スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

スウェーデンで手にした意外なもの

2006-03-31 07:13:55 | コラム
もうお気づきかもしれませんが、少し前から、このブログのタイトルは日本語だけの『スウェーデンの今』になりました。日本語だけでコンパクトに行きたいと思います。ホームページやブログなどでリンクを貼っていただいている方は、できたら変更をおねがいします。

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ヨンショーピンでの日本語の授業の後は、帰りのバスまで少し時間があるので、たいてい参加者と適当なおしゃべりをする。数週間前のこと、生徒である高校生の男の子数人が群がってきた。DVDを手にしている。「先生、これ見た? 貸してあげる」という。何かと思って見ると、ローマ字(できたらひらがなで書いて欲しかったな)で"Densha Otoko"と書いてある!

日本の情報に疎くなってしまうのは仕方ないと思うけれど、恥ずかしいことながらこの「電車男」を初めて知ったのは去年の年末。映画もTVドラマも見たことなかった。こんなことまで、この高校生ら、よく知ってるなー。しかも、彼らが手にしていたのは映画版ではなくて、TVドラマ版。TVドラマなんか、よく手に入れたな、と感心してしまった。11回分がちゃんと一つのDVDに圧縮して入っているのだそうだ。

ノートパソコンをいつも背負って来ているで、帰りの高速バスの中で再生してみてビックリ。これは市販のDVDをコピーしたのじゃなくて、テレビの放送そのものの録画だったのだ。というのも、各回の最初には、テーマソングが流れ、ドラマの合間にはコマーシャルまで入っているのだ。

しかも、英語の字幕つき。近頃は、TVドラマでも文字放送を選べば、英語の字幕が見られるということだろう。しかも、この字幕、普通の映画に見られる簡単な英訳じゃなく、単語のびっしり詰まったかなり細かい英語字幕。それが、次々切り替わるので、たまに一時停止でもしないと、ついていけないくらいだ。「オタク」はもちろんのこと「萌」なんていう“専門用語”にもちゃんと解説がついている。

彼らに感想を聞いてみると、面白かった、というのだ。「萌」とか「メイド喫茶」とか、理解しているのかと疑問に思うけど、英語の字幕のおかげで大丈夫だったよ、とのこと。むしろ、私のほうこそ、理解できていないと思う・・・。

スウェーデンの高校生たちに、一応、念を押しておいた。日本語を勉強して、マンガやアニメが読めるようになるのはいいけど、あぁはならないでね。そうしたら、俺たちもメイド喫茶に行きたいって返事。日本のサブカルチャーが海外に伝わるのは面白いことだと思うけれど、こんなことまで伝わってしまうのは、なんと表現したらいいか、ちょっとだけ情けないな・・・。

この録画の出所はどこかと聞いてみると、もちろん、インターネット。最近は映画だけじゃなくて、テレビドラマなんかのデジタル録画も、放送後すぐにインターネット上に流れて、スウェーデンでも入手可能になるのだそうだ。

恐るべしインターネット。恐るべしスウェーデンの高校生!

ボケの始まり

2006-03-29 08:45:41 | Yoshiの生活 (mitt liv)
今日は『研究助成金獲得のワザを教える』という学内の職員・研究者向けの研修があった。
それに先だって、昼食時のキッチンでの出来事。
みんなで集まって食事をしていると、隣の研究室のスウェーデン人の女の子(Anna)がやってきた。

Anna:「Yoshi、例の研修の参加者リストにあんたの名前もあったけど、一緒にいく?」
私:「そういえば、そうだ。明日だったっけ?」
Anna:「何言ってんの。今日だよ。」
私:「ああ、そうそう。15時からだったっけ?」
Anna:「何言ってんの。13時から。もうすぐ始まるよ。」
私:「ああ、そうそう。ヴァーサ通り経済学部の建物でだよね。」
Anna:「何言ってんの。ヴァーサ広場大学本部の建物だよ。」

言うことが、次から次へとトコトン間違っていて、自分でもビックリした。いい加減な性格だと自覚はしたけれど、ここまでヒドイとは。その場に居合わせた10数人のスウェーデン人は、Aに向かって口をそろえて「首輪でも付けて、Yoshiの面倒をちゃんと見てやってくれ」と念を押されてしまった。

そろそろ、私もケア付き住宅に引っ越す時期かな。それとも、認知症向けのグループ・ホームがいいかな。

さて、いざ大学本部へ。ここにきて、どの部屋か分からない、とAnnaがいう。私はちゃんと控えていたので、10号室だ、と言ったものの、さすがに信じてもらえなかった。今度こそは正しかったのに。

意外な外務大臣人事

2006-03-28 07:24:57 | スウェーデン・その他の政治
ついに外務大臣の後任が決まった。と、スウェーデンのこんなマニアックな話題を書いても、関心のある人は日本にはまずいないと思うけれど、ここまで書いた以上、最後まで書きたいと思います。

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ちょうど昨日書いたように巷の噂では、41歳の女性で、国際援助担当大臣であるCarin Jämtin(カーリン・イェムティン)が有力だとされていたが、見事に裏切られた。後任にはなんとJan Eliasson(ヤン・エリアソン)が選ばれた。

さぁ、私のブログをいつも熱心に読んでくださっている方々は、この名前にすぐにピンと来るはず!(笑) スウェーデンの熟練外交官で、現在は国連総会の議事長を担当している65歳の男性。思えばちょうど一年前、彼の母校であるヨーテボリ大学で特別講演があった時に、90分にわたる講演を聞き、国連改革にかける彼の希望と意欲に感動したものだった。(以前のブログ 2005-04-02)

もちろん外相の後任選びに彼の名前も挙がっていた。熟練の外交官で、しかも自らの理想とビジョンをしっかり持っていることから、与野党を問わず、みなが一目置く外交官だったからだ。しかし、政治家ではなく、事務方あがりの外務官僚なので党内での政治経験がないこと。それから、現在は国連において、不可能といわれる国連改革に取り組んでいる。先日は、アメリカの猛烈な反発にもかかわらず、新しい国連人権委員会の設置が決まったばかり。その他にも改革の案件は山積みだ(安保理改革は今回は無理らしい)。そのため、当分は暇がない、という理由から、後任の候補からは外されていると見られていた。

彼が外務大臣になれば、国連総会の議事長のお役目はどうなるのか、と気になるが、1年の任期が切れる今年9月までは、なんと兼任なのだそうだ。4月の大半は、国連での交渉がいくつも入っているので、それを片付けてから、4月24日付で晴れて外相に就任する。

彼の経歴を簡単に。ブルーカラーの家庭に生まれ、ヨーテボリ大学で経営学を学んだ後は、外務省に研修生として入省、キャリアを次第に積んでいき、例の“過激な”パルメ政権の下では駐米大使館の書記官を経験したり、国連の仲介者としてパルメがイラン・イラク戦争の調停に当たったときは、彼の片腕としてサポートしている(パルメとよく気が合ったらしい)。80年代後半からは国連大使や事務次官、駐米大使を務める。社民党員ではないものの、こうして党執行部とは太いパイプを保ってきた。今日の正式決定をうけて、社民党に正式に入党する。ちなみに彼の妻も官僚で、現在は文部省の事務次官。

うまくバランスのとれた外交官で、スウェーデン人に広く人気があるだけあって、普段は与党の人事をうるさく批判する野党も「ベストな人事だ」と評価している。彼個人の資質に関する批判はまったくなく、批判があるとすれば「外相ポストも彼にとってはアルバイトのようなもの。国連の任務と兼任で、どこまで外相が務まるものか」といったものだ。

私自身は、最初はガッカリした。国連での作業が少しずつ波に乗り始めていただけに、国連改革一本で頑張って欲しかった。そして、次の国連事務総長の有力候補になると見ていた。いまこうして、一つの党に所属して大臣職に就いてしまうと、外務官僚として政党政治とは一歩離れたところで柔軟にできたことも、思うようにできなくなり、身動きが取れなくなることもある。いくら職務に熱心であっても、いわれのないスキャンダルでメディアによってつぶされてしまうこともある。そんなリスクは十分にある。

一方で「スウェーデンの思いを国際社会にぶつけたい」との意気込みも見せている。取り組んでいる国連改革が前進するように、スウェーデンの外交政策からも国連改革をサポートしたい、とのことだ。また、世界各地の紛争の調停に、スウェーデン政府としてもっと力を入れるべき、と意欲を燃やしている。彼の舵取りに今後期待したい。

国連とスウェーデンをまたに駆けて動き回る彼のために、本国でのバックアップ体制もしっかりしている。外相後任に最有力視されていたCarin Jämtinは外務副大臣に就き、事務方のほうも事務次官や大臣官房に、手腕のある官僚をつけることが同時に決まった。Carin Jämtinに関しては、まだ若い彼女をいきなり外務大臣職につけるよりも、Jan Eliassonのもとでしっかり学ばせたあとに、しっかりと花を咲かせてもらおうという首相の意向があるのではないかと思う。

あまり期待しすぎてもよくないけれど、1年前の講演で彼が口にした「悲観論が支配する現在の国際政治にも希望はある」、そして「根っこと翼」(以前のブログ 2005-05-11)の話を思い出すたびに、彼の今後に注目せずにはいられない。それから、あの講演では観客の中にアムネスティーや国際赤十字などのNGO職員もいたが、彼らがJan Eliassonに寄せる期待は大きかった。NGOに好かれる外交官って、そうそういるものではない。

※追記
日本の新聞にも記事が

大臣の抜擢

2006-03-27 08:17:58 | スウェーデン・その他の政治
公共テレビSVTが4回シリーズの連続ドラマを今月放送した。『冠をかぶったプリンセス』というタイトルのこのドラマ、環境活動家として活動してきた30代前半の在野の女性が、突然、環境大臣に抜擢される、というストーリー。支持率低迷に悩む政権党(社民党という設定)が、人気回復を図って、思い切った人事を行ったのだ。就任当初から人気が高まるのだが、意気込んでしまって、過激な発言をしたり、スキャンダルをリークされたりと、道は平坦ではない。1時間ずつの4回シリーズ、計4時間という短さだったが、意外と面白かった。大臣以下、省内の役職の名前も登場したので、組織の一部もちょっと分かった。

国会議員として選出されていないばかりか、政党内での活動経験がまったくない在野からの抜擢、というドラマの設定は一見、乱暴に聞こえるけれど、スウェーデンではそんなに珍しくはないようだ。

一番最近の例では、現在の法務大臣Thomas Bodstörmだ。2000年秋に、Laila Freivalds(前記参照)がスキャンダルで突然、辞任に追い込まれる。政権党であった社民党は、彼女の後任に若手の大臣職起用を図り、数週間かかって出た結論が、彼だったのだ。着任当時、彼は38歳。パルメ政権後期の1982-85に外務大臣を担当した政治家の息子で、ストックホルム大学の法学部を卒業してからは、弁護士として法律事務所に働いていた。それだけではない。サッカーがうまく、大学時代は、スウェーデンのプロ・リーグで活躍していた、そんな若者だった。しかも、彼自身は、もともと、政治家でも社民党員でもなんでもなく、2000年9月にいきなり首相から電話がかかってきて、大臣職の打診があり、”Ja”の返事と共に、入党の手続きをしたという異色の政治家だ。2000年の着任以来、ちょっと微妙な法案提出をしたりして、議論を呼んできたけれど、今も現役で法務大臣職を続けている。あまりカリスマ的な政治家がいない社民党内では、近い将来の首相候補とまで囁かれているくらいだ。

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さて、先週辞職した外務大臣の後任はまだ決まらない。しかし、有力な名前が挙がってきた。41歳の女性議員Carin Jämtinだ。現在は外務省下の「国際援助担当大臣 (Biståndsminister)」に就いている。彼女が有力ではないか、と噂される。スウェーデンの政治ではどのような資質が議論されているのか、興味深いので、この後任選びを少し紹介してみたい。

外務大臣ポストの後任選びに、首相は4つの注文をつけている。(1) 国内問題にもよく通じた、経験のある議員、(2) EUレベルでの意思決定はインフォーマルな形での協議やネットワークが必要になるので、社交性を身につけていること。(3) 外国語に堪能であること。特に、英語で細かい交渉ができること。(4) エネルギーに満ちていること。

これらを考慮したうえで挙がった名前がCarin Jämtinというわけだ。両親がスウェーデン国際援助庁の職員であったため、タンザニアで幼少期を過ごし、貧困問題や国際問題に深い関心を培ってきた。社民党の青年部で活動し、大学を出てからは、パルメ記念センターで国際援助に関わる仕事に従事し、実務経験も豊富。しかも、社交性もあり、同僚と仕事がしやすい(いくら関心とやる気に満ちていても、これがないと管理職には失格)。などなど、5つ星の若手議員のようだ。

外務大臣という要職に41歳の女性が起用されるか。殺害されたAnna Lindhも外相着任時である1998年には同じく41歳であったから、無理では無さそうだ。やる気のある若手をつけて、スウェーデンの活発な外交を取り戻して欲しいものだ。

Volvoの世界市場

2006-03-26 01:32:42 | スウェーデン・その他の経済
私のスウェーデンとの出会いは、私がまだ小学生だった1983年ごろに父が買ったボルボの車。当時、日本ではボルボの車は少なく、故郷の米子でも初めてのボルボではなかっただろうか。

さて、最近では日本でもボルボをかなり見かけるようになった。2005年に日本で販売されたボルボの乗用車も13427台に昇ったという。日本の車市場が大きいために、国内におけるボルボのシェアはわずかだが、Volvoにとっては日本は重要な輸出市場の一つに少しずつなりつつあるようだ。去年の販売台数で比較すると、日本でのVolvoの乗用車の販売台数は第8位だ。

1) アメリカ 123 575
2) スウェーデン 52 696
3) イギリス 38 307
4) ドイツ 35 035
5) イタリア 20 533
6) オランダ 18 879
7) スペイン 18335
8) 日本 13 427
9) ベルギー 12 638
10) カナダ 11 651

スウェーデン本国よりもアメリカでの販売台数のほうが多いのは、面白い。対ドルの為替レートの変化が、Volvoの輸出に大きな影響を与えるのではないか、と思う。

といっても、ボルボは国外の生産も行ってはいる。ベルギー、マレーシア、南アフリカ、そしてタイでも生産している。私の父のVolvoはオランダで生産された右ハンドル車、のはず。

しかし、乗用車の大半は今でもスウェーデン製だ。主な生産基地は以下の通り。
•Göteborg (Torslanda工業地帯)
最新のモデルVolvo XC90, Volvo S80, Volvo V70, Volvo V70XCなどを生産。ヨータ運河の北側に大きな工場群を設けている。「ボルボ博物館」も工場地帯の中にある。
•Uddevalla
Volvo C70 を生産。ヨーテボリから北にいったところにある。Uddevallaの隣町TrollhättanにはSaabの生産基地があるため、両都市の一帯は車の生産クラスターがあるとか。
•Skövde
乗用車部門とトラック部門がある。ヨーテボリからストックホルムへ向かう途中にある。特急X2000が停車する。
•Olofström
スウェーデン南部、ブレーキンゲの小さな町。よく知らない。

スポーツ休暇 (もう少し詳しく)

2006-03-24 07:27:58 | スウェーデン・その他の社会
以前にスポーツ休暇(sportlov)について書いたところ、もう少し詳しく知りたい、とのご要望を頂きました。ちょっと遅くなりましたが、分かったことをまとめてみます。

以前のブログ(2006年2月20日)

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以前も書いたように、冬のスポーツを楽しむために、小・中学校と高校が2月から3月にかけてのある1週間、休みになることをいう。大学は通常含まれない。子供が休みになるので、親もそれに合せて一週間休みを取って、スウェーデン中部のスキー・リゾートやヨーロッパ・アルプスなどに出かけるのだ。

だから、一般の職場でも子持ちの親は、何とかやりくりして、一週間休みを取ろうとするそうだ。どのくらいの割合で、親も休みを取るのかは不明だが、公共部門や福利厚生のしっかりした民間企業では比較的取りやすいのかもしれない。

さて、ではこの休みは有給なのかというと、通常そうではないようだ。つまり、この時期に休みを取る人は、年間で与えられた有給休暇日数を切り崩して、スポーツ休暇に充てるのだそうだ。だから、夏休みが1週間短くなるのだろう。なるほど。

さて、スウェーデン中の子供たちやその親が一斉に休みをとっても、リゾートの交通が麻痺し、ペンションも一杯になってしまう。だから、よく考えてあって、住む町や県によって、スポーツ休暇の週が違うのだ。例えば、ある年のスポーツ休暇日程は以下の通り。(v. はその年の第何週かを示す)

v 7: Kungsbacka, Jönköpings län, Ydre
v 8: Uppsala län, Skåne län, Södermanlands län (utom Gnesta), Östergötlands län (utom Ydre), Örebro län, Hallands län, Blekinge län, Kalmar län, Kronobergs län
v 9: Stockholms län, Dalarnas län, Gästrikland, södra Hälsingland, Västmanlands län, Värmlands län, Gnesta, Älvkarleby
v 10: Västerbotten, Norrbotten, norra Hälsingland, Västernorrlands län, Jämtlands län, Idre
v 11: Jokkmokk

これは一つの例だが、通常は第6週から第12週にかけてなのだそうだ。これも、イースター休日が3月に来るか4月に来るかによって前後する。というのも、イースターに際しても小・中・高校が1週間「イースター休暇」になるからなのだ。だから、スポーツ休暇とイースター休暇がくっつき過ぎないような配慮がなされるのだそうだ。

スウェーデン各地の人が順番に休みをとってしまったら、経済活動が麻痺するのではないかと思うが、休みを取るのは小・中学生のいる家庭に限られるだろうから、そこまで深刻では無さそうだ。日本でもゴールデンウイークを各地で違う時に取ったらどうだろうと、ふと思ったけれど、大混乱になるかな・・・?

とまあ、本当はここで終わりにしてもいいのだけれど、マニアックなことも少しだけ。このスポーツ休暇の起源が面白い。なんと、第二次大戦勃発直後、1940年からスウェーデンでも日常物資の配給制度が始まるのだが、その一環として小・中学校でも暖房費を節約するため、冬の一番寒いこの時期に学校を休みにする名目として、この休暇ができたそうだ。日本で一時期いわれた「1940年体制」の名残は、スウェーデンではこんなところに生きていたのだ・・・!

※注
「1940年体制」:戦後の日本で行われた護送船団方式や食糧管理法など、政府機関による経済のコントロールは、元をたどれば、戦時中に総力戦を行うために設けられた様々な経済統制のシステムに起因する、ということから、1980年代後半以降、時代遅れになった各種の規制や官僚の既得権益などを指してこういわれた。(と思う、確か)

ある大臣の辞職

2006-03-22 06:54:18 | スウェーデン・その他の政治
やっと、や~っとのことで、不人気の外務大臣が辞職した。

2003年9月にまだ46歳の若さでこの世を去ったAnna Lindh(アナ・リンド)に代わって、外相ポストに就いたのは同じく女性議員Laila Freivalds。9/11テロ以降の混沌とした国際情勢や途上国の貧困問題などを目の前にし、積極的に外交に関わろうと努力していたAnna Lindhとうってかわって、この新任者はビジョンもなければ、やる気もない、そんな大臣だった。やり手の前任者に匹敵する人材が社民党内に不足していたこと、それから、男性でなく敢えて女性を就けたいという党の方針からの苦渋の選択だったようだ。

しかも、2004年12月の東南アジアの津波災害の際には対応にてこずり、のらりくらりの態度がそれ以降、批判されてきたのだった。災害直後の対応で与党・政府に手落ちがなかったかを問う国会の証人喚問もついこの間おわったばかり。このときも外相が辞任するのか、それとも野党が不信任案を提出するのかが争点になっていた。

そして、また新たなスキャンダル。例の風刺画騒動が一番激しかった頃、スウェーデン国内の右翼政党がホームページで読者からムハンマドの新たな風刺画投稿を募ったり、自分たちで描いた風刺画を掲載していたのだ。それが火種になってスウェーデン・バッシングに発展することを恐れた外務省と公安警察は、このサイトのサーバー管理会社に働きかけて、サイトを閉鎖させたのだった。中国政府じゃあるまいし、民間の人々が考えたり、表現したりすることに政府機関がわざわざ圧力をかけて口封じをするのは、言論(表現)の自由に反してしまう。このことを追求された外務大臣は「自分の知らないところで、外務官僚が勝手にやったこと」とシラを切ったのだ。

ウソはすぐにバレるもの。その後の報道で明らかになったのは、サイトの閉鎖は外務大臣がGoサインを出していたことだった。この外務大臣、やる気がなくて国民に人気がないだけでなく、外務省内でもウケが悪かったようで、彼女をよく思わない外務省関係者がマスコミにリークしてしまったようだ。

マスコミに再び追求されて、最初のうちは、必死に自らの立場を防衛し、辞職はしないと突っぱねていたものの、今日になって一転、辞職することとなった。やはり人材不足で代打がいないために、首相Göran Perssonも外相ポストに彼女を置いておきたかったものの、高まる批判にもう持ちきれないと判断。今年9月の総選挙に向けて選挙戦が本格化する前に、マイナス要因を除いておこうという意図があったようだ。

彼女の在任中、自らイニシアティブをとって国際問題に取り組んでいこうとする気概がないばかりか、いろいろなことを批判される度に、常にマスコミのせいして、守りの姿勢ばかりが目立っていた、そんな大臣だった。しかも、彼女、今回の辞職が初めてなのじゃない。実は2000年までは法務大臣だったのだが、自宅のアパートにまつわる公私混同スキャンダルでも同様に追求され、2000年9月に法務大臣を辞職。その3年後の外務大臣就任まで、一線から退いていたのだった。マスコミの対応に失敗し続けて、常に守りの姿勢を貫いてきた、まさに哀れな政治家だ。二度も辞任なんて、スウェーデンでは例がないらしい。

ただ、彼女に関する評価をいろいろ読んでいると、確かにマスコミが執拗に追い詰めていった節が無いわけでもないようだ。でも、やはり役職に対する熱意がなく、官僚の書いた答弁を読み上げるだけの大臣は、スウェーデンでは大臣失格だ。

さて、じゃあ、熱意のある適任者に就いてもらおう、と思っても、社民党には適任者がいない。Anna Lindhの後任を決めるときと同じように、どっかの人を引っ張ってきて、頭を挿げ替えるだけなのだろうか・・・?残念ながら、スウェーデンの政治でもこのような状態なのです。

日本の新聞より(1)
日本の新聞より(2)
(ただ、スウェーデンでの報道とは若干異なりますが)

春・移り変わりの季節

2006-03-19 07:40:32 | Yoshiの生活 (mitt liv)
この週末は東京経済大学のN先生とヨーテボリでお会いした。ちょうど一年前に、簡単な通訳とヨーテボリ市内の案内で手伝いしたのだが、それが縁で、今回はN先生だけでなく、ゼミ旅行ということで一緒に来た学部のゼミ生とも会って、半日ほどヨーテボリを案内した。

ヨーテボリに住んではいるものの、あまり観光をしたことがなく、観光地に関しては素人同然。どこを紹介したらよいか戸惑ってしまう。それでも、運河沿いの散歩コースを歩いたり、地元の人々が使う連絡船に乗ったりなど、そういう素朴なことにも先生に喜んでもらえてよかった。ガイドブックに乗っていないような、ちょっとした“いい所”は重宝されそうなので、これからはちゃんとチェックしておこう、と思った。今日は土曜日とあり、交通の便が悪くて、時間があまりないのに、バス待ちの時間ができてしまって残念。

ゼミ旅行と聞いて、よく考えてみると、ちょうど日本は今、年度の変わり目だということに気づく。大学は入試も終わり、春休みの真っ最中。桜の季節なのだろうか。スウェーデンは、少し暖かくなったものの、今日も雪が降った。日本の季節感をほとんど忘れてしまう。

スウェーデンの大学はちょうど今、春学期の真っ最中なのだけれど、日本人の研究者でスウェーデンへ滞在されている人の何人かは、日本の大学のスケジュールに合せて、ちょうどこの3月で帰国してしまう。

東大からウプサラ大学の行政学部に来ているIjuさんも、スウェーデンを発ってしまう。ウプサラでは日本人交換留学生の人望が厚い人。私も何度も泊めてもらって、1年半お世話になりました。今頃は、送別会の頃でしょうか。

それから、私の所属するヨーテボリ大学経済学部に、静岡大学から来られているA教授もあと一週間で日本へ帰国される。教授夫妻がいらっしゃったちょうど一年前、最初の頃は知らなかった。大学に日本人研究者がほとんどいないんだから、日本からこういう先生が来ている、と一言教えてくれればいいのに、大学の事務や教授陣からは何の音沙汰もなかった。読みそこなった大学関係の電子メールを読み返しているときに、赴任の知らせをたまたま見つけて、挨拶をしに研究室のドアを叩いたのがきっかけだった。それ以来、親しくしてもらってきた。研究されてきたことが、私が漠然と抱いてきた問題意識と偶然一致しており、その後はいろいろなアドバイスを頂いた。自分の頭の中にアイデアはあっても、なかなか具体性が得られず、試行錯誤していたことに対して、道を示してしてくれた。それから、自宅に伺うたびに、奥さんには手料理をご馳走になった。1年で帰国されるのが惜しまれる。

それにしても、広い世界の中で、人の巡り合わせというのは面白いなと思うし、不思議な気分になってくる。夏目漱石か誰かの小説の中で、世界は広いけれど、それよりも広いのはお前の心だ、というくだりがあったけれど、広い広いと思っている世界も、人の心に比べたら、実際にはちっぽけなものに過ぎないのかもしれない。

トーテンポール、里帰り

2006-03-17 05:58:24 | スウェーデン・その他の社会
ほのぼのとした、いいニュースがあった。
トーテンポールの里帰りの話。

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カナダ・British Columbia州に1929年当時、駐在していたあるスウェーデン領事がインディアンの一部族、ハイスラ族が先祖を祭るために作り、大切にしてきたトーテムポールをスウェーデンに持ち帰ってしまった。

その後、ストックホルムの民俗博物館に所蔵され、展示物の中の一つの目玉となった。このトーテンポールは9mと高く、当時の博物館には入りきらなかったが、1975年の博物館舎の改築の際には、これにあわせて天井を特別に高くした展示室を作ったほどだった。


ところが、1991年にハイスラ族の代表が民俗博物館を訪れ、自分たちのもとに返してほしい、と訴えた。スウェーデン政府はこれを受け、トーテムポールの出所の調査をし、結局、領事がハイスラ族に無断で持ち帰ったものと結論を出し、返還することにしたのだった。

輸送費用の交渉に時間がかかったものの、今週はじめ14日ににストックホルムの民俗博物館から無事運び出された。こののち、ヨーテボリの港から船に載せられ、カナダに送られる。ヨーロッパ人によるアメリカ大陸開拓の過程で破壊されてしまった文化を、いま再び取り戻そうと努力しているハイスラ族にとっては、象徴的な出来事となったようだ。

無断持ち帰りの真相が解明されて、無事、本来の持ち主の手に戻ることになったトーテムポール。一方、ストックホルムの民俗博物館は目玉の展示物の一つを手放してしまった。しかし、ここで話は終わらない。返還のお礼として、ハイスラ族はこれに似たトーテムポールを作成し、ストックホルムに寄贈したのである。そのため14日には同時に、この新しいトーテムポールの建立もあわせて行われた。

偶然にも、スウェーデン政府は今年2006年を「mångkulturåret (多文化の年)」と指定し、異なる文化の理解や共存に力を注ぐことにしている。そのため、このmångkulturåretにとっても、幸先のいい出来事となった。


展示場から撤去されるトーテムポール
ハイスラ族

青空が輝く

2006-03-14 20:13:06 | Yoshiの生活 (mitt liv)
スウェーデンは3月になってもまだ寒い。
日は毎日どんどん長くなって春らしくなっているのに、寒さだけは相変わらず厳しくて、先週でも零下15度くらいはあった。今週になって少し楽になったか、と思っても、まだまだ氷点下。手袋を自宅に忘れて、まあ大丈夫、と油断して外に出ると大変。荷物を持つ手がカチカチに凍ってしまう。

それにしても、この季節の空の青さがたまらない。天気がいい日が続き、毎日、空が青々と輝いている。しかも、澄んだ青。寒さのために、空気中の湿気が凍って、埃と一緒に地面に落ちてしまったためか、本当に澄みきっている。

そして、太陽に照らされた地上の雪と相まって、まるで青空が輝いているようだ。

ヨンショーピンのベッテルン湖は深いために、滅多に凍らないのだが、今年はここも一部凍っている。鳥かと思ってよく見てみると、スケートで滑っている人だった。


しかもこれ、ヨットにスケートを履かせて、それに引っ張られる“水上スキー”ならぬ“氷上スケート”、って変なネーミング!? 凝ったことをするもんだ。

あれから20年 (2)- パルメの内政

2006-03-09 01:39:54 | スウェーデン・その他の政治
あるスウェーデン人の実家に遊びに行った時のことだ。彼の両親とワインを飲みながら話をしていると、かつては市政に少しかかわっていた父親を指差して友人が言った。「うちの親父のアイドルはOlof Palme(オロフ・パルメ)なんだよ」

この親父さんと同じ世代の社民党支持者で、あの頃を振り返りながら、こう考えている人は少なくないようだ。90年代の大不況を経験し、政治に対する不信感を募らせきた社民党の支持者にとっては、Olof Palmeはスウェーデンの黄金時代のシンボル、“あの頃はよかったなぁ”とノスタルジーを込めながらそう回想したくなる存在のようだ。(80年代になってもスウェーデン経済は比較的好調だった。86年といえば、バブルのちょうど入り口の年だった。)

しかし、逆に右派の政党の支持者にとっては、Olof Palmeは悪魔のように憎い存在だったのだ。というのも、外交政策と違って、国内政策では右派と左派のイデオロギーの対立が日増しに強まっていたからなのだ。だから、こうして今、彼の死を振り返るときに、愛憎入り混じる感情が、スウェーデン国民の間にはあるようだ。

スウェーデンの外交政策の大きな柱が「武装中立・非同盟」で、東西どちらの陣営にもつかず第3の道を行こうとしたのと同じように、Olof Palmeの掲げた国内政策も、資本主義と社会主義の中間をいく第3の道の挑戦と見ることができる。高い税率と大きな公的部門によるスウェーデン型の福祉国家は、まさにその具体的な顕れだろう。

しかし、70年代初めに「左の波」がヨーロッパを席巻すると、スウェーデンの社会民主党はさらに先に進もうする。そして、大きな論争に巻き込まれてしまう。「経済の民主化」という問題だった。

我々の社会の中の政治の側面では、近代の歴史の中で普通選挙や表現の自由などが達成され、民主主義が着実に成熟してきてのだけれど、経済の側面に目をやると、ここでの民主化はまだ不十分だとみる人々がいた。労働者の権利が憲法の中で保障されるようになっても、雇用者が労働者を働かせ、自らは利潤を溜め込む、という構造は変わっていないし、成長した大企業がますます発言権を拡大し、一国の経済・社会政策が彼らに左右されるようになってしまったと、考えられた。それなら、雇用者や大企業の所有を“社会有”にして、これらの経営を労働者がコントロールしてしまおう。しかし、ソ連とは違って、それを市場経済の枠組みの中で行うためには、どうすべきか・・・!?

そこで考えられたのが『労働者基金 (löntagarfonder)』というアイデアだった。これは、企業の超過利潤に対して特別税をかけ、この税収によって労働組合が管理する基金をつくるというもの。そして、この基金でスウェーデン企業の株式を購入するのだ。基金の総額は年を経るごとに大きくなっていくから、次第にスウェーデンの企業の経営権を労働組合が獲得していく。そして、最終的に経済の民主化を果たした社会主義が達成される、という考えだった。


“基金によって次第に経営を乗っ取っていこう”当時のLOの新聞より

もともと、このアイデアはブルーカラーの労働組合LOから出されたものだったが、社民党が支持をした。Palmeは乗り気ではなかった、と言われるが、党内での立場から支持に回ったとされる。野党は猛反対をし、経営者団体なども人々を大動員して反対キャンペーンを行った。(私がヨンショーピンでお世話になっていた自転車屋さんの店先にも、当時の色あせたステッカー『Löntagarfonder är Socialismen!』が未だに残っている。)しかし、社民党は反対を押し切り、当初の過激な計画をかなり温和な形にして83年末に『労働者基金』の法案は議会でかろうじて可決された。(余談だが、議会での採決の前日に、当時の財務大臣Feldtが“Löntagarfonder är ett djävla skit, nu har vi baxat dem ända hit.”(労働者基金はとんでもない糞(クソ)だ。なのに、ついにここまで引きずってきてしまった。)と、議席上で紙に落書きしているのを、ニュースのテレビカメラがたまたま捉えてしまった。当の蔵相でさえ、嫌々ながらだ、とスクープになった)

1984年に基金が創設され、1991年には220億クローネという巨額になった。しかし、91年に政権を獲得した右派連合によって、94年に解体され、10年の短命となった。結局、100億クローネが学術研究基金に、残りが公的年金基金に配分された。

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今から振り返ってみれば、グロバリゼーションが一国に与える影響が、今とは比較にならないほど小さな時代の、華やかなファンタジーを夢見た政策ではなかったのだろうか。もし、この基金が解体されずに今に至るまで継続され、スウェーデンの企業の大部分を労働組合が支配していたならば、どうなっていたか、一つのシュミレーションとして考えてみるのも面白いかもしれない。果たしてスウェーデン経済は、グローバリゼーションの時代を生き残っていたのだろうか。製造業の国外移転が阻止される一方で、生産性の低い産業が国内に残る羽目になり、経済が低迷してしまっているか。それとも、生産性の向上のためには、経営側にも協力的だと言われるスウェーデンの労組のことだから、リストラなどの合理化も経営側と一体になって推し進めていたのか。

ともあれ、この『労働者基金』論争は、パルメの時代のイデオロギー対立を象徴する出来事だったのだ。

(続く)

あれから20年 (1)- パルメの外交

2006-03-06 17:32:31 | コラム
スウェーデンには、人々から慕われてきた人は短命でこの世を去ってしまう、というジンクスがあるのだろうか。第2代事務総長として国連の発展に不可欠な役割を果たしたDag Hammarsjöldは、コンゴ内戦の調停のさなかに、飛行機事故でこの世を去った。人々から広く愛されていた女性外務大臣Anna Lindhは2003年のユーロ国民投票の直前に、ストックホルムの老舗デパートNKで刺殺された。そして、それと同じくらい大きな事件が1986年に起きた。この2月末で、それからちょうど20年が経つ。

2月28日、冷たい冬の夜。一組の夫婦が映画を見に行くことに決めた。自宅から地下鉄に乗り、ストックホルム中心部にある映画館に向かった。息子とそのガールフレンドと落ち合い、映画を楽しんだ。映画の後、息子らと別れてこの夫婦が映画館をあとにし、数百メートル歩いたところで、歩道で待ち構えていた男が近づき、発砲した。事件を目撃したタクシーの運転手の通報によって、救急隊が駆けつけたが、男性のほうはほぼ即死だった。しかし、事件のそれ以上の重大さに気がつかない警官や救急隊員らに対し、妻のほうが叫んだ。「これは私の夫、内閣総理大臣よ!」

そう、射殺されたのは時の総理大臣Olof Palmeだったのだ。メディアに情報が錯綜する中、最初の速報がラジオで流れたのは、事件から2時間近くが経った深夜01:10だった。「Sveriges statsminister Olof Palme är död.(スウェーデンの首相オロフ・パルメが世を去った。)・・・」と始まる、このときのラジオ速報に人々は耳を疑った。そして、今でもこの時の放送が記録に残っている。
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このOlof Palmeというのがどういう人物かというと、社会民主党の党首、そしてスウェーデンの首相として、長年活躍した人だったのだが、彼の名を世界に轟かしたのは、彼の進めた外交政策だった。アメリカの繰り広げるベトナム戦争を、西側諸国の首相として初めて、公に批判したのだ。さらに、第二次大戦後もなお残っていた帝国主義的な植民地支配に真っ向から反対し、第三世界の途上国の問題に、スウェーデンの外交政策の重点を置こうとした。

Olof Palmeが政治家として自らの価値観を形成した1950年代から70年代にかけては、冷戦の真っ只中だった。世界が東西両陣営に分かれ核兵器を互いに向けていがみ合い、ベトナムを始めとする途上国では彼らの代理戦争が起きていた。ハンガリーの民主化運動やチェコの「プラハの春」はソ連の戦車に押しつぶされ、一方で西欧でもスペインやギリシャが独裁者によって支配されていた。南アフリカではアパルトヘイトが行われていた。そんな中、第二次大戦以前から中立・非同盟を掲げてきたスウェーデンの立場を利用して、この理不尽な世界秩序にクサビを打てないかと考えたのだ。

1972年、国民に向けたクリスマス談話の中で、アメリカによるベトナム北爆、とりわけ、ちょうどその日に起きたハノイの空爆を、ナチスの行為と並べて、ホロコーストと呼んだ話はスウェーデンでは有名だ。

”… Därför är bombningarna ett illdåd och av det har vi många exempel i den moderna historien. De är i allmänhet förknippade med ett namn: Guernica, Oradour, Babi Jar, Katyn, Lidice, Sharpvillem Treblinka. Där har våldet triumferat. Men eftervärldens dom har fallit hårt över dem som burit ansvaret. Nu fogas ett nytt namn till raden: Hanoi, julen 1972.”

- これらの爆撃は卑劣な行為であり、現代の歴史には例に暇がない。ゲルニカ、オラドル・・・(そして、その他の残虐行為)。これらは一般に一つの名前(ホロコースト)で象徴される。暴力はこうして勝利を手にしたかに見えた。しかし、その後の世界は、これらの行為の責任者に厳しい宣告を下すことを厭わなかった。そして、今、一つの名前がこの残虐行為のリストに新たに加わった。1972年クリスマス、ハノイ。


現職の首相として、ここまで言ってのけたのだ。彼の談話に、反米・反戦感情の強かったスウェーデンでは多くの国民が拍手を喝采した。当時は多くの西側諸国で若者を中心にベトナム反戦運動が起きていたが、政府の多くが体制側として、それらを押さえ込もうとしていた時代だ。スウェーデンでは政府そのものが味方についてしまったのだ!もちろん、この大胆な行為をやりすぎと批判する人々もいた。それまでにも既に冷え切っていたアメリカとの外交関係は、さらに危機的な状況に陥った。

大国の帝国主義を批判する一方で、国際紛争の調停の場としての国連を中心にすえた外交政策を展開した(この点は、彼に限らず、スウェーデンの外交政策の柱である)。80年代に勃発したイラン=イラク戦争では、首相と兼任で国連の仲裁者を担当している。さらに、第三世界を足繁く訪問してもいる。(統計によると、1965年~1989年の間のスウェーデンの公式訪問の37%が第三世界だったという。1990年以降の18%という数字と比べると、その差は顕著だ。)特に、独立して間もない新興国の支援に前向きだったという。

「どうして、そこまでムキになって、何でもやろうとするのか?」という当時のデンマーク首相の問いかけに対し、Olof Palmeを代弁して、彼の前任の首相Erlanderがこう答えている。「小さな国で小さな言葉しか持たない我々の思いを世界に発するためには、はっきりと分かりやすく、しかも力のこもった行動を取らないとダメだ、とOlofは考えているのだよ。」

(続く)

島の生活(1)

2006-03-04 22:57:15 | コラム
ストックホルム沖合いほどではないものの、同じように河口に面するヨーテボリにもいくつか諸島群が存在する。ヨータ運河北側の沖合いにあるのを「北諸島群(Norra Skärgården)」、南側の沖合いにあるのを「南諸島群(Södra Skärgården)」と呼んでいる。「北諸島群」はヨーテボリ市内から40分ほどバスに乗って港まで行き、そこから連絡船で渡る。大きな本島Öckeröと、いくつかの支島に分かれているが、人口が12000人を超え、ヨーテボリ市内からもある程度、離れていることもあって、こちらの諸島群はヨーテボリ市からは独立した市(コミューン)になっている。去年の夏ごろ、私がヨーテボリに住居を探しているときに、これだけ町から離れていれば空き部屋もたくさんあるのではないかと思って、この市の市役所に問い合わせてみたけれど、なんと希望者がたくさんなので、この島で職を持つ人以外はなかなか住居を探すのが難しいとのこと。


ヨーテボリの衛星写真:クリックで拡大


さてさて、私が2005年9月から住むことになったのは「南諸島群」のほう。こちらは、小さな島がたくさん集まっているだけで、本島と呼べるような島がない。ヨーテボリ市内から路面電車11番に乗って30分強、Saltholmenという港に到着する。そこから歩いて3分のところに船着場があり、群島行きのボートが出ている。それに揺られること20分、Brännö(ブレンヌォー)島に到着する。

このBrännö(ブレンヌォー)島は3km四方くらいだろうか。船を下りると、船着場から伸びる道をつたって人々が家路につく。私の住む家は、ここから1.5kmほど歩いたところにある。

ほんの小さな島なのに、スウェーデン人にこの島の話をすれば、あぁ、知っている! という答えがたいてい返ってくる。なぜかというと、60、70年代に歌われたの国民的唱歌に「~♪~ ブレンヌォー島の岸辺でダンスを踊る ~♪~」という歌詞があるからなのだ。ストックホルム沖合いでもそうだが、ここヨーテボリ沖合いの諸島群も夏休みの休養地になっていて、多くのリゾート客がバカンスにやってくる。そして、この島のアトラクションの一つが、船着場近くのダンス場であり、この伝統は今でも続いているのだ。

だから、夏は小さな島々に人が大勢おしよせる。この小さなブレンヌォー島にも夏の間は3000~4000人近くの人が住むというから、この数は半端ではない。夏の間だけ過ごすための別荘を持つ人もいれば、サマーハウス(sommarstuga)と呼ばれる小さな家を借りて数日~1週間過ごす家族もいる。

私が借りることになったのは、そんなサマーハウスの一つ。私の知り合いの紹介で、このブレンヌォー島に定住するある老大学教授と知り合いになり、彼の家の横に建つ小さなサマーハウスに住まわしてもらうことになったのだ。夏の間は、この老教授がリゾート客に貸し出すこの家(小屋)も秋から冬にかけては、誰もいない。それを貸してもらう、というわけなのだ。