スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

スウェーデンに住む人々

2005-03-02 09:15:14 | コラム
先週末はヨンショーピン近郊に住むある家族を訪ねて食事をご馳走になった。この家族はボスニア=ヘルツェゴヴィナから内戦さなかの1993年にスウェーデンへ逃れてきた。この家族との交流は、このお父さんと外国人(移民)向けスウェーデン語の講座で2年半ほど前に一緒になったのがきっかけだった。親しくなるにつれ、彼が本国では中学校の先生だったことを知り、それから、2004年に半年間、私がクロアチアに滞在することが決まりそうだったので、言葉を勉強したいと思い、好意に甘えて以前はボスニア語を教えてもらっていた。(クロアチア語とボスニア語は基本的には同じ言語)私がクロアチアに滞在中は、家族が夏休みを利用してボスニアへ里帰りをしていたので、ボスニアのNo Man's landにある小さな小さな村を探し出して、訪ねたこともあった。それから、しばらくぶりだった。訪ねるたびに、こちらが気を引いてしまうほど、いろいろなご馳走をしてくれる。お母さんの作る手料理は素朴でおいしい。

ボスニア=ヘルツェゴヴィナの内戦は1991-1995。この間に6万人から8万人に上る人々がスウェーデンへ逃れてきた。ちょうどバブル崩壊でスウェーデン経済は大打撃を受けていたが、人道的政策ということで、スウェーデン政府は押し寄せるこれらの難民を受け入れ、長期滞在ビザ、もしくは国籍の付与、それから生活費の補助などを行った。難民の子供たちはスウェーデン語学校と平行しながら、一般の小・中・高校へ統合されてそこで学び、大人はスウェーデン語の成人学校に通いながら、働き口を探した。

この見知らぬ国でどうやって生活を成り立て、努力してきたか。100人に聞けば、100の物語が聞けるほど、彼らの苦労は並たいていではないようだ。子供であれば、言葉を学ぶのも早く、スウェーデン社会にとけ込むことも比較的容易であろうが、大人、とくに40代を越える人たちにとっては、新しい言葉を一から習い、それまで本国でやって来た仕事と全く異なる仕事に従事せざるを得ないと、それは屈辱にもなる。

別の家族のお父さんも、本国ボスニアでは教員をやっており、スウェーデンでも同様のことをしたいと願ったが、教育システムが違う以上、そう簡単にスウェーデンで教員がやれるわけではない。もちろん言葉の問題もある。言葉が少しずつできるようになるにつれて、紹介される仕事も増えてくるのだが、それもオフィスの掃除や、肉体労働などだ。ステータスという面では全く異なる。このお父さんはそれを拒み続け、結局、生活保護の社会給付だけを受けていたという。

幸い、ボスニアの社会は日本と似て、家族の結びつきがとても強い。だから、子供がスウェーデン社会にとけ込み始め、仕事でお金が稼げるようになると、彼らが両親の生活を経済的に助けるようになる。

スウェーデンにたどり着き、彼らの苦労の生活が始まってから、もう10年あまりがたつ。スウェーデンには世界の各地から移民や難民がやって来ているが、ボスニア人は数にしてその第3位を占めている。(続く・・・たぶん・・・)