スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

「NIMBY」を逆手に取った電力会社の広告

2012-03-23 20:31:26 | コラム
NIMBYという言葉がある。
「Not in my back yard」つまり「私の庭にはイヤよ」ということだ。

環境運動でよく引き合いに出されるジレンマは、自然エネルギーの普及のために風力発電所をもっと作りたい一方で、自然景観の保全を考えると風力発電所は望ましくない、というものだ。そんな「一般的な話として風力発電はとても良いと思うけれど、でも、うちの近くには作って欲しくない」という声を皮肉な形で表現したものがNIMBYというわけだ。

(ただし、いくら自分の家に近くても、その建設を自分が主体的に選択したものか、その建設によってマイナス面だけでなくプラス面も自分が享受できるか、などの要因によって受け止め方も異なってくるだろう。放射能リスクの認識の仕方と共通する面もある。例えば、自分が風力発電所の共同所有者となったり株主となって配当を得るという形であれば、反発の度合いも変わってくる。だから、NIMBYは実際にはもっと複雑な事柄をあまりに単純化した表現だ、と批判する声もある)

そんなNIMBYを逆手に取った広告をヨーテボリの電力会社が展開している(ヨーテボリはスウェーデン第2の町)。

首都ストックホルムの日刊紙の第3面を丸々使った大きな広告だ。



「ストックホルムの自然環境(景観)を守りたい? それならばヨーテボリで作られた再生可能エネルギーを買ってよ!」

写真で描かれているのは、ストックホルム市庁舎と並んで立つ数基の風力発電所。もちろんモンタージュ。市庁舎はストックホルムのシンボル的な存在であるから、こんなところに風力発電所を建てられたらストックホルムの住民は黙っていないだろう。それだったら、ストックホルムから遠く離れたヨーテボリの風力発電所で作られた電気を買ってちょうだい! というのが、この広告のポイントだ。
「環境にとって一番良いのは再生可能エネルギーで作られた電力だってことはみんな知っている。でも、おかしなことにできれば自分たちの近くで発電するのは勘弁して、と考えがち。そんなあなたにお勧めなのは、ヨーテボリ・エネルギー(ヨーテボリ市公営電力会社)の電力。私たちが一般家庭の消費者に販売している電力はすべて再生可能エネルギーによる電力だし、今なら価格もとってもお手頃。詳しいことは、わが社のホームページにアクセスして、環境に優しいキャンペーンのコーナーをのぞいてみてね。」

こんなキャンペーンができるのも、電力市場が自由化されており、スウェーデンのどこに住んでいようが、120近くある電力小売会社の中から選んで契約を結ぶことができるから。だから、この広告のように、首都ストックホルムの住民がスウェーデン第二の町ヨーテボリの電力会社から電気を買うことができる。そして、そんな電力会社をヨーテボリ市のように自治体経営でやっているところもたくさんある。

(少し細かい話をすれば、「ヨーテボリ・エネルギー」は市が株式100%を所有する発電会社(地域暖房などその他のエネルギーも扱う)。それに対し、この広告主は「ヨーテボリ・エネルギー」の100%子会社である「Din EL」という電力小売会社。ヨーテボリの風力発電といっても、市内ではなく郊外に建っている。一部では住民の反発があるのはここでも同じ。現在は沿岸部の工業地帯やその沖合いに大規模な風力発電所の建設を進めている)

言ってみれば、橋下市長が「大阪電力」を立ち上げて、東京の住民に「うちの電気を買ってよ。今なら、安くしときます」と宣伝しているようなもの。

初めて見た! ロック・ポップス音楽の手話通訳

2012-03-20 01:18:15 | コラム
手話通訳って何度か見たことあるけれど、音楽番組の手話通訳はかなり珍しいのではないか?

下の映像は、一年で最も視聴者率の高い番組の一つ、スウェーデン音楽コンテスト(Melodifestivalen)の決勝。(← EUROVISION国内予選になっている。素人の「アイドル」番組ではない。)

手話通訳は生放送では付いていなかったけれど、公共テレビのHPを数日後に見たら「見逃し番組」のところで手話通訳つきが選べぶことができた。 (普通の放送を選べば、もちろん左上の映像しか流れない)




決勝では10曲が登場したが、その中で3曲だけピックアップした。3曲目は優勝曲。5月にアゼルバイジャンの首都バクーEUROVISION大会が開催される。

おじさんノリノリ、表情も凄い。1曲目なんか、頭を抱えて苦悩に苛まれているような感じ。彼の動きのうち、歌詞の純粋な通訳は1割くらい、残りの9割は彼自身の解釈による音楽の体現といったほうがよいだろう。もし、この映像をYoutubeで初めて見たとしたら、絶対にコメディー番組と勘違いしたかもしれない。しかし、これは公共放送がやっている、真面目な手話通訳!



スウェーデン・ラジオの被災地ルポタージュ(名取市・大槌町・山田町)

2012-03-13 00:46:44 | コラム
震災から1年が経った3月11日には、スウェーデンのメディアでも大きな特集記事が掲載されたり、特集番組が放送された。中でも公共放送のスウェーデン・ラジオはアジア担当の特派員を3月初めから日本へ送り込んで、3月11日まで毎日のように復興の様子や被災者の状況、原発の状況、放射能汚染などを伝えてくれた。

この特派員はニルス・ホーネルというベテラン記者で、震災が起こった直後もそれまで取材していたクウェートから直ちに日本入りし、被災地を駆け回っていた。その際のいろんな裏話(断水でシャワーができないためペットボトルのお茶で体を洗ったり、ホテルがどこも満室だったために仕方なくラブホテルに泊まったり)は、ブログでも紹介した。

<以前の記事>
2011-04-21:日本での取材中に宿泊先に困ったら・・・(取材中の裏話・その1)
2011-04-23:日本での取材中の裏話(その2)


私はこの記者の行動力にいつも感心し、彼の報道も特に気に入っている(彼は震災の直前にあったエジプトの革命でも、タヒリール広場から中継していた)。今回の震災1周年の報道でも興味深いものがいくつかあったが、その中でも特に印象に残っているルポタージュを紹介します。ちょっと長めのルポです。


※ ※ ※ ※ ※


3月11日はハマダ・ユウジ君の誕生日だ。ちょうど一年前、彼の母と妹は15歳の誕生日を祝うためにケーキを買おうと車で出かけていた。しかし、彼らがケーキを持って帰宅することはなかった。車が途中で津波に流されてしまったのだ。

「3月11日は母と妹を失った日でもあるのだけど、僕の誕生日でもある。でも、祝っていいのか、どうなのかっていう日で・・・ちょっと複雑な日です。」

彼自身もまるで黒い壁のような津波が閖上(ゆりあげ・名取市)に迫るのを自宅から目にした。次の瞬間、彼も冷たい水に飲み込まれたものの、倒木を見つけしがみつくことができ、1日ほど水面に漂っていた。

「最初は外が明るかったんだけど、流されていくうちに夜になりどんどん暗くなって真っ暗になった。閖上の町は家々が流され、あちこちが燃えており、全く姿かたちを変えていた。とても怖かった」

翌日、気づいたときには彼は病院にいた。奇跡的に助けられたのだった。ユウジ君は今では笑顔を見せ、悲劇から立ち直ったように見える。しかし、悲しみは今でも大きい。母や妹のことを思い出すという。

「妹とはよくテレビゲームの取り合いで喧嘩をしたんだけど、そんな喧嘩も今ではできなくなってしまった・・・」

ユウジ君は、片親もしくは両親をなくした1500人の子どもの一人だ。今は祖母と暮らす。将来は自動車整備士になりたいと夢を語る。



さらに北に位置する山田町(岩手県)では、60歳になるササキ・エツコさんに出会った。33歳だった娘は、隣町の大槌町の職場に車で向う途中に津波に飲まれた。一人の息子を持つシングルマザーだった。

エツコさん夫婦は、7歳になる孫のソラ君を育てている。あれから一年が経つが娘を失った悲しみは今でも生々しく感じられる毎日だという。インタビューの間も、常に涙を押さえている。

「耐え難いことだけれど、耐えていかなければならない」

携帯電話の請求書から後で分かったことだが、地震の後、娘は母親のエツコさんに電話を掛けたらしい。エツコさんが電話に出ると、受話器の向こうは沈黙していた。津波が沿岸部を直撃したその時だったようだ。

孫のためにも夫婦二人で頑張らなければいけないと彼女は語る。ただ、孫が立派に成長するまでに自分たちの健康が持つかどうか、そればかりが気掛かりだという。

「小学校に通うようになって、孫は少しずつ元気になっているように感じる。でも、夜になってお布団に入るとなかなか眠れないようだ」

ソラ君は母親の帰りを何か月も待っていたという。ある晩、彼がエツコさんの布団のなかで背を向けて寝付こうとしていたとき、エツコさんは話をした。「ママはもう戻ってこないよ」と。ソラ君は何も言わなかったが、身を硬くしたことにエツコさんはちゃんと気づいていた。

彼が母の死をはっきりと理解したのは、遺骨が家に送られてきた時だった。「これがママだよ、と御骨を見せたんです」とエツコさんは語る。ソラ君はエツコさんと一緒に骨に手を触れ、「ママが帰ってきてくれたね。見つかってよかったね。ママ、おかえり」とつぶやいたのだった。



大槌町(岩手県)は津波による被害が激しかった地域の一つで、住民の10人に1人が命を失った。その町の中心部で80代の男性が自宅のあった辺りを指差している。自宅は祖父が建てたものだったという。

このあたりの被害はとても甚大で、原爆投下直後の広島の廃墟を写した写真を思い出してしまう。

そんな思いに耽っていると、突然向こうのほうからカトリック教の修道女が二人、路上の障害物を避けながら歩いてくるのを目にした。厳粛な黒い服と柔らかな笑顔が対照的だ。彼女らは、被災者への救援物資を入れた袋を手にしていた。その一人、77歳のヤマシタ・レイコさんに話を聞いているうちに、彼女は広島で生まれたことが明らかになった。

「あのときは6年生だったから、13歳かな」

第二次世界大戦のとき彼女は小学生で、8月のその日は空襲警報が解除され、一度避難した防空壕から外に出てもよいと言われたばかりだった。時刻は7時31分だった。みんなで防空壕から外に出て新鮮な空気に触れたその時、激しい突風が襲ってきた。空を見上げると原爆の巨大な雲がそこにはあった。

「ちょうどそのときに、ピカドン、っていう大きな爆風が来た。そして、東の空を見ると・・・」

彼女の姉は広島の中央駅で働いており、レイコさんよりも爆心に近い場所にいた。しかし、二人とも被曝症を患うことはなかった。ただ、不安は常につきまとっていた。そんな彼女は、福島第一原発の事故のために人生で再び放射能の心配をせざるを得なくなったことに深く心を痛めている。




大槌町の中心部には10件ほどの建物が半ば壊れながらも残っている。その一つの一階部分には数十年間続いてきた喫茶店があった。建物は傷だらけだが、二階部分では喫茶店のマスターであるアカサキ・ジュンさんが店を再開していた。その名も「カフェ・ムーミン」。

店内の一角にはギターが置かれ、ステレオからはダイアー・ストレイツのCDが流れている。マスターは音楽好きだ。町の人の中には、大槌町の復興計画が決まってもいないのに店を再開したいなんてダメだ、と言う人もいたという。でも、大部分の人が彼の希望を支援してくれた。

「・・・そういう人もいたけれど、逆によくやってくれたと励まされたことのほうが多かったです」

この喫茶店は廃墟の中のオアシスのようだ。大工やボランティアが数か月にわたって作業を続けた結果、再開にこぎつけた。そのためにマスターが負担したのは約600万円だった。

「仮設住宅で毎日座って、何もしないという生活が嫌になったんだ。今までの生活を取り戻す努力をしたほうがいいんだ。少しでもここに来て、喫茶店を営業しながらいろんな人と話をしたい」

津波から数週間後、彼は瓦礫や泥の中から、あるコーヒーカップを見つけた。常連客の女性が愛用していたカップだ。

「今でも毎朝このコップにコーヒーを注いで『おはよう』と、今は亡き彼女に語りかけ、祈ったりなんかしているんだ」

マスターは母親の手を借りながら、まるで骨董品のような器具を使って丹念にコーヒーを沸かしている。ピザサンドイッチもこの店の目玉だ。

大槌町の中心部で商売を再開したのはこの喫茶店だけだ。だから「カフェ・ムーミン」は町の人たちの重要な憩いの場になっている。仮設住宅で暮らすこの町の被災者も喫茶店までやって来て、震災以前の日常のひとときを満喫する。運が良ければ、マスターのギター演奏も聞ける。

マスターはこの町が好きだから町に残ったと語る。でも、彼の喫茶店の周りを見渡しても何もない廃墟のみが広がる。なるほど、彼が愛している町とは、建物の町並みのことではない。日本のこの僻地に根づく人情溢れる人々のことなのだ。あの震災がもし東京で起きていればどうだったろう。長年同じ建物に住んでいても隣人の名前すら知らないような社会において、この東北地方で何度も耳にしたような「混乱の中の秩序」のエピソードや、住民がお互いに助け合ったという話を聞くことができたであろうか。




大震災の直後、私は取材のために車でこの大槌町を訪れたことがある。どこまでも続く瓦礫の中でキミエさんという女性を見かけた。彼女は大きなお腹を抱えながら、犬を連れて歩いていた。その光景はあまりにも現実離れしていたから、思わず私は車を止めて、彼女に声を掛けてみた。その時のインタビューは、昨年の4月にラジオで放送されている。

その当時のキミエさんは、津波のショックから立ち直っておらず、食べ物が十分に無いためにお腹の子の成長が心配だと話してくれた。だから、私たち(記者とアシスタント)は持っていたマグロの缶詰や他の食料を彼女に渡したのだった。あれからどうなったのだろうと、ずっと気になっていた。

彼女の行方を突き止めることができた。現在は大槌町の中心部から5キロほど離れた小さな仮設住宅で、あの後に生まれた息子のトウキ君と暮らしていた。生活は少しずつ日常へと戻りつつあるように感じられた。彼女も大槌町に戻りたいという。この町の人々が好きだからだ。この町では皆が助け合っている、と彼女は説明する。

「周りの人たちが優しいから・・・」

大槌町の復興について、彼女は明確な願望を持っている。「津波に耐えられる町にして欲しい。学校や住宅はすべて安全な高台に建てて欲しい」



大槌町での取材を終えて町を離れる前に、もう一度「カフェ・ムーミン」に足を運んでみた。辛い記憶に包まれた廃墟の中にありながら、この喫茶店は温かい人情で満ち溢れている。町の人たちが絶え間なく訪れては、また去っていく。町の外からやって来た人が、こんな廃墟の中で喫茶店がオープンしていることに驚いて店内に入ってくることもある。

マスターのアカサキさんに尋ねてみる。どうしてもっと大きく目立つ看板にしないのかと。点滅するネオンつきの看板にして「喫茶店」とか「営業中」と大きく書けば、もっと多くの人がやってくるのではないか。

でも、彼は「そうはしたくないんだよ」と説明する。「この町では自分の店を失った自営業者の人がたくさんいるんだ。そんな中で幸運にも店を再開できた自分が、他の人たちに見せつけるようなことはしたくないんだ」

コーヒーの湯気が店内を満たすなか、マスターはギターを取り出して演奏を始める。その音楽は、津波の被害に見舞われたこの地域の復興の希望を象徴しているように感じられる。(ルポタージュの最後の部分は、彼の演奏で終わる。)

※ ※ ※ ※ ※


「カフェ・ムーミン」が気になったので検索してみると、簡単に見つかりました。
へぇ、cafe夢宇民、と書くのか!

スウェーデン・デンマーク、国際地下鉄の建設

2012-03-05 01:41:31 | スウェーデン・その他の社会
先日紹介したストックホルムの地下鉄新線に続いて、トンネルのネタをもう一つ。

昨年12月中旬の朝刊1面の見出しに「デンマークへの地下鉄路線の建設を検討」と大きく書かれていた。簡単に中身に目を通すと、スウェーデン南端にある第3の町マルメ(マルモ)から、海峡を隔てた対岸のデンマーク・コペンハーゲンとの間に地下鉄路線を敷くという話だが、最初はちょっと首をかしげた。

スウェーデンとデンマークを隔てるこのオーレスンド海峡には2000年オーレスンド大橋(鉄道・道路両用)が完成し、鉄道および自動車が両国間を陸路で行き来できるようになった。それから12年経つが、同じ場所に再び鉄道を敷設するなんてどういうことだろう?


「デンマークとドイツを結ぶ大橋」は建設中とすべきだった。作り直すと時間が掛かるのでそのままにします。

その理由は、オーレスンド大橋のキャパシティーが今後10年から15年後を目処に一杯になる見込みだから、通勤客のための新たな輸送手段を確保する必要があるというものだ。

たしかに、オーレスンド大橋ができたことによって、デンマークの首都であるコペンハーゲンと、スウェーデンの第三の町であるマルメ(マルモ)とその周辺地域(スコーネ県)の経済統合が急激に加速することになった。コペンハーゲンの労働力不足を補うために、マルメに住むスウェーデン人がコペンハーゲンへ毎日通勤したり、逆にデンマークに住みながらマルメで働くデンマーク人もいる。それだけではなく、仕事のためにコペンハーゲンに移住するスウェーデン人もいるし、もちろん、その逆でマルメに移住したデンマーク人もいる。このように、両国の2つの町が一つの経済圏を形成しているのだ。

経済圏の統合を示す一つの統計として、マルメ市を含むスコーネ県に住むデンマーク人(国籍保持者)の数を見てみると以下のグラフのようになる。


この出典はスウェーデンの統計局の資料だが、スコーネ県全体の住民の数が2001年から09年までに微増(+8%)しているのに対し、この県に居住するデンマーク国籍保持者の数は11000人から25000人へと激増(+125%)している。

また、両国間の通勤客の数をEUの統計から割り出すと、スウェーデンのスコーネ県に住みながらデンマークで働く人は約2万40000人、コペンハーゲンに住みながらスウェーデンで働く人は約2000人だ(あくまで私の概算)。非対称だが、コペンハーゲンはやはり一国の首都なので、労働市場の規模や吸引力がスウェーデン南部とは比較にならないのだろう。(上述の2万40000人にはデンマークで住宅を確保するのが困難であるため、スウェーデンに住んでいるデンマーク人もいるかもしれない)

とにかく、経済圏の統合にともないオーレスンド大橋だけではこの先、足りなくなると見られている。おまけに、7・8年後にデンマークとドイツを結ぶ大橋が完成すると、ヨーロッパ大陸からスウェーデンに陸路でやって来る貨物列車の数が急増すると見られており、オーレスンド大橋をさらに圧迫し、通勤列車を思うように増やせなくなる。

そんな背景から、それならば地下鉄で両都市間を結んでしまおうというアイデアになったようだ。コペンハーゲンは市内および周辺自治体を結ぶ地下鉄路線網を順次、拡張しているが、新路線の一つをスウェーデンまで伸ばすことになる。

全長は28kmオーレスンド大橋を経る既存の路線がコペンハーゲン国際空港を経由するなど少し大回りをしているため35分かかるのに対し、計画されている新線は両都市間をほぼ直線に結ぶし、途中停車駅もないから所要時間も15分に短縮される。完成は2025年を予定。


課題は130億クローナ(1560億円)に及ぶ建設費をどのように捻出するかだ。マルメ市長は、既存のオーレスンド大橋が償還を終えてから、その通行料で賄いたいと考えているが、オーレスンド大橋は償還完了までにまだ13年ほどかかるし、それを終えても果たしてどれだけの利潤が生まれるかは不透明だという。

2025年にこの海峡の下に国境をまたぐ地下鉄が完成している可能性大だ。(今までに例があるのだろうか?)


マルメとコペンハーゲンを結ぶ列車(日刊紙DNより)。
この日はデンマーク側で鉄道従業員がストライキをやっており、
減便されていたために列車が混み合っていた。