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ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

小和田雅子嬢 突如お妃に

2025-04-30 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 さすがに饗宴の儀の立食はまずいと思ったのか今度は「日本人の配偶者はずし」ですって。

 来年10月22日 皇太子は「即位正殿の儀」で即位宣言する。

 前回は外国元首や地方自治体から2500人が招かれた。

 今回は2800人を超えそうなので日本人に同伴する配偶者の招待を削減することで人数を抑えたい意向

 

 1992年10月3日 → 皇太子があずき色のワゴン車に乗ってお忍びで東宮御所を抜け出して新居浜鴨場で小和田雅子とデート

1992年12月12日 → 小和田雅子さんプロポーズ承諾

プロポーズを受けた当日、小川東州書道展でカメラに収まり、その後、中華料理屋でお祝い?

 

読売新聞社1993年5月「6月のプリンセスー雅子さんと皇室記者の2000日」

それにしても、その情報は驚くべき内容だった。
―天皇・皇后両陛下が山形国体の開会式出席などのため羽田をたった十月三日の昼前、皇太子さまは、後部座席を黒いフィルムで目隠ししたあずき色のワゴン車に身を隠し、赤坂御用地の巽門を出た。運転していたのは側近の職員。門を守る皇宮警察の護衛官も、皇太子さまが乗っていることには気づかなかった。ワゴン車の後ろには山下和夫東宮侍従長のマイカー、ベージュの「カペラ」が続き、高速道路を経由して千葉県市川市に向かった。やがて二台の車は、新浜鴨場に到着した。
―そこで待ち受けていたのが、小和田雅子さんだった。ここはふだん、外交団などの鴨猟接待に使われる。皇太子さまは雅子さんと一緒に昼食を取り、野鳥が泳ぐ池の周りを散歩したり、輪投げをしたりして過ごした。そして最後にプロポーズをしたようだ」

 

 1992年12月25日 → 「皇太子さまと婚約が内定した小和田雅子さんは、プロポーズを承諾した後の昨年十二月二十五日のクリスマスの夜、皇太子さまの住まいの東宮仮御所を訪ねた。天皇ご夫妻に挨拶した後、皇太子さまと二人で深夜まで過ごしたという。
 天皇ご夫妻はこの日、夕方から仮御所を訪ねて、皇太子さまと三人で夕食を共にした。雅子さんはこの後の午後七時半ごろ、仮御所を一人で訪れた。四人で二時間ほど歓談。ご夫妻が赤坂御所に帰られた後も、二人は二十六日午前零時近くまでくつろいだ時間を過ごしたという。(BY朝日新聞1993年1月8日朝刊)

 とにかくよそへ行ったら夜中まで帰らない・・・雅子さんはその後、静養先でもレストランでもお店に入ったら夜中まで帰らない人になるのでした。

 やっぱり説得の方法としては

恒氏「お前はオックスフォードで学士論文を完成できなかったじゃないか。お前なんてその程度のもので、女性首相?大使?むりむり。私を超えるのは永久に無理。親の為と自分の為を思うなら皇太子と結婚しろ。そしたら外務省の奴らを見返してやれるぞ」

皇太子「外務省で外交をやるのも皇室で皇室外交やるのも同じでしょう。というか皇族でいた方がもっと上からの立場で好きなことが出来ますよ」

だったんじゃないのかな。

1992年のクリスマスカード

・1992年12月28日の仕事納めの日

やる気がなくなってるというか・・・心底外務省で使い物にならなくて浮いていたんでしょうね。

 1993年1月1日

 

 

・1993年1月4日仕事始めの日

自宅で婚約発表後の写真を撮影。服は君島一郎。なかなか優美子さんが仕立て料金を払わないので請求したら「皇室に入ってしまえばなんとでもなる」と言ったエピソードが残っている。

 1993年1月6日 婚約内定報道

スポーツ紙1面

朝一番のテレビ

ワイドショー

号外

 日本中が「ええーーーーええええーーーー!うそーーーーー!」

だった所に颯爽と現れいでたる小和田雅子。

 1993年1月8日

18万5000円のキミジマスーツに白のコートは55万円。

 

そして時は動き始めたのでした。平成の暗い時代へ突入した瞬間でした。

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小和田雅子嬢爆上げ開始

2025-04-01 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 FOCUS1991年8月16日号

「最初の浩宮妃候補小和田雅子さんのその後の家庭

 

 女性自身1991年8月20日・27日

「周辺再浮上!皇太子妃はやっぱりあの小和田雅子さん 応援の声事情」

 まさにあれだけはっきりと「私は関係ありません!」って言ったのに、カレシや不倫相手が複数いるって報道されたのに、それでもなぜか「お妃候補」に再浮上してしまう小和田雅子さんは奇々怪々です。

 女性週刊誌が応援に回ったという事はやっぱり裏には「美智子さま」がいたのか?というような気もするんですけど。

 

 FLASH1991年9月3日号

「小和田雅子さんと父・恒外務次官内規違反発覚!父親用に発行「駐車許可証」で外務省にマイカー通勤していた有力お妃候補の失点」

 この記事なんて、父親名義で借りた駐車場を娘がちゃっかり使っていた。外務省の新人は車通勤は許されないのに。管理室もマスコミに「娘が使っているんじゃないの?」っていわれて「まさか。恒氏からいわれて発行したのに」と驚き、でもすぐに登録は取り消され「あんたがづべこべいうようなことじゃない」とか「一時的に使用していたと‥思う」というような答えに。

 

 女性自身1991年12月24日・1月1日号

独走スクープ!小和田雅子さん聞こえて来た「正式ご求婚(プロポーズ)があればお受けします」発言!皇太子妃来春決定説の全シナリオを追う」

 

 FOCUS1992年1月3日号

皇室の最重要課題」32歳を迎える皇太子のお妃選び

最近、小和田さんが、“皇太子さまご自身、あるいは皇后さまから直接、お言葉をいただいたら……”と漏らしたという話が親戚筋から伝わっています」

 女性自身1992年1月7・14日号

「皇族からも聞こえて来た皇太子妃には小和田さんしかいないの声」

 女性セブン1992年1月2日・9日号

「どうしても消えない皇太子妃候補小和田雅子さん」

 微笑1992年1月11日号

「皇太子妃か女性大使か小和田雅子さん母激白「娘は過労死しそうです」

 女性自身1992年1月21日号

皇太子妃」独走スクープ第3弾!皇太子さま32歳の誕生日に2月23日に重大発表が?」

 

当時、美容室には週刊誌が沢山おいてあって、いつも女性が目にしていたわけですけど、こんな記事がでるたびに「あれ?まだお妃候補なの?」って思ったに違いありません。

けれど時はバブル末期で皇室の事より自分の事の大事だし、皇太子はそんなに人気がなかったし、だから何となくスルーしている間にあっという間に既定路線になってしまったという感じです。

当時はまだ「美智子さまオーラ」がすごい時期で「苦労してきた美智子妃がやっと皇后陛下になれたんだわーしかも嫁を貰って孫まで出来て」みたいな感じでしたか。また、都市伝説として「紀子妃堕胎説」が出て来たのもこのころです。

思えば全部しくまれていたんですよね。それだけ秋篠宮家の人気はすごかった。その視線を何とか「小和田雅子」に持って行きたい勢力がいたということです。

それにしても「皇太子妃か女性大使か」って・・・盛りすぎよね。

社会的ルールを守らずにコネを使いたい放題だったのに。もし件の不倫説が本当なら彼女の心はこの時期はまだまだ皇太子には向いていなかったことになります。本当に長い年月、執着しつづけた皇太子ってストーカーみたいと思ったし、5年経とうか人の本質というのは見えないものなんだなと思いました。

まして「あっちから言ってくれたら承諾する」という意志を出し始めた小和田家の少々の焦りが見苦しすぎてね。

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妃候補から外れても外れても浮上してきた小和田雅子嬢

2025-03-17 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。

しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。

チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

 

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何のために小和田雅子嬢がこんなに持ち上げられた?

2025-02-27 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

さて、サブリミナル効果のように突如「小和田雅子」という名前がインプットされた私達ですが、当時は現実的ではないと思っていました。

なんせご本人がまるっきり結婚に積極的という風には見えませんでしたから。

ただ単に浩宮が好きだ―と言ってるだけで。その好きだ―も人間性がではなく学歴とか見た目とかお金持ちであることがおたあさまからみて「OK」が出そうだから・・その程度だったんじゃないかと思います。

週刊誌は踊ります。

 FOCUS1988年1月8日号

「「最強の浩宮妃」登場ー東宮に招かれた女性外交官」

 FRASH1988年1月5・12日号

浩宮妃候補?女性外交官の素顔」

 週刊女性1988年1月14日号

「独占スクープ浩宮妃最有力候補才媛外交官小和田雅子さん24歳電撃浮上

 女性外交官じゃないから!外務省の職員ですから。この頃から語学が堪能とかいう伝説が生まれるわけですが、見た人はいません。

  週刊女性1988年1月20日号

スクープ第二弾!浩宮妃最有力候補小和田雅子さん(24)と今春婚約の可能性

えー あまりにもすごい。昭和63年早々こんな記事が踊っていたんですよね。

昭和63年といえば前年の手術以降、公務復帰したかに見えた昭和天皇でしたが、明らかに痩せて病気がちになられた時でした。まるでその時を待っていたかのように週刊誌に「小和田雅子が浩宮妃最有力候補」として躍り出たのです。

 女性自身1988年1月20日号

「浩宮妃最有力候補小和田雅子さんがなぜか突然留学決定!」

同じ日に出た週刊女性と女性自身が違う記事を載せているんですね。

小和田雅子氏はハーバード大卒業後、東大に入学したけど中退して外務省に入省。

国費留学としてイギリス行きが決定したのでした。

 女性セブン1988年2月18日号

「浩宮妃本命女性がまさか!選定に重大影響 浩宮妃候補3人のまさかの難問」

これがいわゆる明石さんのお嬢さんのことでしょうか。ここであっという間に3人が消えて、浩宮の本命は小和田雅子だけになったみたいです。

 1988年2月5日「小和田雅子さんの誕生日にお花を贈られたそうですね」の記者の質問に「そんなことはありえません・・・神に誓って」と答える雅子さん。

いやーーありえません・・・・神に誓って・・・と言い切るすごい女性です。

 いやに軽い「神に誓って」でしたよね。貫いてくれていたら今の日本はなかったのに。

 FRIDAY 1988年3月11日号

スワッ噂の女性外交官の両親が東宮御所へ浩宮様と山頂を極めるひとは誰?」

結婚については30までにはと考えております。富士登山に例えれば7合目~8合目といったところでしょうか」

2月23日の誕生日会見でこんなことを言っちゃった浩宮。

すっかり小和田雅子さんと結婚出来るものだと思い込んでたようですね。

しかも東宮御所でデートまでしていたことが女性週刊誌で発覚 普通なら「私はお妃になるかも」と思うはずが、小和田雅子は全くそうは思っていなかった・・奥手なのか?馬鹿なのか?

小和田夫妻と皇太子夫妻はパーティなどで話をする仲とも書かれているし、当然雅子さんもその場にいた事もあるようで、全く見知らぬ人ではないのです。

 雅子さんが最有力視される理由はまだある。抜群の語学力や明るい性格が殿下の理想とする「価値観が同じ人」に極めて近いこと。

 彼女には若き日の美智子妃の面影があること

 浩宮さまは彼女に特別の感情をお持ちと語る関係者がおおいこと

 語学力と明るい性格・・・今にしてみれば一体何の冗談だ?という感じですよね。外国語が話せれば誰でも妃殿下になれるのか?って話ですよ。そんな価値観を持っていた浩宮もバカです。

 雅子さんが美智子妃に似ているというのはどこなんでしょうか?

とにかく浩宮は燃え上がり、雅子さんは「珍しもの好きで彼と会ってただけ」というこの温度差を埋めたのは一体なんだったんでしょうね。

 週刊新潮1988年3月3日号

頂上が見えたというご発言で絞られる浩宮妃候補」


 何でも、女友達に、
プロポーズもされてないのに何でこんなに騒がれなくちゃいけないの
 といったという。
それにしては、何回も東宮へ行くのはどういうわけ?」
 と聞かれると、雅子さん答えていわく、
好奇心よ」
p.135
「小和田さんは“プロポーズもされてないのに、云々”と女友達に話したっていいますが、これまで東宮へ招待された女性の、ほとんどは一回で二度と行きません。本人が行きたくても、東宮で呼んでくれないケースも無論ありますが、浩宮様や皇太子ご夫妻が気に入られても女性の方で二度目の招待をお断りするわけです。それがお妃候補から外して欲しいという一つの意思表示になる。
 ところが小和田さんは少なくともこれまでに四回は浩宮様にお会いしています。いくら“好奇心”からだといっても、お相手が今どういう立場にいる人か承知しているわけですから、彼女の方にまったくその気がなければ出かけませんでしょう

 

でもその気がなかったんです。雅子さんの「好奇心よ」は本音でしょうね。

ずぶずぶと罠にはまっていくような・・・そんな印象を受けますね(笑)

あれだけマスコミに嫌な顔が出来る彼女だし「私はあなたと結婚する気はありません」と当人に対して言えそうなものですが、多分父親がそれを言わせなかったんだろうということと、この「立場」をもうちょっと楽しみたいという思惑があったのかもしれません。本当にズルい女だなあ。

 

 

 

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日本一運のいい女ー新皇后の肖像 5

2025-02-21 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 

週刊現代だったでしょうか「嫁姑25年戦争の終わり」というタイトル。どういう事かというと

 

昭和の末期、とにかく小和田雅子という人はマスコミの注目を集め続け、じらし続け、いつまでもいつまでも返事をせず「お妃候補から外れた」「いや、外れていない」これの繰り返しばかりでした。最後のお妃候補?三井史子さんが結婚した後はさらに小和田雅子に集中。

 1988年FOCUS4月15日号

「浩宮候補は目下研修中」ー小和田雅子さんを取り囲む霞が関永田町の雑音

 小和田雅子の仕事で雑用もあったけどどうしよう・・・これからは。

 もう「小和田君」何て呼べないね。

 

 1988年7月19日号

「小和田雅子さん英国留学へ出発」

1989年1月7日。昭和天皇崩御。

2月、皇太子は「小和田さんではだめですか」と側近に尋ねる。

 週間ポスト1989年7月7日号

「5年前の極秘旅行(1984年9月・12月)を徹底追跡!皇太子徳仁と小和田雅子さんアルザスの恋」

 1984年、メリベルで皇太子は心行くまでスキーを楽しまれ、岩肌が見えている危険なところも大胆に滑られた。日本人関係者が心配する程。

 実はこのとき、一行の中に殿下の意中の女性、日本でもその後最有力妃候補として取りざたされた小和田雅子さんが参加していた。

 しかもこの年、殿下はフランス国内を2度にわたって小和田さんを伴って旅行している。

 この旅行をきっかけに皇太子は小和田雅子さんに恋心を抱き、東宮御所に頻繁に招くなど力を入れていた。

 霞会館関係者「よくお調べになりましたね。皇太子殿下が小和田雅子さんと旅行されたのは事実です。

天皇・皇后両陛下はマスコミの監視が比較的緩い留学期間中に皇太子殿下のお妃を決めたいとお考えでした。

しかも、一方的ではなく本人同士が十分意志を確かめ合ったうえで決めて欲しいと考えられた。

だから青年男女がお互いをよく知り合う場としてフランスが選ばれたんです。確かに旅行は2度、9月と12月に行われています」

 昭和天皇の崩御がなければもっと早く結婚していたのに。

 霞会館関係者「2代続いて民間からお妃を迎えるとなれば皇室の伝統が失われるというんですね。

しかし、皇太子殿下にはそんな雑音には惑わされないでかつて天皇陛下が皇后陛下に「柳行李一つできてほしい」といったように強い意志で小和田さんへの気持ちを伝えて欲しい。

これからの皇室にとっても皇太子殿下にとっても小和田さんのような美しくて国際感覚がある心優しい人が必要なんです」

 インタビューされた江頭寿々子いわく「一度もそんなこと聞いたことございません。私が聞いているところでは絶対にそんなことはございませんんよ」

 FLASH1989年9月19日号

「来春婚約?浩宮さまと小和田雅子さんに再び熱い視線」

 1984年の9月12月に二人でフランスに旅行していたことが明らかになりました。

この当時、私自身は皇太子の「アルザスの恋」も「コルマール」も全く知りませんでした。

自分自身の結婚式を9月に控えていたこともあり忙しくて週刊誌を見る暇がなかったのかもしれないし、8月下旬といえば「礼宮殿下と川嶋紀子嬢」の婚約が発表された時であり、むしろこっちに夢中で、皇太子なんて眼中になかったんです。

でも女性週刊誌やらおじさん向けやらが一斉に報道したということは、皇后からGOサインが出たと考えるべきでしょうね。庶民の目が礼宮に向いている間に皇太子のこともちょこっと報道させて「嘘はついてない」というアリバイ作り?

霞会館関係者のセリフは100%皇后のものでしょう。「雑音」は気にせずに・・ですってよ。笑っちゃうわ。おまけに「2代続いて民間妃云々」は霞会館関係者なら言うはずがなく、自分の時代が来た皇后が御代が変わってすぐ自分の価値観を週刊誌を使って反映させることを始めたのです。

ラスボスのように現れた久邇晃子さんへのけん制とも見て取れますし、とにかく家柄のよい女性は嫌だ―という皇后の叫びが伝わってきますよね。

でもこの話が本当だとして、それでもさっさとハーバード大を卒業後に外務省に入り、東大に学士入学してイギリスへ留学。皇太子など気にもかけない態度。どんなに皇太子が恋こがれても当のご本人はそんな気さらさらなく。

通常、独身皇族と一緒に旅行するといったらこれは「その気あり」と見るし本人も覚悟があったろうと思うのですが、そこらへん、どこまでもノリの軽い女性の小和田雅子さんだったのでした。

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その気がなかった小和田雅子嬢

2025-02-17 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 後々になって「馬鹿野郎」という言葉が雅子さんの口から出て来た・・それを国民が事前に知っていたら誰も「ご優秀でお妃にふさわしい」などとは思わなかった筈ですが、愚かなことに庶民には大本営は何も知らせず、本人すら知らなかったのです。

まさか自分が本気で「浩宮妃候補」だなんてねーー

1986年の写真週刊誌に載った写真。

見るからに綺麗すぎるキッチンで油もひかずにウインナーを炒めている小和田さんですが、無邪気な笑顔が得意満面でしょうがない。

マスコミにやたらサービス旺盛な顔。要するにこれは「勉強も語学も出来るけど実は家庭的」であるという演出に他ならない。

ちょっと美智子妃殿下の

これとよく似てます・・・・不必要な台所を作らせて大仰に離乳食作りをするお姑さんとよく似ていますよね。

でも小和田雅子さんとしては「私が小和田恒の娘でハーバード出て東大入って外務省試験にも合格したからこんなにマスコミに取り上げられるんだわ」と思っていた・・筈です。

この時点ではお妃候補に出てこないんですから。

でもこのくったくのない笑顔のまま、よそのもっとお金持ちで好き勝手やらせてくれる男性と結婚していれば本人なりに幸せだったんじゃないか?と思われて仕方ありません。

娘の幸せより「権力と権威」を望んだのは父親の小和田恒です。

これらの明るい笑顔から「雅子さん入内作戦」は見事にスタートしたんですから。

綺麗なキッチン、すごい成績、結構美人、みんなが欲しかったものをこの女性は持っていたんですよね。あきらかに。

でも一方で冷静な方々としてはまだ小和田雅子を妃候補とは考えていなかったようで

 

  「1987年11月写真週刊誌。

急がれる浩宮妃の条件。有力候補8人に見る血統と才色」

三井史子さん、渋沢肇子さん、服部聡子さん、徳川冬子さん・直子さん(姉妹) 、徳川恵子さん・純子さん(姉妹) 、明石牧子さんの8人。

その中でも当時、最有力と言われたのが渋沢肇子さんだったような気がします。

・日本人であること

・心身共に健康であること

・容姿端麗であること

・語学が堪能であること

この4つが当時の「お妃の条件」とされていたようですが、日本人であることと心身共に健康であることはいいとして、どうしてそこに「容姿端麗」「語学堪能」が出てくるのか。モデルは明らかに正田美智子さん。

家柄より金持ちであること、血筋より学歴があって特に英語がペラペラじゃないと・・という価値観は全て正田美智子さんをモデルにした結果のことなのです。

1980年代はイギリスのダイアナ妃を始めとするきらびやかなイギリス王室が「もてはやされた時代です。

ダイアナは家柄がよく皇太子が初恋で本当の「レディ」であったけど実は高卒で保母さんだったという経歴。かの大英帝国王室の皇太子妃選びは学歴より血筋を尊ばれたというのに、「英国のような開かれた皇室」を目指していた日本は真逆の価値観を持っていました。

美しくなければお妃じゃない・・・華やかなお妃、華麗なる皇室外交をするにはまずは英語!ってな所でしょうか。この時代の日本人は誰も「皇室の本義は祭祀である」なんて思ってもいませんでしたね。

浩宮がイギリスに留学し、美智子妃が世界のベスト・ドレッサーに選ばれ、「これからの皇族は華やかなのが一番」と思っていたのかも。

 

そんな中、高円宮邸に招かれた小和田雅子は浩宮と深夜まで楽しくおしゃべり。

宮邸に深夜までい続けるという非常識さも、「この二人は気があっているんだ」となればまあ大目にみるでしょうし、この件で浩宮は「小和田雅子は自分を好きだ」と思ったに違いないのです。

まさか(こればっかりですが)雅子さんの尻が重いのはしつけの悪さのせいだとは・・・誰も考えなかったのでした。

私達庶民は密かな「小和田雅子浩宮妃」作戦が始まっているのも知らずに浮かれていたんですね。あるいは昭和天皇の病気にかかりきりになっていたというか。

サブリミナルのように出てくる小和田さんの写真。

まさに「お妃になる気満々」と言われてもしょうがないけど、本人はさっぱりその気なし!

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小和田雅子嬢の本性

2025-02-07 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 さて、私達の目に写真週刊誌を通して入ってきた小和田雅子さんはバブル時代の象徴のように見えましたね。

ハーバード大卒で東大を受けたら受かっちゃって、しかも母国で働きたいから外交官試験を受けたらさらに受かっちゃった・・・というあたりがまさに何でもありだなと。

実際にはこの年、女性で外交官試験を受け合格したのは最多の3人でした。そして私達が当時知り得なかった情報として

 小和田雅子がハーバード大に合格したのは父親が教授をしていたから。ハーバードは実はとってもコネに弱い大学である。

 現役外交官の娘で小和田恒の娘が試験を受けて落ちるわけがない

ということでした。要するにここらへんから「頭脳明晰で美女のお妃候補」としての売り出しが始まったんでしょうね。

 

では次の一枚は

これは1987年(昭和62年)に写真週刊誌に載った写真。俗に「指差し恫喝」写真と呼ばれるものです。

前年、あれだけ派手にマスコミデビューを果たし「美しすぎる外交官の卵」「清原級ルーキー」ともてはやされた小和田雅子がいきなりマスコミに指さし恫喝です。

外交官試験に合格してから2週間もたたない1986年10月18日、雅子さんは元赤坂の東宮御所で開かれたスペインのエレナ王女の歓迎の茶会の席に招かれた。

彼女の名はタイプで打った招待者名簿に手書きで追加されていた。

意外に知られていないが実はこの時、雅子さんは外務省筋が推奨するお妃候補の最右翼だったのである。お妃候補の選定に動いた中川融・元国連大使(61)の証言

【85年秋、英国留学から皇太子が帰国されてからすぐ宮内庁で本格的なお妃選びが始まった。私にも依頼が来たので私なりに外務省関係者にあたってみた。するといろんなところで雅子さんの名前が出た。宮内庁に推薦したのは外交官にパスしたあとでした。推薦したのは彼女一人だけではありませんが、雅子さんを第一候補として推薦しました】

あらかじめ演出された出会いであったがこれが皇太子と雅子さんの初めての顔合わせとなった。その後、御所で開かれた内輪のお茶席、日英協会のパーティなどで出会いは積み重ねられた。

翌87年、高円宮邸でのパーティは、皇太子に決定的な印象を残した。この日、同席予定の英国人夫婦が欠席、高円宮夫妻のほかは皇太子と雅子さんだけが招かれた形となった。皇太子はインド、ネパールなど外遊先で撮った写真のアルバムを持参。歓談は深夜に及んだ。

が、二人の「デート」はマスコミに漏れ、取材陣が殺到した。当写真は「どの社ですか。名刺を出しなさい」とカメラマンを一喝する雅子さん。中々の迫力でありました」

この件に関しては「小田桐誠著【消えたお妃候補たち」には

自宅を出てきた小和田雅子の前方に、早朝から張り込んでいた写真週刊誌などマスコミ4社のカメラマンが群がり、一斉にフラッシュをたいた。彼女は顔をこわばらせ、
なんですか、あなたたちは。やめなさい
と抱えていたバッグで顔を隠した。カメラマンたちは構わずシャッターを押し続ける。
あなたたち、どこの会社なの。名刺を出しなさい」
と憤りをあらわに二の矢を放った。それでも取材攻勢はやまない。このため彼女は自宅に駆け戻り、息を切らしながら「お父様ァッ、お父様ァーッ!」と叫んだ。

1993年発売「SPA」にて田中康夫は

例えば、自宅前で激写(フォーカス)された際、舌打ちしながら明らかに「馬鹿野郎」と呟き、「どこの社(プレス)よ、名乗りなさいと気丈な反応を見せた魅力を、今の彼女の中に見出すことは、難しい。

この写真の小和田雅子から感じ取られるオーラはなんでしょうか?

いくら男女共同参画時代、男女平等の時代とはいえ、マスコミ相手に「名刺を出しなさい」と20代の女性が恫喝する上から目線。

普通は「どのような取材なのですか?お答えすることは出来ません」で済むような話なんですけど、見事にキレてますよね。

もし「お父様ーー!」と叫んだのが本当だとすると、虎の威を借りる狐のごとく、権威主義にも見えます。

「馬鹿野郎」という言葉も今時は普通かもしれませんけど、良家の女性なら絶対に口にしない言葉です。

いきなり登場した「お妃最有力候補・小和田雅子」の名前は私達、皇室に関心のない人の間にも十分に浸透するように繰り返し週刊誌等が取り上げ、皇太子の初恋のように語られ始めました。

しかしながら、私達庶民からすると皇太子と小和田雅子の共通点が何も見えてこないんですね。ツーショットの写真もないし。本人は皇太子なんか意に介さない感じだし。ちょっと感じ悪いというか、お友達にはなれないなあと感じたのは

1989年9月、留学中の小和田雅子を追いかけてマスコミが取材している中、彼女はきっぱりと「わたくしはお妃問題には関係していません、ずっと外務省職員として生きていきます」と言った事。

確か「浩宮さまとは結婚しません」みたいな話もしていたようで、そのあまりのきっぱりとした姿に「こりゃ駄目だわ」と感じましたね。

でもさらに1年前、88年にしつこい新聞記者に「あんな家にはいかない」と言い放ったそうで。

小和田雅子さんの⒦の手のエピソードは枚挙がありません。

 駅で写真を撮られた時に記者の胸倉をつかんでゆすぶり「フィルム出しなさい!」と怒る

 駅のホームでマスコミに気づくとタートルの襟をあげて顔を隠す。

 「マスコミってウジ虫みたい」発言

 温厚なベテラン記者の名刺を目の前で破り捨てた

残念ながら上記のエピは全て結婚後に出て来たもので、リアルに報じていた写真週刊誌ですら「なかなかの・・・」と誉め言葉調で、よほど皇室に関心がある人でなければ「こんな女はダメだ」とは思わなかったのではないかと。

これらの事実から見えてくるものはなんでしょうか。

 小和田雅子の皇太子妃への推薦は外務省&小和田恒主導で本人無視の形で進められた。

 何で「お妃候補」を国連大使やら外務省にもお願いするのよ。政治的な関りを持つ家は避けるのが普通なのに。

 小和田雅子は自分が本気で「お妃候補」になっているとは思っていなかった。

 高円宮邸に招かれた時も「私ってすごい」程度の感覚で恐れ多いなどとは一切考えていなかったでしょう。だから長々と時間を気にせずお邪魔して・・他人様のお家に深夜までい続ける図々しさは今も健在。

 皇太子はぱっと見、小和田雅子は好みのタイプだし、物をはっきり言う女性には会ったことがないので新鮮だったと思うが「小和田雅子が一番」と回りに洗脳されていったのではないか。

 例えば「最近の流行はいちご大福で」

「いちご大福とは?」

「えーーいちご大福知らないんですか?遅れてるーー」みたいなノリが好ましかったと思われますが、皇太子自身、自分が言った「ティファニーであれやこれや買う人は困る」をあっさり忘れているところがかなしいですよね。

 見た目、学歴、高級な服装、流行りのキャリアウーマンという外側からのみ「皇太子妃にふさわしい」と思われた。そう思ったのは皇太子のみならず、その母である美智子皇后だったろう。

 

愛子内親王が見事にお母さまに似て来たなと思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

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小和田雅子嬢がお妃候補になったきっかけ

2025-02-04 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 時間と言うのは風化していくもので、「当時」を知らない人が本当に多くなりました。

知らないから好き勝手に「素晴らしい」だの「愛子様を天皇に」だの言えると言う事ですよね。

昭和を知らない人、平成時代を知らない人。みんな同じです。

そこで学べばいいけど、教科書的に知ってるだけでは本当は語る資格はないのです。

今まで当ブログでは何度も雅子さんの独身時代からの検証をしてきたし、他のブログでも散々写真などが載せられて知っている人も多いと思うのです。

私達国民が何によって「小和田雅子」を知り、何によって「お可哀想」になったのかということを振り返ってみたいと思います。

 浩宮徳仁親王のお妃候補問題は彼が成年式を迎えた1980年から始まり、報道が過熱。

 旧皇族・旧華族の女性達はいうに及ばず、沢山の女性が名をあげる。

北白川3姉妹・久邇晃子・徳川冬子・伏見章子・柳原家・三井家・服部家など。

 小和田雅子さんの名前は最初は入っていなかった。父親が外交官、祖父がチッソの会長ということで政治と公害に関わる家系の娘はふさわしくないとの向きがあった。

 後藤田正晴氏「(小和田雅子が入内すれば)皇室に筵旗が立つ」と発言。

この後藤田氏の発言は今ではすっかり忘れられていますが、思えば怖い話。「筵旗」というのは、政治家であった彼の小和田家に対する意識なのです。

 お妃候補たちは自らさっさと逃げ、美智子妃は「旧皇族・旧華族」を嫌い、お妃選びは暗礁に乗り上げる。

 事の発端は昭和34年の正田美智子さんの入内が原因です。お金はあるし学歴もあるけど、伝統と家柄がなかった正田家の「旧皇族・旧華族」への恨みや、逆の「さげすみ」に東宮家は自ら関係を断ち、そのせいで紀宮の結婚も遅れ、浩宮のお妃候補も現れなかった。

 1986年(昭和61年)スペインのエレナ王女のパーティで浩宮と小和田雅子は出会うが、最初は小和田雅子は招待されておらず、手書きで名前が付けくわれられた。

私達国民は、毎日写真週刊誌や女性週刊誌で色々なお妃候補の名前をしる事になり、その報道のあまりの加熱さにうんざりしていた事もあります。

当時の皇太子夫妻への記者会見でも必ず「浩宮さまのお妃候補」について聞かれて、しまいには「答えません」という事になりました。

ただ、皇太子は当時、「価値観が同じ人。ティファニーであれやこれや買う人は困る」と発言しており、今思えばティファニーに対して失礼な発言だと思うけど、当時は好感を持たれていたような気がします。

(実際には海外ブランドしか好きにならない人をお妃にしたわけですが)

私達は当時の皇室については「まれにみる質素な皇室」と印象付けられていました。その理由は昭和天皇がそういう方であってことや香淳皇后の露出がそんなに多くなかったことで、美智子妃のあまりに贅沢な衣装類に関しては「きっと実家の支援があるんだろう」くらいにしか思っていませんでした。

私達国民は全く小和田雅子さんには興味がありませんでした。

なのに、国民に無理やり印象づけたのはマスコミです。

外交官に清原級のルーキー」ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠

 ハイソサエティ(いわゆるセレブ感)ムンムン

 父親が外交官だから7歳までにモスクワ・ニューヨークで生活体験

 田園調布雙葉に入学後、高1で渡米、大学はハーバード大経済学部

 ここで優等賞に輝いた彼女はIMF/国連・世界銀行の仕事も考えたが母国の為に働きたくて外交官試験を受ける

 東京大学法学部に学士入学したけど、外交官試験もあっさり受かってしまった。

 英語はペラペラ、ドイツ語フランス語は日常会話はOK.頭はとびきり「優」

 

 毎日新聞昭和61年12月6日

麗しき外交官の卵

これらの写真と文章であなたが当時の国民だったらどう思うでしょうか?

そしてこの写真が受け取る印象はどんなものでしょうか?

ちなみに女性で外務省に入った雅子さんの同期もいたのですが、ここまで取り上げられていません。なぜ彼女だったのか?

そこまで美しくて優秀と言えたか?

でも国民はこの記事に大いに「雅子さんって頭がいいんだね」ぐらいは思ったと感じています。

実際には「外交官」にはなれず、事務職で親のコネ頼りの日々。

そういう所は本当に愛子内親王とよく似ています。

 

 

 

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日本一運のいい女ー新皇后の肖像 41

2025-01-28 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

サマーズはいつも「雅子様は虐められた」と言いますが、むしろ、彼女が回りを虐めて来たのだと私は思っています。

こういうタイプはどこにでもいます。いつの間にか友達を失くしているタイプです。現在、皇后に友人がいるか?いないと思います。

今上の学友ですらもう親しくはしない、むしろ、「女帝が必要」などという学友は一定の左翼思想にまみれていると感じます。

「なぜ週刊誌の記事を鵜呑みにするのか」と問われました。鵜呑みにしてはいません。その裏を見ています。

しかし、この頃の週刊誌はまともだったのです。

皇室のあるべき姿を知っていたし、なぜそれを雅子妃が守る事が出来ず、自分勝手に行動して周囲を混乱に陥らせるのかそれを徹底追及しようとしていたのです。事実は事実として報道しています。

 

 週刊新潮 2004年6月7日号

うつ病の雅子さまは天皇・皇后に敵意を持っている英高級紙」

 彼女はは天皇・皇后に敵意を持っておりお二人が死ぬのを待っている

 「死ぬのを待っている」という表現はあくまで「待っている」という状態なだけで望んでいるわけではない。皇室ウォッチャーに聞いた」

 今思えば、まさにその通りでしたね。

 

 週刊ポスト2004年6月4日号

皇太子雅子妃二人だけで話し合われた軽井沢の夜4時間」

 欧州旅行にされるかどうかについてだけでなく、雅子さまはなぜご自分が皇室に入る決意をなさったまでにさかのぼってこれまでの気持ちを皇太子さまに伝えたそうです。

 お二人ともご結婚当時からともに新しい皇室像を探り続けてこられた「世界に開かれた皇室」を召さ座れている皇太子さまも外交官出身の雅子様も国際親善を大変に重視している」

 しかし宮内庁は「世継ぎ問題」を最優先し、二人の外国訪問を極力控えて来た。

 外国訪問は勿論、雅子様が望まれていた福祉関係のご公務まで制限され何度もご静養期間が設けられた。

 せっかく愛子様を授かっても子育ても自由に出来ない、同年代の子供と遊ばせようと公園に連れていかれても警備上の問題でいつの間にか立ち消えに。

 雅子様は欧州旅行を最後まで望まれていたが体調がそれを許さなかった。皇太子さまはそんな雅子様の心情を思うあまり「人格否定」という強い表現まで使ったのではないか。

 天皇皇后になって、外国訪問を制限されていたらその理由はなんだと思うのでしょう?

 正直言って、今のアメリカもヨーロッパも天皇皇后を迎えたいと思う王室はないし、日本に行きたいとも思わないでしょうね。それがわからないで国内の仕込みのマンセー報道に気をよくしているなんて馬鹿じゃないかと思います。すっかり裸の王様、北朝鮮風味です。

 上記の文章ではよくわからないけど、くだけていうと

雅子 :私があなたと結婚したのは外交官の仕事をさせてくれると言ったから。外務省にいるより得だと思ったからなのに、全然外国に行かせてくれないじゃない。

皇太子 :だから今回はヨーロッパへ行こうと言ってるじゃないの。

雅子 ;愛子が一緒じゃないと嫌。

皇太子 :なんで?

雅子 :だってそうじゃなきゃ宮内庁をぎゃふんと言わせられないでしょ。3人でヨーロッパを回って皇室外交した方がずっと楽しいもの。なんで愛子が一緒じゃだめなの?

皇太子 :愛子はまだ小さいでしょう。

雅子 :愛子が一緒なら将来天皇になってもおかしくないってそう思われるもの。ヨーロッパに連れていけば泊がつく。

多分こんな感じじゃなかったでしょうかね。

 

 フライデー2004年6月4日号

「ついに陛下が緊急のお諫め発言雅子妃問題「天皇と皇太子」側近の対立

 アエラ2004年6月7日号

天皇、皇太子ご夫妻の真実」

 帰国後3日たっても皇太子は湯浅長官に会っていない

 お世継ぎ問題

 外国へ行けなかった問題

 公園デビューをダメにされた

 この「世継ぎ問題」=「女性に子供を産むように強制している」という風潮になり、今や少子化担当大臣が何を発言しても「不適切」と言われるもとになったのではないですか。

 

 週刊女性2004年6月15日号

「皇太子さまの異例発言と雅子様の長期ご静養の背景 キャリアを阻む皇室の壁

 学歴はあるかもしれないが、キャリアはほとんどないのに「キャリア女性」と連呼するのは、今と同じです。

 

 2004年6月9日 英国タイムズJapanese Crown Prince demands palace reform>

 In this information void, wild rumours flourish. They include talk of the Prince and the Princess being estranged and of Princess Aiko suffering from autism. But the Crown Prince’s remarks yesterday set out the most credible reasons for Masako’s distress: the extraordinary difficulties of imperial life for a highly educated, cosmopolitan woman.

愛子内親王は自閉症である」

 

 文藝春秋2004年7月号「核心証言 雅子妃その悲劇の全真相」(友納尚子)

 1993年 結婚

 結婚してから二人は食卓を共にせず「2年間は子供を作りません」

 1995年 天皇「国民が待っているからね」に対し雅子妃は「私の友達にそんなことをいう人は一人もいません」

 1997年 東宮妃懐妊プロジェクトチームが結成されるも基礎体温を測ることすら拒否されて東宮侍医辞職

 1998年 不妊治療で問題がなかったことをうけて「検査の苦しさよりも私が子供を産める身体だと両陛下にご理解頂いてほっとした」

                     ↓

          という事実を踏まえても友納尚子の文章は

「宮内庁の幹部は顔をあわせればお世継ぎの話ばかりです。妃殿下が『(皇太子と)もう少し二人だけの時間を過ごしてみたい』と述べられても、『高齢出産はお身体がきつくなります』などと周囲がたしなめたそうです。また、宮内庁の関係者は妃殿下ご本人だけではなく、ご家族やお父様がつとめておられた外務省にも『とにかく一人産んでくれればいいんですから』『これは国事行為ですから妃殿下に産んでいただくよう諭してください』『産んでくれれば日本経済のGDPも三パーセント上がるんだから』などと露骨な言い方で迫りました。不謹慎な発言は、妃殿下の耳にも届いたようです。

妃殿下が求められているのは世継ぎを産むことだけ、皇室外交なんてとんでもないといわんばかりでした。

天皇皇后両陛下が強くお世継ぎを望んでいる、ということも毎日のように聞かされたそうです。

愛子さまが生まれてからも日をおかずに、医師から『二人目のお子さま』について相談がありました。
 妃殿下は決してそういうことをおっしゃるような性格ではありませんが、これでは何のために外務省を悩んで辞めたのかわからない、世継ぎを産むための機械ではないと思っても人間として当然です。繰り返しますが、誰よりも妃殿下こそがお世継ぎの誕生を一番望んでいるのです。しかしまた、皇太子妃のおつとめはそれだけではないはずです。親身に聞いてくれるのがお世継ぎの話題だけでは、ご自分の存在に疑問を持たれるのは当然ではないでしょうか」

 体に異常がなく、年邸的には高齢、1人目がすくすく育っているなら自然に母として「二人目」を考えるのではないでしょうか。それを「何のために外務省を悩んで辞めたのかわからない」と思うことがおかしいのです。

 結婚して10年。外務省のキャリアなんて過去の遺物。そういうことに拘って子供を持つ幸せを「幸せではない」と思いきる雅子妃がおかしいと思います。だったら結婚なんかすべきでなかった。あくまでも恩着せがましい考え方だなと思います。

 

 

 テーミス2004年7月号

天皇皇后は「女帝」を望まれてない」

 「(略)御用掛として雅子さまが信頼していた堤治東大教授も昨年、研究費の不正流用事件で失脚、いまは相談できる医療関係の人間もいません。その堤教授は『雅子さまは妊娠中もタバコを辞めなかったんだ(原文ママ)』となどと周囲に漏らしていたというのですから、皇太子夫妻が不信感を抱くのも当然でしょう」
 この関係者によれば、東宮職の職員からは雅子さまの寝室に関する詳細な話や身体に関するプライベートな情報まで漏れていたという。これでは雅子さまは侍従も女官も信用できない。(←堤治医師がデマを吹聴しているなんて論調ではないことに注目)
 雅子さまを知る人物がいう。
「秋篠宮のお子様の誕生日には行くというのに、愛子さまには初めから会おうとされない。雅子さまにしてみれば体調が悪いなか、雨にもかかわらず、両陛下がやっと時間をやりくりされて会ってくれると思ったのに、皇居へ出掛けてみれば侍従しかいなかった。

ご自分のことなら10年間ずっと耐えてきたが、苦労の末産んだわが娘を拒否、無視されたことで、大変なショックを受けたのです。

翌12月2日、帯状疱疹と発表されたが、格好がつかなくなった宮内庁は12月4日から8日まで雅子さまを入院させてしまった。

おまけに退院の日に雅子さまが首に巻いているストールを「皇后さまのお見舞い」とリークさせたが、実はそのストールはもともと雅子さまが結婚前から持っていたイタリア製のルチアーノ・ソプラーニでした 」

 これは堤教授の部分以外は全部デマだと思います。皇太子妃自ら愛子内親王を連れて参内しなかっただけなのに。

 

 2004年6月18日 林田東宮大夫の記者会見

「(週刊誌報道について)勝手な憶測であり事実ではない

「(愛子内親王自閉症報道に)全くの事実無根で不本意だ。大変健やかに成長されている」

「(映像で発表することは)検討している。しばらく時間が必要

 

 フライデー2004年6月25日号

「皇太子の文書と天皇家の葛藤」

 

 週刊現代2004年6月26日号

仰天宮内庁が激怒する「タイムズ」の新たな報道「タイムズ」が報じた愛子内親王に関する心配事

 女性自身2004年7月13日号

「宮内庁幹部が語った「心の叫び」雅子様「医療だけでは救えない」両陛下が一番心配なこと」

 週刊女性2004年7月13日号

「御静養6ヶ月雅子様復帰のカギは「再度の転地療養」と「愛子様の養育問題」

 女性セブン2004年7月29日号

「皇太子妃雅子様復帰テニスに冷や水新侍従に「少子化のプロ」再び問われる宮内庁の無神経」

 女性自身2004年8月3日号

雅子様のご両親緊急帰国 あの別荘で話し合い再び

 

 2004年7月28日 東宮御所にて沖縄豆記者に面談する皇太子と愛子内親王

後にこれは「影武者」と断定されている。どうみたってこれは偽物でしょう。

 

 女性自身2004年8月17日・24日号

総力特集・「適応障害」発表の裏側ご公務復帰に向け「8月の正念場」雅子様「お元気姿」目撃!殿下小和田ご両親と頂上会談」

 週刊現代2004年8月21日・28日号

「雅子妃は適応障害発表の裏で宮内庁が情報操作」

 2004年9月4日 参内。愛子内親王はおむずかりで不参加

 

 女性自身2004年9月21日号

雅子さまを助け励ます愛子様の「お手伝い電話」

 雅子妃に代わり愛子内親王が内線電話で「ご飯お願いします」「新聞持ってきてください」という。優秀伝説の始まり。

 

雅子妃の病名は「適応障害」これは医師と患者である雅子妃が命名した世にも不思議な病名です。

そしていわゆる「適応障害とは何か」という本が沢山出版されました。その定義は「環境に適応できない。その環境から離れれば数か月で完治」というものでした。

雅子妃の場合、離婚すればすぐに治った筈なんですが小和田恒氏から「皇室内で自分の道を見つけるように」と諭されなくなく皇室に…(お可哀想神話)

 皇太子の欧州旅行に愛子内親王を連れて行きたいと言い張る

 愛子内親王を3年保育の幼稚園に入れたい → 学習院以外に行きたいと希望していたが宮内庁に反対されて断念

とにかく娘に徹底的にこだわりひっつき続ける雅子妃。この状態が15年くらい続くわけですが、通常の母親でもここまではしないだろうと思う程に娘と一緒じゃなきゃ嫌というのはどうしてだったのでしょう。

宮内庁の中で愛子内親王の自閉症診断を確定させたい、あるいは療育をと進言する人がいたかもしれません。ヨーロッパに連れて行きたがったのは「娘は正常」と言いたかったからだし、3年保育も「通常の3歳児と全然変わらない」ところを見せたかったからと思います。

でも実際問題、言葉は遅かったようですし表情もないしひどい偏平足で歩くのもなかなか難しかったと思われる愛子内親王が、私立の3年保育幼稚園に入園というのはかなりキツイ話ではなかったかと。オムツがとれてもいなかった・・・とも思われますし。

真正面から受け止めるべき娘の状態を、盛って盛って盛りまくる事で「伝説」だけ独り歩きさせる。それが小和田流というか北朝鮮風味なところなのです。

沖縄豆記者に偽者を連れて現れたこと、それに加担した皇太子が今や天皇ですからね。

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雅子妃 軽井沢籠城の真実

2025-01-25 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

戦後80年という事で、4月に硫黄島訪問が検討されている両陛下。

もっともふさわしくない二人だなと思います。

果たして本当にいくの?

へらへらして英語で話すとか止めて欲しい。

2023年末に帯状疱疹になった雅子妃。

「世継ぎを強制された」

「海外に行かせて貰えなかった」

とか色々理由はとってつけられたけど、すでに愛子内親王は生まれているし、ちょうど2歳でしょう?この頃に「発達障害」の診断を受けたのではないかと私は思っています。

受け入れられない現実。そして小和田家の為にならない真実にショックをうけたのかと。

 

  女性自身2003年12月23日号

雅子様帯状疱疹募る宮内庁病院不信!

 

 2003年12月10日 宮内庁文化祭

 

 女性自身 2004年1月6日・13日号

「気になるご病状ー雅子様面会不可!在宅療養の波紋」

 

 2003年12月23日 天皇誕生日一般参賀欠席

 2004年 皇室ご一家

 この写真を見て、眞子様と佳子様に笑顔がない事に気づくでしょう?

この無理やり感が多感な内親王たちの心をどんどん傷つけていったのです。

学校へ行けば「愛子天皇」の話題に触れるでしょうし。眞子様は誰よりも傷ついていたと思います。

 

 週刊現代 2004年2月16日号

「間違いない!雅子妃を心身の病に追い込んだ宮内庁の虐め」

 

 週刊女性2004年3月2日号

「賛否両論 愛子さまが天皇になってはいけないの?」

 女性自身2004年3月9日号

「短期集中連載 雅子様消えた笑顔お世継ぎへの重圧」

 女性セブン2004年3月6日号

「皇太子妃雅子さまへ 「公園デビューはNO」「秋篠宮紀子様に第3子切望」宮内庁の呆れた無神経

 湯浅長官が発言したのは「東宮家に第2子を、秋篠宮家に第3子を期待」なのです。このようにマスコミによるミスリードの始まりが「雅子様お可哀想」に繋がって行きました。本当に扇動されやすい国民性だなと思います。

 

 2004年2月23日 皇太子誕生日

 Friday 2004年3月12日号

「皇太子が憂える雅子妃長期療養の犯人」

 女性自身 2004年3月16日号

「公明党が「女帝」肯定へ。皇太子さまも憂えたお世継ぎ問題 雅子様誰が追い詰めた「辛い要求」と「御所生活」の深部」

 女性自身2004年3月23日号

「大反響!集中連載 ご静養本当の理由雅子様子育ての壁と美智子さまの信念とご意向」

 2004年3月25日~4月26日~雅子妃が愛子内親王を連れて軽井沢の小和田家別荘に立てこもる

 

 さすがにこの事態は小和田家でも予想がつかなかったらしく、一家で慌ただしく別荘へ向かう。

 女性自身2004年4月13日号

 

「雅子様転地療養御用邸を選ばなかったなぜ」

 文藝春秋2004年5月号

「異例づくめの転地療養雅子妃40歳の試練と決断」

 3フ月25日雅子妃は皇太子に伴われて軽井沢へ「御静養」に向かわれた。

 出発の際には車の窓のカーテンも閉め切られご一家3人のお姿は見えなかった

 車が向かった先は軽井沢。宮内庁からは「今回の御静養の滞在先を報道しないでほしい」という前例のない申し出が。

 雅子妃が滞在された別荘地付近に配備された白バイとパトカーはざっと3,40台。まるで戒厳令下のように別荘地の周辺を通過するだけで誰何され車はかたはしから止められて職務質問されるというものものしさであった。

 軽井沢へ静養に向かう日、林田東宮大夫の会見

出発時にカーテンを閉めていたのは愛子様がチャイルドシートのベルトを嫌がってぐずられたのですが抱き上げているところが映像に残ると道路交通法違反ととられかねない。国民の範として適切ではないことからご夫妻の判断でカーテンを閉められたようです。

軽井沢では妃殿下のお母様小和田優美子さんが出迎えられ、4人水入らずで過ごされました。父の小和田恒さんも赴任先のハーグから戻ってすぐ合流する予定です」

 昨年(2003年)12月12日に林田東宮大夫は「公務と養育の負担によるお疲れが発病の誘因。万全を期すため来年春まで全ての公務をお休みいただく」と発表。

 さらに今年(2004年)の2月には雅子妃の体調は「波がある」「日中に横になっていることもある」と語っている。

 軽井沢を選んだのは家族と一緒に過ごすことを最優先にされたからではないのか。林田東宮大夫が3月5日「雅子妃は東宮御所以外で静養することはない」という発言を覆した上実の母に寄り添われてまで「御静養」を決断しなければないらないほど雅子妃を追い詰めたものはなにか。

 皇太子40歳の記者会見

皇太子妃という特別な立場からくるプレッシャーもとても大きなものだったと思います。

世継ぎ問題についても様々な形で大きなプレッシャーがかかっていました。幸い子供が生まれて、それから2ヶ月で公務に復帰しましたが、公務と育児の両立、それからメディアからの子供をめぐる様々な要望に応えようとしていた中で疲労が蓄積していったのではないかと思います。

「皇太子妃という立場を健康で果たすことが必要なわけですから、そういった意味からも、今後の公務の内容な在り方を検討する必要があると思います

 宮内庁記者の間では雅子妃の笑顔が消えたのは2003年の春以降。天皇が前立腺がんになって「今は死ねない」と漏らされたと伝わっている。

 「天皇は何よりも日嗣の皇子を望んでいる」

 雅子妃の今回の静養は宮内庁のそういう雰囲気への必死の抵抗

 雅子妃の「公園デビュー」について

第一回目は大した騒ぎにならなかったのですが、2回目以降は各社がテレビカメラを並べて大騒ぎ。居合わせた母親達も記念写真を撮るわ撮ったビデオをテレビ局に売るわで、雅子妃はショックを受けられたようです」

こうした結果を踏まえて皇太子の友人が「一般のお子さんと遊ばせるのは幼稚園まで我慢されては」と進言。

公園デビューは4回で終了。

 2003年暮れ、東宮御所から近い某所で愛子内親王の幼児教育を依頼。2004年1月から10日に1度の割合で体操教室に通う。

 雅子妃の「海外に行けなかったことになれるのに時間がいった」発言に湯浅長官は「正直、驚いた。あんなに海外に行かれたかったとは」

 今年(2004年)皇太子はヨーロッパの3つの結婚式に出席予定。それに雅子妃も同行したいと意向を持っているが、が、特定の国だけ出席するのは外交儀礼を欠くし、すべての国となると約2週間の海外訪問となってしまう。

 宮内庁幹部は「公務を休んでいるのに外遊の大義名分がない」と消極的だが、本音は「天皇陛下の古稀の祝いを休まれて急に治りましたではご説明出来ない」

 この頃はまだ真っ当な意見をもつ雑誌もあったのだと思います。

無理やり「世継ぎ問題」を長期療養の理由にしていますが、要するに愛子内親王の発達が思うようにならなくて焦って公園で遊ばせたり体操教室へ通わせたりしたけど、結局は努力だけではどうしようもなく、かえってよその子との差がはっきりして燃え尽きた感があります。

 「世継ぎ」問題を5年以上無視して、いきなり不妊治療で男子を産める・・と思っていた雅子さんは何様だったのかと思いますし、自分が男子を産めなかったら「女性だっていいじゃん!」とフェミニスト問題へすり替える。皇太子もそれに同調するといった風で、現在の天皇家のありようのきっかけがここに凝縮しています。

 天皇・皇后と皇太子妃の力関係の逆転、そして皇后の甘やかしが始まり、皇室の倫理観をぶち壊すことになりました。

 それにしても2004年から「体調の波」があったとは!!

 

コメント (15)
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