今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

カラー映画の日

2009-03-21 | 記念日
1951(昭和26)年の今日(3月21日)、国産初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」(脚本・監督:木下惠介)が封切られた。
当時、既に大女優としてその名も高い高峰秀子小林トシ子とともにストリッパー役で出演している。
内容は、家出して東京でストリッパーをしているカルメン(高峰秀子)こと、ちょっとおつむの弱いおきんは、男性たちを魅了することのできる裸踊りを芸術だと信じて疑わない。そんな彼女が、仲間の朱美(小林トシ子)とともに芸術家気取りで信州の故郷に里帰りしたことから、静かな村が大騒ぎとなるコメディもので、彼女達のセミ・ヌードを総天然色で見せた。・・・といっても、今の時代と違って、まだ戦後占領下の映画でもあり 高峰と小林扮する天真爛漫で能天気なストリッパーがヘソと太ももを露わにする程度のものであり、それを見てこの時代の村の人は衝撃を受けたのだ・・・(こんなもの)(^0^)。
故郷に錦を飾ろうとするストリッパー・カルメンを演じる高峰の明るく爽やかな演技が、また、その反対に、出征で視力を失うも、貧しさに耐えながら作曲家として曲を作り続ける田口先生(佐野周二)の作曲した浅間の風景
火の山の 麓の村よ
なつかしの ふるさと
花に木に 梢の鳥に
光満てる わが里
と、「そばの花咲く」(映画挿入歌、木下忠司作曲)をオルガンを弾きながら子どもたちと謳う場面が印象的である。一途な思いで相反する生き方をするそれぞれの人間の美しさと哀しさを木下惠介がコメディとして見事に表現。戦後6年を経過し、自由でどことなく軽薄な風潮と、それに対する賛否両論の世論を風刺した映画といえる。
この映画は、総天然色映画とうたわれてヒットを記録。翌年の1952(昭和27)年には続編として「カルメン純情す」(goo-映画参照)が製作された。
戦後になって、戦前戦中の作品を含む大量の外国映画が輸入されるが、その中に、自国では見られなかったアメリカのカラー映画などに刺激され、日本でも本格的なカラー映画を製作しようとする機運が高まっていたことから、1950(昭和25)年に、諸外国に比べ立ち遅れている天然色映画を振興させることは、単に娯楽としてだけでなく、学術、教育、観光面などでも重要なものとした決議案が4月18日の衆議院本会議で満場一致で通過。一刻も早く天然色化を進め、米・英・ソに継ぐ世界第4位の天然色映画国として、外貨獲得に乗り出そうということも狙いと伝えられているという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。
そして、作られたのがこの映画であるが、それまで、部分使用や短編のカラーではあったが、長編のカラー映画では日本で初めてとされている。1937年の「千人針」(goo-映画参照)が日本最初のカラー映画と言われるが、この映画のフィルムは国産ではなかった。
「カルメン故郷に帰る」は、トーキーに続く「日本初」を目指し、松竹富士フイルムにより松竹大船撮影所で製作されたもの。
当時カラー映画を撮影するためには強い光が欠かせず、出演者はものすごい照明熱のなかで撮影に挑んだのだという。映画の舞台も当初設定されていた上高地北軽井沢に変更したのも、軽井沢の方が安定した日照が期待できたことがその理由の1つになっているそうだ。
それに、カラー映画には技術やコストの面で問題が多く、万一この映画がカラー映画として満足のゆく出来にはならかった場合を考えて、撮影は先ずフジ・カラーで撮影を行い同時にそれが終わってから改めてモノクロでも製作されるといった二度手間をかけて撮り上げた作品だそうだ。なおカラー版と平行して撮影されたモノクロ版は、映画公開後に破棄されたものと長らく思われていたが、木下惠介の死後の遺品の中からオリジナルの16mmモノクロ版が発見され、その一部は松竹ホームビデオの『木下惠介DVD-BOX』に特典として収録されているのだそうだ。このカラー映画での撮影についてはここ日本初のカラー映画を参照。
さきに、国産ではないが日本最初のカラー映画「千人針」が1937年に公開されていたこと、又、それまでにも、部分使用や短編のカラーではあったことを書いていたが、そのことにも少し触れておこう。
かって、戦前の日本には、大正期にすでに、大日本天然色映画(略称天活、1914年3月17日設立)という会社があった。
無声映画時代に、イギリスで発明された新技術「キネマカラー」の特許を取得し、日本初のカラー映画「義経千本桜(吉野山道行)」(監督:吉野二郎 出演:坂東勝五郎 市川海老十)を製作し、設立1か月足らの1914(大正 3)年4月3日には東京・浅草キリン館で公開。同年、4月、「百花爛漫(美人と果物)」(浅草帝国館)、「花魁の道中」(浅草キリン館)、5月「海上飛行家」(浅草キリン館)、「日比谷公園の躑躅とものいふ花」(浅草帝国館)、6月 「伽羅先代萩」 「亀井戸と四つ目と浅草観音及び江の島の風景」、「黒染桜」、「忍夜恋曲者」、7月、「大正博覧会場と花電車」8月、「両国川開き」(いずれも浅草キリン館)、.11月、 「色彩の研究」(、浅草帝国館)、「関の扉」(月度、場所不明)等、連続公開。以下参考に記載の日本映画データベースの「1914年 公開作品一覧 359作品」、「1915年 公開作品一覧 248作品」、「1916年 公開作品一覧 248作品」、「1917年 公開作品一覧 312作品」、「1918年 公開作品一覧 223作品」、「1919年 公開作品一覧 182作品」、「1920年 公開作品一覧 265作品」を参照されたい。
キネマカラーとは、赤と緑に色分解して1コマづつ交互に赤と緑に撮影したものを、上映の際は赤と緑のフィルターに交互に投下させる方法のもの。しかし、キネマカラーによる映画に色をつける手法は手間がかかるとともに機械が思うように動作しなかったりで、採算が合わず最終的には5年後の1919(大正8)年に撤退した。
そして、再び日本映画にカラーを取り上げるようになるのは1930年代になってから。1931(昭和 6)年の満州事変以降十五年戦争に傾いていく中で映画や写真などが戦争を伝えるメディアの役割を果たすようになったからである。
そのような中で作られたのが、1937(昭和12)年に公開されたカラー映画「千人針」(大日本天然色映画製作所、三枝源次郎監督)である。内容を、私は見ていないが、“召集令状が届き支那事変(日中戦争)へ出征前にその母と会い、千人針に糸を通してもらい戦場へ赴く”・・・といったものらしい。
戦前の日本でも富裕層を中心に、アメリカ製コダック・カラーフィルムやドイツ製アグファ・カラーフィルムなどは、ホームムービーとして一部の家庭では存在していたようであるが、本格的に映画として作られたものが、この映画であり、大日本天然色映画製作所がマルチカラー方式と呼ばれる米国の技術を使って製作したといわれているが、そうすると、コダックのフイルムでも使って製作したのだろうか?
因みに、日本映画データベースの1937年 公開作品一覧を見ると、大日本天然色映画製作所は、1937年10月1日電気館にて「千人針」公開の前に、大阪常盤座で「月形半平太」(志波西果監督)を1937年2月28に公開しており、また、公開日不明ではあるが同じく電気館で「牡丹燈籠 」(宮田味津三監督)も公開している。そうすると、「千人針」が、日本最初のカラー映画と言うのも誤りのようで、同年に同社が.2月28に大阪常盤座で公開した「月形半平太」こそが、日本製のフイルム使用ではないが、日本初のカラー映画と言うことになるのだろうね~。(※大阪常盤座はかって南区千日前にあった日活の直営館だろう。以下参考に記載の「大阪の都市景観 その3」参照。又、電気館はかって浅草六区にあったものと思う)
さらに、戦時色が深まるに連れ、日本では輸入にたよっていたフィルムを国内で生産しなければならなくなったが、当時の技術ではカラーは完成することはなく、戦後になってやっと、公開された総天然色映画が「カルメン故郷に帰る」であり、それが、富士フイルムの「外型反転カラーフィルム」と言われるものであった。このことは、以下参考に記載の「FUJIFILM/ヒストリー 」や「Atelier Manuke」映画のページの国産カラーの時代を見られると詳しく書いてある。
又、映画に関連する日のことはほかにも今までに、このブログで、「映画の日」(12月1日)「初の日本製映画が歌舞伎座で公開 された日」「アカデミー賞設立記念日」などを、書いているので、興味のある人は覗いて見てください。
(画像は、映画「カルメン故郷に帰る」のワンシーン。中央:高峰秀子・アサヒクロニクル「週間20世紀」映画の100年より。)
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クリック⇒カラー映画の日:参考

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2 コメント

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フジテレビの者です (土山純平)
2009-03-23 17:25:55
突然の書き込み申し訳ありません。
フジテレビでニュース番組を担当している者ですが、バスガールについて調べていたところ、こちらのサイトを発見いたしました。

2005年2月2日に掲載されているバスガールの写真は、どちらから見つけられたものでしょうか?
私どもでも使用したいと考えております。

お忙しいところ恐縮とは思いますが
ご連絡いただければと思います。

jumpjump620@hotmail.co.jp
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バスガールの写真の件 (よーさん)
2009-03-26 10:48:01
土山純平さん、ブログ見ていただき有り難う!
暇に任せ気ままに書いています。返事が送れてすみません。お問い合わせの、2005年2月2日ブログ「バスガールの日」の冒頭の写真は、
「アサヒクロニクル・週間20世紀」の1920年、No058号の20P(年表ーこの年の出来事・風俗)の中央ぐらいに掲載されています。
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