スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

東南アジアでの地震と津波(2)

2004-12-30 05:04:16 | コラム

欧米諸国の中でタイへ一番多く旅行するのは、スウェーデン人なのだそうだ。人口の比較的少ないスウェーデン。だから、これはもちろん絶対数ではなく、人口比での話。昨年のタイへの旅行者の数は国民1000人あたりスウェーデンが23.4人と、その後に続くノルウェーとスイスの15.6人を大きく引き離している。絶対数で見ても、昨年はスウェーデンが21万人と多く、イギリス、USA、ドイツ、オーストラリア、フランスに次いで第6位。。(Dagens Nyheter 2004/12/29)

北欧はこの時期、極端に日が短い。さらに、どんよりとした天気が続くスウェーデンの秋にうんざりした人々が、暖かいところを求めて旅行に出るのが、ちょうどこの11月、12月。しかも、12月下旬はちょうどクリスマス休暇と重なる。そのため、地震に伴う津波がタイや周辺の海岸を襲ったとき、少なくとも15000人の旅行客がそこで滞在しており、ちょうど夏休みに次ぐハイ・シーズンだったようだ。

行方不明者の数は増えるばかりだ。スウェーデン外務省は約1500人行方不明だと発表しているが、メディアなどの独自の調査によると実際は3000~4000人に昇るとされる。ノルウェー外務省は446人、それまでの発表から半減した。フィンランド人は240人。デンマークは19人。(DN 2004/12/30) おそらく、旅行者の絶対数と比例しているのだろう。

政府やスカンジナヴィア航空は緊急の航空機を手配して、負傷者の輸送を行っているが、普段は300人以上乗れる旅客機も、座席の多くをはずして、3段式の担架に付け替えると、結局1機あたり担架24~36人分と座席20人分にしかならないのだそうだ。

寄付金は赤十字社やテレビ局を中心にたくさん集まっているのだという。スウェーデンの新年は、個人それぞれが花火を買って、カウントダウンの直後に打ち上げる。小型の花火でも100kr(1500円)以上、大型の連発花火になると1000kr(15000円)以上になるという。そんなことに大金をはたくようなら、困っている人々に募金をしようじゃないか、という声があちこちで聞かれるようになったのは、僕も嬉しいかぎりだ。

東南アジアでの地震と津波(1)

2004-12-29 08:32:10 | コラム

インドネシア沖の地震では、日本人と同じく、スウェーデン人にも犠牲者がでています。年末を海外で過ごそうとする家族も近年は増えてきて、チャーター便も増発(スウェーデンでは航空券の価格がピーク時にも日本ほど高騰しませんが、もしかしたら、その一つの理由はチャーター便による増発かもしれません)。すでに6人が身元確認の上で死亡とされていますが、身元が判明するにつれ犠牲者の数はまもなく急増すると言っています。定期便やチャーター便で東南アジア入りし、安否の確認が取れていないスウェーデン人は2000人以上に上るということ(定期便入りの場合は跡をたどるのが難しい)。

ニュースは30分か1時間おきに地震関連の速報を伝えていますが、報道のたびに犠牲者の総数が1000人ずつ増えているのには、改めて被害の大きさを感じさせられます。日本の地震被害でもそうですが、もっとも大きなひがいにあった地域は交通が遮られ実態がすぐに伝わってこない。ヘリコプターが飛び始め、救助部隊がやっとの思いで現地にはいるようになって初めて、とんでもない被害の実態がテレビに流れるようになる。

Tsunamiと言う言葉は世界語になっているようで、スウェーデン語でもニュースでそのまま使っています。

それにしても、地震がほとんど無いスウェーデン。地震の揺れも未聞のことながら、その後に襲って来る津波を、事態を把握できたスウェーデン人がどのくらいいたのだろうか。

スウェーデン人の親友も数週間前までプーケットにおり、その後ニュージーランドへ渡ったため幸い無事だった。今日電話で久しぶりに話したスウェーデン人の女の子もスキューバーダイビングをしに一週間前までプーケット近くの島にいたと話してくれた。地震ばかりは、さすがに運が命を左右する。

静かなクリスマス

2004-12-25 09:22:03 | コラム

クリスマス当日の25日は、まるで時間が止まってしまったかのよう。もちろんどの商店もお休み。新聞はこの日と翌日は休刊だから、朝起きても玄関には何もない。仕方なく、昨日の新聞を広げてみると、日本の正月の新聞と同じように、「**株式会社:楽しいクリスマスをお祝いいたします」というような企業によるクリスマスの挨拶がドッサッと紙面に並んでいるのに気づく。またしても、スウェーデンのクリスマスと日本の正月の共通点を見つけた。


テレビ局も人員をギリギリまで削って放送しているみたいで、流れるニュースも同じものばかり。しかも、ネタが随分少ない。普段はカットされているようなインタビューもだらだらと流して、時間稼ぎをしているみたい。

スウェーデンでは一般に、17時以降や土日に勤務すると、給料の30%が上乗せされる。さらに、クリスマスなど国民の休日にはなんと100%が上乗せされる。これらを「obekvämarbetstidstillägg」(不快勤務時間上乗せ)と呼ぶ。日本では、残業手当、休日手当といったところだろうか。だから、雇用者はできる限り人を働かせたくない。しかし、公共の医療・福祉部門はそうはいかない。休日だろうと土日だろうとすべき仕事がある。だから、学生の身としてはそんなときに臨時職員としてシフトにはいると、普段の倍の給料がもらえるから嬉しい。産業界や特に公的部門にとっては、土日との重なりによって年ごとに微妙に変わる休日の数は、労働コストに大きく影響を与えることになるわけだ。

そういえば、今思い出すのは、こんな議論。これまでなんと平日だった「スウェーデン建国記念日」(6月7日)を来年から国民の休日にしようという議論が今年、国会で上がったが、国民経済の試算によると、休日一日の増加に伴う労働時間の短縮と労働コストの増大で(正確な数字は忘れたが)GDPが0.3~0.5%も低下するらしい。これまで削りに削られてきた労働時間と伸び悩む経済が既に深刻な問題である。「建国記念日」の議論はもともと右派から上がったもので、5月1日のメーデーが国民の休日であるのに、「建国記念日」が平日なのはおかしいというものだった。休日を入れ替えて、メーデーを平日にしようという声も一部で聞かれた。しかし、メーデーは社会主義の象徴というよりも、スウェーデンに長く続く伝統とする見方が結局強かった。結局、国会は今年の秋、建国記念日を国民の休日にする代わりに、4月のキリスト教休暇の翌日をこれまでの国民の休日から平日にすることで決着が付いた。

クリスマス・イヴ

2004-12-24 03:19:08 | コラム
今日はクリスマス・イヴ。



クリスマスというのは日本のお正月のようなもので、人々は親元や親戚のもとに集まり、クリスマスを過ごす。もちろんお年玉はなく、その代わり大人も子供もプレゼントの交換をする。だから、12月は人々はクリスマス・プレゼント探しに明け暮れる。

クリスマス商戦が始まるのは、11月終わりか12月始めの日曜日。この頃から町をイルミネーションが照らしだし、夜の長いこの季節も少しは明るく感じられるようになる。先日、この小さな町を歩いていたら、クリスマスの装飾品を扱うある店の中でこんな看板に出会った。「商品の払い戻しは30日間有効。ただし、クリスマス用品はクリスマスまで。」クリスマスの装飾品を使い終わった後に返品する神経の図太い人もいるのだろうか。(とここまで書いたところで、実は僕も短期帰国の時に必要なアダプターを持ち帰るのをわすれたために、それを日本の電気屋で買い、日本を発つ直前にきちんと包装し直して、返品してお金をまるまる取り戻したことを思い出した・・・。)

プレゼントの買い物のピークは23日。この日は、たいていの職場が半日で終わりだから、買い忘れたプレゼントがあれば、この日の午後が最後のチャンス。今までどこに隠れていたのかと疑いたくなるくらい、たくさんの人が町に姿を現す。

帰省は学生ならば、クリスマス前の土日に帰省する人が多い。だから今年は12/18、19を境に町から学生の姿が消える。社会人ならば、やはり20~23日。この時は、さすがに人口の少ないスウェーデンでも、長距離電車の指定席が買うのが難しい。僕も大学からの帰り道、立ち席乗車をする羽目になった。

今日24日は、実家なり親戚の家に集まり、クリスマスの食事をする。一般の商店は今日はどこもお休み。365日営業の食料品店も昼の14時には閉まる。市バスも今日は14時以降の便をすべて運休。完全に暗くなる16時に町を歩いてみると、不思議なくらい誰にも会わない。車も人も町から姿を消している。これはあたかも、放射能汚染か何かで住民がすべて退去した後で、もぬけの殻になった町を歩いているよう。

それでも、やっとの思いで歩行者を見つけることができるのは、教会の近く。そう、キリスト教の力がここまで弱体化したスウェーデン(宗教的保守観の強いアメリカとは比較にならない)でも、やはりクリスマスには教会に行く人も多い。どこの教会も、プログラムはたいてい同じで、朝の11時に家族向けのミサ。午後5時には、音楽・合唱つきの夕べミサ。そして、夜11時からは深夜ミサ。さらにさらに、翌日6時の早朝ミサ。深夜ミサには比較的多くの人が集まる。市バスが深夜便を特別運行するのは、日本の大晦日に近郊鉄道が深夜便を運転するのと似ている。すべてのミサに顔を出す人はいるのだろうか?スタンプを集めて全部を制覇すれば福袋ならぬ、神(紙?)袋がもらえる、なんてキャンペーンでもすればもっと人が来るかもしれないのに。いや、失礼。

クリスマスカードは24日に届く。これもまた、日本の年賀状と同じで、16日までに投函されたものなら、24日に間に合うらしい。電子メールを使ったクリスマスの挨拶が増えているとはいえ、スウェーデン郵便によると今年は過去最高のクリスマスカードを扱ったとか。クリスマスを控えた時期はスウェーデンの郵便局も大忙し。高校生が小遣い稼ぎにクリスマスカード振り分けのアルバイトをする。

久しぶりの晴天

2004-12-20 07:26:27 | コラム

今日は久しぶりの晴天。

今週提出の宿題二つはなかなかはかどらない。スウェーデン語でいう「氷の上で立ち往生」だ。気分転換にちょっと散歩。散歩をしたければ、今の季節なら遅くとも昼の2時頃には家を出なければならない。というのも、3時を過ぎる頃にはもう暗くなり始めてしまうから。

今日は日中でもとても寒い。氷点下2~3度くらいかな。どんよりした曇りの日は比較的暖かいのに、カラッと晴れた日に限ってキーンと寒くなるのだ。(それなりに理由があるのだろうが)

一周5キロの散歩・ジョギングコースがあるムンク湖(Munksjö)は岸辺のほうがもう凍り始めており、割れた氷りどうしがさざ波に揺られてぶつかり、キュウキュウと音を立てていた。まるで、鳥の鳴き声のよう。

最近かったばかりのデジカメを試してみる。
手前の岸辺は凍っていた。

映画 「みんなアリスを愛している」(スウェーデン・2002年)

2004-12-18 08:48:55 | コラム

夜の九時からテレビでスウェーデンの映画を見た。

父親と母親、それに10歳になる娘と5歳くらいの息子、4人の平和な家庭。ところが父親が、職場の同僚と関係を持っていることが発覚し、家庭が激変する。激怒する母親と、我が道を進む父親。そんな夫婦の仲を一番嘆くのはその娘だ。多感で何が家庭の中で起こっているのか、ちゃんと分かっているのだが、それでも何も知らないフリをして両親の仲を取り戻そうと努力する姿がとてもけなげ。相手の女性とその連れ子を巻き込んだドラマが展開していき、最終的には、父親はその女性と結婚し、子供は交代で面倒を見ることになり、子供同士も義理の兄弟となっていく。そして、それぞれが現実を受け入れて、お互いを認めあっていくというストーリーだ。バラバラになっていく離婚する家庭を、子供の視点から描いたという点でとても新鮮だった。

スウェーデンの離婚率は50%に近いが、ということはかなり多くの人々が両親の離婚を経験しているということだろう。夫婦の仲がマンネリ化し、できごころが出てくるのが結婚して10年目くらいとすれば、子供がちょうど物心ついた思春期の時に親が離婚をするという家庭も多いと思う。映画のなかでうまく描かれていたが、父親と母親の間で宙ぶらりんになってしまう子供の姿がとても哀れだ。父親と一緒に過ごしたくても、新しい“お母さん”をどうしても受け入れることができず、父親に当たり、逆に母親と過ごしたいと思っても、母親は子供を人質を取るようにして父親から遠ざけようとするから、今度は母親に当たってしまう。結局、子供にとっての居場所がなくなってしまう。

両親に心を打ち明けられなくなった娘の相談相手は学校の養護の先生。両親が再び仲良くなって、父親が家庭に戻ってくれることをまだ諦めきれない娘はこう言う。「お父さんは、新しい女の人とイチャイチャして幸せそう。それなのに、お母さんは今じゃ独りぼっち。」 それに対して、養護の先生はこう答える。「分かんないよ。お母さんだって、新しい人を見つけるかもしれないよ。」 ゴタゴタの渦中で嘆いている娘に対して、とても無神経な発言と思ったが、離婚率とともに再婚率も高い社会では、そういう言い方も許されるのかと思った。

それにしても、両親とは週交代で代わる代わる会わざるを得ず、相手の女性やその連れ子とも人間関係を築いてやっていかなければならず、もしかしたら将来、新しい“お父さん”と同居することになるかもしれない。そんな世の中で生きていく人々はとてもたくましく成長していくのだろうと思う。『安心社会と信頼社会』(中公新書)の中で、アメリカ社会と日本社会が比較されていた。ゲームを使った興味深い実験の結果に分かったことは、アメリカ人は一般的に、はじめて会う人とでも短い会話を通して相手がどの程度信頼できるかを見抜き、自分との距離感を上手にはかりながら人間関係を築いていくことができるのだそうだ。それに対して、日本人ははじめて会う人間の心ををなかなか見抜くことができず、たとえ信頼できると判断してもだまされてしまうことが多いそうだ。いろいろなスウェーデン人の学生を見てきたが、彼らはまさに前者だなと思った。誰にでも相手の人間によって得手不得手があるものだが、不得手の相手でも会話を通してなめらかな人間関係を彼らは作っている。それは、このように常日頃からいろいろな人と忙しく接する中で、人間関係における“護身術”が備わってくるからだろう。

それと同時に、彼らには甘えられる場所がないのではないかと思う。無条件で愛情を注いでくれる肉親以外の“他人”が常に家庭の中にいるのだから。大人になってから精神的に参ってしまって、道を誤ってしまう人々の中には、幼少期に親の愛情を受けられなかったり、甘えることができなかった人々が多くいると思うけれど、スウェーデンのように多くの人々がこのような環境で育っている社会では、一人一人が大人になったときに社会現象として問題が起きないのか、不思議に思う。

ちょうど一週間前、スウェーデン人の友人の実家を訪ねたが、ちょうどその晩は家族と一緒に夕食をした。同席したのは友人とその弟、弟のガールフレンドと母親、そして母親のボーイフレンドだった。そして、次の日は弟の誕生日ということで、朝から家族が集まったのだが、朝食の席にいたのは、前の晩と同じく、当の弟と、そのガールフレンド、もちろん母親、そして、今度はそのボーイフレンドではなくて、実の父親だった。つまり“元”の家族が集まり、誕生日を祝ったのである。その弟には家族のそれぞれからプレゼントが贈られたが、その中には席にはいなかった実の父親のガールフレンドからのプレゼントもあった。(面白いことに、父親のガールフレンドの名前は、母親、つまり元の妻と同じKirstin(シャスティン)だった。)

それから、別の友人の場合は、彼が小さいときに親が離婚し、すぐ後に母親の新しいボーイフレンドが家に移り住んできて、それ以来、彼が高校を卒業して家を出るまで、ずっと家族さながら生活してきた。いまでも、休みになり実家に帰るとそのボーイフレンドが一緒に住んでいる。その友人は彼のことをHasse(ハッセ)と下の名前で呼んでいる。何度か実家に遊びに行ったが、Hasseは彼の父親さながらだった。で、実の父親はどうしているかというと、同じ町でそれまた別の女性と住んでおり、その女性には連れ子が二人いて、年齢がその友人とだいたい一緒。クリスマスだとか夏至祭には、実の父親の“新しい”家族とともに過ごし、義理の兄弟とも仲良くしているのだそうだ。

そうやって、家族の中に“家族でない人々”が出入りして、家族と他人の境界がだんだんなくなってくる。そうなると、実の肉親も半ば他人として扱うようになってくるのではないだろうか。こうなってくると、日本で生まれ育った僕には訳が分からなくなってくる。

そうそう、映画のタイトルは ”Alla Älskar Alice”「みんなアリスを愛している」 最近はスウェーデンの映画もWOWOWなどで日本語字幕で放送するようになってきたから、日本でも見られるかもしれない。2002年製。日本でのタイトルは不明です。

自己紹介

2004-12-16 07:30:51 | 自己紹介 (om mig sjalv)
名前: 佐藤 吉宗(よしひろ)
年齢: 36歳(1978年生まれ)

Mail:

1997–2002年 京都大学 経済学部 所属 (2002年学部卒)
2000–2001年 スウェーデン・ウプサラ(Uppsala)大学 政治行政学部 所属
このウプサラ大学での留学がきっかけとなり、スウェーデンでそのまま勉強を続けることに・・・。

2001–2003年 スウェーデン・ヨンショーピン(Jonkoping)大学 経済学部 修士課程 所属
2003年 このヨンショーピン大学で研究補助 (Research assistant)として勤務

2004年 ヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE) 旧ユーゴ・クロアチア支部
ここでは、クロアチアの事務所に腰を据えながら、旧ユーゴ内戦の戦後処理に携わる。とくに、クロアチアでの内戦中に国を追われ、隣国ボスニアやセルビアへ逃れたセルビア系少数民族の帰還問題に取り組む(停戦合意の後、軍事面での治安維持をNATOが担当したのに対し、民生面での秩序・法統治の回復や民主主義の促進、民族融和を担当していたのがOSCEと呼ばれる国際機関。)

半年をこうしてバルカン半島で過ごした後、気を引き締め直して、再びスウェーデンに舞い戻る・・・。

2004年9月より、スウェーデン・ヨーテボリ大学 経済学部 博士課程

<研究分野>
生産性分析、産業組織論、社会保障制度

著書・翻訳書の紹介

2004-12-16 07:20:51 | 自己紹介 (om mig sjalv)
<翻訳書>

スウェーデン防衛研究所・農業庁・食品庁・放射線安全庁・スウェーデン農業大学 共同プロジェクト
『スウェーデンは放射能汚染からどう社会を守っているのか』
(合同出版・2012年1月発売)


<著書>

日本総研理事・湯元健治氏との共著
『スウェーデン・パラドックス - 高福祉・高競争力経済の真実』
(日本経済新聞出版社・2010年11月発売)


<翻訳書>

イサベラ・ロヴィーン著
『沈黙の海 - 最後の食用魚を求めて』
(新評論・2009年11月発売)

ここのブログに書いていきたいと思っていること

2004-12-16 07:00:06 | 自己紹介 (om mig sjalv)
福祉のことを議論する上で、よく引き合いにだされるスウェーデン。お年寄りが笑顔で不自由もなく老後を満喫している光景が映し出される。見ていると何もかもがバラ色でパラダイスであるかの印象を受けたことはない? もしくは、ニュース番組やワイドショーの合間に「今日はスウェーデンからこんな話題」とか言って、スウェーデンでは高税率にも関わらず、みんな不平も言わず、こぞって税金を払い、高水準の社会サービスを享受しているといった短いレポタージュが流される。

このように表面的に伝えられるスウェーデンに関する報道も、確かに正しい面は一部ある。しかし、すべてバラ色に飾り立てられ、そのすばらしい面だけが誇張されると、ホントにそうなの? と疑ってかかる人が出てきてもおかしくはない。実際、このような一方的で表面的な報道が、スウェーデンという国を一層わかりにくく、どこか遠いところにある不思議な国にしてしまっていることが往々にしてある気がする。

日本におけるスウェーデンの紹介のされ方というのは往々に極端で、肯定的すぎるほどに描くものもあれば、それに対する反動として、一部の人は極端に悪く書いていたりもする。そのいい例は、武田龍夫『戦う福祉国家』(中公新書)だろう。中公新書とは思えないほど幼稚な書き方がなされているのは頂けない。「保守的日本人男性」が色眼鏡を通して見たスウェーデン像、という程度に捉えたらいいだろう。

一方で、自分の先入観でファンタジーを膨らませ、人から聞いた二次情報をよく吟味することなく、もっともらしくスウェーデンを描きたてる研究者もいる。元東大教授で、スウェーデンに関する新書などをいくつか書いているJ氏などがいい例だ。よい評価であれ悪い評価であれ、客観性に欠ける安易な一般化は、大学「教授」や研究者を名乗る人であればなおさらのこと、そうでなくても大学教育を受け、科学的で論理的な思考力を身につけた(はずの)人であれば、避けるべき行為だと思う。

しかし、現実問題として、徹底的に褒め上げるか、徹底的にけなさないと本として売れないというのが、日本の出版業界の現状なのかもしれない。それに「教授」という肩書きであれば、すぐに信頼してしまうのも大きな問題だ。しかし、そんな書き方だけでは、全然物足りない。曲がりなりにも社会科学に携わっている身としては、もう少し冷静な目を通した、そして、客観的なデータで裏付けれた、比較分析がされるべきだと思う。

実のところ、スウェーデンもいろいろな問題を抱え、社会も荒れ、苦労している。しかし、様々な工夫とチャレンジによって、社会を良い方向に持っていくように努力している。それが可能なのは、小国だからということがもちろんできるのだが、それよりも注目したいのは、様々な社会制度と経済制度だと思う。そんなスウェーデンの実態を少しでも分かりやすく伝えたい。とくに、これまで表面的な報道や、短期滞在の研究者には描ききれなかった社会の本質や、スウェーデン人とともに生活する者、そして、そこでスウェーデン人とともに学ぶ者という視点をキーワードにしていきたいと思う。

取り上げるテーマは私が普段から関心を持っていること。例えば、

①民主主義・基本的人権の尊重の実践
②それを保障するためのシステムが社会の中にいかに埋め込まれているか
③特に批判的なメディアと専門的利益団体の果たしている役割
④建設的な議論を可能にし、実用的な知識を身につけさせてくれるスウェーデンの教育制度
⑤ドグマ的イデオロギーを嫌うスウェーデン人のプラグマティズム(現実主義)
⑥スウェーデン政治における最近の論争

⑥ヨーロッパ的、そしてスウェーデン的価値観
⑦小国主義。国連を通じた多国協調主義に力を注ぐスウェーデンの外交政策。

⑧世界中から難民・労働移民を受け入れてきたスウェーデンの社会とその努力

日々暮らしていると、完璧ではないにしろ、この国では民主主義が名実ともに発達していると実感する。でも私が思うに、それは、なにもスウェーデンの人々がみな潔癖で社会をより良くするために日々努力しているからという訳ではない。日々の生活に一生懸命でほかの事にあまり気が回らないのは、どこの国も同じか、もしくは共働きが当然のこの国では、その度合いは、ともすると日本よりも高いかもしれない。だから、民主主義実践の原因は、むしろ、それがうまく機能するための仕組みが社会制度や政治制度の中に埋め込まれていることに見出されるべきだと思う。例えば、批判的なメディアが常に権力を持つものを監視し、世論一般に議論を投げかけていること。それから、業界団体や雇用者団体、労働組合、消費者団体、そして人権団体を始めとするNGO・NPOが専門知識をしっかり身につけ、するどい現状批判や積極的な政策提言を行っていることも挙げられる。

それから、個人のレベルでは、一人一人が自分の考えをちゃんと持っていること。時事の問題に関して、あなたはどう思うかと、道端で聞かれても、結構多くの人がちゃんと根拠を述べた上で自分の思うところをしゃべっている。「わからない」と笑ってごまかす人が多い日本とは大違いだ。日本の場合、社会に対する関心があまりないということもあるだろうが、それよりも問題なのは、物事を批判的に考える力が育っていない、ということが決定的ではないかと思う。というわけで、私の関心は、義務教育や高校教育の段階で、スウェーデンの若者はどのような教育を受けているのかということ。特に公民や消費者教育の科目で。また、日頃の政治的な議論にしろ、学校教育の内容にしろ、プラグマティック(実用的)であることも大いに注目すべきだ。

さらに、スウェーデン社会で注目すべき点は、いくら若くても感心とやる気と技量があれば、モノを堂々と言え、社会に影響力を行使することができること。政治に携わる者も若い人を多く見かける。20代前半の国会議員もいる。結果として、社会をよりダイナミックで面白いものにしている。この点、年功序列的な日本社会とは大違いだ。この点に関しては、私は日本社会・文化にとても批判的だ。もちろん、私も日本社会で育ち、その文化がある意味好きで、誇りにするところも多分にあると思うが、やはり、現在の日本が抱える問題の根本的部分がその文化に根ざしているとすれば、社会批判や文化批判もやむをえないと思う。

過去数十年にわたる移民の受け入れのために国際社会と化したスウェーデン社会の現状と問題点。そして、それにいかに前向きに解決しようとしているのか。この点に関して私がこのブログに書くことは、もちろん、そのまま日本社会でもそうすべきだ、ということではない。外国人に対する見方など、日本人にとってはなかなか理解できない部分もスウェーデンにはたくさんある。でも、私がこのブログでスウェーデン社会の取り組み方を紹介することで、へぇ、こういう発想もあるんだ、こんな思い切ったことをしている国もあるんだ、と日本での議論の発想のヒントになればと思う。いろいろな問題を抱えながらも、それに対してシニカルになるのではなく、前向きな態度で社会全体を巻き込みながら解決を図ろうとする社会のあり方から学ぶべき点は多いと思う。

文章に隠れた私の思いもある。というのは、自由主義と民主主義の旗印と思われているアメリカ合衆国は、実は虚構ではないのか、という疑問だ。例えば、自分の生き方を自由に決められる権利というけれど、その権利は事実上、経済的基盤がある程度保障されている人々にしか行使できない虚構であること。それから、国際政治の舞台で「民主主義のために」とか「世界平和のために」などと綺麗事を言うけれど、結局はアメリカの国益にかなうことしかしない虚構であること。もちろん、私はアメリカのことを詳しく知っているわけでは無いのだけれど、国際情勢に関するニュースがふんだんに入ってくるここヨーロッパにいると、それまで日本で見聞きしていた民主主義・自由主義というアメリカの理念が、絶対的なものではなく、むしろ相対的なものに過ぎないということを実感せずにはいられない。

日本ではアメリカが西洋世界の代表であり、アメリカ人もヨーロッパ人も国民性は変わらないと思われがちだけれど、近年の「テロとの戦い」におけるアメリカの軍国主義に、ヨーロッパが反発したことが示すように、ヨーロッパ人のメンタリティーはアメリカのものとは大きく異なる。(もちろん、ヨーロッパの国々の間でも大きな違いがある。)問題は、日本ではとかくアメリカの目を通した世界観が伝わってくるばかりで、自国の国益の最優先や、一国中心主義などちょっと醜いことも、アメリカがやっているならいいじゃないと、ついつい流される傾向にあると思う。私が言いたいのは、世の中が人々にとってよりよくなるように取り組むやり方は、国によって様々だということだ。その点で日本にはもうちょっとヨーロッパのほうにも目を向けてほしいと思う。

ただし、こう意気込んでみたものの、限られた時間の中で書いているので、完璧なレポートが頻繁に書けるわけではありません。

それから、もう一つの問題はどこまで深く書くかということ。スウェーデンでの事情背景を説明することなしに、スウェーデンで流れる普通のニュースを並べ立てるだけでは、理解しにくいだけでなく、誤解を招いたり、逆に揚げ足取りに使われることもある。だから、その話題の背景については、触れなければならないと思う。ある特定の国や地域のニュースを(低俗な3面記事的なものも含めて)端的に伝えるだけのサイトも最近増えているが、情報の発信主としての責任についても考える必要があると思う。

ともかく興味を持ったことから取り上げていくつもりです。