昨年9月17日の総選挙は即日で開票され、夜も23時を回る頃だっただろうか、敗戦が確実となった社民党の党首であり首相でもある
Göran Persson(ヨーラン・パーション)は突如、退陣表明をした。そして、その直後からにわかに
彼の後任選びが始まったのであった。
そのことについては、一度書いたことがあるので、まずはそちらのほうをどうぞ(
以前の書き込み)。人気はあっても辞退する人や、可能性のある候補者として名前は挙がっているけれど、人気がない、という顔ぶれのため、最初から苦難が予想される後任選びであった。
さて、その後どうなったのか? 私が思いつく限りで書くと、11月頃に突如Göran Persson(パーション)がメディアに登場し、社民党も環境党を見習って、
二人党首制にしてはどうかと、持ちかけたのだった。つまり、一人を男性、もう一人を女性にしてはどうか、というアイデアだったのだった。彼の魂胆はというとこうだ。彼は自らが政治家として育て、財務大臣にまで就けた寵児、
Per Nuder(パー・ヌーデル)に是非とも党首になって欲しい(彼は私がテープレコーダーと喩えた人)。しかし、党内の主流な意見として、
次期の党首は女性、というのが崩すことができない暗黙の了解になっている。そこで、党首を二人で分かち合えば?ということだったのだ。この考えは党内に根を下ろしたものではなく、パーションが自らの発言力を試すべく発言した突拍子もないものだったので、ほとんど黙殺された。しかも、規模の小さい環境党でこそできることであって、大所帯で党員の考え方が右から左まで比較的幅広い社民党で、二人党首制などを導入してしまうと、たちまちそれぞれの党首の周りに派閥のようなものが形成され、党が分裂してしまう、というもっともな批判も聞かれた。
さて、党内の第一人気は
EUの欧州委員会の副議長を務めるMargot Wallströmだったが、結局彼女はNej!を貫き通した。それに続き、
前・国際援助担当大臣であったCarin Jämtinもストックホルム市政のほうに没頭したいということでNej、さらに若者に人気の高い
前・法務大臣Thomas BodströmもNejと突っぱねた。
Perssonの寵児である
Per Nuderや労組LOの代表である
Wanja Lundby-Wedinは、彼らの意向がどうかということよりも、党内での支持が得られないために、煙のように候補から消えてしまった。(Persson残念!)
さて、まるで消去法のように後任選びが進んで行き、さて誰が残ったかというと、スウェーデンの八代亜紀こと、
Mona Sahlin(モナ・サリーン)。彼女が有力候補となったのだ。以前のブログに書いたように、
彼女は1996年の段階で党首に選ばれ、首相になっていてもおかしくなかったのだけれど、スキャンダルを叩かれて、その夢を果たす前に失脚したのであった(そのスキャンダルについては近いうちにまとめてみたい)。
しかし、この稿の後半に書くように、彼女は中道左派である社民党内において、右よりだという意見が党内に根強く、党内の左派からは反対の声が強く聞かれていたのだった。
そのため、後任候補として、
Ulrika Messing(ウルリカ・メッシング)はどうか? という妥協案も提示された。実は彼女は最初の段階でも名前が挙がっていたのだが、そこまで重要候補とは見られていなかったのだ(私も以前、彼女について書き忘れた:-))。彼女は38歳と若いものの、1991年に23歳で国会に議席を持つようになり、1996年以降は閣僚にもなっていたのだ(1996年-労働権および男女平等担当大臣、1998年-社会統合および若者担当大臣、2000年-インフラ整備担当大臣、現在-国会・防衛委員会委員長)。しかし、彼女は小さな子供を抱えており、子育てと家族生活に支障を来たすことを理由に、辞退。
Ulrika Messing と Mona Sahlin
そして、残ったのが、八代亜紀、いや、
Mona Sahlinというわけだ。彼女は党内の選挙準備委員会からの立候補要請に対し今日正式にJa!と応じ、これをもって選挙準備委員会も全会一致で彼女を候補者として推すことが決まった。正式な決定は3月の党総大会においてだが、対立候補がいない今、彼女が次期党首に選ばれることはほぼ確実となった(もちろん、今後スキャンダルが起きない限りでではあるが。繰り返して言えば、1995-96年の時点で、彼女の党首就任は確実だったのだ)。
選挙準備委員会は、最終的に彼女を推すことにした理由として、
- わが社民党について深い素養がある。
- 社会の中の様々な問題に強い意識を持っている
- 有権者に自分の考えをうまく伝えるコミュニケーション能力がある
としている。(最後の点については、確かに80年代から90年代にかけて彼女の全盛期に、
彼女の独特のレトリックが聞く者の心を掴む、と評判だったのだ。)
しかし、先に書いたように、
党内左派から根強い批判がある(あった)のだ。というのも90年代に彼らから見れば“右寄り”(市場自由主義寄り、という意)の政策を行った経験があるからだ。具体的には、
-1990年に彼女は労働市場大臣に就任するが、この時の政権であったKarlsson(カールソン)政権は、バブル経済崩壊の渦中においてスウェーデン経済を救うために、ストライキと賃金上昇の一時的ストップを提案し、労働市場大臣である彼女も支持に回る。(ストライキのストップは結局、履行されず。社民党もその後、選挙で敗退。)
-1994年、社民党が政権に返り咲くと、彼女は、一時的育児休暇(病気の子供の看護のために仕事を欠席)の第一日目は無給付にする、という提案を行う。
-1995年、野党の一党である中央党と、失業保険の給付額減額について合意し、実行する。
これらの一連の政策や提案は、恐慌に陥ったスウェーデン経済と国家財政を救うための、現実的な政策だと見えるが、党の一派や、党の重要な支持母体である労働組合からは、彼女は右派に寄り過ぎている、と見られてきたのだ。実際、LO、Byggnads、Sekoを始めとする一部の労組はUlrika Messingを候補に推していた。労働問題により敏感だ、と見られたためだ。しかし、彼女が辞退した今、これらの労組もしぶしぶMona Sahlinを受け入れつつある。
(“右派寄り”と言われる彼女のプラグマティズム(現実主義)は、むしろ党の今後にとってはプラスになると、私は思う。)
さて、
Mona Sahlinは1982年に25歳で国会議員の仲間入りをした後、
1990-91:
労働市場大臣
1991-94: 社民党は野に下るが、この間、彼女は
社民党初の女性として党官房職に就く。
1994-95:
男女平等大臣・兼・副首相。
1995? 96?:スキャンダルで失脚
1996-98:政界を退き、自営業をしたり、TVレポーターをする。
1998-04: パーション内閣で、いくつかの代理閣僚となる。
2004-06:
環境および社会構築大臣
彼女の簡単な遍歴(動画)
今日、正式な候補者として、記者会見をするにあたり、
以下の3点が社会民主党の重要課題であると述べている。
① 気候問題(温暖化)
② 雇用問題
③ 社会階層の分化
そして、記者会見の途中にこう付け加えた。
「残念なのは、私が立っているこの場にAnna Lindhがいないこと…」
記者会見の一部
ともかく、
社民党史上で初の女性党首が誕生することになる。
彼女には、メディアの揚げ足取りにも負けず、頑張って欲しいものだ。