。ノンポリも居ましたが、体育会系の学生以外の大抵の学生は何か意見をもって居た様に思います。今、体制に対する怒りをなくした若者には覇気が感じられません。
「戦争を知らない子供たち」
よーさん(気安く呼んでごめんなさい)やLindaさん達とは少し時代が下がってますね
私達の世代もきっと覇気の無い世代に見えるでしょうけれど、でも世の中を支えてる団塊です
樺美智子さんのニュースには胸を痛めました
「何で偉い人が亡くなるの?」子供心に思ったものです
樺美智子さんのニュースには胸を痛めましたね。
しかし、昔の若者は元気が良かった。正義感が強く、義侠心があった。権力者に対して抵抗する気力もあった。それにたいして、今の若者の無気力さは我々の年代のものには本当に情けない気がする。我慢強さもなければ、いい意味の義侠心もない。そのくせ、何かあるとすぐ切れる。そして、強いものには反抗できず、年寄り、子ども、女性など、弱者をいじめたり、騙したりする。戦後の、道徳教育などを怠った付けが回ってきたのでしょうね。
蒸気の漏れる古い大学病院の売店の前の掲示板には、
新聞の写真ニュースで、三億円事件、安田講堂突入アポロ11号月面へ、大阪万博、よど号、三島自殺、などの白黒写真が貼られていました。
当時の歌はどれも暗く辛気臭いものが流行っていましたが、そういう時代だったのかもしれません。
まだまだ、軍隊経験のある人が社会の働き盛りで、中堅の焼け跡派が子育てに忙しい時代でした。
酔えば大学の先生が、軍艦マーチやナチの党歌の旗を高く掲げよを歌う時代でもありました。
なにか今の時代、あの頃と似たというよりもっと悪い感じになってきましたね~。
アベノミクスの円安・株高政策でちょっと景気も良くなりかけたにみえるが、円安による消費者物価の上昇、税率のアップと一般大衆にはこたえる大企業優遇政策。
若い人が何も意思表示しないのはもう、あきらめの境地なのか。
今イスラム国のテロが問題になっているが、今は資本主義制作が行くつくところまで来ており、破たんしかけている。
貧富の格差がどんどんと拡大をしており、貧しいもの、力のないものの行き場がなくなってきている。
日本からもいつイスラム国へ参加するものが出てくるかわからない状況になっている。
かっての学園闘争時代は、若者が団結して表から戦いを挑んだが、今の時代負け犬となったものがやけっぱちで何時何をするかわからない時代になってしまった。
これから先が心配です。
現在、高校生のものです。
一応若者ですかね ^^)
今は、いわゆる2012年問題が過ぎ団塊の世代の方々が一線を退くときとなっているのでしょうか。
団塊の世代の方々の若者への意見は時々耳に痛いものがあります
今はこういう時代なのではと思っています。
グローバル化、転職が当たり前
昔なら労働環境が悪ければ組合を作って改善しましたし国の政治に不満があればデモをしたでしょう。
しかし今は、会社がいやなら転職、国が嫌なら外国で普通に暮らせます。もちろん限界はありますが。
僕はドキュメンタリー番組が好きでたまたまBGMとして使われていた縁でこのサイトを訪れました。
僕はどうしても反戦を叫んで電車の窓ガラスを割ったり交番を焼き討ちにしたりすることが正義だとわ思えませんでした。
正直、体制にただ反対してよいことがあるのかと思うのです。
壊された公共物は国民の税金で作られたものです。
困ったのは政治家よりも地元の零細企業でしょう。
人が生きていくには戦いは必要かもしれませんがあんな形でなくてもと思いました。
お前は右翼か!体制派か!と怒られてしまいそうですが。(汗)
若者を代表する意見ではないでしょうが僕としては実力行使での運動やシールドなどの運動がどうしても偽善的でうさん臭く見えてしまうのです。
学生運動の全国の学生の情熱の行き着く先が何の落ち度もない一般市民に対する損害、最後にはテロ、ハイジャックへと。虚しいと思いましたし真似はしたくないです。
最後に、若者が意思表示をしないのではなく大人が若者を見ていないのではないでしょうか。
僕の目には共産主義が未来の輝くものに見えません。
若者は独自の価値観や文化を持っています。
それは団塊の人々にとって異様なものに映るかもしれませんがそれは若者にとっても同じです。
できれば団塊の世代の方々が今の若者とお互いを理解し、よき理解者となっていただければと思います。
高校生の方ですか。
選挙法が変わって来年から投票権が出来ますね。
将来は若者のためにある。
年寄りには先が短く今が良ければ余り先のことは考える必要がない。
将来は若者が作っていかなければいけないでしょう。
私はもうずいぶんと前になるが現役時代、会社の幹部ばかりが集まる勉強会で、京セラの会長の話を聞いたことがあります。
普通の会社では会社の将来・どんな良い会社にしてゆくかなど、幹部(年配者ばかりですが)が立案してゆくが、京セラでは
若い社員に良い会社づくりの目標を作らせているという。
その理由は、将来の良い会社など若いものが自分たちのために考えることで、その時にはいなくなる年寄りが考えるものではないでしょう。
だから若い者中心に考えさあせている。。
ただ、経験知識等至らぬところもあるので、そういった面はフォローしているとは言っていたが・・・。
さすが、急成長している超一流企業の経営者は素晴らしいと感心したものです。
以来、私のいた企業でも、若者やパーートタイマーまで幅広い意見を非常にまじめに聞き入れ政策を立案しています。そんな経営者が立派です。
そのような努力の甲斐あって、当時はまだ2・3流の企業であったものが今では超一流といっていい大企業に成長しています。
夢は必ず努力によってかなうです。
ただ、並々ならぬ努力が必要ですが。
企業であれ、社会であれそれを変革するのは若者のはずです。
その若者が方法・手段は別としても、堂々と意見を主張し行動することが大切です。
頭の中で考えていても行動をしないと何にもなりません。.
今は政治不信で選挙への投票率も非常に低い。特に若者の投票率が低い。
あきらめの境地かもしれないが、あきらめて何もせず良くなることなどあり得ない。.
政治の世界も世の中も、若者の力で変えようと決意すれば必ず変えられる。
まずは選挙で自分たちの夢を実現してくれそうな人を選ぶことから始めるべきでしょう。
社会主義も、今では、民主主義の国も行き詰まって崩壊しかけています。
自由主義の社会では、力のあるものとないものはどんどん差が開いてゆき、いろんな面での格差社会ができてきました。イスラム国などのテロリストも宗教問題だけではなく、そんな格差問題が底辺にあるから生まれたのでしょう。
これからの世の中どうするか。
世の中を変えるには若い人たちが政治に参加し、本気で、我慢強く努力してゆくしかないと思います。
我々年寄りの余命は数年しかないのですから・・・。