今週気になったニュースは「セルビアがEU入りに向けて一歩前進」だ。
1990年代前半の旧ユーゴ紛争の当事国といえばクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナだが、戦犯容疑者のハーグへの引渡しなど紛争時の暗い過去を捨て去りEU入りを確実に進めているクロアチアに続き、セルビアもEU加盟に向けた協議を始めるために昨年末に加盟申請書をEUに提出した。より正確に言えば、スウェーデンに提出した。当時のEU議長国がスウェーデンだったためだ。セルビアのタジッチ大統領がストックホルムを訪ね、ラインフェルト首相に申請書を手渡したニュースはスウェーデンでも大きく取り上げられた。
しかし、それから10ヶ月近くのあいだ目立った動きはなく、今週になってEUはセルビアの加盟申請書の審査を始めると発表した。この間に何があったかというと、どうやらEUの加盟国の一つであるオランダが手続きをストップをさせていたようだ。なるほど、オランダはセルビアに対して大きな怨念を持っているのだ。しかし、隣国同士で国境争いなどを抱えているわけではないのに、なぜ?
その理由は1995年7月に起きたスレブレニツァ陥落にさかのぼる。
スロヴェニアやクロアチアから始まった旧ユーゴの紛争がボスニア・ヘルツェゴヴィナにも飛び火し、拡大して行ったとき、軍事的な優位に立ったのはボスニア内のセルビア人勢力だった。隣のセルビアの正規軍や内務省の特殊部隊も彼らを支援したために、紛争の初期のうちにボスニアの大部分を制圧。イスラム教徒であるボスニア人(ボスニャーク人)が難民化した。特にボスニア東部では、家を追われたボスニア人難民が、いまだにボスニア人勢力が支配下に置くスレブレニツァやゴラジュデ、ジェパなどの町に流れ込んだ。しかし、これらの町は周りをほぼ完全にセルビア人勢力に制圧されており、無援孤立していた。ボスニアの首都サラエボもこの時、セルビア部隊に包囲されていたが、これらの町はサラエボに比べたらはるかに小さく、セルビア軍がその気になれば制圧してしまえる規模だった。
しかし、そんな事態になれば民間人の犠牲は計り知れない上に、セルビア人勢力による民族浄化を許してしまうことになる。そのような理由から、1993年に国連の安保理はこれらの町を「安全地帯」と宣言したのだった。つまり、これらの町に対するいかなる攻撃行動も認めず、もしそれを犯すような行動を取れば、それなりの報復を受けることになる、ということだった。しかし、国連安保理によるこの宣言の問題は、この「安全地帯」を保障するための実効力を伴っていなかったことだ。国連加盟国は平和監視軍への派兵に消極的であり、例えば、スレブレニツァの保護に当たることになった国連軍は、結局オランダ兵の400~600人ほどに過ぎなかった。
町を取り巻いていたセルビア軍が攻勢を開始した1995年7月7日(金)当時の状況については、スウェーデンの現・外務大臣であり、当時はEU特使として旧ユーゴ紛争の調停に当たっていたカール・ビルトが、著書『Uppdrag Fred(平和ミッション)』の中でも触れていた。私も、久しぶりにこの本を引っ張り出して、該当箇所を再び読んでみた。
真ん中がカール・ビルト
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カール・ビルトは父親の75歳の誕生日を祝うために週末はスウェーデンに戻っていた。国連軍のザグレブ司令部が発信したレポートには目立った軍事行動はないとされていた。しかし、現地で平和監視に当たっていたオランダ部隊(当時300人規模)からは緊急事態を告げる報告が続々と入ってきた。セルビア軍はスレブレニツァの町への砲撃を開始するとともに、国連軍オランダ部隊の基地がある町の北部にも牽制のための砲撃を行い始めたのだ。オランダ部隊は以前から町の周囲にいくつかの監視所を設けてセルビア軍の動きを監視していたが、セルビア軍が町に向かって前進して来るにつれ、監視所を放棄して後退せざるを得なかった。
カール・ビルトの記すところによると、当時の国連関係者やEU関係者は、セルビア軍が自らの力を誇示するために挑発を行っているに過ぎず、町周辺の道路や町からの抜け道を制圧することはあっても、町自体を陥落させることはないだろうと考えていたという。しかし、事態は悪化の一途をたどった。カール・ビルトは、セルビア大統領であるミロシェヴィッチに警告の手紙を送った。「持っているすべての権限を使って、この軍事行動を止めさせなさい。さもなければ、これまで続けられてきた和平交渉は中断せざるを得ず、セルビアは非常に厳しい状況に置かれることとなる」
スレブレニツァを取り巻くセルビア軍の現地指令官はムラジッチだった。二人の間でどんなやり取りがあったかは定かではないが、セルビア軍は攻勢の手を緩めることはなかった。抵抗できるほどの武力を持たない国連軍オランダ部隊の一部は、基地に引き上げる途中にセルビア軍の捕虜になった。オランダ部隊の要請を受けて、イタリアの基地を出発したオランダ空軍のF-16の2機がセルビア軍に対して空爆を行ったものの、目立った効果はなく、それに続いた米軍のF-16は視界不良のために、町の上を旋回しただけで基地に戻ってしまった。スレブレニツァにはボスニア人勢力の正規軍である第82師団が防衛に当たっていたが貧弱な装備しか持たず、戦車を少なくとも4台持っていたセルビア軍を抑えることはできなかった。セルビア軍が11日(火)に町を陥落させたとき、この町には周囲の村々から逃れてきた難民で溢れかえっており4万人近いボスニア人がいた。彼らの大部分は、国連軍の助けを求めるために町北部にあるオランダ部隊の基地に駆け込んだが、オランダ部隊は何の保護もできなかった。
国連が「安全地帯」と宣言したはずの町が陥落した、というニュースが伝わったとき、カール・ビルトは、フランスのシラク大統領や首相、防衛相などとフランスの政府専用機に乗っていた。フランス首脳の即座の反応は強固なものだった。「セルビアの行動は国連に対する挑発であり看過できるものではない。今すぐに国連軍を組織してスレブレニツァの奪還に取り掛かるべきだ!」しかし、一つの町の防衛すらできなかった国連軍にそのような余力はなかった。すぐに動かせる部隊としては60kmほど離れた町に北欧諸国の部隊があったが、専守防衛のための訓練と装備はしていても、町を攻略するなどといったことは到底無理だった。200kmほど離れた町にはイギリス部隊がいたが、そこからスレブレニツァまでの地帯はすべてセルビア軍が制圧しており、町に到達するだけでも一苦労という有様だった。カール・ビルトはフランス首脳に言った。「そもそもの『安全宣言』自体がそうであったように、果たせない約束を今またここで発表して、国連の権威を貶めるつもりか? 今考えるべきなのは奪還などという夢物語ではなく、命の危険に晒されているスレブレニツァの住民の避難だ!」
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この後に続いたスレブレニツァの惨事は、旧ユーゴ紛争の中の一大悲劇として世界に知られることになった。セルビア軍は捕虜として捉えた3000人のボスニア人男性を殺害、さらにボスニア軍の支配地域に逃れようとした4000人の人々を森にて待ち構え虐殺したのだった。
(私が以前いた研究棟の掃除を担当していた非常に気のいいボスニア出身のおばちゃんも、あるとき、旦那さんとここで別れたきり行方が分からなくなった、と話してくれた。4年以上にわたって続いたボスニア紛争のために6万人から8万人ほどのボスニア人がスウェーデンに難民として受け入れられ、その多くがその後、スウェーデン国籍を取得している)
オランダは、自国の兵士がこの時、捕虜に取られたり、犠牲になったりした。国連という権威の下で活動していたにも関わらず、その権威を無視され、自国の兵士が侮辱されたという恨みは大きい。保護下に置いていた住民を殺されたという怒りもある。だからこそ、オランダはこの時の現地の司令官であるムラジッチが逮捕され、ハーグの国際戦犯裁判所に引き渡されるまでは、EUの加盟交渉は行うべきではない、とセルビアの加盟申請を突っぱねてきたのだった。ムラジッチとともに指名手配を受けていたカラジッチは、当初はセルビア政府の庇護を受けていたようだが、ミロシェヴィッチ大統領の失脚後、自国の改革を進めようとするタジッチ大統領の新しい方針の下で逮捕され、ハーグに送られた。しかし、ムラジッチのほうはまだ捕まっていない。
オランダ政府としては、ムラジッチが逮捕されるのを本当は待ちたいところだが、一方で、改革派でありEU寄りのタジッチ大統領は、本国にて極右勢力との政治的な争いの渦中にあるため、タジッチ大統領を支援するという意味では、そろそろEU加盟の第一歩を歩ませてあげたほうがいい、という考えへと変わりつつあるようだ。
セルビアの社会民主党に所属するタジッチ大統領は2006年9月、スウェーデンの社会民主党のヨーテボリ支部に招かれて、スウェーデンの当時の外務大臣であるヤン・エリアソンと対談を行った。私も聞きに行った。
1990年代前半の旧ユーゴ紛争の当事国といえばクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナだが、戦犯容疑者のハーグへの引渡しなど紛争時の暗い過去を捨て去りEU入りを確実に進めているクロアチアに続き、セルビアもEU加盟に向けた協議を始めるために昨年末に加盟申請書をEUに提出した。より正確に言えば、スウェーデンに提出した。当時のEU議長国がスウェーデンだったためだ。セルビアのタジッチ大統領がストックホルムを訪ね、ラインフェルト首相に申請書を手渡したニュースはスウェーデンでも大きく取り上げられた。
しかし、それから10ヶ月近くのあいだ目立った動きはなく、今週になってEUはセルビアの加盟申請書の審査を始めると発表した。この間に何があったかというと、どうやらEUの加盟国の一つであるオランダが手続きをストップをさせていたようだ。なるほど、オランダはセルビアに対して大きな怨念を持っているのだ。しかし、隣国同士で国境争いなどを抱えているわけではないのに、なぜ?
その理由は1995年7月に起きたスレブレニツァ陥落にさかのぼる。
スロヴェニアやクロアチアから始まった旧ユーゴの紛争がボスニア・ヘルツェゴヴィナにも飛び火し、拡大して行ったとき、軍事的な優位に立ったのはボスニア内のセルビア人勢力だった。隣のセルビアの正規軍や内務省の特殊部隊も彼らを支援したために、紛争の初期のうちにボスニアの大部分を制圧。イスラム教徒であるボスニア人(ボスニャーク人)が難民化した。特にボスニア東部では、家を追われたボスニア人難民が、いまだにボスニア人勢力が支配下に置くスレブレニツァやゴラジュデ、ジェパなどの町に流れ込んだ。しかし、これらの町は周りをほぼ完全にセルビア人勢力に制圧されており、無援孤立していた。ボスニアの首都サラエボもこの時、セルビア部隊に包囲されていたが、これらの町はサラエボに比べたらはるかに小さく、セルビア軍がその気になれば制圧してしまえる規模だった。
しかし、そんな事態になれば民間人の犠牲は計り知れない上に、セルビア人勢力による民族浄化を許してしまうことになる。そのような理由から、1993年に国連の安保理はこれらの町を「安全地帯」と宣言したのだった。つまり、これらの町に対するいかなる攻撃行動も認めず、もしそれを犯すような行動を取れば、それなりの報復を受けることになる、ということだった。しかし、国連安保理によるこの宣言の問題は、この「安全地帯」を保障するための実効力を伴っていなかったことだ。国連加盟国は平和監視軍への派兵に消極的であり、例えば、スレブレニツァの保護に当たることになった国連軍は、結局オランダ兵の400~600人ほどに過ぎなかった。
町を取り巻いていたセルビア軍が攻勢を開始した1995年7月7日(金)当時の状況については、スウェーデンの現・外務大臣であり、当時はEU特使として旧ユーゴ紛争の調停に当たっていたカール・ビルトが、著書『Uppdrag Fred(平和ミッション)』の中でも触れていた。私も、久しぶりにこの本を引っ張り出して、該当箇所を再び読んでみた。
真ん中がカール・ビルト
カール・ビルトは父親の75歳の誕生日を祝うために週末はスウェーデンに戻っていた。国連軍のザグレブ司令部が発信したレポートには目立った軍事行動はないとされていた。しかし、現地で平和監視に当たっていたオランダ部隊(当時300人規模)からは緊急事態を告げる報告が続々と入ってきた。セルビア軍はスレブレニツァの町への砲撃を開始するとともに、国連軍オランダ部隊の基地がある町の北部にも牽制のための砲撃を行い始めたのだ。オランダ部隊は以前から町の周囲にいくつかの監視所を設けてセルビア軍の動きを監視していたが、セルビア軍が町に向かって前進して来るにつれ、監視所を放棄して後退せざるを得なかった。
カール・ビルトの記すところによると、当時の国連関係者やEU関係者は、セルビア軍が自らの力を誇示するために挑発を行っているに過ぎず、町周辺の道路や町からの抜け道を制圧することはあっても、町自体を陥落させることはないだろうと考えていたという。しかし、事態は悪化の一途をたどった。カール・ビルトは、セルビア大統領であるミロシェヴィッチに警告の手紙を送った。「持っているすべての権限を使って、この軍事行動を止めさせなさい。さもなければ、これまで続けられてきた和平交渉は中断せざるを得ず、セルビアは非常に厳しい状況に置かれることとなる」
スレブレニツァを取り巻くセルビア軍の現地指令官はムラジッチだった。二人の間でどんなやり取りがあったかは定かではないが、セルビア軍は攻勢の手を緩めることはなかった。抵抗できるほどの武力を持たない国連軍オランダ部隊の一部は、基地に引き上げる途中にセルビア軍の捕虜になった。オランダ部隊の要請を受けて、イタリアの基地を出発したオランダ空軍のF-16の2機がセルビア軍に対して空爆を行ったものの、目立った効果はなく、それに続いた米軍のF-16は視界不良のために、町の上を旋回しただけで基地に戻ってしまった。スレブレニツァにはボスニア人勢力の正規軍である第82師団が防衛に当たっていたが貧弱な装備しか持たず、戦車を少なくとも4台持っていたセルビア軍を抑えることはできなかった。セルビア軍が11日(火)に町を陥落させたとき、この町には周囲の村々から逃れてきた難民で溢れかえっており4万人近いボスニア人がいた。彼らの大部分は、国連軍の助けを求めるために町北部にあるオランダ部隊の基地に駆け込んだが、オランダ部隊は何の保護もできなかった。
国連が「安全地帯」と宣言したはずの町が陥落した、というニュースが伝わったとき、カール・ビルトは、フランスのシラク大統領や首相、防衛相などとフランスの政府専用機に乗っていた。フランス首脳の即座の反応は強固なものだった。「セルビアの行動は国連に対する挑発であり看過できるものではない。今すぐに国連軍を組織してスレブレニツァの奪還に取り掛かるべきだ!」しかし、一つの町の防衛すらできなかった国連軍にそのような余力はなかった。すぐに動かせる部隊としては60kmほど離れた町に北欧諸国の部隊があったが、専守防衛のための訓練と装備はしていても、町を攻略するなどといったことは到底無理だった。200kmほど離れた町にはイギリス部隊がいたが、そこからスレブレニツァまでの地帯はすべてセルビア軍が制圧しており、町に到達するだけでも一苦労という有様だった。カール・ビルトはフランス首脳に言った。「そもそもの『安全宣言』自体がそうであったように、果たせない約束を今またここで発表して、国連の権威を貶めるつもりか? 今考えるべきなのは奪還などという夢物語ではなく、命の危険に晒されているスレブレニツァの住民の避難だ!」
この後に続いたスレブレニツァの惨事は、旧ユーゴ紛争の中の一大悲劇として世界に知られることになった。セルビア軍は捕虜として捉えた3000人のボスニア人男性を殺害、さらにボスニア軍の支配地域に逃れようとした4000人の人々を森にて待ち構え虐殺したのだった。
(私が以前いた研究棟の掃除を担当していた非常に気のいいボスニア出身のおばちゃんも、あるとき、旦那さんとここで別れたきり行方が分からなくなった、と話してくれた。4年以上にわたって続いたボスニア紛争のために6万人から8万人ほどのボスニア人がスウェーデンに難民として受け入れられ、その多くがその後、スウェーデン国籍を取得している)
オランダは、自国の兵士がこの時、捕虜に取られたり、犠牲になったりした。国連という権威の下で活動していたにも関わらず、その権威を無視され、自国の兵士が侮辱されたという恨みは大きい。保護下に置いていた住民を殺されたという怒りもある。だからこそ、オランダはこの時の現地の司令官であるムラジッチが逮捕され、ハーグの国際戦犯裁判所に引き渡されるまでは、EUの加盟交渉は行うべきではない、とセルビアの加盟申請を突っぱねてきたのだった。ムラジッチとともに指名手配を受けていたカラジッチは、当初はセルビア政府の庇護を受けていたようだが、ミロシェヴィッチ大統領の失脚後、自国の改革を進めようとするタジッチ大統領の新しい方針の下で逮捕され、ハーグに送られた。しかし、ムラジッチのほうはまだ捕まっていない。
オランダ政府としては、ムラジッチが逮捕されるのを本当は待ちたいところだが、一方で、改革派でありEU寄りのタジッチ大統領は、本国にて極右勢力との政治的な争いの渦中にあるため、タジッチ大統領を支援するという意味では、そろそろEU加盟の第一歩を歩ませてあげたほうがいい、という考えへと変わりつつあるようだ。
セルビアの社会民主党に所属するタジッチ大統領は2006年9月、スウェーデンの社会民主党のヨーテボリ支部に招かれて、スウェーデンの当時の外務大臣であるヤン・エリアソンと対談を行った。私も聞きに行った。