スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

地盤沈下し、生活保護の水準に達した失業保険

2014-08-31 08:01:24 | 2014年選挙
選挙の争点の一つは失業保険の給付水準だ。

スウェーデンの失業保険は、国の社会保険制度には含まれていない。歴史的に失業保険は労働組合が始めたものであり、今でも業種・職能別の労働組合がそれぞれの失業保険基金を管理し、加入も任意である。しかし、面白いことに、失業保険手当の給付水準や給付条件は国が決めており、さらに、各労働組合が管理する失業保険基金には、社会保険料を財源とした補填が国から支払われているため、実質的には国の社会保険制度の一部だとみなすこともできる。

さて、失業保険手当の給付水準は、失業前の給与の80%に設定されている。しかし、支払額の上限が設けられているため、失業前の給与がある程度、高い人はその上限額の手当しか受けることができない。支払額の上限は現在、1日あたり680クローナ(10,200円)。平日のみの支払いなので月に換算すると14,960クローナ(224,400円)である。つまり、月給が18,700クローナ(280,500円)を超える人は、×80%をするとこの上限額である14,960クローナを超えてしまうため、手当の額は失業前の給与に比べると80%以下となってしまうのである。

現在の問題点は、この上限額が過去12年間、ずーっと据置きされてきたことである。本来なら経済全体の平均的な給与水準の上昇に合わせたスライド制を適用するべきところであるが、現在の制度では、必要性と財政的余裕に応じて時の政権がその都度、政治判断をして引き上げることになっている。しかし、2002年に当時の社会民主党政権が最後の引き上げをして以来、同じ水準のままなのである。

この12年の間に経済は成長し、給与水準も上昇してきたから、失業者しても手当がこの上限に達してしまい、失業以前の給与の8割以下の手当しか受けられない人が増えてしまっている。

しかも、この12年の間に、物価水準は22%しているため、上限手当の実質的な購買力はその分、目減りしていることになる。

そして、なんと今年ついに、生活保護の給付水準に追いつかれてしまったのである。

生活保護の給付水準は物価上昇に合わせて毎年更新され、引き上げられている。生活保護は「妥当な生活」を送るのに必要とされる額が支給され、その額は家族構成や住んでいる自治体の物価水準によって異なる。例えば、ストックホルムでは、一人暮らしだと月10,805クローナ(162,000円)、3歳と15歳の子を持つ母子・父子家庭だと11,742クローナ(176,000円)だ(これに加え、親の所得水準に関係なく児童手当が給付される)。

生活保護は補助金であるため非課税で、所得税は掛からない。これに対し、失業保険手当は社会保険給付であるため、所得税が課税される。所得税率は自治体によって異なるが30%だと仮定しよう(ごく平均的)。先述の通り、失業保険手当の上限は14,960クローナであるため、税引き後の手取りは10,472クローナ(157,000円)となる。だから、失業保険手当の支払い最大額が、生活保護給付よりも低くなってしまったのである。


生活保護給付の目的は、セーフティーネットを提供することである。つまり、まず勤労による自活を試み、それが難しいなら各種の社会保険制度、例えば、育児休暇保険や失業保険、疾病保険などの受給を試みて、それでも経済的に困窮してしまった人が、最後の頼みの綱として利用する制度である。したがって、生活保護制度の活用は、勤労による自活に遅かれ早かれ復帰するまでの短期的なものであるべきだ。

だから、最後の頼みとなるべき生活保護よりも、失業保険手当が低いのは非常に大きな問題である。実際のところ、現在11.5万人いる生活保護受給者のうちの半分が、失業による経済的困窮を理由に受給している。彼らの大部分は、本来なら失業保険によって保護されるべきであろう。しかし、失業保険手当の上限が長い間、据置きされたために、その実質的な水準が低すぎ、そのためにそれだけでは生計を立てることができない人が増えているのであろう。

また、失業保険そのものの受給資格がない人も多くなってしまった。2006年秋に政権についた現在の中道保守連立政権は、失業保険の給付条件を厳格化した上に、社会保険料を財源に各失業保険組合に移転される補填額を大幅に削ってしまった。そのために各失業保険組合は保険料を引き上げざるを得なくなり、せっかく高い保険料を支払っても、いざ失業した時に受給資格が無かったり、受給額があまり多くないなら、割に合わないと考えて失業保険から脱退する人も増えてしまった。(その後、政権側は失敗を認めて補填額を増額し、各失業保険組合は保険料を引き下げることができたが、それでも2011年11月の時点で加入率は70.2%までしか回復しておらず、政権が交代した2006年秋の82.8%という水準と比べるとまだ低い)

失業者のうち失業保険から手当を受給している人の割合
を見てみると、2006年の初めは70%だったが、2011年11月にはなんと36%にまで減少している。

失業保険の目的は、失業にともなって生活条件が大きく変化することを防ぎ、新しい仕事を見つけるまでの期間の生活保障を行うことである。だから、手当の水準は基本的に失業するまでの給与水準に比例(8割)させることが基本原則である。しかし、現在はその原則がほとんど成り立っていないのである。


だから、各党は選挙キャンペーンの中で、失業保険の給付上限を引き上げることで、なるべく多くの失業者がそれまでの給与に比例した(8割の)給付を得られるようにすべきだと主張している。上限の引き上げ幅は各党によって異なるし、失業期間とともに給付水準をどのように引き下げていくかも異なる。また、そのために掛かる国庫負担額と、それをどのように捻出するのか(増税、もしくは、他の政策分野の支出カット)をきちんと示し、それがテレビの選挙番組などでしっかりと議論されている。

唯一の例外は、現在の中道保守連立政権の中核をなす穏健党(保守党)である。彼らはこの期に及んでも「失業保険手当の上限を引き上げる必要はない」と主張している。そもそも、2006年秋に政権を獲得した時の選挙スローガンが「働くことが割に合う社会」「社会保険の給付漬けを減らすべき」というものであり、そのために社会保険の手当の給付条件を厳しくしたり、手当の水準と勤労所得の手取りとに差をつけるような制度改革を行ってきた。だから、今でもこの党にとっては、失業保険手当の上限引き上げに対する優先順位は低いのである。

しかし、現政権の政策のために、失業保険が本来の機能がうまく発揮しなくなり、生活保護の受給者が増えてしまったのは非常に皮肉なことである。

中道保守政権の労働市場政策

2014-08-26 16:02:34 | 2014年選挙
盛んに続いている選挙キャンペーンについて、記事を書きたいのだけれど、残念ながらあまり時間がありません。

各党間の大きな論争の一つは、雇用政策・労働市場政策です。これについては、社会保障・人口問題研究所の発行する『海外社会保障研究』に「1990年代以降の労働市場政策の変化と現在の課題」という記事を書きました。1990年代以降の傾向を踏まえながら、2006年秋に政権の座に就いた中道保守連立政権の政策についてまとめました。2012年春に発行された号です。

第一次世界大戦とスウェーデン

2014-08-18 02:17:07 | スウェーデン・その他の政治
1914年夏に始まった第一次世界大戦からちょうど100年だ。7月終わりにセルビアに対して宣戦布告したオーストリアを支援する形で、ドイツが8月初めにロシアフランスに宣戦布告。露仏に挟まれたドイツは二正面作戦を避けるため、主力を中立国のベルギーに侵攻させ、開戦から6週間でフランスのパリを陥落させ、その勢いで打って返してロシアと戦う、というシュリーフェン計画を実行したものの、イギリスの参戦もあり、パリまであと僅かのところで頓挫。ドイツ東部でも動員に数週間かかると見ていたロシア軍の動きが予想以上に早く、結局、2つの戦線で同時に戦うことを余儀なくされる。一方、フランスもモラルの高い仏軍が負けるはずはないと確信し、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方を奪還すべく、開戦直後は攻勢に出た。どちらの両陣営でも大勢の若者が戦争にロマンと生きがいを見出し、高揚感に包まれたまま軍隊に志願していく。

「クリスマスまでには帰れる」と、両陣営とも短期決戦を見込んでいたが、戦線が膠着し、塹壕戦に突入。1918年の停戦まで、実に4年も続いた長い総力戦となった。

今年が開戦から100年であるため、公共放送であるスウェーデン・テレビ(SVT)は他のヨーロッパのテレビ局と共同で大きなドキュメンタリー番組を作成し、夏の間に8回にわたって放送した。当時の映像と、手の凝った再現ドラマを交えながら、実際に戦争に加わった各国の将校や兵士、市民などの手紙や日記をもとに、4年にわたって続いた総力戦の全体像を描いていて、非常に興味深かった。登場する実在人物の中には、息子を戦争に送り出して間もなく戦死の知らせを受け取ったドイツ人夫婦、独軍占領下のフランス少年、赤十字の看護婦、コサック兵に加わって従軍したロシア少女、年をごまかしてイギリス軍に入隊したイギリス人の中年ジャーナリストなどがおり、彼らの再現ドラマが同時並行で進んでいく。

スウェーデンは非参戦国であるためあまり登場しないが、それでも、パリのレストランで働いているうちに戦争が始まったためフランス軍に志願してドイツ兵と戦ったスウェーデン青年(途中で戦死)や、ドイツ軍に自分から志願して加わったスウェーデン将校、赤十字看護婦としてロシアで捕虜を看護したスウェーデン女性、女性参政権を求める活動家などが登場する。(日本からは、赤十字看護婦などの日記が少しだけ登場する)


【 スウェーデン 】

当時のスウェーデンがどういう状況だったのか、少し調べてみた。開戦当時のスウェーデンの人口は570万人。その4分の3は農村で暮らし、ストックホルムにはわずか38.6万人しかいなかった。産業革命はイギリスから大きく遅れて1850年代に徐々に始まったが、そんな産業化も1890年代から飛躍的に進んでいった。農業生産でも近代化が進んだ結果、1900年から1914年の間に生産高が倍増。1850年代から19世紀末にかけては貧困のために人口の4分の1がアメリカ大陸に移民するような状況だったが、国民の生活水準が上昇した結果、貧困はもはや過去のものとなり、アメリカへの移民も大きく減少していた。

スウェーデンは、東はロシア、南はドイツ、東はイギリスと、3つの大きな帝国に囲まれた状況の中、第一次世界大戦の勃発に際しては隣国ノルウェーとデンマークとともに中立を宣言した。とはいえ、ベルギーのように中立国であっても侵略される恐れはある。そのため、徴兵中の若者や動員令で集められた35-42歳の予備役が、沿岸部や要塞に配置された。この当時のスウェーデン軍の兵装の特徴はフェルト製の三辺帽だ。





中立宣言と(紆余曲折を経た)外交の結果、スウェーデンは第一次世界大戦に巻き込まれることはなかったが、完全な傍観者でもなかった。戦争開始に伴い、ドイツとロシアの国境地帯は戦場と化したために交通が断絶。開戦時にそれぞれの敵国に滞在していたロシア人やドイツ人・オーストリア人・ハンガリー人がスウェーデン経由で本国に帰国している。また、物流もスウェーデンを介して、東西を行き来することとなった。特に、同盟国であったフランス・イギリスとロシアを東西に結ぶルートとして、スウェーデンは大変重要な位置にあった。


スウェーデンの東の隣国はフィンランドであるが、当時はロシア帝国に属していた。スウェーデンとフィンランド(ロシア)の間にはバルト海が横たわるが、バルト海も戦場となっていたため、物資の輸送に海路は避けたい。そのため、スウェーデン北部の陸路が使われることとなった。開戦当時、フィンランドに面した国境のうち、スウェーデンの幹線鉄道が伸びていたのはKarungi(カルンギ)という小さな村のみだった。Karungiの南にはHaparanda(ハパランダ)という町があったが鉄道は伸びていなかった。そもそも、スウェーデン政府はロシア国境まで鉄道を伸ばすことには戦略上の理由から消極的だった。ロシアと戦争になった場合にロシア軍に鉄道を利用され、スウェーデン侵攻を容易にしてしまうことを恐れていたためである。しかし、国境貿易に鉄道はあったほうが良い。そんなジレンマの中での一つの妥協として、小さなKarungiまでは鉄道を敷いていたのである。






このKarungiがロシアとドイツおよび西ヨーロッパを結ぶ重要な拠点となったのである。スウェーデン南部の港に着いた物資や郵便物は、鉄道を使ってKarungiまで運ばれた。Karungiでは2000頭の馬が待ち構え、冬の間は凍ったトルネ川の上をソリでフィンランド側の村Karunki(カルンキ)まで届け、夏になると船に取って代わられた。同様に、ロシアからの物資・郵便物は鉄道で国境の村Karunkiまで届けられ、スウェーデン側のKarungiに運ばれ、鉄道でスウェーデン南部の港まで輸送された。




そのため、もともと寒村だったKarungiには開戦からまもなく数多くの掘っ立て小屋が建てられ、税関や郵便局のほか、銀行、ホテルや喫茶店が設けられた。ヨーロッパのあちこちから商人のほか、外交官やスパイ、密輸集団、そして、一攫千金を夢見る人々が集まり、その賑わいはまるで国際都市、いやゴールデン・ラッシュ時のクロンダイクのようだったという。Karungi郵便局が一日に取り扱う郵便物は13トンに達し、取扱量で見るとヨーロッパで最大となった。戦争難民も毎日500人のペースでこの国境を通過したらしい。

一夜にして始まったそんな賑わいも、また一夜にして終わりを告げる。1915年7月に幹線鉄道が南のHaparandaの町まで延伸すると、国境取引はHaparandaに舞台を移して続けられることになる。物資の行き来があまりに多いため、そのうち、スウェーデンとフィンランド(ロシア)の間に川をまたぐケーブルが張られ、ケーブルづたいに物資が運ばれるようになっていく。





【 スウェーデンを介した捕虜交換 】

戦争が長引くにつれ、参戦各国は大量の捕虜を抱えていく。物資不足で自軍の食糧にすらこと欠く中、捕虜は粗末に扱われ、非常に悲惨な状況だった。1915年、スウェーデン赤十字はストックホルムで国際会議を開催。ロシア、ドイツ、オーストリア、ハンガリーから政府代表団が招かれ、捕虜待遇を改善すべきであることが合意される。その後、スウェーデン政府は、ロシア軍によってシベリアに送致されたドイツ兵捕虜のもとに看護婦と救援物資を届ける活動を始めていく。

また、1915年8月にはスウェーデン外務省の仲介によって、ドイツ・オーストリア軍とロシア軍の間で捕虜交換を行うことが決定される。この時の経路も、やはりスウェーデン北部の陸路(Haparanda)であった。国境でロシア軍から引き渡された捕虜は、用意されたベッド付きの特別列車に乗せられ、スウェーデンを縦断し、南部の港町Trelleborg(トレレボリ)から赤十字船でドイツに搬送された。ドイツ軍に捕らえられたロシア兵捕虜はその逆ルートでスウェーデン北部へ運ばれ、ロシアへ帰国していった。こうして、スウェーデンを介して交換された捕虜の数は、ドイツ兵3500人、オーストリア兵・ハンガリー兵22000人、ロシア兵37000人、トルコ兵400人と、合計63000人になる。






ちなみに、レーニンは1917年4月に滞在先のスイスからスウェーデンに入国。ストックホルムで共産主義活動家を訪ねたあと、鉄道でスウェーデン北部のHaparandaに行き、国境を超えてロシアに帰国し、ロシア革命に加わっている。

1か月後に迫った国政・地方同時選挙

2014-08-14 13:24:16 | 2014年選挙
国政・地方同時選挙がちょうど1か月後に迫っている。

私は欧州議会選挙の時と同様、今回の選挙でも投票立会人をするので、数日前に講習を受けてきた。担当することになる投票区は5月の欧州議会選挙と同じ所。しかも、一緒に作業する他の立会人も5月の時とほぼ同じなので楽しくなりそうだ。

講習では、5月の選挙で生じた問題点や改善点が議論された。ウプサラ市のある投票所では、市の選挙委員会の許可なく、投票立会人が勝手にランチ休憩のために投票所を1時間閉めてしまい、大きな苦情が出たそうだ。だから「そういうことをしないように」との注意があった。(いや、普通はしない!笑)

私が投票立会人をする自治体は、スウェーデンの中でも投票率が高い地域だ。前回2010年の国政・地方同時選挙では、国全体の投票率が84.6%だったのに対し、この自治体は89%だった。その前、2006年の選挙では88%だったというから、この調子で行けば今回の選挙では90%に達してもおかしくないだろう。

ともあれ、この選挙では、国会、県議会、市議会の3つの選挙が同時に行われるため、投票立会人の作業も大変だ。それぞれの票を該当する選挙箱に間違えないように入れ分けなければならない。さらに、すべての有権者が3つの投票権を持っているとは限らない。私のように県議会・市議会の投票権のみを持つ人もいるし、逆に国会の投票権しか持たない人もいる。だから、投票権のない人が間違えて票を投じないようにきちんとチェックしなければならない。

欧州議会選挙は、1つの選挙しかなく、しかも投票率はずっと低かったので楽だった。今回の選挙のとてもよい予行練習だった。




【過去の記事】
2014-06-10:欧州議会選挙 - 投票立会人として働く (その1)
2014-06-24:欧州議会選挙 - 投票立会人として働く (その2)

スウェーデンにおけるチェルノブイリ原発事故後の混乱とその特徴

2014-08-10 22:40:26 | スウェーデン・その他の社会
日本アイソトープ協会の発行している雑誌『Isotope News』の8月号に寄稿しました。記事のタイトルは、「原子力事故をめぐる社会の反応 ─ スウェーデンにおけるチェルノブイリ原発事故後の混乱とその特徴」。チェルノブイリ事故直後のスウェーデンの状況や、行政機関や反原発団体の反応、行政不信・情報混乱について調べてまとめてみました。

以前、『スウェーデンは放射能汚染からどう社会をまもっているのか』という邦訳を出版しましたが、その辺りの生臭い話については詳しい記述がありませんでした。いつか詳しく調べてまとめたいと思っていた所、寄稿の依頼を頂きました。

いざ調べ始めてみると興味深い資料が次から次へと見つかり、まとめていくうちに原稿が依頼された分量の2.5倍!になってしまいましたが、編集部のご配慮によりほぼ全文を掲載して頂けました。PDFでの公開は2、3ヶ月後だそうです。


ますます深刻化する賃貸住宅不足の問題 (その4 ・終)

2014-08-06 01:18:02 | スウェーデン・その他の社会
【 現政権の政策 】

賃貸住宅の不足がこのように深刻な状況であるにもかかわらず、現政権が取ってきた政策にはそれに拍車を掛けるものが多かった。

賃貸住宅の建設に対して国が建設費の10-15%に相当する補助金を支給する制度が存在したが、中道右派連立政権は2006年秋の誕生から間もなく、その制度を廃止してしまった。このシリーズの第二回目で書いたように、賃貸住宅の建設は家賃規制のために家賃収入が建設費に見合わず、収益が上がりにくいため、新規建設にインセンティブを与えるための制度だったが、それが廃止されてしまったために、賃貸住宅の新規建設は大きく冷え込んでしまった

ちなみに、補助金の廃止を決めた当時の住宅担当大臣はキリスト教民主党のマッツ・オデルだったが、廃止の際の移行措置として「2006年末までに建物の土台さえ完成させれば、建物本体の建設が2007年以降になっても補助金が支給される」という規定を設けたために、2006年末にはスウェーデンの各地でたくさんの「土台」が駆け込み的に作られた。人々は、あちこちの建設現場で急に姿を見せたコンクリートの土台を嘲笑して「オデルの土台(Odellplatta)」と呼んだ。


マッツ・オデルと「オデルの土台」

キリスト教民主党の住宅担当大臣がその次に行った改革は、賃貸住宅の分譲住宅化を自由にできるようにするための法改正だった。つまり、賃貸の集合住宅に住んでいる住人の大多数が同意すれば、その集合住宅を分譲住宅にできる制度である(正確に言えば、その集合住宅の住民でまず組合を作り、集合住宅全体を管理会社から買い取り、各住人はその組合からそれぞれのアパートを買い取り、分譲住宅とするということ)。そのような分譲住宅化には以前は様々な制限があった。しかし、キリスト教民主党は2007年7月からそれを自由にできるようにした(自治体公社の賃貸住宅は別)。賃貸住宅を管理している民間会社は家賃規制のおかげで収益が上げにくいから、住民が組合を作って建物全体を市場価格に近い値段で買い取ってくれるなら、それは嬉しい。一方、住民の側にとっては分譲住宅になれば建物やアパートのリフォームや管理を自分たちで自由に行えるようになるから、市場価格があまりに高すぎて分譲住宅化後の費用が賃貸の時と比べて高くなり過ぎない限り、分譲住宅化を望む人が多かった。だから、2007年7月の法改正後に、スウェーデンの各地で分譲住宅化する賃貸住宅が相次ぎ、賃貸住宅不足をますます深刻化させることになった。

2006年秋に誕生した中道右派連立政権において、住宅政策を主に担当したのはキリスト教民主党であり、住宅担当大臣のポストも与えられているわけだが、私はこのキリスト教民主党の一連の住宅政策は、愚かなものだとしか思えない(この党の他の政策も)。


【 キリスト教民主党の知恵! 】

では、キリスト教民主党は賃貸住宅の不足のために、特に若者が住む場所に困っている事態に、どう対処しようとしたのか?

な、なんと、分譲アパートを又貸しする人が増えれば、若者も住む場所にありつけるだろういうことで、アパートの又貸しをしやすくし、また規制家賃の水準ではなく、資本コストに見合った高めの家賃を取ることができるように法改正したのである。それから、アパートの持ち主が住んだままで一部屋だけ他人に貸す間貸し・間借りでも、高めの家賃を取ることができるようにして、間貸し・間借りの供給を増やそうと努力してきた。

でも、又貸しにしろ、間借りにしろ、多くは半年や一年といった期限付きなので、住む側にとっては常に新たな住処を探し、引っ越しを繰り返さなければならない。だから、対処療法的で近視眼的な政策でしかない。補助金カットや分譲住宅化によって自分たちで賃貸住宅を減らしておいて、それがもたらす問題の解決として又貸しや間借りを奨励するとは、ふざけているとしか思えない。キリスト教民主党の支持が低迷し、特に若者に不人気なのも無理もない。


【 より根本的な解決策は何か? 】

長期的な解決策については、住宅庁や国の調査委員会が調査を行って改革案を提示しているが、早い話、「家賃規制を撤廃し、家賃が市場メカニズムで決まるようにすべき」というものだ。私もその通りだと思う。

既に何度も書いてきたように、住宅需要の高い地区では、市場価格よりも相当低く設定された規制家賃に甘んじて、いつまでも住み続けている人がいる。家賃が市場価格になれば家賃は今の少なくとも2倍以上(場所によっては3倍、4倍)にはなり、分譲住宅を購入した場合の月々のコストとあまり変わらなくなるだろうから、経済的に余裕のある世帯の多くは分譲住宅に移っていくだろう。住んでいる賃貸住宅が自分のライフスタイルに合わなくなったのに、解約するのがもったいないから占有し続けるケースも減るだろう。賃貸住宅をより求めている人が入居しやすくなる

もちろん、困るのは経済的に余裕のない世帯だろう。需要と供給で賃貸住宅の家賃が決まるようになれば、街の中心部と郊外との家賃に差が生まれ、家賃の比較的低い郊外に引っ越さざるを得ないかもしれない。所得の低い人が街の中心部から追い出されてしまうことを問題視する人もいるだろうが、では、待ち年数によって賃貸住宅に入居できるかどうかが決まる現行の制度のほうが良いかというと、そうは全く思えない。需要の高い、街の中心部の賃貸住宅を手に出来る人は「待ち年数」を溜め込んだごく一部の人々であり、それ以外の大多数の人々がそのような魅力的な立地条件に住もうと思ったら、分譲を買ったり、分譲住宅を又貸ししてもらったり、闇で取引したりしなければならず、そのようなケースにおいては家賃は既に市場メカニズムで決まっている。つまり、市場価格が良いのか悪いのかにかかわらず、既にそれが現実となっているのだ。所得の低い世帯への配慮は、家賃規制ではなく、現行の住宅補助金制度の拡充によって行うべきだと思う。

人々が何年も待つことなく自分にあった賃貸住宅に入居できるようにするために、いま必要とされているのは、賃貸住宅市場の流動性を高めることであり、それは家賃規制の撤廃によって可能になると私は思う。それに加え、住宅市場全体の供給量を増やしていかなければならない。

ただ、この解決策に対しては、反論も根強い。最も激しく反発しているのは、賃貸住宅に住む住民から構成され、全国組織である賃貸居住人組合である。そりゃ、市場家賃よりも相当安い家賃で住んでいる彼らにとって、家賃規制は既得権益をもたらしているから反発するのは無理もない。「十何年も待ってこの賃貸アパートを手に入れたんだぞ!」という声も聞こえてきそうだが、待つこと自体に経済的な価値はないし、安い家賃をこれまで享受してきたのだから、長年待ったことに対する報酬はもう得ているだろう。でも、彼らは既得権益を手放したくない。

また、若者団体の中には「賃貸の家賃は既に市場メカニズムで決まっており、非常に高い家賃を払わされていて、経済的に苦しい。市場メカニズムで決まる賃貸家賃は若者を苦しめるだけだ」と主張している団体もある。賃貸の家賃は既に市場メカニズムで決まっている、とはどういうことかというと、第二回目で書いたように、新築物件については建設コストに見合った家賃を設定できるので、そういう物件に住む若者が経済的に苦労している、と主張したいようなのだ。しかし、これも既に書いたように、新規の賃貸物件の家賃が既存物件の家賃に比べて驚くほど高く設定されているのは、住宅会社は既存物件の家賃の引き上げができないため、その新規物件の家賃だけで建設費を賄わなければならないからである。もし、既存の物件の家賃が今より上昇すれば、新規物件の家賃を今ほど極端に引き上げる必要はなくなるはずだ。


※ ※ ※ ※ ※


以上、4回にわたって書いてきたが、賃貸住宅の不足の問題は急を要する課題である。ストックホルムなどの都市部の景気はよいため、労働需要が高まっているのに、実際のところ、ストックホルムにせっかく引っ越そうと思っても、住宅不足とそれにともなう住居費の高騰のために断念するケースもあるだろう。そういうケースが相次げば、住宅不足の問題は地域経済の成長を妨げるボトルネックとなりかねない

これまで何度も市場メカニズムという言葉を繰り返してきたが、私はなにも「市場メカニズムが絶対だ」と言いたいのではない。私が言いたいのは、市場の力各個人が自らの欲求を満たそうとする力とも言い換えられる)や市場メカニズムを無視して、正義感だけで市場に規制を加えようとしても、それは必ずどこかに皺寄せを生じさせ、それが積み重なれば大きな問題を生みかねない、ということだ。市場メカニズムも万能ではないから、文脈によっては様々な規制を設ける必要があると思う。ただ、その場合にもそれがどのような危険をはらんでおり、どのようにすればその悪影響を緩和できるかということは、常に念頭に置いて考えなければならない。それを怠り大失敗しているケースが、この住宅市場の問題だと思う。