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作詞家・大高ひさを(カスバの女)の忌日(Ⅰ)

2010-09-02 | 人物
大高ひさをと言っても名前を知っている人はもう少ないだろうが、Wikipedia によれば、1916(大正5)年3月11日、北海道小樽市生まれで、テイチク専属作詞家として多数の作品を残し1990(平成2)年の今日・9月2日に死去(享年74)とあるが、何故か、この人のプロフィールについては、この他に僅かの代表作を紹介している以外、他の事は書かれておらず、ネットで色々、検索してみてもやはり、それ以上のことは判らないままだ。
彼の作品のなかで私の知っている曲としては、長津 義司とのコンビで作曲したもので、戦前、「別れのブルース」「雨のブルース」「東京ブルース」と次々にヒットを飛ばし、「ブルースの女王」と称えられた淡谷のり子が、戦後最初に放ったヒット曲「君忘れじのブルース」(1948年)、マドロス歌謡で人気を博しバタヤンの愛称で親しまれていた田端義夫の「玄海ブルース」(1949年)や、通称「エレジーの女王」と呼ばれた菅原 都々子の歌「江の島悲歌(エレジー)」(1951年、作曲: 倉若晴生)、「連絡船の歌」(1951年、作曲:金松奎、編曲:長津義司)、エト邦枝の歌「カスバの女」(1955年、作曲:久我山明)、石原裕次郎牧村旬子がデュエットで歌い、今でもカラオケのスタンダードナンバーとして歌い継がれている歌「銀座の恋の物語」(1961年作曲:鏑木創)などが有るが、中でも特に、彼の作品として広く知られており、私も好きな曲が、久我山明作曲により、エト邦枝が歌った「カスバの女」である。
涙じゃないのよ 浮気な雨に
  ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
  ここは地の果て アルジェリヤ
  どうせカスバの 夜に咲く
  酒場の女の うす情け
1955(昭和30)年に、エト邦枝(本名笠松エト)が、吹き込んだこの歌「カスバの女」は、もともと、同年制作の芸術プロの映画「深夜の女」の主題歌としてテイチクで作られたものだそうだが、不幸なことに、肝心の映画が制作中止になったため、映画主題歌として発売された「カスバの女」は、社内の話題にもならず、余り売り込みにも真剣に力を入れていなかったようで、吹き込み当時はあまりヒットしなかった。そのため、この曲を、吹き込んだ失意のエトは3カ月後には、芸能界を去り、歌謡教室を開いていたという(以下参考の※1:「早すぎた流行歌 「カスバの女」」など参照)。
しかし、玄人筋を中心に愛好するものが少なからずいて、じわじわと浸透していた。それが、懐メロブームが起こっていた1967(昭和42)年に緑川アコによってカバーされて有名となった。
この曲は、緑川の他にも、竹越ひろ子ちあきなおみ青江三奈藤圭子キム・ヨンジャ(金蓮子)など多くの歌手によってカバーされているが、上述のYouTubeにアクセスすると、青江三奈以外のものは聞けるので聞き比べてみるとよいがなかなかの名曲である。
この歌には、日本の歌謡曲にも関わらず、アルジェリヤのカスバやフランスのセーヌ川やシャンゼリゼ通り、チュニス(チュニジア共和国の首都)やモロッコ(モロッコ王国)といったっ当時の日本人には余り馴染みのない外国の地名のほか外人部隊などの名が登場するユニークな歌だ。
以下参考の※1:「早すぎた流行歌 「カスバの女」」に作詞に至った理由など詳しく書かれているが、大高と一緒に仕事をしていた韓国人の作曲家、孫牧人(ソン-モギン。日本でのペンネーム「久我山明」)の哀調あるメロディーを聞き、作詞を依頼された大高は「日本の演歌では、ものまねになる」と思い、舞台を外国にした。その時、戦時中に見たフランス映画「望郷」のシーンが浮かびあがったという。
邦題名「望郷」というこのフランス映画は、ジュリアン・ディヴィエ監督が1936(昭和11)年に製作した「ペペ・ル・モコ」という映画で、ジャン・ギャバンが主演、完成した翌1937(昭和12)年には日本でも封切られてファンに大きな衝撃を与えペシミズム(厭世主義、悲観主義)を昇華させた名作として位置づけられている作品であり、、1939(昭和14)年キネマ旬報ベストテン1位にも選ばれている作品である。
当時のフランス領アルジェリアの中心都市・アルジェが主な舞台となっている。映画の内容は以下参考の※2:「名作映画特集 -望郷-」を参照されるとよい。
アルジェリアの無法地帯カスバに逃げ込んだギャバン扮するお尋ね者を酒場女に置き換え、題名を「カスバの女」に決めると「言葉がわいてきて、その夜、一気に書き上げた」(1974年『演歌夜噺』)という。カスバの路地で酒場の女がひとり、砂漠の果てまで流れてきた我が身を呪う。雇われ兵士と女とののっぴきならない出会いと別れ…。歌には、そんなストーリーがある。歌の解説は以下参考の※3:「カスバの女: 二木紘三のうた物語」にも詳しく書かれている。
このような歌謡曲のほかに、1950年(昭和25年)の朝鮮動乱(朝鮮戦争)による特需景気によってお座敷ソングブームが起こると、九州に伝わる民謡としてヒットしていた「炭坑節」が、翌年各社(コロムビアレコードから赤坂小梅、ポリドールレコードで日本橋きみ栄、キングレコードで音丸、テイチクレコードからは美ち奴)の競作で発売されたが、大高ひさを作詞、長津義司編曲により美ち奴が歌ったテイチク盤のみが歌詞の中に「三池炭鉱の上に出た」と歌うことが許され、戦後初の大ヒットとなったとWikipediaには書かれている。そういえば、今まで気がつかなかったが私が聞き覚えている「炭坑節」歌詞は、美ち奴のものだ。
大高の作った歌には、もともとは韓国で流行っていた歌に、日本語の歌詞を付けて出したカバー曲がいくつかある。

大高ひさを(カスバの女)の忌日(Ⅱ)と参考へ

(画像は海から眺めたアルジェのカスバ。Wikipediaより)

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2 コメント

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カスバの女 (pompom)
2014-06-14 17:28:27
この聞き慣れない歌の題名を
聞いたのは夫がデイサービスでカラオケにこの曲をいつも歌うと知ってから。はじめは「カスベの女」と聞き間違えていたわたし。
学生運動が盛んな時代
夫がよく東京で聞いたそうですが。

今では、フランスの美しい映像もありデイの利用者さんの間では女姓も歌うようになり、今ではカラオケの人気の曲になっているようです。 

作詞された方が我が街、小樽出身とは知りませんでした。
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カスバの女 (管理人)
2014-06-16 10:12:05
pompomさん書き込みありがとう!
カスバの女いい歌ですよね。
ご主人がデイサービスのカラオケでいつも歌っているとか・・・。
お好きなのでしょうね。
この歌が作られた時代にしては哀愁の漂ったちょっとモダンな歌。私も大好きです。
みんなに歌い継がれてほしい歌ですね。
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