スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

セルビアのEU加盟前進とオランダのトラウマ

2010-10-29 01:27:36 | コラム
今週気になったニュースは「セルビアがEU入りに向けて一歩前進」だ。

1990年代前半の旧ユーゴ紛争の当事国といえばクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナだが、戦犯容疑者のハーグへの引渡しなど紛争時の暗い過去を捨て去りEU入りを確実に進めているクロアチアに続き、セルビアEU加盟に向けた協議を始めるために昨年末に加盟申請書をEUに提出した。より正確に言えば、スウェーデンに提出した。当時のEU議長国がスウェーデンだったためだ。セルビアのタジッチ大統領がストックホルムを訪ね、ラインフェルト首相に申請書を手渡したニュースはスウェーデンでも大きく取り上げられた。


しかし、それから10ヶ月近くのあいだ目立った動きはなく、今週になってEUセルビアの加盟申請書の審査を始めると発表した。この間に何があったかというと、どうやらEUの加盟国の一つであるオランダが手続きをストップをさせていたようだ。なるほど、オランダはセルビアに対して大きな怨念を持っているのだ。しかし、隣国同士で国境争いなどを抱えているわけではないのに、なぜ?

その理由は1995年7月に起きたスレブレニツァ陥落にさかのぼる。

スロヴェニアやクロアチアから始まった旧ユーゴの紛争ボスニア・ヘルツェゴヴィナにも飛び火し、拡大して行ったとき、軍事的な優位に立ったのはボスニア内のセルビア人勢力だった。隣のセルビアの正規軍や内務省の特殊部隊も彼らを支援したために、紛争の初期のうちにボスニアの大部分を制圧イスラム教徒であるボスニア人(ボスニャーク人)が難民化した。特にボスニア東部では、家を追われたボスニア人難民が、いまだにボスニア人勢力が支配下に置くスレブレニツァゴラジュデジェパなどの町に流れ込んだ。しかし、これらの町は周りをほぼ完全にセルビア人勢力に制圧されており、無援孤立していた。ボスニアの首都サラエボもこの時、セルビア部隊に包囲されていたが、これらの町はサラエボに比べたらはるかに小さく、セルビア軍がその気になれば制圧してしまえる規模だった。

しかし、そんな事態になれば民間人の犠牲は計り知れない上に、セルビア人勢力による民族浄化を許してしまうことになる。そのような理由から、1993年国連の安保理はこれらの町を「安全地帯」と宣言したのだった。つまり、これらの町に対するいかなる攻撃行動も認めず、もしそれを犯すような行動を取れば、それなりの報復を受けることになる、ということだった。しかし、国連安保理によるこの宣言の問題は、この「安全地帯」を保障するための実効力を伴っていなかったことだ。国連加盟国は平和監視軍への派兵に消極的であり、例えば、スレブレニツァの保護に当たることになった国連軍は、結局オランダ兵の400~600人ほどに過ぎなかった。

町を取り巻いていたセルビア軍が攻勢を開始した1995年7月7日(金)当時の状況については、スウェーデンの現・外務大臣であり、当時はEU特使として旧ユーゴ紛争の調停に当たっていたカール・ビルトが、著書『Uppdrag Fred(平和ミッション)』の中でも触れていた。私も、久しぶりにこの本を引っ張り出して、該当箇所を再び読んでみた。


真ん中がカール・ビルト

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カール・ビルトは父親の75歳の誕生日を祝うために週末はスウェーデンに戻っていた。国連軍のザグレブ司令部が発信したレポートには目立った軍事行動はないとされていた。しかし、現地で平和監視に当たっていたオランダ部隊(当時300人規模)からは緊急事態を告げる報告が続々と入ってきた。セルビア軍スレブレニツァの町への砲撃を開始するとともに、国連軍オランダ部隊の基地がある町の北部にも牽制のための砲撃を行い始めたのだ。オランダ部隊は以前から町の周囲にいくつかの監視所を設けてセルビア軍の動きを監視していたが、セルビア軍が町に向かって前進して来るにつれ、監視所を放棄して後退せざるを得なかった。

カール・ビルトの記すところによると、当時の国連関係者やEU関係者は、セルビア軍が自らの力を誇示するために挑発を行っているに過ぎず、町周辺の道路や町からの抜け道を制圧することはあっても、町自体を陥落させることはないだろうと考えていたという。しかし、事態は悪化の一途をたどった。カール・ビルトは、セルビア大統領であるミロシェヴィッチに警告の手紙を送った。「持っているすべての権限を使って、この軍事行動を止めさせなさい。さもなければ、これまで続けられてきた和平交渉は中断せざるを得ず、セルビアは非常に厳しい状況に置かれることとなる」

スレブレニツァを取り巻くセルビア軍の現地指令官はムラジッチだった。二人の間でどんなやり取りがあったかは定かではないが、セルビア軍は攻勢の手を緩めることはなかった。抵抗できるほどの武力を持たない国連軍オランダ部隊の一部は、基地に引き上げる途中にセルビア軍の捕虜になった。オランダ部隊の要請を受けて、イタリアの基地を出発したオランダ空軍のF-16の2機がセルビア軍に対して空爆を行ったものの、目立った効果はなく、それに続いた米軍のF-16は視界不良のために、町の上を旋回しただけで基地に戻ってしまった。スレブレニツァにはボスニア人勢力の正規軍である第82師団が防衛に当たっていたが貧弱な装備しか持たず、戦車を少なくとも4台持っていたセルビア軍を抑えることはできなかった。セルビア軍が11日(火)に町を陥落させたとき、この町には周囲の村々から逃れてきた難民で溢れかえっており4万人近いボスニア人がいた。彼らの大部分は、国連軍の助けを求めるために町北部にあるオランダ部隊の基地に駆け込んだが、オランダ部隊は何の保護もできなかった。

国連が「安全地帯」と宣言したはずの町が陥落した、というニュースが伝わったとき、カール・ビルトは、フランスのシラク大統領や首相、防衛相などとフランスの政府専用機に乗っていたフランス首脳の即座の反応は強固なものだった。「セルビアの行動は国連に対する挑発であり看過できるものではない。今すぐに国連軍を組織してスレブレニツァの奪還に取り掛かるべきだ!」しかし、一つの町の防衛すらできなかった国連軍にそのような余力はなかった。すぐに動かせる部隊としては60kmほど離れた町に北欧諸国の部隊があったが、専守防衛のための訓練と装備はしていても、町を攻略するなどといったことは到底無理だった。200kmほど離れた町にはイギリス部隊がいたが、そこからスレブレニツァまでの地帯はすべてセルビア軍が制圧しており、町に到達するだけでも一苦労という有様だった。カール・ビルトはフランス首脳に言った。「そもそもの『安全宣言』自体がそうであったように、果たせない約束を今またここで発表して、国連の権威を貶めるつもりか? 今考えるべきなのは奪還などという夢物語ではなく、命の危険に晒されているスレブレニツァの住民の避難だ!」

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この後に続いたスレブレニツァの惨事は、旧ユーゴ紛争の中の一大悲劇として世界に知られることになった。セルビア軍は捕虜として捉えた3000人のボスニア人男性を殺害、さらにボスニア軍の支配地域に逃れようとした4000人の人々を森にて待ち構え虐殺したのだった。

(私が以前いた研究棟の掃除を担当していた非常に気のいいボスニア出身のおばちゃんも、あるとき、旦那さんとここで別れたきり行方が分からなくなった、と話してくれた。4年以上にわたって続いたボスニア紛争のために6万人から8万人ほどのボスニア人がスウェーデンに難民として受け入れられ、その多くがその後、スウェーデン国籍を取得している)

オランダは、自国の兵士がこの時、捕虜に取られたり、犠牲になったりした。国連という権威の下で活動していたにも関わらず、その権威を無視され、自国の兵士が侮辱されたという恨みは大きい。保護下に置いていた住民を殺されたという怒りもある。だからこそ、オランダはこの時の現地の司令官であるムラジッチが逮捕され、ハーグの国際戦犯裁判所に引き渡されるまでは、EUの加盟交渉は行うべきではない、とセルビアの加盟申請を突っぱねてきたのだった。ムラジッチとともに指名手配を受けていたカラジッチは、当初はセルビア政府の庇護を受けていたようだが、ミロシェヴィッチ大統領の失脚後、自国の改革を進めようとするタジッチ大統領の新しい方針の下で逮捕され、ハーグに送られた。しかし、ムラジッチのほうはまだ捕まっていない。

オランダ政府としては、ムラジッチが逮捕されるのを本当は待ちたいところだが、一方で、改革派でありEU寄りのタジッチ大統領は、本国にて極右勢力との政治的な争いの渦中にあるため、タジッチ大統領を支援するという意味では、そろそろEU加盟の第一歩を歩ませてあげたほうがいい、という考えへと変わりつつあるようだ。


セルビアの社会民主党に所属するタジッチ大統領は2006年9月、スウェーデンの社会民主党のヨーテボリ支部に招かれて、スウェーデンの当時の外務大臣であるヤン・エリアソンと対談を行った。私も聞きに行った。

イラク戦争の米軍極秘文書がリーク

2010-10-26 00:26:46 | スウェーデン・その他の社会
極秘文書のリークで大きな注目を集めてきたWikileaks(ウィキリークス)だが、先週末に新たなリークを行った。

今回のリークは、イラク戦争とその後の治安維持・占領統治などに関して、アメリカ軍2004年1月1日から2009年12月31日まで内部資料として作成した39万件に及ぶレポートだ。交戦記録やパトロール中の出来事などが端的に書かれたものであり「イラク戦争の日記」とでも呼べるものだ。一つ一つは非常に短く、略称も多い。

この記録によると、2004年から2009年の間に軍事作戦や治安維持活動の結果、11万人近い死者が発生したことが分かる。そのうちアメリカ軍が一般市民だったと自ら認めている死者は6万6千人に上る。それ以外の犠牲者としては、イラクの敵兵が1万5千人、非正規兵(アルカイダ、武装組織など)が2万4千人、英米をはじめとする同盟軍兵士が4千人だ。ただ、一つ一つの出来事を検証していくとイラク兵や非正規兵(insurgents)と分類された殺害された人の中には、実は一般市民もかなりの数いるようなので、市民の犠牲者の割合はそれ以上となる可能性が高いようだ。

このリークは、再び世界を騒がせている。スウェーデンの公共テレビであるSVTは、ドイツやイギリスのいくつかのメディアとともにこの極秘文書を事前に入手し、数ヶ月かけて検証した。そして、先週末にそれらのメディアが一斉に公表した。

記録の中には、一般市民を巻き込んだ悲惨な出来事もたくさん記述されているようだ。一般市民の犠牲は、特に米軍の検問所付近で多発していることも分かるという。また、米軍や彼らと協力する地元イラクの民兵などが警察署や刑務所にて暴行や拷問を組織的に行っていたことも明らかになった。アメリカ軍が今回リークされた内部文書の中で、それらの一つ一つについて記述していたからだ。死亡させたケースもたくさんあるようだ。

今年春にリークされて話題を呼んだ動画が記録した出来事に関する記述もある。これは、2007年にアメリカ軍のアパッチ・ヘリコプターが民間人やジャーナリストをテロリスト・グループと間違えて空中から射撃し、ロイター通信のカメラマン2人を含む十数人が亡くなった事件だ。

それを記述したレポート

交戦結果(Summary)のところに

13 X AIF KIA → Armed Iraqi Forces, Killed in Action
2 X AIF WIA → Armed Iraqi Forces, Wounded in Action
2 X LN CHILDREN WIA → Local Nationals, Children, Wounded In Action
2 X ENEMY BDA (1X BUILDING, 1X VEHICLE) → Battle Damage Assessment

とあるから「13人の敵軍兵士を殺害。2人が負傷。子どもも2人負傷」と本部に報告していることが分かる。また、Vehicleとは撃たれた人を助けにやって来たワゴンのことだろう。

また、SVT(スウェーデン・テレビ)は以下のような出来事をピックアップしている。

○ 米軍のヘリコプターが、敵と思われる一群を発見。一部は建物に隠れ、一部は車両で逃走を始めた。しばらくの間、交戦が続き、その後、敵兵2人が降伏し、身柄を自ら受け渡す意思があることを示してきた。ヘリコプターの米軍兵士は無線で本部に連絡。本部にいる米軍の法解釈の専門家の指示を待った。返事はこうだった。「ヘリコプターに対して身柄を受け渡すことなどできない。だから、彼らはまだ戦闘状態にあると判断できる」。ヘリコプターの射手は機関銃を発射し、2人を射殺した。

(このように、投降したものの米軍が射殺したというレポートは、これ以外にもたくさんあるらしい)

○ 米軍のアパッチ・ヘリコプターが若者の数人を発見。沿道に爆弾を仕掛けようとしているテロリストと判断した米軍は、ヘルファイアー・ミサイルを発射。一人が犠牲となった。しかし、実際には殺されたのは13歳のAlawiという少年で、兄弟や従兄弟と一緒に、燃料とする草の根などを掘り起こしているところを、米軍に狙われたのだった。

この出来事については、SVTは追跡調査して、その現場に居合わせた子供たちや彼の母親やおじにインタビューをしている。
動画
40秒ほどのところに登場するIEDという単語は、Improvised Explosive Device (homemade bomb)のこと。
それを記述したレポート


スウェーデンは、アメリカやイギリスが始めたイラク戦争に対して、その後の治安維持活動なども含めて全く参加していない。しかし、スウェーデンに関する記述も見つかった。たとえば、アメリカ軍は正規兵とは別に民間の警備会社を通じて傭兵を雇ってきたが、その中にスウェーデン国籍を持つ者がおり、戦闘中に死亡したという記録があった。

また、スウェーデン製の武器実戦に使われたことが分かる記述もたくさん見つかったという。たとえば、短機関銃、迫撃砲、さらにはGPS誘導によるミサイルなどがアメリカ軍によって使用されていた。武器輸出のルールとして、スウェーデン政府は交戦中の国には輸出しないなどのガイドラインを定めているはずだが、アメリカ軍には常に輸出が続けられており、その武器の一部がイラク戦争で使用されていることは以前もメディアがスクープしたことがあったが、それが再び裏付けられることになった。

アメリカ軍による使用だけでなく、イラクの武装組織がスウェーデン製の対戦車砲でアメリカ軍を攻撃してきたという記述もあった。どこを経由して彼らの手に渡ったのだろうか?

イラク戦争での民間人の犠牲者の数を数えているIraq Body CountというNGOは、今回のリークによって民間人犠牲者の推計が15000人ほど上方修正されるだろうと言っている。

不可解な銃撃事件 - 90年代初めのデジャヴ?

2010-10-22 23:06:27 | スウェーデン・その他の社会
スウェーデン第3の都市であるマルメ不可解な銃撃事件が相次いでいる。


最初の事件が昨年10月頃で、今年になってからも6月初めから事件が散発、そしてこれまでに合計10件以上の銃撃事件が起きてきた。手口はどれも同じもので、日没後の暗い時間帯に、何者かが住宅地の近くの茂みに潜み、たまたま通りがかった人を拳銃で狙って撃つというものだ。最初のうちは、これら一連の事件は独立した出来事と見られていたが、調査の結果、同じ拳銃が使われており、同一人物の犯行であることが明らかになった。ここ数日の間は、ほぼ毎日のように誰かが銃撃されている

また、被害者のほぼすべて肌の色の濃い、外国人の外見をしている人だという共通点も明らかになり、マルメ市が位置するスコーネ地方の県警「外国系の住民を無差別に狙った犯行である可能性が高い」と、今週水曜日に発表した。人種差別が動機にある可能性も高く、外国人らしい外見をしている人は夜間、出歩く際に特に注意するように呼びかけている。


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この事件は、1990年代初めスウェーデンを震撼させたある銃撃事件に良く似ている。

1991年秋から1992年春にかけて、ストックホルムウプサラを舞台に、移民・難民の人だけを無差別に狙って銃撃するという事件が相次いだ。このうち、いくつかのケースでは、撃たれる直前に被害者や近くにいた人が赤いレーザー光線を確認しており、また、目撃証言からも犯人が男性である可能性が高いと考えられたため、得体の知れない犯人を指して俗に「レーザー男 (Lasermannen)」という呼称が使われるようになった。(赤いレーザー光線は、照準を合わせるためにライフルに取り付けられたものだった)

移民・難民や外国人の外見をしている人だけが狙われたことから、人種差別や外国人排斥を主張する極右的思想の持ち主が犯人ではないかと考えられた。しかし、同様の事件が相次いだにもかかわらず、どれも夜間の犯行とあって決定的な目撃証言に乏しく、捜査は難航した。そうこうしているうちに、合計で11人が襲われ、1人が死亡、その他の人も重い後遺症を負うことになった。また、その犯人は同時期に銀行強盗を繰り返していたが、警察はこれらの事件の解決にも頭を悩ませていた。

「レーザー男」を見つけ出すための捜査は困難を極めたが、銃撃事件のうちの一つで目撃されたある車が手がかりとなり、その車種の持ち主やレンタカーの利用者をしらみつぶしにあたることで容疑者が絞られていき、特定された容疑者に対する数週間におよぶ尾行の末に、39歳の男性が逮捕された。真昼に銀行強盗をした直後の逮捕となった。最初の犯行から半年が過ぎていた。

しかし、興味深いのはここからだ。取り調べの結果、移民・難民に対する敵意が主要な動機であることが明らかになったが、犯人自身は、典型的なスウェーデン人的な外見をした人物ではなかったのだ。彼は、スウェーデン生まれではあるものの、ドイツ人の父親とスイス人の母親の間に生まれ、髪は黒く、目も茶色だった。


左は逮捕当時、右は2001年

幼いときから自分の外見にコンプレックスを感じており、自身は自分がスウェーデン人であると思いたいものの、周りの人々がそう見てくれず、あるいは、周りの人々がそう見てくれていないと自分で思い込むようになったようだ。小さいときにイジメも受けていたようだ。

そんな要因が重なり、思春期に人格形成に失敗し、彼の攻撃的な性格が周りの人との距離をますます広げ、孤立していったという。それと同時に、自分のアイデンティティーの拠り所として極右的な思想に傾倒するようになり、スウェーデンのナショナリズムを主張することで、自分がスウェーデン人であることを周囲の人々に示そうと考えるようになっていく。

また、80年代後半のバブルでは、株の投機で短期間のうちに巨額の金を手に入れ、豪遊していたが、それも長くは続かず、再び惨めな生活を送るようになった彼は社会一般に対する敵意を強めていった。コンプレックスもますます強くなり、髪を染めてスウェーデン人らしく見せかけたり、青色のコンタクトレンズを使って目を青く見せようともしていた。

そんな孤立の果てに、彼は移民や外国人の排斥を口で主張するだけでなく、実際に行動に移すべきだという考えに至る。そして、武器を手にした彼は、移民や外国人系の人々を無差別に攻撃していった。自分の弱さを克服するために、自分よりも弱いものを見つけて攻撃したのだと、解釈できるのではないだろうか。

(「レーザー男」については、ジャーナリストが獄中にある本人へのインタビューを元にまとめた本があるし、その本をベースにしたテレビドラマが2005年に放映された)

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現在マルメで起きている一連の事件は、まだ詳しいことが分からないが、一見するとこの90年代初めの事件と似ている部分も多い。また、現在と当時の社会の風潮に類似点が見出され、同じような動機があるのではないか、という声も挙がっている。

当時の社会現象で顕著なものといえば、1991年9月の国政選挙において新民主党が議席を獲得したことだ。この新民主党は、大幅な減税や移民や外国人の排斥を掲げたポピュリスト政党だった。当時は、80年代後半のバブル経済が崩壊し、ちょうど大不況に突入しかけていた時期であり、失業者や既成政党に対して不満であった有権者の支持を巧みに集めて、短期間のうちに支持率を伸ばし議席を獲得したのだった。

この頃、大不況への突入と新民主党の躍進を受けて、スウェーデンでは極右運動が一時的に興隆するようになり、移民や外国人に対する風当たりも強くなっていった。そんな時代背景の下で、上記の「レーザー男」は犯行に及んだのだった。逮捕後に取り調べの中で明らかになったのは、彼が「外国人を排斥・殺害することが社会のためになり、スウェーデン社会の大部分が自分の行動を支持してくれる」という思い込みに陥っていたことだった。

では、この当時の社会風潮と現在のそれとの共通点は何かというと、やはり極右・ポピュリスト政党であるスウェーデン民主党の議席獲得がまず思いつくであろう。また、リーマンショック以降の金融危機を受けて、スウェーデン社会も大きな不況を経験した。スウェーデン民主党は、事あるごとに移民・難民などの外国人やイスラム教が様々な社会問題の根源だと繰り返し、スウェーデン人 vs それ以外の人、という対立を盛んに煽り立てようとしている。だから、そんな社会風潮に同調して、何者かが犯行に及んだ可能性も高い。

(他方で、90年代初めとの共通性にばかりに囚われるべきではない、という専門家の声もある。90年代初めとの共通点は確かにあるものの、違う点といえば、スウェーデン議会進出を果たしたポピュリスト政党に対して当時は目立った反発はなかったものの、今回は多くの人々が反対の声を上げ、その意思を社会に示すために数多くのデモ集会が開かれてきた。また、世論調査を時系列で見ても、外国人に対する反発は減少傾向にある、といった点が指摘されている)

今日金曜日は、新しい社会統合担当大臣マルメに足を運び、外国生まれや外国のバックグラウンドを持つ住民の多い地区を訪ねて、不安がる住民と対話を持ったりした。また、90年代初めの事件を解決に導いた警察庁のベテラン刑事もこの事件の捜査を担当することになったという。




地区のボクシング・クラブのトレーナーと話をする社会統合担当大臣

18歳の国会議員の誕生

2010-10-20 01:12:57 | スウェーデン・その他の政治
前々回の記事で、国政選挙で当選しスウェーデン議会の議員となった人の年齢分布について紹介したときに、一番若い議員は22歳だと書いた。

しかし、保守党(穏健党)から立候補して当選した女性議員ストックホルム市議会の議員にもダブルで当選しており、彼女はフルタイムで市政に関わるために、スウェーデン議会の議席は辞退することになった。国会と市議会、もしくは県議会にダブルで当選することは珍しいことではなく、両方のポストに同時に就く議員も何人かいるものの、彼女の場合はフルタイムで市政に関わるために、国政への関与は断念することに決めたようだ。

(ちなみに彼女は、前回のアメリカ大統領選挙の際に、スウェーデンの新聞のインタビューの中で「共和党のマケイン候補を支持している」と発言していたのを覚えている。アメリカに比べると政治全体が左寄りに位置しているスウェーデンでは、保守政党の政治家を含めて大部分の政治家がオバマを支持していたため、たまに「マケインを支持している」と言う声があるとむしろ新鮮に聞こえるものなのだ。)

比例代表制を採用しているスウェーデンでは、ある議員が辞退した場合、比例代表名簿の次に名前がある人が繰り上げ当選することになる(これは、任期の途中で病気や出産・育児、その他の理由により議員職を休んだり辞めたりするときにもいえる。だから、補欠選挙というものはない)。

その結果、彼女の代わりにスウェーデン議会の議員をすることになったのは、18歳アントン・アベレという男の子だ。選挙権・被選挙権ともに18歳以上であるため、最年少の議員となるわけだが、彼の名前を耳にしたことがあるスウェーデン人は多いはずだ。

その理由は2007年10月に起きたある出来事だ。ある夜、ストックホルムの中心街の路上において、パーティーに参加していた16歳の少年が同年代の少年数人に暴行を受け、死亡するという事件が起きた。この事件はメディアでも大きく取り上げられ、少年による暴行や犯罪をどうやったら減らせるか、という社会的な議論が巻き起こっていった。当時15歳でストックホルムに住んでいたアントン・アベレは、犠牲者と同年代である自分たちも何か行動を起こさなければ、と考えて、ネット上のFacebook「私たちを路上での暴力から守ろう!」というグループを立ち上げた。このグループは大きな反響を呼び、一週間も経たないうちに若者から大人まで10万人もの人がグループに参加することになった。


そして、ネット上での活動だけでなく、実際にデモ集会を行って、暴力は許さない、という固い意志を賛同者とともに社会に示すべきだ、と考えた彼は、事件から1週間ほどが経った週末に、ストックホルムの中心にあるクングストレッドゴーデンという公園にみんなで集まろうと、Facebookのグループのメンバーに呼びかけた。すると、当日は1万人を超える人々がこの公園に集まってデモ集会に参加した。そして、呼びかけ人である15歳の彼は「暴力は許さない」と演説を行ったのだった。この集会がきっかけとなり、この後、スウェーデンの様々なNPOや団体、行政機関、警察が若者による暴力を未然に防ぐためのキャンペーンを展開していくことになった。彼自身も「路上暴力を止めよう」というNPOを設立して、3年間にわたって活動してきた。


演説し、暴力反対を訴えるアントン

今年の秋からストックホルム商科大学に通い始めた彼は、繰り上げ当選が決まった先日、メディアによるインタビューの中で「誰もが夜でも安心して路上を歩けるようにするためには、警官を増やしたり、刑罰を厳しくしたりすることが一つの解決策になると思う」と答えていた。また、ネット上での他人の侮辱やイジメ、誹謗・中傷といった問題にも取り組んで行きたいと言っている。「簡単な解決策はないが、みんなで議論して見つけて行きたい。ネット上で非常に深刻な侮辱が行われているのに、それをやっている本人は『言論の自由』を盾にして、自分を正当化しようとすることが多い。しかし、そもそも『言論の自由』が守ろうとしているのは、そんな恥ずかしい行為ではない」


今年の国政選挙のために彼が立ち上げたキャンペーン・サイト

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2007年10月のデモ集会で演説し、テレビに大きく取り上げられた当時15歳の彼は、非常に幼く見えたが、今でもそんな外見はあまり変わっていない。こうやって若い人が政治に関わることは、同世代の若者に関心を持たせるためにも、そして、社会をよりよいものにしていくためにも、非常に重要なことだと思う。

2011年の予算案提出!

2010-10-17 23:34:22 | スウェーデン・その他の政治
スウェーデンの財政を引き続き管轄することになったボリ財務大臣は、先週火曜日に来年2011年の予算案を議会に提出した。恒例として財務省から議会までの数百メートルの道のりを予算案を抱えながら行進し、その後、議会の予算委員会で与野党が討議を行った。


後ろのウサギはどうやらあるバラエティー番組の企画らしい

私はこの日たまたまスウェーデン議会の建物を訪ねる機会があった。討議は委員会室ではなく、大きな議場を使って行われるものの、出席しているメンバーは予算委員会のメンバーがほとんどのようだ。しかし、議会のカフェテリアや議場外のスペースには新議員を含め、様々な議員が行き交っていた。物議を醸している新しい社会保険大臣も見かけた。議会の労働市場委員会の事務を担当している職員の人が言うには「新しい議員が多いから、名前を知らない議員もいっぱい見かける」と、この職員にとっても新鮮な雰囲気が漂っているようだった。


議場を出たところ

さて、2011年の予算案の中身は、9月の国政選挙に先駆けて中道保守連立与党が発表した選挙公約(マニフェスト)に基づくものだった。

たとえば、
・年金受給者のみを対象にした基礎控除額の拡大
・大学生を対象にした生活ローンの増額
・国税所得税の課税最低限の引き上げ
・エコカー補助金の対象の厳格化
(これまではCO2排出を1kmあたり120g以下に抑える車が対象だったが、これからは50g以下に抑える車だけに限定する。補助金の額は4万クローナ・48万円)
・地方自治体への特別交付金
・高校職業科における実際の職場を利用した見習い制度(徒弟制)や若者向けの見習い雇用の導入

などだ。

日本でも選挙の前には「マニフェスト」という言葉が聞き飽きるくらい頻繁に使われるようにはなったが、スウェーデンの選挙との大きな違いは、スウェーデンではマニフェストに書かれた各政策分野の細かい公約が、各党の選挙キャンペーンやテレビやラジオにおける討論や「尋問」でちゃんと取り上げられ、吟味され、他の党の主張と比較される、というプロセスを経ていることだ。だから、ある程度、切磋琢磨されたものになっているし、その内容が世論にもかなりの程度、ちゃんと伝わっている。だから、その後に発表される予算案の内容も透明性を持ったものであるし、多くの人々がすでに耳にしたものばかりだ。

金融危機以降の不況から順調に脱していることを象徴するように、労働市場政策の関連予算は昨年よりも少なく抑えられることになった。これは失業者が順調に減りつつあるためだ。失業者の再教育のために大学の定員拡大を目的とした特別予算が2009年に設けられたが、これも廃止されることとなった。イメージとしては、金融危機という台風をしのぐために「家」のあらゆる「窓」に板を打ち付けていたが、それを少しずつ剥がして、正常な状態に戻している、といった感じだろうか。

また、選挙に先駆けて大きな議論となった勤労所得税額控除については、控除額のさらなる引き上げ(第5次税額控除)は見送られた。ただし、これはすでに選挙を前にした議論の中で「財政にそこまでの余裕がない」ことが次第に明らかになったため、中道保守連立政権側も経済の回復を見ながら行う、と発表していたものだった。

ちなみに、この予算案はあくまで2011年のものであるが、2012年から導入を行う予定の新しい政策についても既に触れられ、その導入がこの予算審議の時点で約束されることになった。たとえば、

・課税軽減を目的とした(株式や投資信託のための)預金口座制度の新設
・低所得の子持ち世帯のための住宅手当の増額
・子どもが生まれてから最初の30日間は、両親が同時に育児休業を取り、育児休業手当を受け取ることができるようにする
(現行では、育児休業手当は両親が同時に利用することはできず、その代わり、子どもが生まれる前後に父親が10日間仕事を休んで給与の補填を受けられる制度のみがある)
・雇い主が報酬の一つとして従業員に企業の車をリースする際、エコカーであれば課税を軽減する制度


さて、この予算案に対するメディアや専門家の反応はどうか?

選挙公約(マニフェスト)のなかで約束された政策がきちんと盛り込まれたことに対しては一定の評価があるものの、それ以上の「サプライズ」に欠けるという指摘が多かったようだ。たとえば、ある日刊紙は「自動操縦スイッチがONにされた」というタイトルの社説を掲載していた。つまり、不況という嵐を抜けつつある今、再びBusiness as usualに戻っただけで、今後のスウェーデン社会を見据えた大きなビジョンに欠ける、という批判だった。現政権に基本的に賛意を示しているこの日刊紙は、この連立政権が国・地方の財政規模を対GDP比で縮小させてきたことは評価しているものの、財政のスリム化はそろそろ止めて、むしろスウェーデン社会の長期的な変革に備えるための投資に予算を積極的に使うべきだ、という趣旨の論説を展開していたのが印象的だった。

また、財務省の専門家委員会の委員長を務める経済学教授は、現政権が2007年から2010年の間に労働市場政策のうちの職業訓練(比較的短期のもの)を極端に削減したことを批判し、景気や雇用情勢が確実に回復している今、労働需給のミスマッチを防ぎ、雇用を拡大させたい産業・企業が必要な技能を持った労働者不足のために拡大を断念したり、その分野の労働者の賃金が高騰すること(いわゆるボトルネック問題)がないように、適切な内容の職業訓練を実施できるように予算をちゃんとつけるべきだと指摘していた。


上の図は、2000年から2014年までの国・地方の歳入(青線)と歳出(赤線)を示したものだ(対GDP比。2009年以降は予測)。青線、つまり歳入が徐々に下降しているのは減税措置によって税・社会保障費の対GDP比を抑える努力をしてきたためだ。グラフから分かるように、社会民主党政権の時代にも減少してきたが、2003年から2005年の間に若干リバウンドしてしまった。その後を引き継いだラインフェルト政権勤労所得税額控除などによって対GDP比でさらに3%ポイントほど減少させた。

他方、歳出のほうは金融危機によって一時的には増えたものの、赤字の規模はわずかなものであり、来年の時点で歳入・歳出が均衡し、その後、順調に経済が回復していけば大きな黒字(青色の斜線)が生まれるものと見られている。これは、財政危機に苦しんでいる多くの先進国にとっては非常に羨ましいものだろう。近い将来に再び経済危機が襲ってくるようなことも大いにありえるものの、今の時点で言えるのは、この社会の将来はかなり明るいものだということだ。

私も、上に紹介した日刊紙の社説に賛成であり、財政規模は現在の対GDP比48%程度に安定させ、今後生まれるであろう黒字の分だけ減税をさらに行うのではなく、社会保障や教育・研究開発などへの長期的な投資に充ててほしいと思う。

議員の年齢分布と男女比は?

2010-10-11 00:39:08 | 2010年9月総選挙
スウェーデン議会の349人の議員の年齢分布はどうなったか?

すべての議員の生まれた年は簡単に入手可能だ。正確な年齢の算出には誕生日が必要だが、誕生日まで調べようと思うと相当時間がかかるため、ここでは皆が今年すでに誕生日を迎えたという仮定のもとで、生まれた年から年齢を計算して、ヒストグラムにしてみた。


これを見れば分かるように、40代から50代の議員が多いが、一方で20代・30代の議員も相当数いる。60歳を過ぎると議員はそろそろ引退となる。平均年齢は47歳。

一番若い議員は1988年生まれ。最高齢の議員は1933年生まれ。選挙権・被選挙権ともに18歳以上であるため、たとえば2002年の総選挙では18歳の議員が2人も誕生したが、今回はそんなサプライズはなかった。

政党ごとに議員の平均年齢を見てみると、以下のようになる。支持者に高齢者が多いキリスト教民主党を除けば、すべての党が40代であり、あまり差がないというのは興味深い。若い人の支持が多い環境党は、平均年齢がもっと低いのかと思ったけれど、確かに他党と比べれば低いものの期待したほど大きな差はなかった。平均的に一番若いのは、スウェーデン民主党だ。


一般的に、支持率や議席数が予想以上に伸びた政党は平均年齢が若くなり、それとは反対に支持率や議席数が落ち込んだ政党は平均年齢が高くなる傾向があるのではないかと思う。というのも、支持率や議席数が予想以上に高くなれば、当選圏にいなかった候補者にもチャンスが回ってくる。多くの場合、党内で比較的若く、あまり名の知られていなかった候補者まで当選する。たとえば、2002年の選挙では自由党が大躍進したために、20代の未経験候補者がたくさん当選したことがあった。一方、支持率の低下が予想される党は、限られた議席を巡る争いのなかでベテラン議員が発言力を持つだろうから、若い議員のチャンスは小さくなってしまう。

今回の選挙の結果を見ても、まさにその傾向がはっきりと現れている。予想以上に支持率を伸ばしたスウェーデン民主党のほか、躍進した保守党や環境党の平均年齢が若く、それ以外の敗者の平均年齢は高い。


全体で見た男女比は45.0%。前回の選挙の後は47.2%だったから、一歩後退したことになる。その大きな要因は、今回初めて議席を獲得したスウェーデン民主党の議員の男女比が大きく偏っている(女性はわずか2人)ことだと考えられる(他の党は比例代表の候補者リスストがなるべく男女交互になるように配慮している)。

本心をさらけ出したスウェーデン民主党

2010-10-07 01:21:54 | 2010年9月総選挙
火曜日にスウェーデン議会が正式に開会された。儀式性の高いもので、国王が登場し議会を開会する。そして、その後に首相が所信表明演説を行った後、新内閣を発表する。

しかし、国会の開会に先駆けては、議会と王宮の近くにあるストール教会ミサが行われ、ストックホルム主教区の主教が説教(説法)を説くことが慣例となっている。ただ、政教分離の原則があるため、宗教色の濃いものではなく、議会の開会を前にした緊張の面持ちの議員たちに国民の期待に応えてしっかりと頑張るようにエールを送るための儀式となっている。主教の説く説教(説法)も聖書の内容に基づくものではあるが、今の社会にとって特に重要なキーワードを選んで、一般的な道徳を説くものである。

さて、国王などの来賓に続いて、議員たちが到着した。みな正装だが、中には民族衣装を身にまとっている議員もいる。やはり注目されたのは、ポピュリスト・極右政党であるスウェーデン民主党の議員だが、愛国主義や伝統をことさらに強調する党とあって、党首は自分の出身地であるブレーキンゲ地方の民族衣装を身につけて登場した。スウェーデンの伝統を守れるのは自分たちの党だけ、とでも言わんばかりだ。一方、社会民主党の女性部会の代表を務めている女性議員Nalin Pekgulトルコのクルド地方の出身だが、彼女はクルドの民族衣装を着こなして、スウェーデンの旗を手にしながら登場した。多文化のスウェーデンを象徴するためでもあるし、スウェーデン民主党に対抗するためでもある。





このミサで、大きなハプニングがあった。主教である女性牧師による説教(説法)の途中の出来事だった。

彼女の話はこう始まった。

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国民から信頼を託され、議員という役目を担うことになった皆さん、おめでとう。85%の有権者、つまり600万人強のスウェーデンの人々は、私たちみんなのために良い社会を築き、素晴らしい将来を作り上げる資質を持ち備えているのはあなただと考えたからこそ、議員に選んだのです。その信頼を背負うということは偉大なことです。議員という役目は、一人で果たせるものではなく、ともに助け合いながら行っていくものです。その協同が一人ひとりの活動よりも大きな意味を持つのです。民主主義とはそうやって機能するものだと思いませんか? 政治とは、自分自身のエゴから私たちみんなに関わる物事へと視野を広げていくことです。自分の住む地域の社会に目を向け、さらにその向こうを見つめてみましょう。なぜなら、私たちは自分だけで生きているのではないのですから。私たちの役目と責任は、国家というものが規定する国境よりも大きなものです。私たちを必要としている世界があるのです。私たちの連帯、お金、そして特に私たちの視線と声を必要としている世界があるのです。

あなた方には多くの期待が掛けられています。しかし、勇気を失ってはいけません。あなた方に声の代弁を託した私たちは、傍で応援しています。民主主義とはそうやって機能するものだと思いませんか?

(中略。聖書からの一節に触れる)


すべての人間には出生地や性別、年齢に関係なく、そして、ホモセクシャルであるかどうかに関係なく、尊厳があり、同じだけの価値を持っているのだと信じている私たちは、議員となったあなた方が常に私たちと対話を持ち続け、「あなたのために何ができるだろうか?」と問い続けてくれることを期待しています。そして、そのことで社会が良い方向に動いていけば大きな喜びとなります。

昨日、ストックホルムや国内の各地では数千人の人々が集まり、声を上げました。同じ人間同士に区別を設けようとする動きに対して、反対の声を訴えたのです。「あなたには私ほどの価値はない」「あなたには私ほどの権利はない」「あなたには自由を享受しながら生きる資格はない」と主張する人種差別に対して、拒絶の気持ちを表現しました。この人種差別は、ある人がたまたま世界の別の場所で生まれたという違いだけで、人々に差別をつけようとしているのです。キリスト教を信じる者にとって、そのような差別は決してできません。人間に違いをつけることは、尊厳を犯すことです。人種差別をなくすためには、あなたたち数百人の人に議員としての役目を託すだけでは不十分です。これは、私たちみんなの役目であるからです。そして、人間としての価値を護るという闘いにおいて、誰かが声を上げなくなったり、声を封じられることがないように、石でさえ声を上げるくらい私たちみんなで頑張っていかなければなりません。そのために、神は支援の手を差し伸べてくれることでしょう。

私たちはたくさんのことを成し遂げなければなりません。そして、そのためには巧妙さと勇気と人間同士の温もりが必要です。役目に喜びを感じましょう。役目の重さを感じましょう。私たちが託した信任を実感してください。すべてのことにトライして、良いものを生かして行こうではありませんか。人間に区別をつけてはいけません。私たちを創った神の慈悲を感じましょう。

そうすることで、私たちは今を生き、将来へと歩んでいけるのです。

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説法のテーマは、基本的人権すべての人々の同一価値、そして人種差別反対であった。このようなテーマについて牧師などが道徳として人々に説くのはよくあることだが、今回は、イスラム教を敵視し、外国生まれの住民の排斥を訴えるスウェーデン民主党が議席を獲得したという事実もあったので、主教はその重要性を特に強調したかったのだろう。

スウェーデン民主党の20人の議員は、この説法を最後まで聞くことなく、途中で退席してしまった。スウェーデン民主党と名指しをされたわけではないのに、「すべての人々が同じ尊厳を持っている」や「人種差別に反対」という部分が、自分たちに対する嫌がらせだと感じたのだった。


教会を後にするスウェーデン民主党の議員

また、「昨日、ストックホルムや国内の各地で人種差別に抗議する集会が開かれた」という部分に対しても、スウェーデン民主党は「一部の集会では左派の活動家が多かった」と指摘した上で「過激で暴力的な極左な活動家を擁護するつもりか!」と怒り狂ったのだった。しかし、実際には、スウェーデン民主党が議会入りを果たした国政選挙の翌日から、スウェーデン各地では極右のこの党に抗議する大規模な集会が断続的に開かれており、左派だけでなく、中道保守などの政党を支持する人も含めたスウェーデン社会を構成する幅広い人々が、基本的人権の重要性を改めて考えるキャンペーンに賛同するようになっている。主教が説法の中で触れた「昨日の集会」というのは、その一例に過ぎず、左派の活動家だけを賞賛したわけではない。むしろ、スウェーデン社会を織り成す基本的な価値観を述べたに過ぎない。

スウェーデン民主党はこれまでの活動の中で、極右というレッテルを貼られないように「自分たちは人権を尊重しているし、人種差別はしない」と主張してイメージアップに努めてきたのだが、この説法の途中に退席するという行動を通じて、ひたすら隠そうとしてきた本当のイデオロギーをむしろさらけ出すことになってしまった。スウェーデンに対する愛国主義や伝統を重んじるこの党は、スウェーデン国教会を自らのイデオロギーの拠り所の一つとしているのだが、そのまさに国教会からそっぽを向けられてしまったわけだ。サッカーの過激なフーリガンが、自分の応援するチームから「あなた達にはスタジアムで応援してほしくない」と言われたような感じだ。ただし、説法を行ったストックホルム主教区の主教は「基本的な価値を共有している限り、誰でも教会には歓迎したい」と言っており、特定の政党を追放したりするつもりはないという。

新学期の始まり

2010-10-05 08:30:38 | コラム
スウェーデンの小学校では秋学期が8月から始まるが、ある学校では今日が始業式となった。この学校では、初めて通う新入生が3分の1を占め、学校全体の雰囲気はどこか落ち着かない。校舎がとても大きいだけに、自分の教室が分からない子どもがいたり、廊下で迷子になる子どもがいたりするので、先生や用務員のおじさんは大変。子どもの中には、校舎の中を隅から隅まで探検しながら、食堂やカフェテリアの場所を確認したり、自分のロッカーを確認している。

そんなカオス状態は、クラスが始まってからも続いた。時間に遅れて教室にやってきたために担任の先生に怒られたり、トイレに行くと言って無断で教室を後にする生徒もいる。担任の先生は「さあ、皆さん、これから学級委員を選びましょう」と言うけれど、ガキ大将的な存在であるトーマスの姿が見当たらない。「トーマスは学校がもう終わったかと思って家に帰ったよ」と児童の誰かが言う。学級委員の選出はそれでも行われたが、クリスティーナという女の子が投票に参加しなかった。彼女は、クラスが始まっているとも知らずに、学校のカフェテリアに座ってジュースを飲んでいたのだった・・・。

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スウェーデン議会が今日から始まったが、雰囲気はまさに新学期を迎える児童のようだった。一院制で349人の議員から構成されているが、今回の選挙で初めて当選し、スウェーデン議会に足を踏み入れることになった議員が109人、つまり3分の1弱いる。

議員の多くは、すでに一週間以上前にストックホルム入りし、議員会館内の引越しをしたり、議員のIDカードを作成してもらったりと準備をしていた。


そして、今日は議会が初めて開かれた。いや、正確に言えば、議会の開会は明日(火曜日)だが、それに先駆けて今日は議会議長の選出が行われた。2006年から2010年までの間、議会議長を務めたのは保守党(穏健党)の男性議員パー・ヴェステルベリだったが、保守党を中心とする中道保守政権が継続することになったため、先週の段階では彼の再任が間違いない、と見られていた。

政権奪還に失敗した社会民主党を中心とする赤緑連合(左派ブロック)は、対立候補を立てることもできたが、議席数は中道保守政権よりも少ないために、もし当選を果たそうと思えば、極右・ポピュリスト政党であるスウェーデン民主党を味方につける必要があった。スウェーデン民主党も、自分たちが重要な鍵を握っていることを意識しながら「3つある副議長のポストの一つをわが党にくれるなら、保守党のヴェステルベリの議長再任を支持してやってもいい。この条件を飲んでもらえないならば、対立候補を支持する」と発言していた。

赤緑連合(左派ブロック)から対立候補を出すとすれば、2002年から2006年まで議会議長を務めていたビョーン・フォン・スュードウという社会民主党の男性議員が有力視されていたが、彼はスウェーデン民主党のそんな発言を聞いて「奴らの駆け引きに利用された上で議長に当選するなんて考えられない」と言って、立候補しないことを先週水曜日に表明した。そのため、対立候補なしで現職のヴェステルベリが再任される見通しとなった。

しかし、土壇場になって赤緑連合(左派ブロック)対立候補を立てることに決めた。「なんてこったい。スウェーデン民主党にキャスティングボードを握らせるつもりかよ!」と私は当初思ったものの、よく聞いてみるとそんな単純なことではなかった。

赤緑連合が立てた候補は、ケント・ハーシュテットという男性だったが、彼は社会民主党の中でも特に人権や人道的支援に力を入れている議員で、難民の受け入れに対しても人道的見地からその重要性を主張している議員だった。つまり、スウェーデン民主党とは水と油の関係なのだ。さて、そんな対立候補をスウェーデン民主党が支持するのだろうか?

彼らはどれだけ苦い思いをしただろうか。結局、副議長のポストを要求することなく、保守党のヴェステルベリを支持したようだ。投票は誰がどの候補に投票したかが分からないように、無記名で紙に候補者の名前を書き、議員が一人ずつ順番に箱に票を投じる形式が取られた。しかし、この時、社会民主党トーマス・ボードストローム(元法務大臣)という男性議員はアメリカに行っており欠席。また、左党の1年生議員であるクリスティーナ・ラーセンという女性議員は、カフェテリアに座ってコーヒーを飲んで、トイレに行って、議場に戻ってみたら投票が終わっていた(!)という大きなミスをしでかしてしまった。さらに、赤緑連合の一人の議員が保守党のヴェステルベリに票を投じたことも判明した。そのため、スウェーデン民主党の動向にかかわらず、いずれにしろ保守党のヴェステルベリは再選を果たしたことになる。(つまり、スウェーデン民主党がたとえ対立候補を支持していたとしても、ヴェステルベリには勝てなかった)


クリスティーナ・ラーセンは、メディアに対するコメントの中で「新しい職場で仕事を始めた初日には、こんな初歩的なミスはしたくないと日ごろから願っていたが、まさにそんなミスをしでかしてしまった」と弁解している。気づいて慌てて議場に走ったが、時はすでに遅かった。「同僚には申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。見逃してほしい。初日にこんな重大なミスを犯したのだから、これ以上ひどいミスは起こしえず、明日からは良くなる一方だから。」

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スウェーデン議会の面白いところは、議場内の席の配置が政党ごとではなく、選挙区ごとである点だ。だから、自分の隣の席に別の党の議員が座っていることも珍しくない。例えば、この二人。左は、極右政党であり難民や移民の受け入れの極端な制限やイスラム教徒の排斥を主張するスウェーデン民主党の新議員。一方、右は、保守党の新議員であり、彼はイラン革命の後、両親に連れられて3歳のときにスウェーデンにやってきて難民申請し、その後、スウェーデン国籍を取得した人だ。


二人とも1年生議員だ。テレビのインタビューの中で、スウェーデン民主党の議員が「隣同士なので、ペンや紙を貸し借りしたりすることはあるかもしれないが、政治的な主張は全く異なる」とまず切り出した。血気づきながら「難民や移民の受け入れはすべきではない」という。

すると、保守党の議員が冷静にこう切り返した。「彼の属するスウェーデン民主党が言いたいのは、私のような難民はスウェーデンに受け入れるべきでない、ということだ。彼らが政治の実権を握っていれば、私がこの国で暮らすことはできなかった。」

スウェーデン民主党の議員は、さらに顔を赤らめながら「多文化主義が問題だ。移民・難民の人々が自分たちの文化をスウェーデンに持ち込むべきではない」と主張する。様々な移民・難民の文化グループや同好会に対してスウェーデン政府が提供している活動助成金をなくすべきだ、とも主張する。これに対しても、保守党の議員は淡々と切り返した。「例えば、ギリシャやイランの文化グループの活動をつぶすことが、どうして社会統合の促進につながるのか、全く理解できない。社会統合の促進を考えれば、そんなことよりももっと重要なのは、彼らが仕事について社会の一部となれるように、雇用を増やすことだ。」


ギリシャ語起源の言葉にxenofobiという単語がある。見知らぬものに対して恐怖心を抱き、心を開こうとしないことを指すが、スウェーデン民主党の人々の主張を聞いていると、まさにこのxenofobiの典型ではないかと感じる。他文化を背景に持つ人々と接する機会を普段から持たないために「我々」と「奴ら」という二項対立を頭の中でどんどん膨らませていき、より頑なに心を閉ざしてしまっているようだ。

だから、このスウェーデン民主党の議員のように、今後の政治活動の中で様々なバックグランドを持つ人々と接して議論していくようになれば、自分たちの考えの幼稚さにも気づくようになるかもしれない。そういう意味で、議場内のこのような席の配置は面白い。さて、この2人がこれから4年間、隣同士で仲良くやっていけるのか、注目に値する。

何度も書くように今回の選挙では、ポピュリスト・極右政党スウェーデン民主党が4%ハードルを越えて初めて議席を獲得した。その一方で、あまり知られていないニュースもある。もともと移民や難民としてスウェーデンにやってきた議員の数が今まで以上に増えたということだ。2006年の国政選挙では、外国生まれの議員は16人だったが、今回の選挙では24人に増えた。イラン、イラク、ユーゴスラヴィア、トルコ、レバノン、エリトリア、ソマリア、スリランカなど16カ国に及ぶ。また、親のうち少なくとも一人が外国生まれという議員も加えると少なくとも30人ほどになるという。多文化を受け入れることで成長してきたスウェーデンの強さが、これからますます示されることを願いたい

『The End of the Line』 今日NHKで

2010-10-04 09:42:43 | コラム
忙しくしており更新ができませんが、話題を一つ。

海洋生態系の世界的な乱獲をテーマにしたドキュメンタリーの本で、英語で書かれ世界的に話題を呼んだものとして、イギリス人のジャーナリストであるチャールズ・クローバーが著した『The End of the Line』という本がある。原著は2004年の出版だが、邦訳は『飽食の海―世界からSUSHIが消える日』として岩波書店から2006年に出ている。

そして、この本が取り上げた問題を映像として収めた同名のドキュメンタリー映画が作成され2009年に世界で公開された。私は原著も読んだし、ドキュメンタリー映画のほうも見たが、よくできていると思った。

その映画が今日2010年10月4日NHKで放映されるという。名古屋の国連・生物多様性条約締約国会議(COP10)に合わせた企画らしい。
映画のHPより

NHKの番組表をチェックしてみたが、見当たらなかった。お勧めの映画なので、是非とも時間帯とチャンネルを見つけて、ご覧になってください。