よし坊のあっちこっち

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橋下 徹 vs 倶梨伽羅紋紋

2012年05月14日 | いろいろ
元大阪府知事、現大阪市長。橋下徹の人気は相変わらず根強い。何故だろうか。ここまでやれるのは、やはり個人的資質に優れているとしか言いようがないが、それでも何故?となる。

元弁護士だけあって、法律を読み解く力に優れている事は強みだろう。政治とは法律の立案と運用ともいえるからである。その法律読解力を背景に、グランドデザインを描き実行しようとする意志力が彼には備わっている。そして今までの彼の行動成果を見ると、我々がともすれば忘れがちな”常識の目線”を常に座標軸の原点に据えているように思える。

今、彼は入れ墨職員のあぶり出しと追放で問題提起をしている。

日本における入れ墨の位置は明白だ。その昔から刺青は「向こうの世界」の専売特許、向こうの世界のアイデンティティとしてビルトインされ、こちらの世界とは一線を画してきたし、それは今も変わっていないはずだ。

ところが、アメリカ流の”タトゥー”という言葉で刺青のイメージがソフトになってしまった。アメリカの芸能人や欧米の有名スポーツ選手が入れているタトゥーを”ファッション”だともてはやし、”向こうの世界”と繋がっている芸能界の一部芸能人がそれに追随し、それを見ている一般人が真似ているのが今の姿だ。

欧米のタトゥーは日本とは異なった文化的社会的背景に根付いていると思う。ひと言で言うと、「日常性と非日常性のアイデンティティ」とでも言おうか。日本のそれは、”向こうの世界”で生きる為のアイデンティティで有ると同時に、相手を威嚇する道具でもある。欧米で普通の人たちが入れる背景は、他民族混合人種の彼らが日常生活で常に自らのアイデンティティに向き合い、それを何らかの形で表現する時にタトゥーを入れる。だから威圧の道具には到底なりようもない。日本人は、幸か不幸か、人種的民族的なアイデンティティを日常的に求める習性は無いから、”向こうの世界”の中だけで発達したと言ってもよい。

橋下は、常識的に考えて、日常的な場所で、しかも公共施設である市庁の中に非日常的であり、反社会的なイメージを持つ刺青はそぐわないから改めるべきだと、至極まっとうな事を提起しているに過ぎない。しかも、役所とは許認可権限の塊みたいなものだけに、威嚇的なものを纏った職員はいただけないと言っているのだ。

今まで常識的にはオカシイと思われた事がぬるま湯の中でないがしろにされてきただけに、常識の目線で行動する橋下の改革にはサポーターが集まるのは当然の事だと思う。