明治9年(1876年)4月1日「自今満弐拾年ヲ以テ丁年ト相定候」との太政官布告第41号が出された。
つまり、これは、明治政府が男子の満20歳以上を丁年(成年)と公的に定めたもの。
“二人の母親はまた生憎(あいにく)揃(そろ)ひも揃つて二人をお腹に持つて居た頃に未亡人になりました。丁度国の大戦の為にその国の丁年(ていねん)以上の男子が大方戦線へ出たその兵士の仲に当然交(まじ)つて行つて仕舞ひ、その上間もなく二人の夫が二人とも戦死したからでありました。”・・・。これは、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家であり、大阪万国会場の 太陽の塔を作った芸術家岡本太郎の母親でもある岡本かの子『秋の夜がたり』(『婦女界』1933(昭和8)年11月発表。以下参考の青空文庫参照)から抜粋したものである。ここに、”丁年(ていねん)以上の男子が大方戦線へ出”と有るように、明治5年(1872)の「徴兵告諭」(以下参考の「「徴兵告諭」(『法令全書』)-史料日本史」参照)の中で、「四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ」というように、20歳という年齢が打ち出され、翌明治6年(1873年)1月10日(新暦)には徴兵令が施行されている。
国語辞書に【丁】(ちょう・てい)は、「・官に徴発して使役する役夫。よほろ。・律令制で、課役(調・庸・雑徭(ぞうよう)を負担する成年男子(ちょう))とあり(Goo-国語辞書参照)、これが、広辞苑にあるように、「生年男子を指す」。かっては、生年=成年のことを「丁年」と言った。 【成年】は、「人の知能・身体が成育発達して一人前の人として認められる年齢。また、単独で法律行為をなしうる年齢であり、現行法(民法第4条)では満20歳となっている。ただし、未成年者でも結婚したものなど(民法第753条)例外規定はある。これは「婚姻による成年擬制」と呼ばれ、婚姻関係にある未成年者に独立性を与え、また男女の平等を保つための措置であると考えられている。ただし、これらは私法上での法律行為に限られ、飲酒、喫煙、選挙権など公法に関わる行為については、それぞれに関わる法律で定められた年齢に達するまでは行うことはできない。
成年者に対しては独立・完全な財産行為能力が与えられており、20歳以後は、私法上、財産取引に関する契約を締結したり、独立して親権を行使することが可能となっている。
“壱 予ハ予ノ死後遺ス所ノ財産ヲ両半ニ平分シ左ノ弐条件ヲ附シテ壱半ヲ予ノ相続者予ノ長男森於菟ニ与ヘ壱半ヲ予ノ母森みねニ与フベシ
弐(省略)
参 予若シ森於菟ガ未ダ丁年ニ達セザル時ニ死セバ森於菟ノ財産ハ森しけヲシテ管理セシメズ予ノ弟森篤次郎及予ノ妹小金井キミヲシテ管理セシムルコト是ヲ条件ノ弐トス“・・・。これは、明治・大正期の文豪森鴎外の『遺言三種』に書かれている遺言1種より抽出したものである(以下参考の青空文庫参照)。森於菟(長男)は、最初の妻・登志子との間に出来た息子であり、しけ(志け)は後妻 である。
遺言の日付は書いていないが、“於菟ガ未ダ丁年ニ達セザル時ニ死セバ”とあり、鴎外が死んだとき、於菟が丁年(成年)に達していない(未成年)場合でも、相続人にはなれるが、未成年者は制限行為能力者である(20条1項)ことから、遺産分割手続は法定代理人が行う。法定代理人は通常親権者である父母がなるが、親権を行うもの(親権者)がないとき、または子の財産を管理する権利を有しないときは、未成年者の後見人が法定代理人となる。森鴎外は、先妻との子である於菟が成年になっていない時に亡くなったときには、後妻の志けを管財人とは認めず自分の弟や妹に相続権のある息子の財産管理をさせることにしたんだよね~。色々森家の事情が窺える。
今では、成年といえば、満20歳以上をさすが、なぜ20歳なのか?成年とは何か?などとといった問いに答えるのは難しいことだろう。現代でも成年の基準として明らかなのは、20歳という年齢だけであり、兎に角、誰であろうと一応20歳になれば兎に角成年になり、選挙権が与えられ、犯罪を犯すと新聞に実名が出る、飲酒や喫煙が法的に認められるようになる。現在、このような、成年と未成年の法的な区分は主として選挙権と少年法の問題が生み出している。
選挙権についてみれば、大正14(1925年)に出来た「普通選挙法」は、25歳以上の男子のみに選挙権を与え、女性には与えておらず、20歳以上の男女等しく選挙権が与えられるようになるのは、戦後のGHQによる民主化により昭和20年(、1945年)12月に改正衆議院議員選挙法が公布されてからのことである(以下参考に記載の[選挙の歴史」参照)。
少年法の場合、戦前の旧少年法(大正11年法律42号)の下では少年の定義は18歳未満、死刑適用限界年齢は16歳以上といずれも2歳低かった。この少年法で、「成人とは、満20歳以上のものをいう」(第2条)と定めたのは、やはり、戦後の改正((昭和23年7月15日法律第168号)によるものであった。
このように、戦前においては、選挙権を得られることと、一般の刑罰を受けることなどについて年齢的な一致は見られなかったのである。
法的に見ても、1947(昭和22)年に成立した児童福祉法や、労働基準法などでは、満18歳に満たない者を、児童また若年者として扱い保護しているなど戦後においても、必ずしも20歳を成年とすることは、定着していなかった。
昭和23年(1948年)国民の祝日に関する法律(祝日法)が公布され、国民の祝日の1つとして「成人の日」が制定された。しかし、何歳以上を成人とするかは、特別記されているわけではない。ただこの日を制定した趣旨を、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」としているだけである。このような成人を祝う儀礼は古くからあり、男子には元服や褌祝がそれに対して、女性には、裳着の儀や「腰巻祝」「結髪祝」などの儀式が、成人への通過儀礼として行なわれてきた。その他、各地の村々などでも村人たちが定めた成人の儀式が行われていたようだが、それらに一定の年齢基準があるわけではなく、年齢に関係なくそこの村人達に成人と認められるだけの行為が出来るようになれば成人として認めるといったものが多かったようで、その様な儀式は、日本以外の国にも見られることである。このような日本の各地で行なわれていた独自の通過儀礼等は明治以降一部の地域を除き、衰退していったようだ。
国民の祝日に関する法律による「成人の日」については、現行「民法」(第4条)で、「年齢二十歳をもって、成年とする」と規定しているものによっているようだが、この現行民法は明治29年(1896年)に制定されたものである(当時は、第3条で「満20年ヲ以テ成年トスル」と規定)。
しかし、民法制定当時、それより20年も前の明治9年4月(1876年)には、すでに「太政官第41号布告」において、「自今満二十年ヲ以テ丁年ト相定候」と明記され、満20歳を「丁年」、つまり、今日でいう成年と定めていたことは、冒頭に述べた通りである。この布告に先立ち、明治6年(1873年)2月には、「太政官第36号布告」で、年齢の計算方法が数え年から満年齢へと変更になっており、太政官第41号布告でも満年齢が採用されている(以下参考の「〈成年〉と〈未成年〉のはじまり―満20歳という年齢―」参照)。
明治に於いてこの”民法典” (現在から見た場合は”旧民法”)作成の時、各地方の民間慣行などを調査して編纂したとされる『全国民事慣例類集』(以下参考に記載の「本の紹介(No.38) 「全国民事慣例類集」(司法省)」参照)を参考にしたとされているが、同書に記載された慣習は、地方によって異なり、「幼年」の年齢は、15歳から22、3歳まで開きがあるが、同書は「凡ソ十五歳未満ヲ幼年ト称スル事一般ノ通例ナリ」と記しているようで、今日の法制史や民俗学の研究においても、江戸時代はほぼ15歳までが「幼年」と見なされていたと言われている。しかし、明治9年(1876年)の太政官布告はこうした地域の差異や慣習を否定し、成年となる時期を15歳から一気に満20歳へと引き上げることとなっている。
それは何故だろう?
明治以降、男子には兵役につく義務が課せらるが、現実には、この徴兵義務をなんだかんだと言って逃れようとする者が多く出ていたため、冒頭で述べた明治5年(1872年)布告の「徴兵告諭」「四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ」という「「徴兵告諭」が出され、翌明治6年(1873年)1月10日(新暦)に徴兵令が施行。以後、毎年徴兵による新兵の入営日となった。そして、この徴兵の年齢が正式に(法制上)20歳と確定したのが、明治9年((1876年))4月1日の今日からであり、従って、民法の満20歳を成年する考え方の出発点は、どうもこの徴兵の年令との関係から出ているとしか思われない。(以下参考に記載の「【PDE】旧民法制定以前の成年年齢について(沿革)」など参照」)
そして、これ以降、日本の各地で行なわれていた通過儀礼としての成人の儀式も20歳を以って行なわれるようになったのではないかな?
しかし、現在の法律では20歳という年齢をもって成人したものとみなし、飲酒、喫煙、投票なども許されているが、大学への進学率が向上したといっても約半数近くの人は既に、18歳未満で社会人となっており、又、未成年者の性行為や犯罪も低年齢化している面が見られる一方、その逆に、アメリカの大学生などはアルバイトをして学士を稼ぎながら勉強をしている人も多いなど自立心が強いようだが、日本の場合は何時までの親掛かりで、卒業しても働かないなど何時まで経っても精神年齢的には子供のような若者も多くなっている。
成人の年令が20歳でよいかどうかは、平成19年(2007年)5月14日、いわゆる国民投票法(正式名称「日本国憲法の改正手続きに関する法律」平成19年5月18日法律第51号)が成立し、この中で、国民投票の投票権が原則満18歳以上に与えられることとされたため、『18歳成年制』についての話題がマスコミでも取りざたされている。難しい、問題だが、成年をどうするか、各集法律面とも照らし合わせながら真剣に考えなければいけないだろうね~。
(画像は、栃木県栗山村の元服式。近世の農村でも15歳頃になると烏帽子親という保護役の仮親を立てて元服式を行なっていたという。週刊朝日百科「日本の歴史」80より)
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クリック⇒明治政府が男子の満20歳以上を丁年(成年)と定める :参考
つまり、これは、明治政府が男子の満20歳以上を丁年(成年)と公的に定めたもの。
“二人の母親はまた生憎(あいにく)揃(そろ)ひも揃つて二人をお腹に持つて居た頃に未亡人になりました。丁度国の大戦の為にその国の丁年(ていねん)以上の男子が大方戦線へ出たその兵士の仲に当然交(まじ)つて行つて仕舞ひ、その上間もなく二人の夫が二人とも戦死したからでありました。”・・・。これは、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家であり、大阪万国会場の 太陽の塔を作った芸術家岡本太郎の母親でもある岡本かの子『秋の夜がたり』(『婦女界』1933(昭和8)年11月発表。以下参考の青空文庫参照)から抜粋したものである。ここに、”丁年(ていねん)以上の男子が大方戦線へ出”と有るように、明治5年(1872)の「徴兵告諭」(以下参考の「「徴兵告諭」(『法令全書』)-史料日本史」参照)の中で、「四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ」というように、20歳という年齢が打ち出され、翌明治6年(1873年)1月10日(新暦)には徴兵令が施行されている。
国語辞書に【丁】(ちょう・てい)は、「・官に徴発して使役する役夫。よほろ。・律令制で、課役(調・庸・雑徭(ぞうよう)を負担する成年男子(ちょう))とあり(Goo-国語辞書参照)、これが、広辞苑にあるように、「生年男子を指す」。かっては、生年=成年のことを「丁年」と言った。 【成年】は、「人の知能・身体が成育発達して一人前の人として認められる年齢。また、単独で法律行為をなしうる年齢であり、現行法(民法第4条)では満20歳となっている。ただし、未成年者でも結婚したものなど(民法第753条)例外規定はある。これは「婚姻による成年擬制」と呼ばれ、婚姻関係にある未成年者に独立性を与え、また男女の平等を保つための措置であると考えられている。ただし、これらは私法上での法律行為に限られ、飲酒、喫煙、選挙権など公法に関わる行為については、それぞれに関わる法律で定められた年齢に達するまでは行うことはできない。
成年者に対しては独立・完全な財産行為能力が与えられており、20歳以後は、私法上、財産取引に関する契約を締結したり、独立して親権を行使することが可能となっている。
“壱 予ハ予ノ死後遺ス所ノ財産ヲ両半ニ平分シ左ノ弐条件ヲ附シテ壱半ヲ予ノ相続者予ノ長男森於菟ニ与ヘ壱半ヲ予ノ母森みねニ与フベシ
弐(省略)
参 予若シ森於菟ガ未ダ丁年ニ達セザル時ニ死セバ森於菟ノ財産ハ森しけヲシテ管理セシメズ予ノ弟森篤次郎及予ノ妹小金井キミヲシテ管理セシムルコト是ヲ条件ノ弐トス“・・・。これは、明治・大正期の文豪森鴎外の『遺言三種』に書かれている遺言1種より抽出したものである(以下参考の青空文庫参照)。森於菟(長男)は、最初の妻・登志子との間に出来た息子であり、しけ(志け)は後妻 である。
遺言の日付は書いていないが、“於菟ガ未ダ丁年ニ達セザル時ニ死セバ”とあり、鴎外が死んだとき、於菟が丁年(成年)に達していない(未成年)場合でも、相続人にはなれるが、未成年者は制限行為能力者である(20条1項)ことから、遺産分割手続は法定代理人が行う。法定代理人は通常親権者である父母がなるが、親権を行うもの(親権者)がないとき、または子の財産を管理する権利を有しないときは、未成年者の後見人が法定代理人となる。森鴎外は、先妻との子である於菟が成年になっていない時に亡くなったときには、後妻の志けを管財人とは認めず自分の弟や妹に相続権のある息子の財産管理をさせることにしたんだよね~。色々森家の事情が窺える。
今では、成年といえば、満20歳以上をさすが、なぜ20歳なのか?成年とは何か?などとといった問いに答えるのは難しいことだろう。現代でも成年の基準として明らかなのは、20歳という年齢だけであり、兎に角、誰であろうと一応20歳になれば兎に角成年になり、選挙権が与えられ、犯罪を犯すと新聞に実名が出る、飲酒や喫煙が法的に認められるようになる。現在、このような、成年と未成年の法的な区分は主として選挙権と少年法の問題が生み出している。
選挙権についてみれば、大正14(1925年)に出来た「普通選挙法」は、25歳以上の男子のみに選挙権を与え、女性には与えておらず、20歳以上の男女等しく選挙権が与えられるようになるのは、戦後のGHQによる民主化により昭和20年(、1945年)12月に改正衆議院議員選挙法が公布されてからのことである(以下参考に記載の[選挙の歴史」参照)。
少年法の場合、戦前の旧少年法(大正11年法律42号)の下では少年の定義は18歳未満、死刑適用限界年齢は16歳以上といずれも2歳低かった。この少年法で、「成人とは、満20歳以上のものをいう」(第2条)と定めたのは、やはり、戦後の改正((昭和23年7月15日法律第168号)によるものであった。
このように、戦前においては、選挙権を得られることと、一般の刑罰を受けることなどについて年齢的な一致は見られなかったのである。
法的に見ても、1947(昭和22)年に成立した児童福祉法や、労働基準法などでは、満18歳に満たない者を、児童また若年者として扱い保護しているなど戦後においても、必ずしも20歳を成年とすることは、定着していなかった。
昭和23年(1948年)国民の祝日に関する法律(祝日法)が公布され、国民の祝日の1つとして「成人の日」が制定された。しかし、何歳以上を成人とするかは、特別記されているわけではない。ただこの日を制定した趣旨を、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」としているだけである。このような成人を祝う儀礼は古くからあり、男子には元服や褌祝がそれに対して、女性には、裳着の儀や「腰巻祝」「結髪祝」などの儀式が、成人への通過儀礼として行なわれてきた。その他、各地の村々などでも村人たちが定めた成人の儀式が行われていたようだが、それらに一定の年齢基準があるわけではなく、年齢に関係なくそこの村人達に成人と認められるだけの行為が出来るようになれば成人として認めるといったものが多かったようで、その様な儀式は、日本以外の国にも見られることである。このような日本の各地で行なわれていた独自の通過儀礼等は明治以降一部の地域を除き、衰退していったようだ。
国民の祝日に関する法律による「成人の日」については、現行「民法」(第4条)で、「年齢二十歳をもって、成年とする」と規定しているものによっているようだが、この現行民法は明治29年(1896年)に制定されたものである(当時は、第3条で「満20年ヲ以テ成年トスル」と規定)。
しかし、民法制定当時、それより20年も前の明治9年4月(1876年)には、すでに「太政官第41号布告」において、「自今満二十年ヲ以テ丁年ト相定候」と明記され、満20歳を「丁年」、つまり、今日でいう成年と定めていたことは、冒頭に述べた通りである。この布告に先立ち、明治6年(1873年)2月には、「太政官第36号布告」で、年齢の計算方法が数え年から満年齢へと変更になっており、太政官第41号布告でも満年齢が採用されている(以下参考の「〈成年〉と〈未成年〉のはじまり―満20歳という年齢―」参照)。
明治に於いてこの”民法典” (現在から見た場合は”旧民法”)作成の時、各地方の民間慣行などを調査して編纂したとされる『全国民事慣例類集』(以下参考に記載の「本の紹介(No.38) 「全国民事慣例類集」(司法省)」参照)を参考にしたとされているが、同書に記載された慣習は、地方によって異なり、「幼年」の年齢は、15歳から22、3歳まで開きがあるが、同書は「凡ソ十五歳未満ヲ幼年ト称スル事一般ノ通例ナリ」と記しているようで、今日の法制史や民俗学の研究においても、江戸時代はほぼ15歳までが「幼年」と見なされていたと言われている。しかし、明治9年(1876年)の太政官布告はこうした地域の差異や慣習を否定し、成年となる時期を15歳から一気に満20歳へと引き上げることとなっている。
それは何故だろう?
明治以降、男子には兵役につく義務が課せらるが、現実には、この徴兵義務をなんだかんだと言って逃れようとする者が多く出ていたため、冒頭で述べた明治5年(1872年)布告の「徴兵告諭」「四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ」という「「徴兵告諭」が出され、翌明治6年(1873年)1月10日(新暦)に徴兵令が施行。以後、毎年徴兵による新兵の入営日となった。そして、この徴兵の年齢が正式に(法制上)20歳と確定したのが、明治9年((1876年))4月1日の今日からであり、従って、民法の満20歳を成年する考え方の出発点は、どうもこの徴兵の年令との関係から出ているとしか思われない。(以下参考に記載の「【PDE】旧民法制定以前の成年年齢について(沿革)」など参照」)
そして、これ以降、日本の各地で行なわれていた通過儀礼としての成人の儀式も20歳を以って行なわれるようになったのではないかな?
しかし、現在の法律では20歳という年齢をもって成人したものとみなし、飲酒、喫煙、投票なども許されているが、大学への進学率が向上したといっても約半数近くの人は既に、18歳未満で社会人となっており、又、未成年者の性行為や犯罪も低年齢化している面が見られる一方、その逆に、アメリカの大学生などはアルバイトをして学士を稼ぎながら勉強をしている人も多いなど自立心が強いようだが、日本の場合は何時までの親掛かりで、卒業しても働かないなど何時まで経っても精神年齢的には子供のような若者も多くなっている。
成人の年令が20歳でよいかどうかは、平成19年(2007年)5月14日、いわゆる国民投票法(正式名称「日本国憲法の改正手続きに関する法律」平成19年5月18日法律第51号)が成立し、この中で、国民投票の投票権が原則満18歳以上に与えられることとされたため、『18歳成年制』についての話題がマスコミでも取りざたされている。難しい、問題だが、成年をどうするか、各集法律面とも照らし合わせながら真剣に考えなければいけないだろうね~。
(画像は、栃木県栗山村の元服式。近世の農村でも15歳頃になると烏帽子親という保護役の仮親を立てて元服式を行なっていたという。週刊朝日百科「日本の歴史」80より)
このブログ字数制限により参考は別紙としています。以下をクリックしてください。
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