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スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

今年のスポーツイベントの結果報告 (1)

2015-06-23 12:35:15 | Yoshiの生活 (mitt liv)
前回の更新から少し時間が経ってしまったが、その間、スウェーデンの初夏を思う存分に満喫していた。4週末連続でスポーツイベントに参加していたからだ。

具体的に言えば、
● 5月23日(土):Göteborgsvarvet ヨーテボリ・ハーフマラソン(21.095km)出場9回目
● 5月30日(土):Stockholm marathon ストックホルム・マラソン(42.195km)出場6回目(公式4回目)
● 6月 7日(日):Halvvättern ハーフ・ヴェッテルンルンダン(自転車150km)出場2回目
● 6月12(金)-13日(土):Vätternrundan ヴェッテルンルンダン(自転車300km)出場10回目
の4大会に出場した。

上に書いた出場回数から想像がつくように、最初の2つのランは近年、毎年出場している。ただ、例年と異なるのは今年は間に週末がないこと。つまり、例年は別の週末が間に挟まれていたために休息を取ることができたが、今年はヨーテボリ・ハーフマラソンの開催日が遅く、立て続けの開催になってしまった。だから、体力が十分に回復できるかが気掛かりだった。

それから、その次の自転車150kmレースには昨年から出場するようになったが、1週間足らず後には300kmの自転車レース(本大会)が控えているので、体力が続くのかどうかが心配で今年も最後まで悩み、申し込み締め切り当日に参加を決めた。

実は昨年もこの4大会にすべて参加したのだが、ストックホルム・マラソンにおいて不運にもリタイアを経験してしまい、すべての完走は達成できなかった。

さて、今年は・・・?
昨年に比べたら冬の間もジムで屋内トレーニングを続けたものの、春になってから2度も日本に渡航したため、トレーニングができない期間があり、昨年の記録を果たして維持できるかどうか不安だった。

しかし、結論から言えば、今年は4大会すべてで完走。そして、すべてで自己記録を更新できた。


【Göteborgsvarvet ヨーテボリ・ハーフマラソン(21.095km) 】

今回で9回目の参加だが、この大会の開催日にはヨーテボリは毎年なぜか好天に恵まれる。(2年前の大会では局所的に15分ほど夕立と雹が降ったこともあったが、その15分を除けば晴天だった。)ヨーテボリ贔屓の私は、これはヨーテボリの守り神ポセイドンと天気の神様がそういう長期契約を結んでいるからだと思っている(笑)。


昨年は気温が20℃を上回り、少し暑いくらいだったが、今年は快晴なのに気温が15℃前後という絶好のコンディションだった。

毎年5月半ばに開催されるヨーテボリのこの大会はハーフマラソンとしては世界最大の規模を誇る。毎年のように人気が高まり、参加者が増えていった結果、今年のエントリー数は64325人。当日に実際にスタートした人の数は47013人、そして完走者は46500人だった。

6万人以上のエントリーなので、もちろん時間差スタートである。2000~2500人ずつ、30のスタートグループに分かれ、3~8分間隔で順次スタートしていく。だから、一番最初のグループが13:00にスタートして走り終わっても、ゴールとほぼ同じ場所にあるスターと地点ではまだまだスタートが続いており、最後のグループは16:00にスタートする。

自分がどのスタートグループになるかは、昨年もしくは一昨年のこの大会での成績による。私は近年はずっと第2グループでのスタート。だから、国内外からの招待選手や、一般参加者の中でも早い人達が13:00にスタートし、その3分後に私もスタートした。


撮影:筆者

自分の周りはペースの似たような人ばかりなので、とても走りやすい。周りの人につられてオーバーペースになったかも、と少し心配したけれど、幸いそのペースを後半戦でも維持できた。残り3kmになって時計を確認したら、昨年の自己記録を更新できそうだということが分かったので、なんとか気力を維持でき、最後の1kmはスパートしてゴール。記録は1時間31分47秒。昨年の記録を51秒更新した。

40歳になるまでに1時間30分を切ることも夢ではない気がしている。ただ、この大会のコースはスタートからまもなく急な上り坂(アシカの池がある所)があり、5km地点には大橋、そして13km地点にも別の大橋、そして、最後の4kmはなだらかな上り坂が続くので、これ以上記録を伸ばすのは難しいかもしれない。

沿道で何度か「Yoshi!」と声援をかけてもらった。何人かは声で誰かが分かったけれど、若い学生の声も何度か聞こえたので、きっと統計学の講義で教えた学生だったのだと思う。教え子からの声援はとっても嬉しい。


【 Stockholm marathon ストックホルム・マラソン(42.195km)】

その一週間後に開催されたのが、このフルマラソン。ヨーテボリのハーフマラソンと全く対照的に、このストックホルム・マラソンの日はいつも天気が悪い。今年も例に漏れず、雨、雨、雨。気温も10℃を下回り、とても寒かった。(ただ、5年ほど前の大会では雨が降った上に、気温が4℃ほどしか無かったこともあるから、それよりは少しマシ)

スウェーデンの西海岸に位置するヨーテボリは、よく「あの街では雨が多くて斜めに降ってくるんだよ」と評されるが、あれはストックホルム人がヨーテボリを馬鹿にするために言い出したことなんだろう、と私はヨーテボリの友人とよく話をする。実際のところ、ストックホルムのほうが雨が多いように思う(確かに風はあまりないかもしれないが)。


撮影:筆者

というわけで、この大会では今回も何にも良い思い出がない。12:00のスタートに合わせるように雨がしとしと降り始めた。前半は周りにつられてオーバーペースになり、後半はペースが維持できず、ズルズルと後退。「3時間半」のペースキーパーが率いる一群の少し前を走っていたけれど、30km地点を過ぎた辺りで追い越されてしまった。必死についていこうとしたけれど余力はもはやなかった。幸いにも一昨年の記録は何とか更新できそうだったので、最後は気力だけで走り、3時間37分34秒でゴール。自己記録を2分11秒更新した。

やっぱり、ストックホルムなんかよりもヨーテボリがいいな、と改めてヨーテボリ愛を確認できた大会だった(笑)。


【 Halvvättern ハーフ・ヴェッテルンルンダン(自転車150km)】

Vätternrundan(ヴェッテルンルンダン)という、ヴェッテルン湖の周り300kmを自転車で走る大会が6月半ばにあるのだが、10年ほど前からその半分の距離の自転車レースが同じ街で開催されるようになった。名前はHalvvättern(ハルヴ・ヴェッテルン)だが、分かりやすいようにここではハーフ・ヴェッテルンルンダンと呼んでおこう。

この150kmレースを走りきった後、わずか6日後に300kmの本大会を走るのはかなり酷だ。どうしようかと思ったけれど、そもそも今年はランニングのトレーニングが中心で、自転車のトレーニングをほとんどしていなかったので、トレーニングも兼ねて参加することにした。

ヴェッテルン湖を一周する本大会のように湖沿いの道を走っていてはスタートとゴールが別の場所になってしまう。だから、このハーフの大会では、本大会とは異なるコースを使っている。これが結構楽しいのだ。


Motala(モータラ市)をスタートした後、最初の30kmは広大な田園地帯、それから50kmまでは丘の中腹を等高線に沿いながら細い道を進み、70~90kmはカーブの多い森林・牧場地帯。その後、ゴールまでいくつかの集落を通り過ぎ、風力発電の風車を間近に眺めながら再び田園地帯を駆け抜け再びモータラ市に戻ってくるというコース。今年は、菜の花が満開で素晴らしかった。

今年も昨年同様、天候に恵まれた。この大会は60人ずつの時間差スタートで、私は朝8時16分にスタート。最初の50kmは向かい風で集団に付いているときは少しは風よけになるものの、集団を離れて単独行をするとたちまち体力を消耗してしまう。


出典:大会主催事務局のプレス用写真アーカイブ

ただ、90kmを過ぎた辺りから追い風に変わり、その後は努力しなくてもどんどんスピードが出た。しかも、110km地点を過ぎたあたりでNorrköping(ノルショーピン)のMTBグループ(ただしこの大会にはロードレーサーで出場)に加えてもらったお陰で、平地で時速40~45kmくらい出しながら快走した。喋ってばかりいる陽気な6人組のこのMTBグループには女の子が2人いたが、彼女らはこの前日に開催されたTjejvättern(ガールズ・ヴェッテルンルンダン)という100kmの大会にも出場したというので、かなりタフだ。300kmの本大会は出るかと尋ねたけれど、それは出ないと答えていた。(私がヨーテボリに住んでいた時に所属していたサイクリングクラブでは、100kmのTjejvättern、150kmのHalvvättern、そして300kmのVätternrundanの3つをすべて制覇する女の子が何人かいた)


緑のシャツが私。 撮影:Sportograf(購入)

結局6時間5分でゴール。これも自己記録更新。タイムは全然気にしておらず、むしろ楽しみながら走れたのが良かった。

※ ※ ※ ※ ※


そして、次回は自転車300kmのレース・Vätternrundan(ヴェッテルンルンダン)について。

ヨーテボリ・ハーフマラソン

2014-05-16 20:41:07 | Yoshiの生活 (mitt liv)
ヨーテボリ・ハーフマラソン(Göteborgsvarvet)は17日(土)13時スタート。ハーフマラソンとしては世界最大の規模で、今年も6万4000人がエントリーしている。



3000人ずつのスタートグループに分かれて約5-7分間隔で順次スタート、最後のグループのスタートは16時となる。
私はおそらく14時45分頃にはゴールしている予定。その後、ヨーテボリ大学へ行って、追試の採点・・・・。

今年は、春になってから忙しかったが、それでも時間を見つけてランニングをしてきた。昨年8月にストックホルムに移ってきてからランニングで走った道をまとめてみた。


同じコースを走るのは飽きてくるので、いつも新しい場所にチャレンジしています。行き当たりばったりなので、中にはランニングに全く適していない場所や車道、乗馬専用道、狼が出てくるところ、熊が出てくるところ、陸軍の演習場、地雷原などあるかもしれません(笑)。責任は持ちませんので、参考にしないほうが良いと思います。

ヨーテボリでディスコダンスを踊る17世紀前半の国王

2014-04-16 21:13:49 | Yoshiの生活 (mitt liv)
講義のためにヨーテボリに行くたびに気になっていたのだけれど、街の中心部に位置するGustaf Adolfs Torg(グスタフ・アドルフ広場)に立つグスタフ2世アドルフの銅像の周りに昨年の秋くらいから足場が組まれ、ビニールシートが掛けられている。修復作業を行っているようだが、そのビニールシートに描かれたイラストが実に面白い。

その話の前に、そもそもこのグスタフ2世アドルフについてだが、彼は1611年から死去する1632年までの間、スウェーデンの国王だった男で、バルト海南部沿岸の領土獲得やドイツ三十年戦争へ介入など、17世紀から18世紀初めにかけてのスウェーデンの強国時代の基礎を作った国王として知られる。

また、スウェーデンの西海岸に位置するヨーテボリの街を現在の場所に築いたのも彼である。そのため、この銅像は彼が右手を斜め下に伸ばして、人差し指で地面を指し、「ここに街を築け」と命じている姿を描いているのである。


しかし、現在、修復作業のために掛けられているビニールシートには、グスタフ2世アドルフが右手を掲げ、人差し指で天を指している姿が描かれているのである。そして、その横に「Staying Alive」と書かれているのだ。


これを最初に見た時に思わず吹き出してしまったが、そう、Bee Gees(ビージーズ)の名曲 Staying Alive (Stayin’ Alive)と、修復作業によって銅像の状態を今後もよく保つこととを掛けて、グスタフ2世アドルフにSaturday Night Feverのディスコ・ダンスを踊らせているのである。こういうユーモアがとてもヨーテボリらしくて(笑)、良いと思う。

ちなみに、この銅像が建てられたのは1848年であり、それから160年以上の年月が経つなかで劣化を目立つようになってきたという。剣の部分に亀裂が入ったり、台座の大理石が青や黄色に変色している。そのため、修復工事が必要とされたのである。台座の変色は、銅像から流れてくる銅イオンを大理石が吸収しているためらしく、炭酸水素アンモニウム(ふくらし粉・膨張剤として食品添加物にも使われる)を使って、銅イオンを抜き取り、本来の色である白色を復元する作業が続けられている。

(このイラストを遠くから見た人が「ハイル・ヒットラー」と勘違いしたという笑い話もあるが、ちゃんと見れば、人差し指を突き出していることが分かる)

※ ※ ※ ※ ※

今週火曜日は、ヨーテボリはとても天気がよかった。ヨーテボリ大学の経済学部が入っているHandelsの前に植えられた八重桜もちょうど満開だった。


明けましておめでとうございます

2014-01-03 11:05:54 | Yoshiの生活 (mitt liv)

2012年10月にヨーテボリ大学経済学部で博士号を取得し、その後、同学部に講師という形でしばらく所属していましたが、2013年8月からストックホルム商科大学にある「欧州日本研究所」(European Institute of Japanese Studies)で研究員をすることになりました。それに伴い、住居も住み慣れたヨーテボリからストックホルムへと変えました。

ただ、現在でもヨーテボリ大学では、統計学とミクロ経済学の講義を担当しているので、ヨーテボリにも頻繁に足を運んでいます。

ベラルーシとノルウェーの被災地訪問の報告会

2013-02-17 02:03:56 | Yoshiの生活 (mitt liv)
講演会の案内です。
実は、博士論文を9月下旬に提出してから、10月半ばの公開口頭試問までの2週間、ノルウェーとベラルーシに視察・研修に行ってきました。目的は、1986年のチェルノブイリ原発事故の際の様々な経験や知見を、どのように日本の被災地の復興に繋げていくかを探るためです。

ノルウェーでは、放射性物質の降下量が国内で最も多かったヴァルドレス地方を訪ね、この地方の主要産業である酪農・畜産においてどのような汚染対策が行われてきたか、そして、その成果はいかなるものだったのかを視察しました。
また、ベラルーシでは、隣国ウクライナのチェルノブイリ原発から35km離れたブラギン(Bragin)市を訪れ、事故直後の状況や、コミュニティー再生のためのこれまでの道のり、現在そこで暮らす人々の生活を学んだり、さらに、チェルノブイリ事故と福島原発事故との比較から何が分かるかを考えました(避難や食品汚染の実態など、チェルノブイリ事故後の周辺の住民の被曝が福島事故のケースよりもはるかに大きかったことなども、それまで自分で学んでいた以上に良く分かりました)。

その視察・研修の報告会が来週末、東京で開かれます。私はノルウェーの部分を報告します。講演会の定員は当初100人ということでしたが、150人と増やされたそうですので、申し込みは今からでも間に合います。

※ ※ ※ ※ ※



チェルノブイリ被災地訪問報告
-ベラルーシとノルウェーで見た「放射線と向きあう暮らし」-


原発事故以来、私たちは幾度となく「チェルノブイリでは…」と聞かされてきましたが、普通の人々はどのように放射線と向き合って事故後暮らしてきたのでしょうか。

「福島のエートス」代表の安東量子さんとスウェーデン・ヨーテボリ大学の佐藤吉宗さんが事故の影響が大きかったベラルーシとノルウェーの人々を訪ねた旅のお話を聞きます。

◆日時:2月24日(日) 13:00~17:00(12:30開場)
◆参加費:500円(高校生以上)
◆定員:150名

◆第一部:13:00
『ノルウェーの被災地における畜産業と暮らし -佐藤吉宗 (スウェーデン・ヨーテボリ大学 経済学部 研究員)-』

 鳥取県米子市出身。京都大学経済学部在学時の 交換留学がきっかけで2000年夏以降、スウェーデンに在住。経済学博士。
 チェルノブイリ事故後のスウェーデンにおける汚染対策の知見や反省点について、同国政府がまとめた報告書を翻訳し『スウェーデンは放射能汚染からどう社会を守っているのか』として2012年1月に出版。
 ツイッターを通して安東さんらの「福島のエートス」の活動に関心を持ち、ノルウェーとベラルーシにアシスタントとして 同行した。

◆第二部:14:15
『ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会ったひと-安東量子 (福島のエートス代表)-』

 1976年生まれ。福島県いわき市在住。
 放射線を測り、知り、対処しながら、コミュニティでの生活再建を目指す住民活動を行っている。
 「エートス」は、チェルノブイリ事故10年後のベラルーシで始められた、ETHOSプロジェクトから。      

◆アクセス:荒川区民会館 サンパール荒川 小ホール
 都バス・JR日暮里駅東口より里22亀戸行き「荒川区役所前」徒歩2分
 都バス・JR西日暮里駅より草63浅草雷門行き「荒川区役所前」徒歩2分
 都電荒川線・「荒川区役所前」徒歩2分
 日比谷線・「三ノ輪駅」南千住方面改札より徒歩12分
 コミュニテイーバスさくら・南千住西口または町屋駅より南千01「⑬千住間道西」徒歩3分

詳細情報、および、お申し込みはこちらから → http://atnd.org/event/fkouenbk2

※ ※ ※ ※ ※

以下は、私が撮った写真をいくつか。


ノルウェーで訪れたヴァルドレス地方の位置(赤丸)


10月初めの紅葉が美しい


訪れた農村地帯


ノルウェー名産のヤギのチーズを作るためにヤギを飼育する農家


ベラルーシで訪れたブラギン(Bragin)の位置


ブラギン市の郷土博物館にて。事故直後の消火活動で多量の被曝をし、2週間後に亡くなった消防士を讃える展示


チェルノブイリ原発の周囲30kmの立ち入り禁止区域に侵入する際の検問所。区域内は野生動物の保護区となっている。この内側にある政府の研究所を訪れた。


首都ミンスクの朝

久しぶりの更新です

2013-02-09 14:10:10 | Yoshiの生活 (mitt liv)
いろいろと忙しかったため、昨年の夏以来、更新を怠ってきました。

9月に博士論文を仕上げ、10月半ばの公開口頭試問を経て、経済学博士号を取得しました。


オポーネントは学外から招待します。
審査委員は3名からなり、学内の同学部の教授が1人、スウェーデン国内の他大学で同じ分野を研究する研究者が1人、そして、国外から招いた教授が1人でした。

公開口頭試問の3週間前にはスウェーデン独特のちょっとした儀式があります。製本された博士論文を、大学本部の入り口の掲示板に釘で打ちつける Spilkning という儀式です。英訳すれば Nailing ということになるでしょう。



そこには同じヨーテボリ大学の他学部で発表される博士論文も掲載されます。このように製本した論文のデザインやフォーマットは、学部によってそれぞれ。唯一共通しているのは、大学のロゴくらいでしょうか。


氷まじりのヨータ川

2010-12-23 19:57:45 | Yoshiの生活 (mitt liv)
忙しくて更新の時間がありません。最近撮ったヨーテボリの写真をいくつか。


まるで蓮のように川に浮かぶ氷


沿岸警備隊(海上保安庁)の巡視船


外海に面した長い海岸線を持つノルウェーで見た巡視船は駆逐艦みたいに大きかったが、スウェーデンはせいぜい海峡部と内海の監視が主なので、ずいぶん小さい。


トライアスロン皆生大会 団体参加

2010-07-21 11:27:15 | Yoshiの生活 (mitt liv)
最近、スポーツイベントの話題が続いていますが、またスウェーデンの政治の話も続けて行きます。

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さて、鳥取・米子市で開催されたトライアスロン皆生大会。30周年記念である今年は、団体参加によるリレーも可能になったが、初めての試みとあってルールや手続きなどが確立しておらず、大会主催者側も大いに困惑していた。

さて、朝7時の水泳スタート。この日は晴天で地元の最高峰、大山(だいせん)が空にきれいに映えていた。雲ひとつなく、朝から気温がドンドン上がっていった。今年の出場者は個人参加が824人、団体参加が48組。日野川河口部の砂浜に選手が一堂に集まった(団体参加の人は水泳担当の選手のみ)。我が「チームSATO」で先陣を切る私の妹も、号砲を待ちわびる選手の中のどこかにいた。


7時の号砲と共に日本海に向かって一斉に駆け出す選手たち。まず沖合いに400mほど泳ぎ、左折した後は浜と平行に泳いで行くことになる。先頭争いをする選手に他の選手が連なって行き、きれいな長三角形ができた。そして、それが次第に左寄りに歪んで行き、先頭集団が左折を始めていく。



沖合いに400mと言っても、実際に目で確認すると浜からかなり離れていると感じる。妹が本当にそんな所で3kmも泳げるのか・・・。次第に不安になっていった。しかし、その妹が群集のどこにいるかも見分けがつかない状態なので、「あそこでちゃんと泳いでいる」と確認することすらできない。妹はこのような大会は初出場。しかも、これまでプールでの練習がほとんどで、実際に海でトレーニングしたことは数回しかなかったのだ。

この3kmの水泳コース。実は、1.7km地点で一度浜に上がり折り返す。だから、心配だった私は、その折り返し地点に急行した。すでに、多くの選手が上陸し、給水した後に再び海へと戻っていた。そこで20分ほど待っただろうか。浜に向かってくる選手が残り4人となったとき、その中に少し変わった動きをする選手を見つけた。他の選手がゆっくりとクロールしているのに対し、その選手は腕を見せず、頭が水面に出たり沈んだり。そう、平泳ぎだ。おそらくこの大会唯一だと思われる平泳ぎの選手が、妹だったのだ。


クロールだと力の消耗が激しい。平泳ぎのほうがマイペースに泳げると、当初から平泳ぎだけで泳ぎきるつもりだった。折り返し地点の通過時は最後から2番目。私もタイムなど競うつもりは最初から全くなかった。とにかく泳ぎ切って、次の自転車に繋いでくれればいい。1.7kmの折り返し地点で47分。2時間という制限時間はクリアできるだろうか・・・?

そんな心配も杞憂に終わった。折り返した時点で最後から2番目だった妹が、平泳ぎにもかかわらず後半戦で10人以上も追い越して、1時間27分でゴール。泳がない泳げない私にとっては想像も付かない世界だ。

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自転車を担当する父がバトンを受け継いだのは8時半過ぎ。既に炎天下の兆し。そんな中を145kmも走るのだが、コースは大山(だいせん)の山麓を駆け巡る非常にアップダウンの激しい所。前日の開会式でコースの概要を説明した審判長も「最初の部分に少し平坦な部分があるが、それ以外は登りか下りしかない」と言っていたほどだ。コースが広範囲にわたっており、残念ながら途中を観戦に行けないのが残念。


各選手が足にICチップを巻いておりタイムが自動的に計測される点は、スウェーデンの自転車大会(ヴェッテルンルンダン)やヨーテボリ・ハーフマラソン、そしてストックホルム・マラソンと同じだ。しかし、スウェーデンのこれらの大会では途中ポイントの通過時間が瞬時にオンラインで公表されたり、携帯メールに自動的に送信されるため、選手の奮戦状況が第三者に簡単に伝わるのに対し、残念ながらこのトライアスロン皆生大会では、そこまで行き届いたサービスはない。

私が得た唯一の情報は、テレビ局の撮影チームからのものだった。実は我々「チームSATO」は親子での団体参加とあって、地元のテレビ局(日本海テレビ)がドキュメンタリー番組を作るために絶えず追跡していたのだ。自転車の競技中もテレビ局の撮影班が私の父を追いかけ、ワゴンの天井からテレビカメラで撮影していた。その撮影班から私の元に入った情報は、父が猛スピードで自転車を飛ばし、エイドステーションにもほとんど立ち寄らないで先へ先へと急いでいるが、足がつったために苦労している、というものだった。しかしその後、予想よりも早く、残り50kmのところまで来ている、という未確認情報も飛び交っており、最後のマラソンを担当する私も、腹ごしらえを済ませ、早めにスタンバイしておくことにした。

さて、12時に最初の選手が自転車を終えて帰ってきた。この大会には、個人参加の選手(つまり1人で3種目すべてをこなす人)と団体参加の選手(リレー式)が一緒に参加しているが、驚いたことに最初に自転車を終えた選手の数人は、みな個人参加の選手だった。自転車を置いて着替えを済ますと、順次マラソンのスタートを切っていく。



第1位で帰ってきた選手

わたしの父は、その未確認情報によると13時ごろの到着だったので、13時にはバトンの受け渡しエリアに入って、スタンバイしていた。その時には既に団体参加の何組かが自転車からマラソンへの切り替えを済ませていた。さて、待つこと数十分。個人参加の選手が次々と自転車を終え、マラソンに移って行き、団体参加の選手も一組、また一組とバトンタッチをして行った。時刻は14時を過ぎ、14時半を過ぎていった。次第に心配になっていった。そんな時、自転車選手のリタイアの情報が入ってきたが、幸いにも別のチームだった。

そして、14時40分を回った頃、ANA(全日空)のロゴの入ったシャツを着た父の姿が見えた。ついに自転車を終えゴールだ。父に続いて、テレビ局の撮影班がカメラとマイクを担いで私のほうに向かってくる。そして、私へのバトンタッチの様子を詳細に記録に収めていく。バトンタッチと言っても、バトンを渡すわけではない。実際には、足首に巻いたICチップを外して渡すのだ。

――――――――――

さあ、ついに私の出番がやってきた。目指すは境港。弓ヶ浜半島の先端だ。そこで折り返し、同じ経路をたどって再び米子市に戻ってくるコースだ。3kmを泳ぎ終え、145km自転車を終えて、やっと最後のマラソンに取り掛かった個人参加の選手とは違い、マラソンだけを担当する私は足並み軽く、快調に走っていった。この大会は私にとって2度目のフルマラソン。1度目は今年6月のストックホルム・マラソンだったが、その時は前半をハーフマラソン並みに飛ばしたために後半が続かず、苦い経験をした。その教訓を踏まえ、今回は前半で力を入れすぎないように気をつけた。自分の限界の60%を意識しながら前半を終えた。


ただ、不安要因も出てきた。実はこの大会、自転車コースもマラソンコースも交通規制がほとんどない。赤信号になると青まで待たなければならないのだ。信号に引っかかることは頻繁にはなかったものの、それでも一度止められるとそれまでのペースが乱れてしまう。足を止めたために、足の筋肉がつりそうにもなった。

実際に足がつったのは、ちょうど中間地点である落ち返し地点の直前だった。「ゲゲゲの鬼太郎」で町おこしをしている境港市の「妖怪ステーション」が折り返し地点なのだが、その100m手前で右足ふくらはぎが痙攣を起こし動かなくなった。激痛に耐えること1分ほど。するとたまたま「ねずみ男」(の着ぐるみを着た人)がやって来て、私を指差す。私も動くことができないまま「妖怪なら、何とかして助けてよ」と冗談で言うと、本当に足を軽くマッサージしてくれた。ありがとう。

この痙攣後もしばらくは順調に走ることができたものの、25kmを過ぎたあたりから足の筋肉が限界に近づいてきた。あと15km余りを走り切れるようにと徐行をするものの、足を動きを緩めた途端に、筋肉が痙攣を起こし立ち往生。そんな状態が3kmごとにやって来た。



時刻は5時半を回ったものの相変わらず暑い。今日の最高気温は35度、湿度は90%とのことだった。復路は既に走った道。余計に長く感じられる。国道431号線の直線部分が単調でしんどい。しかし、この大会の素晴らしいところは元気なボランティアの人たち。一般の人々もいるし、中学生、高校生もいる。全部で4000人ものボランティアが大会を支えていると言うが、そんなボランティアの人たちが沿道の至る所に立って交通整理をしながら声援を送ってくれる。そして、エイドステーションのたびに頭に冷たい水をかけてくれる。

テレビ局の撮影班もコースの各所に待ち構えて、私が半ばフラフラになりながら走って(歩いて)来るのを撮っていた。あるエイドステーションでは「あと10kmもないからガンバレ」というボランティアの人の声に応えて、大きく手を振りながら勢いよくその場を後にした300m後に、再び足が痙攣し、立ち往生してしまった。その一部始終もカメラが収めていた。

私の周りにいるのは、ほとんどが個人参加の人たちだ。彼らは泳ぎ、自転車を漕いだ後に、いまフルマラソンを完走しようとしている。とてつもない体力と精神力の持ち主だ。中には倒れそうになりながらも、歩いて着実にゴールに向かっている人もいる。それに対し、私は団体参加の一人。マラソンだけの参加だから、本来なら体力も残っていなければならない。それなのに、個人参加と同じくらいに疲れた顔をしている。情けない。そういえば、好調だった前半部分でも、ヘトヘトになって走っている個人参加の選手たちを次々と追い越していくことに、ある種の罪悪感を感じたものだ。このトライアスロン大会は、あくまでトライアスリートが主役のはずだ。そんな所に私みたいな団体参加の者がまぎれていてもいいのか・・・?

一番辛かったのは30km~35km区間だったが、ボランティアの元気な声援に励まされながら、最後の7kmはほとんど歩くことなく前へ進み、19時36分にゴール。妹、父に加え、母も一緒になって、家族での伴走ゴール。もう暗くなっていた。水泳の妹が朝7時にスタートしてから12時間あまりが経過していたことになる。私のマラソン部分は、かろうじて5時間を切った。ストックホルム・マラソンよりも大幅に記録が落ちた。しかし、時間がどうだったかよりも、最後まで完走できたことが嬉しかった。

皆生トライアスロン大会

2010-07-17 23:39:50 | Yoshiの生活 (mitt liv)
私の故郷である鳥取・米子市は、日本で最初にトライアスロンの鉄人レースを開催した地。1981年から始まったこの大会も毎年規模を徐々に拡大していき、今年で30周年を迎える。
大会HP

そして、30周年を記念して今年は団体参加(リレー式)が可能となった。
7月18日(日)朝7時に水泳がスタートし、その後、自転車、そしてマラソンへと続いていきます。

レースNo.988「チームSATO」
・水泳(3km):妹
・自転車(145km):父
・マラソン(42.195km):私

予定では私は14時頃にバトンを受け継ぎ、境港へ向かって弓ヶ浜半島の外浜を走っていきます。シャツの色は蛍光黄緑です。

それから、7月17日付の「山陰中央新報」もお手元にあれば中ほどを御覧ください。

フルマラソンに挑戦

2010-06-06 07:00:53 | Yoshiの生活 (mitt liv)
8年ほど前に自転車を始め、4年ほど前にハーフマラソンを始め、そして今年、ついにフルマラソンに挑戦することとなった。

今年32回目のストックホルム・マラソンは、市内を2周するコース。今年は2万人近くが応募し、1万5千人が走った。午後2時の一斉スタートだが、スタートラインの通過時間とゴール時間は個別に計測される。最後のほうでのスタートとなった私は、2時にならされた号砲からスタートラインの通過まで6分もかかった。


1週目は好調だったが、20kmを過ぎた頃から、足の水ぶくれが痛み出し、救急テントでテーピングをしてもらう。その後、全く力が出なくなってしまって、スピードを遅くしたとたんに、足の筋肉が痙攣。だから、2周目は散々だった。

3kmごとに足が痙攣するので、その度に道端で苦痛をこらえていた。おまけにお腹の調子も良くないのにトイレがなかなか見つず苦労した。足の関節と筋肉の痛みをこらえながら、歩いてでもいいから前に進んだ。


目標は完走することだったのでその達成は果たしたが、タイムはよくなかった。前半と後半の所要時間が大きく開いていた。エネルギーの配分は今回あまり考えていなかった。


風船売り、ではなく、ペースキーパーの人たち。例えば「3:30」というバルーンを持っている人についていけば、3時間半でゴールできるペースできちんと走ってくれる

フルマラソンに今年初めて参戦したものの、初戦でボコボコにやられ、ほうほうのていで逃げ帰ってきた感じだ。しかし、ストックホルム・マラソンは単なる前哨戦に過ぎない。もっと大きなものが待ち構えている。

夕方のジョギング

2010-06-04 05:55:25 | Yoshiの生活 (mitt liv)
今日は経済学部で研究発表をし、いろんなコメントをもらった後、そのままヨーテボリ中央駅に急いで特急に乗り込んだ。


夕方、と言っても午後8時過ぎだが、外に出て10kmほど軽くジョギングをした。実はここはストックホルム。











なぜ、ストックホルムにいるかって? 土曜日に大きなイベントがあるためです!

ヨーテボリ・ハーフマラソンの結果

2010-05-27 20:40:04 | Yoshiの生活 (mitt liv)
今年のヨーテボリ・ハーフマラソンは、去年をさらに上回る58000人が応募。既に昨年10月の時点で枠が一杯となり、応募が締め切られていた。

当日は快晴で、あまり風がなく蒸し暑い日となった。スタートグループは24に増え、1グループ1000人~3000人ずつの5分間隔による時間差スタート(先頭のエリートグループは100人ほど)。グループの数が増えたから、最初のスタートも今年は30分早くなって13時30分

私はエリートグループ(100人ほど)、1A(1000人ほど)に続いて、1Bというグループでスタート(2000人ほどが一緒)。13時33分発だ。


今年が4回目の出場だが、これまでと違うのは、ちゃんと腕時計を用意してきたこと。そう、これまでは全く時計なしで「適当に」走ってきたのだけれど、「時計を見ながら一定のペースで走ったほうがいいですよ」とアドバイスをもらったし、2月の「地球ラジオ」に出演した謝礼としてNHKから時計をもらったので、それをつけて走ることにした。

昨年の記録は1:33:24だった。1時間半を切るのが近年の目標だが、まだ達成できていない。1時間半でゴールしようと思えば、1kmあたり4分17秒で走らなければならないが、今年もトレーニングの段階で既にそれが難しいことが明らかになっていた・・・。

スタートしてから最初の5kmは大体1kmを4分25秒のペースで走った。急な坂と大きな橋があるために、最初から無理はしないためだ。去年は最初で頑張りすぎてしまったが、今年はいい調子だった。10km地点も予定より1分遅れで通過。

職場ぐるみでお揃いのシャツを着て走っている人も見かけるし、ランニングクラブのシャツで走る人も多い。「ボルボは社員の健康に力を入れている」という文句が背中に入ったシャツを何度も見かけた。警察や消防・国防軍も県警とか部署ごとにシャツを作っているところもある。来年はヨーテボリ大学経済学部でシャツを作れたらいいな。

走りながら笑ってしまったのは、目の前を走っていた男性のシャツの背中に「Flygbajsägare」と書いてあるのを見たとき。どういう意味かって? 「空飛ぶウ●コの所有者」・・・。でも、私の読み間違いであることに気がついた。本当は「Flygbasjägare」だった。国防軍の空軍基地を警備する特殊部隊のことだ。場所を少し入れ替えるだけで、意味が大違いだ!

その後も、安定したスピードで順調に走っていたつもりだったが、時計によると徐々にペースが落ちていることが分かった。自分では絶好調でいいペースを保ちながら走っていたつもりだったのだけど。おそらくトレーニング不足のために、限界に達していたのだろう。

目抜き通りのアヴェニューは混雑しておらず、走りやすかった。ヴァーサ通りからの最後の4kmは微妙な上り坂になっており「ランナー殺しの坂」だ。いつものことながら、たくさんのランナーがここぞとばかりにラストスパートをかけるが、タイミングが早すぎて続かなくなる人が多い。あと2kmのところで倒れて観客やスタッフに助けられている人を何人も見かけた。救急車もたくさん待機している。

そんな最後の数キロを気力だけでクリアして、ゴール。記録は1:35:58。去年よりも2分半遅くなった。しかし、順位を見ると昨年は1709位だったが、今年は1467位と上昇しているではないか! おそらく暑さのために全体的に記録が下がったのだろう。それにもかかわらず、招待選手であるケニアの選手は1:01:10と大会記録を塗り替えた。今年の完走者は38459人!

今年は、いろんな人から声援をもらった。誰か良く見えなかったが、大学の同僚とか統計学・経済学を受講していた大学生が多かったと思う。







下の動画はアヴェニューにて


嵐のあとの良い天気

2010-03-11 07:45:46 | Yoshiの生活 (mitt liv)
2月20日にスウェーデンを襲った吹雪。
ストックホルム発の特急列車が10時間前後かかって到着した体験談は、ここでも紹介した。

その翌日は、とてもいい天気。
嵐が吹いたあとのヨーテボリの町がどうなっているのか? この町で暮らすたくさんの人々が、興味津々で外に出て散歩していた。カメラを持っていた人も意外と多かった。


上の写真をクリックするとスライドショーになります。



スウェーデン中南部で寒波のため非常事態警報

2010-02-22 09:13:41 | Yoshiの生活 (mitt liv)
既に書いたように、スウェーデンのこの冬の寒さは厳しい。2月になっても寒波が続いている。

この影響で、この冬はスウェーデンの鉄道がズタズタだ。鉄道システムが寒さに耐えられないのだ! もともと寒い国なのだから、寒さに対する備えはできているものかと思うが、雪が一時的に多く積もったり、氷点下10度以下の日が少しでも続くと、ダイヤに大幅な乱れが出てしまう。

トラブルの多くは以下のようなもの:
(a) 切り替えポイントに雪や氷が挟まって、線路の切り替えができない。
(b) それに加えて、切り替えポイントと信号が連動しなくなり、信号が赤のままで変わらない。
(c) 雪や氷のために線路がすべり、上り坂が越えられない。
(d) 列車の動力系統の一部が凍りつき、列車が動かない。
(e) 扉が凍り付いて開かない、もしくは閉まらない。


特に、ストックホルム中央駅付近で(a)や(b)のトラブルがよく発生する。スウェーデン各地から走ってきた列車が集結するため、車体にびったりと張り付いた雪や氷が一気に落ちて、切り替えポイントに障害を与えるためだとか。

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さて、この週末は新たな寒波がスカンジナビア半島を襲った。土曜日には丸一日、ウプサラ地方以南で自然災害警報の第2レベルが発令された。自然災害警報には第1、第2、第3と3段階あるが、第2レベルはかなり厳しい状況のときに発令される。外に出ず、自宅で留まることが奨励されるし、道路も鉄道も大幅な混乱が予想される、というものだ。

金曜日に環境保護庁で用事があったため、実は土曜日にはストックホルムにいた。その日の午後、特急でヨーテボリに戻る予定で切符も買っていた。しかしこの日は非常事態ということで、国鉄SJ

「列車を使う人は自分でリスクを判断するように。遅着の場合には通常、運賃の払い戻しが行われるが、警報第2レベルが発令された現状では、使用した切符の払い戻しは行わない。乗り換えが必要な場合も接続については保証できない。使用前の切符であれば、全額払い戻す」とアナウンスしていた。


ホテルの窓から見たストックホルム中央駅

冷静に考えれば、この日はヨーテボリ行きを断念して、もう1泊すべきだろう。しかし、月曜日までに仕上げなければならない仕事が大学であったし、それに、吹雪のなか本当にヨーテボリに列車がたどり着くのか興味もあった。そんな冒険心から、予定通りヨーテボリ行きの列車に乗ることにした。

予定では、ストックホルム発14:10、ヨーテボリ着は17:17
14時前にストックホルム中央駅に着くと、駅はごった返していた。ヨーテボリ行き特急X2000が通常は出発する10番ホームではなく、17番ホームという到着専用ホームへ行け、という指示を受ける。

理由がすぐ分かった。通常、使用済みの特急列車はホームの外れにある作業所に運んで、車内を清掃したり、トイレのタンクを空にした上で路線に投入する。しかし、ダイヤの乱れで車体が大幅に不足しており、マルメ発ストックホルム行きの特急列車の到着を待って、その列車をそのままヨーテボリ行きとして使うことになったのだ。その列車がホームに入ってきたのは、ヨーテボリ便の出発時間である14:10のわずか7分前。

14:03:マルメ方面からやってきた乗客がどっと降りてくる。この列車も実は2時間近く遅れて到着。私が乗ろうとすると車掌が止める。「軽く清掃をするかもしれないから、ちょっと待って」 しかし、車掌あての業務連絡が入り「乗客をすぐに入れるように。清掃は列車が発車してからでもできる。今はとにかく、定刻どおりに出発することが最優先だ」と伝えた。

14:10:乗客が乗り終わる。乗車率は6-7割くらいか。車内アナウンスが入る。「悪天候の影響で、遅れが出ることは十分に覚悟して欲しい。乗り換えの接続は保証できないので、途中で乗換えが必要な方は、今日の移動は断念し今ここで降車をお勧めする。未使用の切符であれば全額払い戻す用意があるからだ」

14:12:業務連絡(車内に聞こえている)が入る。「運転席! 運転手はいますか? いたら応答をお願いします」 返事はなし。乗客は大爆笑

14:20:いまだに発車せず。車内アナウンス「悪天候のために、通勤列車や地下鉄ですら大幅に遅れているため、この列車を操縦する予定の運転手がまだ仕事に来ておりません」 乗客は再び大爆笑。

14:30:車内アナウンス「運転手がまだ到着しておりません。鉄道指令部からの指示を待っているところです」

14:50:アナウンス「運転手は到着しましたが、長いあいだ停車していたために、列車の扉の一つが凍り付いて、閉まらなくなりました。もう少しお待ちください。」

15:01:やっとのことでストックホルム駅を出発。何人かの乗客が拍手。この時点で50分遅れ。さて、今日中に家にたどり着けるだろうか? 念のために言っておくが、通常はストックホルム-ヨーテボリ間は特急で3時間強。でも、私はこの日はこの列車内で夜を明かすことも覚悟していた。電気と暖房とインターネットがあれば何も怖いものはない。


ストックホルムをあとにする

15:20:トイレに入ろうとすると、前に入っていた人が「紙がないよ」と言っていたので、車掌を見つけて、紙を補充してもらう。

15:40:車内アナウンス「この車両のトイレはタンクが一杯なので閉鎖します。ストックホルムでタンクを空にする時間がなかったからです。別の車両のトイレをお使いください」 しかし、この数分後には隣の車両のトイレも同様の理由で閉鎖。

15:50:最初の障害。運転手からのアナウンス「切り替えポイントの不具合のため停車します」 20分ほど停車。カーブ地点のため、車体が右に傾いている。

16:32:途中のカトリーネホルム駅を通過した時点で、1時間半の遅れ。

17:00:線路上で再び停車。運転手のアナウンス「この先のハルスベリ駅付近は幹線と地方線が交差するところで切り替えポイントがたくさんあるのですが、その多くが凍り付いている模様です。現在、路線網を管理している鉄道庁の職員が修復作業中です」

17:30:外は既に暗いが、まだ同じ地点に停車したまま。この日は私の乗った14:10発の他にも、08:10発10:10発12:10発ヨーテボリ行き特急列車があったが、他の列車は無事にヨーテボリにたどり着いたのだろうか? ふと気になったので鉄道庁のホームページで調べてみると、08:10発のヨーテボリ行きは、1時間ほどの遅れがあったものの無事たどり着いている。しかし、10:10発と12:10発はまだ着いていないことが分かった。どこにいるのか? もう少し詳しく調べてみると、何と私の乗っている列車のすぐ前で停車していることが分かった。つまり、線路の障害のために数時間もこの場所で立ち往生していたのだ。外に出て見ることはできないが、先発の特急列車やローカル列車が数珠繋ぎになっていただろう。

17:45:食堂車からのアナウンス「暖かい食べ物は売れ切れました。サンドイッチが僅かに残っている程度です」 私はこの列車内で夜を明かす覚悟をしていたものの、食糧のことは考えていなかった。スーツケースにはなぜか、乾燥ひじきや切干大根が入っているが、役に立たない。

18:00:車掌のアナウンス「この車内にはインターネット接続のための無線LANが設備されています。通常は有料ですが、今日は特別に無料で開放します。ご自由にお使いください」

18:15:食堂車からアナウンス「サンドイッチも売れ切れました。ジュース、コーラ、ビール、ワイン、コーヒー等の飲み物はまだあります。」 この車内に長時間、缶詰状態になったら、食べ物はどうしようか?外に出るにも吹雪だし、深い森の中だ。ふと15年以上前の「生きてこそ」という映画を思い出したが、それ以上は考えないことにした。

18:30車掌は中年男性だが素晴らしい人だ。乗客をいたわってコーヒーや飲み物を持って来てくれる。こういう時は、車掌のちょっとした気遣いで、乗客の気分が大きく変わるものだと思う。多くの乗客は覚悟して乗車しているので、文句を言う者は見かけない。

18:50:運転手からのアナウンス「今入った情報によると、複線のうち片方の修復作業が終わった模様です。これから上り・下りの列車ともその単線を順番に使っていくことになります。ただし、私たちの列車は行列の後方にいるため、もう少しお待ちください。」

19:00:近くの乗客が一台のパソコンでオリンピックのTV中継を見始める。ネット接続なので、よく途切れるが私も一緒に見させてもらう。気が付いたら、車掌も隣に座って一緒に見ていた。

19:15:列車がやっと動き出す。問題の箇所をクリアして、ハルスベリ駅通過。外は吹雪。

19:50:再び停車。運転手のアナウンス「再び切り替えポイントの故障です」 調べてみると、先発の2つの特急列車も私の列車の前で立ち往生。


外は雪と氷の世界


20:00:まだ停車したまま。車掌のアナウンス「今日はMelodifestivalenです。座席横のジャックにイヤホンを差し込めば、ラジオ第3チャンネルで放送が聞けます。今日は長旅となりますが、番組を聴きながら気分を紛らわしてください」 Melodifestivalenとはこの時期にスウェーデンで行われる音楽祭典。この日は嵐の渦中にあるヨーテボリが会場だった。

20:10:列車が動き出す。運転手が喜びながらアナウンス「嬉しいことに、今回は修復が早かった!」この時点で4時間半の遅れ。

20:15:近くの乗客や車掌と一緒に、パソコンでMelodifesitvalenのTV中継を見ている。

20:40フヴデ駅に停車する予定だが、すぐ前に特急が2本連なっているため、5分ごとに順番に停車。

21:00:Melodifestivalenは、いいなと思っていた曲が一位になり、決勝進出を決めた。

21:20ファールショーピン駅に臨時停車。ローカル線が完全運休なので、数人の乗客を降ろすためだ。ここで嬉しいアナウンスが食堂車から入る。「ファールショーピンの地元メーカーから、パンやバター、チーズ、ハムが調達できました。100人分の簡単なサンドイッチは作れそうです。おなかが空いた人は食堂車までどうぞ」

21:30:食堂車に行ってみると、乗客が並んで、パンやバター、ハムを受け取りながらサンドイッチを作っていた。私も一つもらった。

21:50:すぐ前に2つの特急列車が走っているので、あまりスピードは出ないが、確実に前に進んでいる。

22:00:再びストップ。運転手のアナウンス「前に貨物列車がいるようだが、その電気機関車の調子が寒さのためにおかしい模様」 何と、貨物列車までいたとは! 非常警報が発令されているなか、貨物列車を動かしているとは、よほど重要な貨物輸送なのだろうか(笑)?

22:10:幸いすぐに動き出した。車掌と話す。「今日は本当ならヨーテボリで折り返して、ストックホルム行きの列車で勤務したあと自宅に帰る予定だったんだけど、残念ながらホテル泊まりだ。」

22:30:ヨンセレードという小さな駅で臨時停車。これも一部の乗客を降ろすため。ヨーテボリまで残りわずかなので、線路に障害が起きませんように、と皆がそれだけを願っていた。

22:50:そして、ついにヨーテボリに到着。乗客が拍手喝采。5時間半あまり遅れての到着だ。10:10発12:10発の特急も同時にヨーテボリに到着したから、乗客の中には12時間以上も缶詰になっていた人もいたようだ。


雪にまみれた特急列車。よく頑張ってくれた。先発の特急2つも隣のホームに到着


ヨーテボリ市内は雪が降り続いている。風も強い。路面電車の一部が麻痺。バスに乗って帰宅。時刻はちょうど0:00。翌朝は9時からラジオ出演だから早く寝ないと。

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私が乗った列車の次のヨーテボリ行き特急(16:10発)は3時間遅れでストックホルムを後にし、ヨーテボリに着いたのは深夜02:17だったとか。でも、特急だったからこれでも優先的に扱われたほうだ。

一番かわいそうなのは各駅停車のInter-cityに乗った人。11:07にストックホルムを発った後、私の列車が立ち往生したポイントで7時間半も待たされ、ヨーテボリ着は翌朝07:26。実に20時間もかかったことになる。乗客の多くが車内で夜を明かしたようだ。食堂車の食料も底をつき、トイレのタンクも一杯で大変だったようだ。いくら覚悟していたとはいえ、ここまで時間がかかれば、乗客はかなり怒っていただろう。