スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

社会民主党の人気が低迷している理由は?(その2)

2010-11-27 00:39:36 | スウェーデン・その他の政治
社会民主党の支持率は下がる一方だ。選挙以降も世論調査が毎月続けられているが、過去100年間で最低だった選挙での投票率を下回り、現在27.7%という有様だ。一方、保守(穏健)党37.5%へとさらなる躍進を遂げている。選挙後、社会民主党は党首の辞任発表があったり、敗戦分析が行われているため、ゴタゴタが続いている。だから、支持率が下がるのは仕方がないことだろう。肝心なのは、党の刷新をこれから行っていき、4年後の国政選挙までに支持率を回復していくことだ。時間はたっぷりある。いや、そう考えていると、意外と時間はあっという間に過ぎていくものかもしれない。

他の小さな政党も支持率を低下させている。例のスウェーデン民主党は4.3%に低下しているし、キリスト教民主党は4%ハードルを下回るようになってしまった。選挙以降、支持率を伸ばしているのは、保守党環境党(9.1%)だけだ。


さて、前回は社会民主党の人気が低迷している理由の一つとして、右派・保守勢力の第一党である保守(穏健)党が中道路線を取るようになったため、社会民主党との距離が縮んだことを挙げた。

選挙を1~2週間ほど後に控えた9月上旬、テレビのあるコメディー番組も、ジョークをふんだんに交えながら社会民主党低迷の理由を探っていた。その番組によると、社会民主党が支持を失った理由は次のようなものだという。


● 「有権者は、ナチスの医者みたいな人物よりもポルノ男優みたいな人物が財務大臣にふさわしいと思っているから」

ナチスの医者とは、社会民主党の経済スポークスマンであり、左派連合が政権を獲った場合には財務大臣になることが期待されたトーマス・オストロースだ。一方、ポルノ男優とはポニーテールピアスという格好で、最近ちょっと太めになりつつある現職のアンデシュ・ボリ財務大臣のことだ。


ナチスの医者 vs ポルノ男優

● 「社会民主党の支持者は最近になって、社会民主党のほかにも投票できる党があることに気づいたから」

ブルーカラーの労働運動に支えられてきた社会民主党。その支持者は選挙となれば社会民主党以外には目もくれなかった・・・。一党による長期政権の下で次第に洗脳されてしまったいた有権者が、実は他にも政党があって、投票してもいいのだということに今になって気づいた、というパロディーだ。

● 「社会民主党の支持者は、女性の上司が嫌いだから」

女性の上司とは、2007年に社会民主党史上初めての女性党首となったモナ・サリーンのことだ。中高年・ブルーカラーの支持者には男女平等に関して保守的な人も多いと見られ、実際のところ女性党首のもとでの選挙戦は厳しいものになるとこの党の幹部をはじめ多くの人が考えていた。

● 「社会民主党の支持者は常に勝ち組に属したいと願うから」

社会民主党の長期政権の下で、選挙に負けるという経験をあまり知らない社会民主党支持者。党の人気が落ち目にあり、選挙に勝つのが難しいと分かると、敵側に寝返ってしまった、というわけだ。


以上は、半ばジョークだが(女性党首に関する部分はある程度あたっていると思うが)、次回は社会民主党が選挙に先駆けて犯してしまった戦略的ミスについて触れたいと思う。

社会民主党の人気が低迷している理由は?(その1)

2010-11-18 00:30:49 | スウェーデン・その他の政治
なぜ社会民主党がここ数年間、不調なのか?
その理由を探るためには8年前、つまり2002年の国政選挙までさかのぼる必要がある。

この選挙で歴史的な大敗退を経験した党があった。保守党(穏健党)だ(党の本来のイデオロギーが分かりやすい保守党という訳を以降使うことにする。英訳としてもThe conservativesとかThe conservative partyという言葉を自ら使っていたこともある)。この党は右派・保守勢力の第一党であり、90年代には22%前後の得票率を記録していたが2002年の国政選挙では15%にまで落ち込んでしまった。保守党は本来、保守主義新自由主義・市場自由主義を掲げる企業経営者や富裕層を対象にした政党であり、税金を財源とする社会保障制度や労使間の自主管理によって成り立つ労働市場モデルに対して反発し、大幅な減税を主張してきた。この時の党首ボー・ルンドグレン(Bo Lundgren)は、選挙キャンペーンにおいて「1300億クローナ規模の大減税」という公約を掲げていたが、多くの有権者にはあまりに非現実的で、単なる人気取り政党という印象を与えていた。

このブログでも何度か触れたように、他党だけでなくジャーナリストによる説明追及・尋問もスウェーデンの選挙期間中は重要な役割を果たすのだが、この時もルンドグレン党首に対して「それだけの減税を実行した場合、社会保障政策や雇用政策の財源はどうするのか? これらの政策はどの程度、削減するつもりか?」と説明を求めたものの、彼は有権者を納得させる答えをうまく返すことができなかった。また、90年代にこの党の党首であり、右派・保守支持層の間で人気を博していたカール・ビルトと比べ、そのあとを継いだボー・ルンドグレンは、政治リーダーというよりも堅実な銀行マンタイプの人間であり、インパクトに欠ける人柄だったことも災いした。


ボー・ルンドグレン(党首:1999-2003年)

2002年の大敗北を機に、党内では敗戦分析が行われるとともに、若手のメンバーが立ち上がった。それが、後に首相となるラインフェルトや蔵相となるボリ、労働市場相となるリトリーンなどだった。ラインフェルトは当時まだ37歳だったが、この党が伝統的に掲げてきた保守主義や新自由主義的なスローガンでは政権獲得はおろか、支持率の維持も難しいと主張し、政策主張の総点検に取り掛かったのだった。

ラインフェルトは90年代前半は保守党の青年部会の代表を務めたことがあったが、彼はこの時、党の執行部にたてつくような政策主張を繰り返し行ったため、当時の党首・首相であったカール・ビルトなど幹部にこっぴどく叱られた経験があった(この時は若者らしい過激さで、公的社会保障の大幅な削減やより新自由主義的な政策を求めていたようだ)。だから、2002年9月の大敗北以降、まだ30代の若手メンバーを中心とした刷新グループが動きだしたことに対しては、党内の守旧派が当初はかなり反発したようだ。しかし、党内での足場を着実に、そして迅速に築いていき、その1年後である2003年10月に開催された党大会においてラインフェルトは全会一致で党首に選出されたのだった。


「こんな若造に党を任せても大丈夫かな・・・」

ラインフェルトを始めとする刷新グループが打ち出したのは、大幅な路線転換だった。税を財源とするスウェーデン型の社会保障政策や、労使間の自主交渉を基本とする労働市場モデルの重要性を認めるとともに、大規模な減税といった主張を取り下げた。減税をする必要はあるとしても、これまでの社会保障制度を維持する範囲で行い、また減税の恩恵は低所得者層を中心に与えるべきだ、と考えた。社会保障制度の改革についても、ただ単に大幅にカットするのではなく、綻びが見え始めていたベネフィットの享受と働くことのリンク(スウェーデンの社会保障を貫くワーク・プリンシプルと呼ばれる理念)を強化することを目的とした制度改革を行うべきだと考えたのだった。

これらの新しい政策主張を掲げて、彼らは2006年9月の国政選挙で見事、政権を獲得した。得票率は、4年前の15%から26%へと大躍進したのだった。このとき、社会民主党は40%から35%へと5%ポイント失った。そして保守党は、これらの新しいアイデアを、試行錯誤をしながらも実行して行ったのだった。

<以前の記事>
2006-10-14:新しい保守党(穏健党)? (1)
2006-10-15:新しい保守党(穏健党)? (2)
2006-10-20:新しい保守党(穏健党)? (3)

----------

でも、このことがなぜ社会民主党の低迷と関係があるのかって?

それは、保守党が中道にかなり移動したことによって、社会民主党と保守党の差が小さくなってしまったからだ。以前は、左派-右派というスペクトラムにおいて、真ん中から左にかけてはほぼ社会民主党の独占のようなものだったが、保守党ガバッとやって来て、スウェーデン型の社会保障モデルや労働市場モデルの意義を認めるなど主張し始めたから、政策議論において社会民主党が独自性を誇示できるスペースが小さくなってしまったのだ。しかも、保守党が雇用創出や社会保障濫用の阻止といった分野において具体性のある政策を提案してきたのに対し、社会民主党は目新しい抜本的な対策を打ち出せなかったのだ。しかも、2006年9月の国政選挙時の党首(および首相)は、傲慢な態度ばかりが目立ち、人気をもはや失っていた(太っちょの)ヨーラン・パーションだった。

簡単に図解するとこうなるだろうか?

左派-右派というスペクトラムにおいて、従来このような構図であったものが・・・


保守党の路線転換によって、このようになったと言えるのではないだろうか?


中道に移動した保守党が、社会民主党の支持層に大幅に食い込んだわけだが、保守党が本当に中道に移動したか?という点に関しては、当初は多くの人々が疑いを持っていた。もしかして、羊の頭をかぶったオオカミではないか?とも思われていたのだ。だから、保守党が政権を獲った直後に実行した失業保険改革がセーフティーネットの大きな削減を意味するものだと分かったときは、すぐさま支持率が低下し、社会民主党が再び上昇気流に乗るという展開となった。

しかし、その後、保守党もミスを認めて失業保険制度に再度修正を加え、さらに2008年秋以降の金融危機に際しても、健全な財政を維持しつつ(財政赤字も最大でGDP比わずか2%程度)、社会保障制度を維持することにもある程度、成功したことから保守党への信頼が大きく回復していった(ただし、これは人によって見方が大きく異なるだろう。疾病保険改革は一部では大きな問題をもたらしたし、失業保険改革によって不況期に受給権を失う人が多く生まれたために、生活保護や住宅手当の受給者が増え、社会格差が多少拡大したという点は否めない)。なによりも、2007年以降、継続的に低所得層の勤労者をより優遇する所得税減税(正確には税額控除)を行ったことも大きい。

だから、上の図からも分かるように、保守党が真ん中に陣取るようになったおかげで、社会民主党は自分たちの独自性を打ち出すことが難しくなったわけだし、同時に、もともと中道寄りにいた中央党自由党も、自分たちの独自性を維持するために、少しずつ右のほうにポジションを変えるという動きも見られるようになっていった(ただし、右といっても極右とか国粋という意味ではなく、自由市場主義・規律の重視という意味)。もともと右端で保守党と競合していたキリスト教民主党は、ライバルがいなくなり喜んだ上に、家族主義の重視や保守的価値観をさらに強調して右端の支持層を獲得しようとした。しかし、次第に明らかになったのは、右端にはあまり有権者がいないことだった(だからこそ、保守党は左への大移動をしたのだった)。

以上が、社会民主党が落ち目にある一つの理由といえるだろう。

一つ注意しなければならないのは、社会民主党の衰退、イコール、社会民主主義の衰退であるとは限らないということだ。既に書いたように、現在の保守党はこれまで社会民主党や労働組合が築いてきた社会保障政策や労働市場モデルの重要性や意義を受け入れることなくして、政権を獲得することが難しかったからだ。右派勢力の第一党であった保守党が社会民主党的な政策をかなりの程度、受け入れる道を選んだのは、むしろ社会民主主義の勝利ではないか、という見方もある。

<以前の記事>
2006-11-07:『総選挙は、社会民主党の勝利であった』

モナ・サリーンの退陣表明

2010-11-15 01:42:16 | スウェーデン・その他の政治
社会民主党の党首モナ・サリーンが辞任することを発表した。

9月の総選挙で政権の奪還に失敗した。社会民主党の得票率は30%強であり、今でもスウェーデンで最大の党であることは間違いないが、30%という水準はこの党の歴史から見ると非常に低い水準だ。

選挙での敗退と支持率の低迷を受けて、社会民主党内部では敗戦分析が進められていた。ワーキンググループが作られ、彼らによる敗戦分析レポートが来年の党大会までに作成され、党執行部と党の掲げる政策の刷新が議論されることなっていた。選挙の直後から党首モナ・サリーンの辞任を求める声が挙がっていたが、彼女は党首を続けると表明していた。

しかし、先週に入ると、彼女は党内部での危機意識を高めたいという意図からか「私を含め、党の執行部メンバーは全員、来年の党大会において一度辞職し、その上で再選を目指すというプロセスを踏むべきだ」と発表し、自らも来年の党大会で党のメンバーの信任を改めて問うことを表明した。しかし、彼女のこの動きは、当初の意図を越えて党内に大きな波紋をもたらし、党の内部では選挙での敗退の責任をなすりつける動きが始まっていった。大きな党であるだけに、一度混乱が生じ始めると収拾がつかなくなる。党の幹部の中には、負け組の一部にはなりたくないと保身に走るものもいて見苦しい。

次第にエスカレートしていく混乱を受けて、この日曜日には党の幹部と地方組織の代表による特別会合が開かれた。会合に向かう途中のモナ・サリーンはそれまで同様、今後も党を率いていくと表明していたものの、会合が終わってから記者会見を開き、来年の党大会では党首の再選に立候補しないことを発表したのだった。辞任表明ということだ。さらに、国会議員のポストからも身をひくことも表明した。


思い出せば、4年前、2006年9月の国政選挙の夜、社会民主党の敗戦が明らかになったとき、当時の党首であり首相であったヨーラン・パーションが辞任を発表し、その直後から次の党首探しが始まっていった。選挙で右に流れた風向きを変えて、4年後の選挙で勝利に導くことが次の党首に託された使命だった。

しかし、社会民主党の支持率は新しい党首に選出されるのを待たずして自然と回復。2007年3月に党首に選ばれたモナ・サリーンには、その回復基調を維持し、2010年9月の国政選挙において政権を奪還することが期待されたのだった。中道保守政権が失業保険改革などで不人気となっていたため、風向きが再び社会民主党に向かっていた当時の状況から考えれば、それは難しいことではないと思われた。

しかし、途中で何かが狂ってしまったのだ。それは次回に。


モナ・サリーン 25歳

1957年生まれのモナ・サリーンが国会議員に初めて選ばれたのは1982年、25歳のことだった。やる気に満ち溢れる若手議員で、中年のベテラン議員を相手に少し生意気そうに挑戦的な議論をふっかけることもしばしばだった。党内での評価も高かったし、若者や女性の支持が高かった。暗殺されたオロフ・パルメの後を引き継いだ党首イングヴァル・カールソンも彼女を認めて1990年に労働市場大臣に抜擢した。また、1991年の国政選挙を直前にしたテレビ上での公開討論には党首カールソンと一緒に出演し、議論に参加したりもした。

だから、カールソンが1995年に党首と首相を辞任することを発表した後も、その後継として当然ながら彼女の名が挙がり、有力視されていた(カールソン政権で副大臣も務めていた)。しかし、この時、彼女が国会議員という公務のためのクレジット・カードを使って私的な買い物をしていたことが明るみになり、このことが取りざたされて社会民主党初の女性党首(しかもまだ30代という若さ)の夢は潰えてしまった。このときの買い物というのは実はチョコレート程度で、法には触れないものだった。残念ながら彼女は人気が高い反面、敵もたくさんいたようで、彼女を好まない党の内部の者がメディアにリークしたのだった。

このチョコレート・スキャンダルで一度は国会議員の職を退いたものの、90年代終わりから次第にカムバックしていき、ヨーラン・パーション政権のもとで大臣職をいくつか経験した。パーション政権は2004年から2006年まで環境省を改めて「環境と持続可能な発展省」と呼んでいたことがあったが、モナ・サリーンはこの持続可能な発展担当大臣を務めたこともあった。

そして、ヨーラン・パーションの後継として2007年に党首となったわけだが、残念ながら時期として遅すぎたといわざるを得ないかもしれない。80年代・90年代のフレッシュさはあまり感じられず、のらりくらりとゆっくりしゃべる中年の女性というイメージばかりが強く出るようになっていた。

<彼女の28年間の政治家キャリアを綴るニュース動画>

モナ・サリーンが可哀想で仕方がない。1995年の党首選においてスキャンダルがリークされたために政治家としての一番よいタイミング(政治家としての旬?)を逃してしまったこともさることながら、2007年に晴れて党首の座についた時には、社会民主党は活力を失い、方向性を見失った党に化していた。また、相変わらず、党内部や労働組合の中に敵が少なからずいたため、彼らと戦わざるを得ず、余分なエネルギーを費やしてきた(前回の記事に関連することだが、社会民主党こそエリート化した議員の多い党で、権力争いに躍起になっている人が比較的多いことが有名だ)。そして、国政選挙のキャンペーンでは、支持率が伸び悩む中、疲れが見え始め、そのことによってさらに支持が低迷するという悪循環が生じていた。だから、そんな疲れが今、限界に達し、辞任の決断に至ったのだろう。

しかし、国会議員まで辞任してしまうのは残念だ。適切なタイミングと環境と良い仲間がいれば、もっと活躍することができただろうに。

グスタフ・フリドリーン 「議員が一生の仕事であってはならない」(その2)

2010-11-10 01:33:46 | スウェーデン・その他の政治
19歳で選挙に当選し、国会議員を1期4年間務めたグスタフ・フリドリーンは、2006年に国政から退いた後、ジャーナリストや講師、執筆などをしてきた。しかし、今年の国政選挙を前にし、再び立候補して政治の世界に戻ることを表明。そして、見事当選を果たした。

彼が再び国会議員になることを選んだのは彼自身の意欲によるものだが、もう一つの背景としては彼の属する環境党党首選びが挙げられる。「政治家が一生の仕事であってはならない」という彼の主張と似たように、環境党自身も「同じ人が党首をいつまでも続けるべきではない」という方針を持っており、党首の任期は最大8年と決めている。現在の2人の党首は2003年半ばから党首ポストに就いてきたので、来年には新しい党首が引き継がなければならない。そして、その有力な候補がまだ20代のグスタフ・フリドリーンなのだ。

(ちなみに、二人党首制を採用している環境党は男女を一人ずつ党首に選んでいるが、性別のバランスだけでなく年齢のバランスにも配慮しており、一人が中年ならもう一人は若い人を選ぶようにしている。現在の党首の一人であるマリア・ヴェッテルシュトランド(女性)も党首に選ばれた2003年当時は29歳だった。)

政治への復帰を表明してから、彼はメディア上において政治を巡る議論に参加するようになったが、ここでも政治と現実社会とのリンクの重要性を強調していた。その一つとして、テレビの討論番組のサイト上に面白い記事を寄稿していた。


「私がまだ国会議員の一期目を務めていたある時、フェアトレードのコーヒーの宣伝のために地方のスーパーの前にブースを作って、立っていたことがあった。すると若い女の子がやって来た。彼女は以前、同じ学校の高校生と一緒に国会議事堂の見学に行ったことがあり、その時に私を見かけたという。その時は、どこかの党の中年の女性議員に議事堂の中を案内してもらっていたらしい。そこを私が急ぎ足で通り過ぎて行ったと言うのだ。

ガイドをしていた女性議員は、私の姿が見えなくなってから高校生たちにこう言ったらしい。『あれがグスタフ・フリドリーンだよ。彼は私たち国会議員の給料を下げる提案をしているんだ。人間、年を取ればそれなりに高い給料を貰ってもいいってことが彼には理解できないようだ』。その女の子は女性議員に訊いてみた。『あなたは今何歳で、月にどれだけの歳費をもらっているの?』すると55歳で月に4万クローナ(50万円)貰っていることが分かった。女性議員に対する女の子のとっさの反応はこうだった。『55歳って、私の母と同じ歳。母は看護師をしているんだけど月にどれくらい稼いでいるか想像できる?』


彼は、この話の後で、チェコの共産政権に反対した活動家で民主化後に大統領になったハヴェルという人が「政治家となり大統領となったことで様々な特権を手に入れていくうちに、一般社会における現実感覚が次第に薄れて行き、権力の虜になってしまった」ことを自ら懺悔する講演を行ったことに触れている。

そして、「高校生を国会議事堂で案内した女性議員も、55歳の人すべてが月に4万クローナも稼げるわけではないことを知ってはいたであろうに、そんな自分の給料に不満だということを、何のためらいもなく高校生たちの前で口にできてしまったということは、一般の人々の現実感覚を失ってしまったことの現われではないかと思う。」と続けていた。


議会とは、社会を構成する様々な人々が自らの経験を出発点として政治を形作っていく場であるべきだ。若者として今どんな生活を送っているのか、最低保障年金しか受給できない年金受給者としてどう生きているのか、自営業者としてどのような苦労をしてきたのか・・・。そのような声こそ、専門家を自ら名乗る人々の声よりも重要なのだ。

保守党の広報担当の幹部はある時こう言った。『冷凍コーナーに並ぶ3つのメーカーのミートボールのうち、消費者はどれを選ぶのか? 政治とはここから始まるのだ』。つまり、保守党は有権者を、与えられた選択肢の中から受身的に選ぶだけの消費者としか見ていないのだ。

ある時、社会民主党のホームページを訪ねたことがある。自動的に流れてきた動画では、サッカーを応援するサポーターが観客席で歓声を上げていた。数秒後に、党首のモナ・サリーンが画面に突然現れ『あなたも社会民主党のサポーターになりませんか?』と誘ってきた。私は意味が全く分からなかった。今の政治が本当に必要としているのは、観客席で大声を張り上げるだけのサポーターや、今日は誰がどのようにプレーするかを偉そうに説明する解説者ではないはずだ。政治が必要としているのは、実際にボールを蹴るプレーヤーなのだ

民主主義とは愛情のようなものかもしれない。そこにあることが当然だと思っていると、いつの間にか姿を消してしまうものなのだ。」

――――――――――

理想論に過ぎない、と笑って済ますこともできるかもしれない。しかし、自分の理想を掲げ、それを実現したいと思う意欲を持った若者に、活躍の場がちゃんと与えられているという点が、私は重要なのではないかと思う。

グスタフ・フリドリーン 「議員が一生の仕事であってはならない」(その1)

2010-11-08 01:12:53 | スウェーデン・その他の政治
今回の国政選挙で18歳の国会議員が誕生したことは少し前にここでも書いたが、若者の政治への関与について語る上でどうしても触れておきたい人がいる。グスタフ・フリドリーンという27歳の若者だ。


振り返ること8年前、2002年の国政選挙において19歳という若さで国会議員に当選した男の子がいたが、それがグスタフ・フリドリーンだった。小さい時から環境問題に関心を持った彼は、11歳のときに環境党の青年部会のメンバーになり、党内でのアイデア形成に子どもの立場から積極的に関わっていった。そして、16歳のときにこの青年部会の代表に選ばれ、そして19歳から国会議員となったのだった。

ただし、任期4年の間に国会議員として様々な経験を積んだり、同僚の議員や他の党の議員と仕事をしていくなかで「国会議員という身分が一生涯の職となるべきではない」と考えるようになり、2006年の国政選挙では立候補しないと表明した。彼の考えは、政治という場はあくまで我々が生きる社会の現状を捉え、その社会を変革していくためのベースに過ぎないのだから、そこで仕事をする政治家は現実社会との接点を失ってはならない、というものだった。

過去の記事:2005-09-22:19歳の国会議員

理想的な政治のあり方とは、なるべく多くの議員が政治家という仕事それ以外の仕事の間を行ったり来たりすることだ。1期4年の任期を終えた彼は政治の世界から退き、それまで関心を持っていたジャーナリストという仕事に就くことを選んだ。そして、民放のテレビ局において社会問題を扱う番組の制作(Kalla fakta)に携わったり、ドキュメンタリー映画の制作を手がけたりした。中でも環境問題(飛行場・航空路線が抱える様々な社会的・環境的費用)を扱った作品は一定の評価を受け、環境ジャーナリスト大賞にノミネートされたりもした。

また、“民衆”高等学校(大学とは別に、議論や討論をベースとしながら社会的素養を身につけるための教育機関)で講師として働くための学位を大学で取得していた彼は、社会科や歴史の講師を務めたりもした。さらに、その傍らでは本の執筆も進め、2009年春に『騙された! - 歳出削減が生み出した一つの世代』として刊行された。この本のテーマは80年代生まれの若者世代だ。若い世代と中高年の世代との対立が常にそうであるように、80年代生まれの若者たちも社会の大人たちからは「新人類」だとか「怠け者の世代」だと冷ややかな目で見られてきた。そのような社会の目に対して、自らも80年代生まれであるグスタフ・フリドリーンは、自分たちの世代の声にも社会は耳を貸すべきだと声を上げたのだった。そして、この本のなかで、1990年代初めの経済危機とその後の歳出削減が80年代世代にいかに大きな影響を与え、彼らの明るい将来が打ち砕かれ、様々な問題が生まれたかを説明したのだった。まさに自分たちこそ大人たちに騙された(blåsta)世代だ、という訳だ。

このように様々なことにチャレンジできる意欲を持ったマルチな彼だが、2010年の国政選挙を9ヵ月後に控えた昨年暮れに、彼は国政にカムバックすることを表明したのだった。環境党に再び戻った彼は、党内での人気も高かったために支持をうまく勝ち取り、比例代表の上位に名前を連ねることとなった。そして、見事再選を果たしたのだった。(続く・・・)


少し生意気げにこうやって議場の席に座って討議に参加する若い議員がいてもいいでしょ?(5~6年前の写真)

紆余曲折を経て現在に至るノーベル基金

2010-11-02 01:47:36 | スウェーデン・その他の社会
今年もノーベル賞の受賞者の発表が無事終わり、授賞式と晩餐会まであと1ヶ月あまりとなった。受賞者が手にする賞金は2001年以降、1000万クローナ(1億2000万円)となっているが、この額もいくつかの変遷を経て現在に至っているようだ。

ある日刊紙が数週間前の記事でまとめたところによると、アルフレッド・ノーベルが死の1年前に遺言状を書き、その中でノーベル賞の創設を唱えた時点で、彼の資産3100万クローナだったという。現在の通貨の価値に換算すれば16億クローナ(192億円)に相当する。彼は遺言状の中で、この資産を「安全な投資先」に投資して管理するように言い残した。

ノーベル賞が初めて授与された1901年の賞金は15万クローナ(現在の価値で780万クローナ・9360万円)だった。しかし、資産の運用が当初はうまく行かなかったようだ。資産の大部分が国債などの低リスク・低リターンの債権で運用されたために収益が低かったうえ、第一次世界大戦や恐慌などの国際情勢のもとで価値が伸び悩んだ。資産の運用益よりも賞金として出て行く額のほうが多ければ、そのうち資産がなくなってしまう。そのため、賞金の水準が下げられ、1919年には13万クローナにまで下げられた。1901年の賞金である15万クローナと比べれば額面上はわずか2万クローナしか差がないが、もちろんこの間に物価上昇があるので、1919年の13万クローナは、現在の価値で比較すると210万クローナ(2520万円)に過ぎず、1901年と比べるとその実質価値は4分の1ほどでしかなかった。

20年代の戦間期には再び賞金の額が引き上げられたが、しかし30年代の世界恐慌を受けて再び減少に転じ、第二次世界大戦の勃発とともに再び低い水準に抑えられることとなった。

50年代に入り、このままでは資産が底をついてしまう恐れが出てきた。そこで、スウェーデン政府はノーベルの遺書にある「安全な投資先」の定義を改め、ノーベル財団が株式で運用することを許可したのだった(ノーベル財団の運用の監督を行っているのがスウェーデン政府というのは面白い)。

その後、世界経済の高度成長期においてノーベルの資産も確実に膨らんで行き、物価上昇に合わせる形で賞金の額も引き上げられていった。1980年には額面で100万クローナという水準に達したが、それ以降、急激に引き上げられていき、1991年の賞金の額はノーベル賞の初年の実質値とほぼ同額となるに至った。しかし、その水準に満足することなく90年代にさらに引き上げられた結果、2001年には1000万クローナ(額面)となった。しかし、それ以降は引き上げが行われていないため、物価上昇に伴って実質的な価値が若干低下している。


上のグラフは、賞金の額(賞一つあたり)の実質値(2009年の通貨価値)の歴史的推移を示したものだ。賞が始まってからの最初の10年間は威勢が良かったものの、その後、急激に引き下げられ、戦間期を除いてはほぼ横ばいを続け、過去30年間に急上昇しているのが分かるだろう。(ただし、これはクローナ建ての価値であることに注意。外国人の受賞者が多いことを考えれば、むしろ為替レートを考慮した上で、外貨(たとえばドル建て)に換算した実質値の推移を分析したほうがよいかもしれない)

ちなみに、ノーベル財団の資産額は現在31億クローナ(372億円)であるというから、当初の実質的な資産額(16億クローナ)のほぼ2倍であることが分かる。このうち53%が株式に投資され、残りが債権や不動産で運用されている。また、71%がスウェーデン国外で運用され、29%が国内で運用されているようだ。資産運用のポリシーとしては毎年3~4%の運用益をあげ、それを賞金やその他の経費に充てることにしているというから、将来も当面は安泰だと言えそうだ。