1600(慶長5)年 の今日(7月17日)は、「細川ガラシヤ(細川玉=細川忠興夫人)」の忌日。 <数え38歳> [1563年生]
細川ガラシヤと言えば、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で有名。その美貌と才気により江戸時代の大名細川家の隆盛の礎となった貞女として伝説となっている人物。
細川ガラシヤは、1563(永禄6)年、明智光秀と妻煕子の間に三女として生まれ、名は玉という。玉は玉子ともいうらしく、ここでは、以降玉子と書くことにする。彼女の宿命は、明智光秀を父にもったことによりを決定付けられたといってよいだろう。
1578(天正6)年、15歳のときに父光秀の主君である織田信長の意向で、当時乙訓(おとくに)一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主細川藤孝(後の幽斎。三淵伊賀守晴員の次男で、実父は将軍足利義晴ともいう。母は清原宣賢の娘。)の嫡男忠興のもとに嫁ぐ。玉子は絶世の美女といわれており、忠興とは幸せな新婚時代を勝龍寺城で過ごし、二人の間には1579(天正7)年には長女が、1580(天正8)年には長男(忠隆)の二人が生まれている。
しかし1582(天正10)年6月、実父の光秀が謀反を起こし、全国を平定しようとしていた主君・織田信長を倒すという、日本の歴史上の大事件「本能寺の変」を引き起こした。その後、光秀は、備中高松城の攻城戦から、『中国大返し』により京都へ引き返してきた羽柴秀吉との山崎の合戦に敗れ戦死したことで、玉子は「逆臣の娘」となってしまった。
忠興は、玉子を愛していたが、信長の死後、覇権を握った羽柴秀吉への配慮から、主君に叛いた謀反者の娘である玉子と離縁せざるを得ず、玉子は二人の幼児と引き離され、丹後の山里 味土野(みどの=現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉されてしまう。標高400mの山中、女城跡に「細川忠興夫人隠棲地」と記された碑が立っている。
それ以後玉子の苦難の生活が始まるが、この間の玉子の淋しい生活を支えたのは、光秀が玉子の結婚する時に付けた小侍従や、侍女頭で細川家の親戚筋にもあたる清原家の清原マリア(名は「いと」。公家清原枝賢の娘)らの侍女達であった。本能寺の変のほとぼりがさめた2年後の1584(天正12)年、秀吉の計らいで復縁を許され大阪玉造の屋敷に住むようになる。
玉子は、当初義父幽斎の姉宮川殿の子で、建仁寺の長老であった英甫永雄師のもとに参禅し 禅学を学んだが、夫忠興から聞くキリシタン大名の高山右近の話や右近の元家臣の加々山少右衛門の母でもある清原マリアにすすめられて、しだいにキリスト教に関心を寄せるようになったようだ。
25歳になった玉子は、1587(天正15)年、豊臣秀吉の九州征伐のお供で忠興が大阪を留守にした時、外との接触を禁止され、なかば軟禁状態の中を屋敷を抜け出し、イエズス会の教会を訪れキリスト教の教理を聞き感銘を受けたという。そして、外出もままならない玉子は、宣教師と手紙のやりとりで信仰を深め、キリシタンに入信しだが、再々の外出が困難であったため、洗礼は、玉造の屋敷で侍女のマリアによって受けた。洗礼名のガラシアはラテン語で「恩寵」という意味で細川家の記録には「伽羅奢様」と当て字で書かれているそうだ。そして毎日、屋敷で侍女たちと祈りを捧げていたという。
玉子が洗礼を受けたこの年、九州制圧に成功した秀吉は、九州には多くの大名がキリシタンになっており教会に土地を寄進する者もいるのを目にし、これらキリシタンが自分の今後の政権基盤をゆるがしかねないと危惧するようになり、キリシタンに対する態度を変えた。そして、この年の7月秀吉は、高山右近に棄教をせまり、信仰を棄てることを拒否した右近から明石の領土を取り上げ、8月にはキリシタン禁教令を出している。忠興も玉子のキリスト教への入信を知って激怒し、秀吉から禁教令が出されていたこともあって再三棄教を迫ったが、ガラシャは応じなかったようだ。当時、小豆島に潜伏していたザビエルの弟子・オルガンティノ神父らは書状によってガラシャを励ましたという。
1596(文禄5)年のサン・フェリベ号事件後、鎮静化していたキリシタンへの迫害が再び始まった。この結果有名な「26聖人の殉教」となったが、ガラシャと侍女たちも死を覚悟していた。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立し関ヶ原の戦いへと発展するが、1600(慶長5)年、失脚していた石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、大谷吉継、五奉行の増田長盛、毛利氏の使僧の安国寺恵瓊らと共謀し、五大老の毛利輝元を擁立して西軍を組織。家康の上杉討伐に従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の諸大名の妻子を人質うぃ取ることをくわだて、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、ガラシャ夫人に人質になるよう強要した。ところが、彼女はこれを敢然と拒否。三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませるとガラシアは、屋敷に火をかけて最期を遂げたが、キリシタンであったガラシャは自害を選ばず、家老の小笠原少斎に胸を貫かせ、家臣らが屋敷に火薬を仕掛けて全員爆死したものだという。
辞世の句、"散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ"を残して、38歳の短い生涯を閉じたのが、1600(慶長5)年の今日(7月17日)のことであった。この最後の様子は最後に脱出した侍女の入江志もが残した記録「霜女覚書」(「お志も覚書」ともいう)の中に描かれている。又、人質を強要した石田三成も このガラシャ夫人の壮絶な最後に胸を打たれ人質作戦を断念したという。
玉子死の翌日、オルガンチノによって細川邸の焼跡からガラシア夫人とその殉死者の遺骨を拾い集められ、堺のキリシタン墓地に埋葬されたが、その後の宗教弾圧で墓地が破壊され、細川忠興は後にこれを細川家ゆかりの現在の大阪市東淀川区東中島の曹洞宗・崇禅寺(そうぜんじ)に埋葬したそうだ。玉子の墓碑には ガラシアの名ではなく、細川玉子之墓と、仏式の戒名で葬られている.。玉子の墓は、中央にある足利義教の首塚の横に築かれている。ガラシアの墓は夫の忠興が眠る京都大徳寺にもある。しかし、細川家の記録には、玉子がキリシタンで あったことは一切抹消されているという。
忠興は、関ヶ原の戦いで家康側につき、その軍功により豊前小倉40万石の大大名となった。更に、大阪冬の陣・夏の陣でも奮戦し豊臣方についた次男 細川興秋(おきあき)を切腹させた。興秋は母ガラシアの影響を受け、キリシタンであったといわれており、もし、ガラシア夫人がこの時まで生きていたならば、自分の夫が、我が子を死に追いやる悲劇に遭遇することになっただろう。
このガラシアの生涯はヨーロッパにも伝わり、死後約100年が経った1698年に、ウィーンのハプスブルク家宮殿内でガラシャの生き様が音楽劇となって上演されていたといい、近年、オーストリアのウィーン国立図書館に、その楽譜付き台本があるのを、新山冨美子博士が見つたとう。そこでは強い意志を持つガラシャの生き方が賞賛されているそうだ。
余談であるが、今年 4月行われた、千葉7区補選では、 流山市のJR南流山駅北口、野田市役所前街頭演説 で、小泉首相は、最後の国政選挙で自民党候補が敗れれば、小沢民主党を勢いづかせるばかりか、9月の任期切れに向け自身の求心力が一気に低下するとの見方もあり、そうなれば、「ポスト小泉」レースにも影を落としかねず、約1万人の招待客を前に、「『ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ』。花はパッと散るからきれいなんだ。私も引き際を大事にし、任期までは精いっぱい頑張っていきたい」とガラシャが詠んだ辞世の和歌を引用し、「有終の美」を飾る決意を示したという。小泉首相らしい明言の引用ではあるが、この言葉、首相在任中、小泉首相と同じく高支持率を維持し、1998(平成10)年に議員を辞職したあの細川ガラシャの子孫でもある細川護煕(もりひろ)元首相も引退会見でこの和歌を引用していたということであり、小泉首相の挨拶はいわば「2番煎じ」だったわけである。 お粗末・・・。
(画像は、三浦 綾子(著)「細川ガラシャ夫人〈上巻〉」 新潮文庫)
参考:
細川ガラシャ-Wikipedia
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A4
細川玉姫(ガラシャ)四百年祭
http://www.suizenji.or.jp/shahou16-2.htm
細川ガラシア夫人( 1563-1600 )とその時代 細川家
http://www.geocities.jp/general_sasaki/hosokawa_gracia_ni.html
K’sBookshlf資料「本能寺の変」
http://www.sky.sannet.ne.jp/kyoshio/HJ/index.html
勝龍寺城
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kinki/shouruji/shouruji.htm
勝竜寺城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%BE%8D%E5%AF%BA%E5%9F%8E
秀吉の疑惑・中国大返し
http://www16.plala.or.jp/amber-devil/mitsuhide12.htm
きょうと府民だより 人権ゆかりの地を訪ねて
http://www.pref.kyoto.jp/koho/dayori/200307/yukari.html
細川幽斎 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yusai.html
asahi.com:清原宣賢(35)
http://mytown.asahi.com/fukui/news.php?k_id=19000120601230002
日本二十六聖人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AE%89%E6%95%99
崇 禅 寺 (凌雲山)
http://www.sozenji.com/index.html
大徳寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E5%AF%BA
松岡正剛の千夜千冊『細川ガラシャ夫人』三浦綾子
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1013.html
その時歴史が動いた第68回キリシタン女性 関ヶ原合戦をゆるがす~細川ガラシャの悲劇~
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2001_09.html#02
津々堂電子図書館 細川ガラシャ夫人の生害を伝える「霜女覚書 」
http://www.shinshindoh.com/shimojyo.htm
細川ガラシヤと言えば、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で有名。その美貌と才気により江戸時代の大名細川家の隆盛の礎となった貞女として伝説となっている人物。
細川ガラシヤは、1563(永禄6)年、明智光秀と妻煕子の間に三女として生まれ、名は玉という。玉は玉子ともいうらしく、ここでは、以降玉子と書くことにする。彼女の宿命は、明智光秀を父にもったことによりを決定付けられたといってよいだろう。
1578(天正6)年、15歳のときに父光秀の主君である織田信長の意向で、当時乙訓(おとくに)一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主細川藤孝(後の幽斎。三淵伊賀守晴員の次男で、実父は将軍足利義晴ともいう。母は清原宣賢の娘。)の嫡男忠興のもとに嫁ぐ。玉子は絶世の美女といわれており、忠興とは幸せな新婚時代を勝龍寺城で過ごし、二人の間には1579(天正7)年には長女が、1580(天正8)年には長男(忠隆)の二人が生まれている。
しかし1582(天正10)年6月、実父の光秀が謀反を起こし、全国を平定しようとしていた主君・織田信長を倒すという、日本の歴史上の大事件「本能寺の変」を引き起こした。その後、光秀は、備中高松城の攻城戦から、『中国大返し』により京都へ引き返してきた羽柴秀吉との山崎の合戦に敗れ戦死したことで、玉子は「逆臣の娘」となってしまった。
忠興は、玉子を愛していたが、信長の死後、覇権を握った羽柴秀吉への配慮から、主君に叛いた謀反者の娘である玉子と離縁せざるを得ず、玉子は二人の幼児と引き離され、丹後の山里 味土野(みどの=現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉されてしまう。標高400mの山中、女城跡に「細川忠興夫人隠棲地」と記された碑が立っている。
それ以後玉子の苦難の生活が始まるが、この間の玉子の淋しい生活を支えたのは、光秀が玉子の結婚する時に付けた小侍従や、侍女頭で細川家の親戚筋にもあたる清原家の清原マリア(名は「いと」。公家清原枝賢の娘)らの侍女達であった。本能寺の変のほとぼりがさめた2年後の1584(天正12)年、秀吉の計らいで復縁を許され大阪玉造の屋敷に住むようになる。
玉子は、当初義父幽斎の姉宮川殿の子で、建仁寺の長老であった英甫永雄師のもとに参禅し 禅学を学んだが、夫忠興から聞くキリシタン大名の高山右近の話や右近の元家臣の加々山少右衛門の母でもある清原マリアにすすめられて、しだいにキリスト教に関心を寄せるようになったようだ。
25歳になった玉子は、1587(天正15)年、豊臣秀吉の九州征伐のお供で忠興が大阪を留守にした時、外との接触を禁止され、なかば軟禁状態の中を屋敷を抜け出し、イエズス会の教会を訪れキリスト教の教理を聞き感銘を受けたという。そして、外出もままならない玉子は、宣教師と手紙のやりとりで信仰を深め、キリシタンに入信しだが、再々の外出が困難であったため、洗礼は、玉造の屋敷で侍女のマリアによって受けた。洗礼名のガラシアはラテン語で「恩寵」という意味で細川家の記録には「伽羅奢様」と当て字で書かれているそうだ。そして毎日、屋敷で侍女たちと祈りを捧げていたという。
玉子が洗礼を受けたこの年、九州制圧に成功した秀吉は、九州には多くの大名がキリシタンになっており教会に土地を寄進する者もいるのを目にし、これらキリシタンが自分の今後の政権基盤をゆるがしかねないと危惧するようになり、キリシタンに対する態度を変えた。そして、この年の7月秀吉は、高山右近に棄教をせまり、信仰を棄てることを拒否した右近から明石の領土を取り上げ、8月にはキリシタン禁教令を出している。忠興も玉子のキリスト教への入信を知って激怒し、秀吉から禁教令が出されていたこともあって再三棄教を迫ったが、ガラシャは応じなかったようだ。当時、小豆島に潜伏していたザビエルの弟子・オルガンティノ神父らは書状によってガラシャを励ましたという。
1596(文禄5)年のサン・フェリベ号事件後、鎮静化していたキリシタンへの迫害が再び始まった。この結果有名な「26聖人の殉教」となったが、ガラシャと侍女たちも死を覚悟していた。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立し関ヶ原の戦いへと発展するが、1600(慶長5)年、失脚していた石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、大谷吉継、五奉行の増田長盛、毛利氏の使僧の安国寺恵瓊らと共謀し、五大老の毛利輝元を擁立して西軍を組織。家康の上杉討伐に従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の諸大名の妻子を人質うぃ取ることをくわだて、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、ガラシャ夫人に人質になるよう強要した。ところが、彼女はこれを敢然と拒否。三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませるとガラシアは、屋敷に火をかけて最期を遂げたが、キリシタンであったガラシャは自害を選ばず、家老の小笠原少斎に胸を貫かせ、家臣らが屋敷に火薬を仕掛けて全員爆死したものだという。
辞世の句、"散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ"を残して、38歳の短い生涯を閉じたのが、1600(慶長5)年の今日(7月17日)のことであった。この最後の様子は最後に脱出した侍女の入江志もが残した記録「霜女覚書」(「お志も覚書」ともいう)の中に描かれている。又、人質を強要した石田三成も このガラシャ夫人の壮絶な最後に胸を打たれ人質作戦を断念したという。
玉子死の翌日、オルガンチノによって細川邸の焼跡からガラシア夫人とその殉死者の遺骨を拾い集められ、堺のキリシタン墓地に埋葬されたが、その後の宗教弾圧で墓地が破壊され、細川忠興は後にこれを細川家ゆかりの現在の大阪市東淀川区東中島の曹洞宗・崇禅寺(そうぜんじ)に埋葬したそうだ。玉子の墓碑には ガラシアの名ではなく、細川玉子之墓と、仏式の戒名で葬られている.。玉子の墓は、中央にある足利義教の首塚の横に築かれている。ガラシアの墓は夫の忠興が眠る京都大徳寺にもある。しかし、細川家の記録には、玉子がキリシタンで あったことは一切抹消されているという。
忠興は、関ヶ原の戦いで家康側につき、その軍功により豊前小倉40万石の大大名となった。更に、大阪冬の陣・夏の陣でも奮戦し豊臣方についた次男 細川興秋(おきあき)を切腹させた。興秋は母ガラシアの影響を受け、キリシタンであったといわれており、もし、ガラシア夫人がこの時まで生きていたならば、自分の夫が、我が子を死に追いやる悲劇に遭遇することになっただろう。
このガラシアの生涯はヨーロッパにも伝わり、死後約100年が経った1698年に、ウィーンのハプスブルク家宮殿内でガラシャの生き様が音楽劇となって上演されていたといい、近年、オーストリアのウィーン国立図書館に、その楽譜付き台本があるのを、新山冨美子博士が見つたとう。そこでは強い意志を持つガラシャの生き方が賞賛されているそうだ。
余談であるが、今年 4月行われた、千葉7区補選では、 流山市のJR南流山駅北口、野田市役所前街頭演説 で、小泉首相は、最後の国政選挙で自民党候補が敗れれば、小沢民主党を勢いづかせるばかりか、9月の任期切れに向け自身の求心力が一気に低下するとの見方もあり、そうなれば、「ポスト小泉」レースにも影を落としかねず、約1万人の招待客を前に、「『ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ』。花はパッと散るからきれいなんだ。私も引き際を大事にし、任期までは精いっぱい頑張っていきたい」とガラシャが詠んだ辞世の和歌を引用し、「有終の美」を飾る決意を示したという。小泉首相らしい明言の引用ではあるが、この言葉、首相在任中、小泉首相と同じく高支持率を維持し、1998(平成10)年に議員を辞職したあの細川ガラシャの子孫でもある細川護煕(もりひろ)元首相も引退会見でこの和歌を引用していたということであり、小泉首相の挨拶はいわば「2番煎じ」だったわけである。 お粗末・・・。
(画像は、三浦 綾子(著)「細川ガラシャ夫人〈上巻〉」 新潮文庫)
参考:
細川ガラシャ-Wikipedia
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A4
細川玉姫(ガラシャ)四百年祭
http://www.suizenji.or.jp/shahou16-2.htm
細川ガラシア夫人( 1563-1600 )とその時代 細川家
http://www.geocities.jp/general_sasaki/hosokawa_gracia_ni.html
K’sBookshlf資料「本能寺の変」
http://www.sky.sannet.ne.jp/kyoshio/HJ/index.html
勝龍寺城
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kinki/shouruji/shouruji.htm
勝竜寺城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%BE%8D%E5%AF%BA%E5%9F%8E
秀吉の疑惑・中国大返し
http://www16.plala.or.jp/amber-devil/mitsuhide12.htm
きょうと府民だより 人権ゆかりの地を訪ねて
http://www.pref.kyoto.jp/koho/dayori/200307/yukari.html
細川幽斎 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yusai.html
asahi.com:清原宣賢(35)
http://mytown.asahi.com/fukui/news.php?k_id=19000120601230002
日本二十六聖人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AE%89%E6%95%99
崇 禅 寺 (凌雲山)
http://www.sozenji.com/index.html
大徳寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E5%AF%BA
松岡正剛の千夜千冊『細川ガラシャ夫人』三浦綾子
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1013.html
その時歴史が動いた第68回キリシタン女性 関ヶ原合戦をゆるがす~細川ガラシャの悲劇~
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2001_09.html#02
津々堂電子図書館 細川ガラシャ夫人の生害を伝える「霜女覚書 」
http://www.shinshindoh.com/shimojyo.htm