ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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悠仁親王誕生への道   8

2024-08-31 07:35:32 | 皇室報道

浩宮と礼宮が成年に達する頃から、皇室、特に宮内庁はどのあたりまで「皇位継承の危機」を考えていやだろうか。

前述したように、宮内庁からは「皇室の藩屏」と呼ばれる職員が姿を消し、単なる国家公務員の所属の1部になってしまった。

職員は数年置きに配置換えになるから、その期間だけやり過ごせばいいのであって、積極的に「男子皇族の高齢化と減少」を憂うものはいなかった。

しかし、三笠宮家の3親王に男子が生まれなかった以上、危機はそこにあったのだ。

 

 皇太子妃選びは誰の手に?

ここに1冊の本がある。

平成元年に出された小さな本で、誤植が多い代物だけど、ここにはマスコミ目線の「お妃選び」について書かれている。

皇太子妃選びに関しては皇后が「宮内庁長官、東宮大夫、にお願いしている」と発言。

しかし、本来は後宮を束ねる皇后が中心になって妃選びをしなければならなかったのではないか。

昭和58年、時の皇太子は浩宮の結婚について

まず第一に本人がいいと思うこと、もう一つは皇族妃であるという公的な立場である。みんなが見ていいと思う人でなければと思う

これが平成の天皇夫妻の核心の言葉だ。

 本人がいいと思う

 皆がみていいと思う人

この2つが果たしてピッタリ合う人はどれ程いるのだろうか。

天皇は自分が美智子皇后と出会ったのが偶然で、恋愛結婚だったと思っていたのかもしれないが、実際は仕組まれたものだった。

ただ、ご本人が気に入ったから成立したわけである。

日本国民の半分は反対と賛成に分かれて、非常に気まずい時代もあったし、大切しなければならない「皇族の血」を分けた人々との縁を切ってしまった事に後悔の念はなかったのか。

(細々と「菊栄親睦会」「島津家の会」に出席している事が罪滅ぼしなのかわからないけど)

イギリスではチャールズ皇太子とダイアナ妃の恋愛結婚がブームになっていたが、実際は、カミラを忘れられない皇太子に女王が「ダイアナと結婚せよ」と命じて成立。アンドリュー皇子とセーラ・ファーガソンの結婚も破綻。

女王は「国民が納得し若くて世継ぎを産める妃」を息子にあてがい、見事に2人の王子を儲けた。

しかし、日本の皇太子の場合、30歳になろうとしてもなお、妃候補は浮かんでは消えていく日々だった。

・伏見宣子・久邇晃子・北白川尚子・住友愛子・島津彩子・島津智子・坂本敦子・草刈智子・渋沢肇子・小林詔子・古河美佐子・北野裕子・清水美佳・三井智子・服部聡子・三井史子・豊田由美子・三田麻紀子

これだけの人をマスコミはリークしていた。

学習院常盤会も聖心女子大も含め、様々な大学へも候補を募っていたようだ。

この頃はマスコミが毎日のようにお妃候補を追いかけまわして、やんわり否定され、そしていつしか結婚してしまうというのが多かった。

事は将来の天皇の后である。

第一条件にすべきは

 多産系であること

 皇室の伝統としきたりを守る事が出来る人

 社交性と賢さ

ではないかと思っていたが、そんな事はお構いなし。

「テニスコートの恋よもう一度」とばかり狂喜乱舞して、肝心の「世継ぎを産めるかどうか」に関しては全く考えられていなかった。

まさに男女雇用均等法時代にして、「DINKS」大流行り。一般庶民の間では子供を持たない夫婦や、内縁関係のまま一生を過ごす生き方もある。

皇室だけが「世継ぎ」と言ったら左翼が「差別」と言うに決まっているのだ。

しかし、なぜ皇太子が結婚しなければならないか。

それは次の時代の親王を得る為なのである。

 

 小和田雅子の登場

マスコミに「皇太子が執心している女性がいる」と情報が出たのは昭和62年の秋だったらしい。

この時、小和田雅子嬢は24歳。

エレナ王女のパーティでは、青いドレスを着ていたらしい。

ハーバード大学をマグナムクラウデ賞を受賞して卒業、と同時に東大に学士入学し、2か月後には外務省試験に合格という「才媛」

浩宮を囲む小さな集まりには必ずいたし、高円宮邸に招かれてそこで会ったり。何よりお膳立てをしたのが賀陽政憲氏と書いてある。

「尋常でない付き合い方」だったらしい。

宮内庁は小和田雅子について調査を始めた。

結果は「不可」その理由は

 母方の祖父がチッソの社長だった事

この点を昭和天皇は非常に嫌ったし、時の政治家後藤田氏も「皇室に筵旗が立つ」と言って反対。

なぜチッソの社長ではいけないのか。

チッソは、日本最大の公害病を出した会社で、熊本県水俣市のチッソの向上から排出された水銀によって汚染された魚などを摂取した住民が、中毒により亡くなったり病気を発症して苦しみ、今現在も訴訟は終わっていない。

小和田雅子の祖父、江頭豊氏は集団訴訟の場で「貧乏人が腐った魚を食べるからだ」と発言。水俣病を取材していたユージン・スミス氏を暴力団を使って半身不随に追い込んだ過去がある。

 系図を辿れない家だったこと

小和田家は、新潟県村上藩の下級藩士の出と言われているが、実は、本家の小和田家からは「関係なし」と言われている。3代前が不肖の家柄でどうも、半島から渡って来たのではないかと言われている。

それを調べようとしたら、「部落同盟」に抗議されてやめた経緯がある。

さらに言えば、雅子嬢の母は一人娘で、子供は全員女子だった事も付け加える。

この本では、宮内庁は消極姿勢だったにも関わらず東宮は積極的に小和田家にアプローチしたと書かれている。

平成元年の4月には何等かの意向が伝えられたが、雅子嬢は7月からイギリスへ留学する道を選ぶ。

 

小和田雅子嬢は学歴以外に自慢する所は全くなかった。

しかし、なぜ東宮はこんなにも執着したのか。

そこで出て来る「浩宮 アルザスの恋」だ。

これによれば徳仁親王イギリス留学中の昭和58年にフランスへスキー旅行に出かけた。この時、ひそかに見合いが設定されており、その相手が小和田雅子だったというのだ。

いわゆる「ハニートラップ」にかかったと言う事。

そこで本当に1夜の恋が成就したかはわからない。

けれど、徳仁親王の執着をよそに、雅子はあっさりとイギリス留学へ旅立つ。

彼女からすれば、徳仁親王は数多い男友達の一人で、誘われればおいしいものが食べられるので断らない。「好奇心」と本人は言ってるが、その程度の認識だったようだ。

天皇皇后の心では即位の礼に皇太子妃は欠かせないと思っていたのかもしれない。息子がそんなに執着するならと思ったかもしれない。

しかし、昭和天皇が生きている間は認められることがなかった。

 

その代わりに登場してきたのが久邇晃子嬢。

香淳皇后の実家である久邇家の出で、常盤会も推し宮内庁も推す、名家の出の女性だった。しかし、皇太子は3回会って結局は断る事となった。

それまでは女性側から断られて来たのに、久邇家は、一旦は覚悟を決め晃子嬢も入内を了承していたのに、皇太子は顔が気に入らないといい、皇后は「あちらの方(小和田)がお出来になるから」と断ったらしい。

 

久邇家は多産系であるし男子の数も多い。いわゆる「男系男子」に恵まれた家系だった。しかし、ここで皇后の「旧皇族嫌い」が出たのと、皇太子の面食いが表面化。

全く持って「皇統の危機」を意識していない行動だった。

一旦は消えたお妃候補だった小和田雅子が再び登場するのは平成になってから。

もはや皇太子の回りには一人の女性も残ってなかった。

 

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悠仁親王誕生への道 7

2024-08-30 07:00:00 | 皇室報道

 国民は美智子妃の美しさに騙され続けた

前述したように、昭和時代後半には男子皇族は皇太子と除き8人いた。

その為、公に「将来の皇位継承者がいなくなる」危機感は薄かったと見える。

私達が生きた昭和時代、皇室の話題と言ったらもっぱら

 軽井沢での皇太子一家の華やかな生活

 毎日のように福祉施設を訪問する皇太子夫妻

 美しい美智子妃ファッション

今では考えられないが、毎週ワイドショーでは皇族のファッションチェックが行われており、美智子妃の着る着物や洋服を誉め讃えていた。

そういう事が平成で無くなったのは雅子妃が入内してからというもの、その服装があまりに酷くて似合わず、苦言ばかり呈されていたから。

時はバブル時代に向かっていく時で、皇族がどんな派手な衣装で出て来ようと誰も文句を言わなかったし、美智子妃の人気は圧倒的だった。

美智子の

・肩パッドを入れたケープ

・皿と呼ばれる小さな帽子

・両袖で色が変わる、あるいはぼかしを入れる

等々、賢い彼女の日本の伝統と融合させたファッションは世界で認められた。

香淳皇后が骨折を機に表舞台から降りると、その露出度はさらに高まった。

と、同時に国民を味方につけた彼女は皇室内での権力を把握していく。

 

 男系男子減少の危機感の希薄さ

勿論、10年先、20年先を考えると皇太子家にしか男系男子がいないと言う事は十分に危機感を持つべきだったと思う。

しかし、旧皇族復帰論が出ては消える。

美智子妃の旧皇族、旧華族嫌いは有名になっており、それら「上流」との付き合いはほぼゼロになっていた。

さらに宮内庁のメンバーにも名門からただの公務員という変化が現れ、皇族の生き方、過ごし方、皇位継承問題は当事者だけの問題になったのだった。

それは昭和天皇というカリスマがいなくなると如実に表れる。

あまりにも強い美智子妃・美智子皇后の権力の前では、何が正しくて何が間違っているか、皇族はどうあるべきかの規範が「美智子イズム」になってしまったのだ。

 筆頭宮家である常陸宮夫妻をないがしろにする

 常陸宮家は昭和39年から筆頭宮家であるし、明仁天皇の弟である。しかし、両者が仲の良いシーンは見た事がない。平成になると御用邸の使用も許されず、さらに常陸宮の古稀の祝いも天皇の都合で延期されたままになる。

 秩父・高松・三笠宮家からそっぽをむかれる

 個人的には礼宮は高松宮家で「有栖流」の書を学び、妃は紀宮をお気に入りにしていたけど、それに対して東宮家がよその国の王家のように親しくしたというシーンはない。

平成を振り返ってみても両陛下の「強い気持ち」のほとんどは美智子皇后の思いだったのではないかと。

伝統は大切だが人を傷つけるものでもある」という名言もあり、自分の中での皇室はかくあるべきとばかり、演出家と主役を兼ねて「新しい開かれた皇室」を体現してみせた。

しかし、その結果、皮肉な事に国民から皇室への関心を薄れさせてしまった。若い世代へのバトンが渡されなかったのだ。

いや、秋篠宮家創設時に一度、国民は皇室に関心を持ち、その機運は高まったのだが、美智子妃の長男への偏愛がそれを断ち切ってしまった。

 

 浩宮と礼宮

浩宮は将来天皇になるので甘く育て、礼宮は将来気楽な立場になるので厳しく育てる」方針は一貫していた。

生まれた時から「将来の天皇」として大事に育てられた浩宮は、成績が悪い事すら「おちゃめ」な一面として報道され、クラシックとヴィオラ、登山が好きなごく普通の背の低い青年として成年になった。

学習院大学文学部史学科を卒業、さらに大学院で中世の交通史を学び、オックスフォード大学に留学してテムズ河の水運史に関して研究。

文科系なのは間違いないが、研究には一貫性がない。

偉大な祖父と優しい両親の元で青春を謳歌。

特に酒豪として知られ、礼宮には「ザルです」と言われている程の酒好き。

天皇や皇族は自分の好みなどは発言しないのが通例だったにも関わらず、彼は23歳の時に「歌手では柏原芳恵さんが好きです。「春なのに」はいい曲ですね」と言ってしまい、その後、コンサートに招かれる。

 皇族の発する言葉が影響力を持つという事についての認識の甘さが漂う。

さらにオックスフォードからの帰り、アメリカを回ってレーガン大統領に会い、大好きなブルックシールズとも会う。

それだけではない。ブルック・シールズ来日のおりには、東宮御所に呼んでしまったのである。

かなり自分の欲望には素直というか、有言実行の人ともいえる。

彼が成年を迎えた頃からお妃が誰になるかと言う事は話題になったが、実際に浩宮の回りに女性の影は0だった。

彼自身、自分の妻が将来の皇后になると言う事をどれ程認識していたかは怪しい。むしろ、どのセリフも全てふわふわとした理想でしかなく、言わされた感が強い。

昭和60年

微妙な問題ですが、結婚相手を一方的に決められるのは困りますが、周囲の意見も尊重する必要はあると思います」

「結婚する相手として、自分とまず価値観が同じである人が望ましいと思います。具体的に言えば美しい物をみた時にそれを美しい物として評価できる。大切なものだったら大切なものとしてそれを大切に扱う。それから贅沢を避ける意味において、金銭感覚が自分と同じ人がいいと思います。例えばニューヨークのティファニーに行ってあれやこれやものを買うようでは困ると

浩宮自身が語った「理想の女性への注文」だが、今思うと「教わった感」が強くて本当に彼自身が考えた言葉なのか非常に疑問だ。

またこんな短い言葉の中にも失言が見える。

「周囲の意見も尊重する必要はあると思います」

この言葉は、女性関係が豊富な男性が言うなら説得力があるが、この時点で付き合った事のある女性がいなかった人が偉そうに上から目線にしか見えない。

また「ティファニー云々」のように具体的なブランド名を上げながら言うというのは相手に対して失礼である。

浩宮がそこまで倹約家だったなんて聞いた事がないし、そもそも自分が置かれている環境が「贅沢でない」となぜ言えるのかという点。

それを偉そうに「あれやこれや買う人では困る」

マスコミは大々的に好意的にこの発言を広めたけど、ティファニーにとってはいい迷惑で、美智子妃が尻拭いの為にティファニー製品を自ら買ったと言われている。

後年、全く正反対の女性と結婚する羽目になるとは、この時の浩宮は思っていなかったろう。

浩宮の最大の欠点は「世間知らずの頂点」にいるようなところで、しかし、この頃はまだその「世間知らず」さが品のよさと誰もが思っていたのだった。

礼宮程、生まれてから今日まで「誹謗中傷」にさらされた宮はいないと思う。

誰が何の目的でそうしたのかわからない。

もしかすると6歳年上の兄よりも優秀であったことが誰かの勘にさわったとしか思えない。

 礼宮は美智子妃の子ではない

これは随分小さい頃から言われてきた。「皇太子と加茂さくらの子」というのが最も大きな噂で、なぜそんな噂が出て来たのかわからない。

実際、礼宮は小さい頃から体格がよくて兄の身長をすぐに追い越し、東宮家で一番背が高い皇族になった。

生物や動物が大好きで、彼の回りには様々な動物がいた。

 兄は賢いが弟はやんちゃ

礼宮は運動にも優れていて、テニスの腕は相当なもの。

常に学友らに囲まれていて、サングラスや金のブレスレット、ひげなどおしゃれでかっこいい宮様だった。

そういうちょっと派手めな所が「やんちゃ」と称されたり批判されたりしたが、本人は至っておおらかだった。

1984年学習院大学法学部政治学科に入学。本当は生物学を勉強したかったが、当時は学習院以外への進学は許されなかった。

しかし、礼宮は落ち込まずに入学するなり自分でサークルを立ち上げる。

「自然文化史研究会」は紀宮の夫となる黒田氏や川島紀子嬢も入ってたもので、全国を回ってその地方の文化を学ぶというサークル。いわゆる「国見」である。

男女に関わらず志を共にする人達と日本中の土地を回るのはきっと楽しかったろうと思う。

その傍ら、生物への夢を忘れてはいず、進化生物学研究所で家禽類研究を始める。

そしてこの頃、川嶋紀子嬢と出会う。

おっとりとした浩宮の青春に比べると、礼宮は自分で自分の道を切り開くタイプで行動力がある。それがなお一層、ある種には嫌われたのかもしれない。

1988年、学習院大学を卒業と同時に日本動物園水族館協会総裁に。そしてオックスフォード大学、セント・ジョンズカレッジに留学し魚類の分類学を専攻。

「ナマズの宮様」と呼ばれるようになったのはこの頃だ。

昭和60年

結婚は遅くならない方がいいと考えています。30歳より前にしたいですよね。タイプですか。具体的にでしょうか。なかなか難しいですね。身近にいいと思う人はいますし、例えばテレビに出ている新珠三千代さんとか。

最近の若い人はあまり知らないので。(浩宮の相手にはどんな人がいい?)

浩宮がいいと思った人がいいんじゃないでしょうか。二人であまりそういう話はしませんね

理想の女性像はあまり考えた事がありません。結婚観についても今の所特別な考えは持っていません。(好きなタイプは)会話をしていて楽しいというのが一つの条件でしょうね。浩宮が永遠に意中の人が現れなければ先に結婚しなければしょうがないですね

私達は最初、理想のタイプで「新珠三千代」という名を出された時、大いに驚いたもので、それはマスコミもそうだったらしく「殿下、随分年上の。美智子さまと同じくらい」と苦笑した程。

でも浩宮より6歳も年下なのに「最近の若い人は知らない」と言い切ってしまうあたりが「世俗にまみれていない」感じがした。

マスコミはこの事ばかり取り上げて「身近にいいと思う人もいる」という発言はスルーしてたけど、実はこの頃、マスコミ内でも川嶋紀子の名前は知られていたのだった。

しかし、「学者の娘で官舎住まい」と言う事で勝手に「これはダメだろう」と思っていたのも事実。

女遊びのスキャンダルとして追いかけていた面はあったかもしれないが、弟が兄より先に結婚する事は当時はあまり考えられず(特に皇室では)とにかく目先の浩宮の結婚の方が大事だったのである。

 

しかし、礼宮は後年、川嶋紀子との婚約記者会見で「とにかく話していて楽しい」と言っている。最初から紀子様を念頭に入れていたというのもあるけど、しっかり自分なりの「妃像」を描いた結果が今に繋がっているのだと思う。

 

俗に賢兄愚弟と言われ、その象徴のように浩宮と礼宮は比較されて来たのだが、大学卒業後の総裁職の多さは、いかに礼宮が専門分野に長けていて、熱心に公務に取り組むタイプか、わかる人にはわかっていたのである。

 

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悠仁親王誕生への道 6

2024-08-29 07:00:00 | 皇室報道

 ナルちゃん憲法

戦前は、一定期間天皇皇后との同居を経て、親王も内親王も別に暮らして教育を受けるしきたりだった。

しかし、皇太子夫妻は最初から自分達で子供を育てることを強調。

あまりに強調しすぎて昭和天皇からは「私達の時も最初から別居はしてない」と言わしめる程だった。

浩宮徳仁親王に関して有名なのは「ナルちゃん憲法」

浩宮の教育を女官任せにせず、スポック博士の育児書を参考に自分流に育てることを選択。

しかし生後7か月の時に外国への訪問が決まり、面倒を見る女官への書置きが「ナルちゃん憲法」と呼ばれた。

 ちゃんとお聞きにならなきゃいけませんと叱ってやってくださいね。

 コップにすこしだけ(牛乳を)ビンから注ぎ、「『ナーイ』にしてちょうだい」と言うと一生懸命飲んで「ナーイ」と見せてくれます。またすこし足します。

 一日に一回くらいはしっかり抱いてあげてください。愛情を示すためです。

これだけではないけど、とにかく非常に内容が細かく、他人を信用してない妃の内面が透けて見える。

記者会見では皇太子が

なるちゃんとか、そんな呼び方をしているけど通じてない」と言うと、すかさず横から「通じますよ」と皇太子妃が反論。

こういう物言いが妃らしくないのだが、美智子妃にとってほんの少しの子供への否定的言葉は自分への否定と思って嫌だったのだろうと思う。

一方の礼宮の場合は憲法は存在せず、

とにかく明るく闊達で

小さい頃から生物に興味を持つ理系の少年だった。

皇太子夫妻は

浩宮は将来天皇になるのだから甘くして、礼宮は将来気楽な立場になるから厳しく教育する」と言った。

本当は逆の筈なのに、誰もこの言葉に不思議さを覚えない時代だった。

浩宮は美智子妃にとって切り札だったから、何が何でも優秀でなければならなかった。なぜなら美智子妃が誇れることは「学歴」以外にはなかったからだ。

 

 皇統は盤石にあらず

この当時、子供に恵まれたのは東宮家と三笠宮家のみで、三笠宮寛仁親王は将来、三笠宮家を継ぐ立場だったので「寛仁親王」としか呼ばれず。

昭和47年、16歳の麻生信子を見初めたが、結婚は55年まで待つ。

二人の間には彬子女王と瑤子女王の女子しか生まれず。

1982年に皇籍離脱騒動を起こして昭和天皇を困らせる。後に癌を患い、さらにアルコール依存症を発症し、2012年死去。

桂宮宜仁親王は学習院時代に同級生から「皇族だから」という理由でいじめを受け、心が傷つき、人が「変わってしまった」らしい。

高松宮を慕っていたのでその公務を引き継ぎつつ、本人は結婚を望まなかったため、1988年単独で桂宮家を創設。

40歳の時脳挫傷を起こし、それがきっかけで入退院を繰り返し、2014年死去。

3男、憲仁親王は1984年に鳥取久子と結婚。高円宮家を創設。

二人の間には承子女王・典子女王・絢子女王の3人が生まれる。

2002年、死去。

 

つまり、昭和の終わりにはすでに「皇位継承問題」が再び頭をもたげてきたのだった。

 

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悠仁親王誕生への道   5

2024-08-28 07:00:00 | 皇室報道

 昭和34年2月6日の続き

菊池委員 宮内庁長官にお尋ねいたしますが、この皇太子殿下の御成婚につきまして諸説ふんぷんとして、国民はいろいろの誤解を抱いておるのでございます。

私は、皇太子が平民の娘をそのきさきとして選ばれたことを非常に喜んでおります。

平民であろうが新平民であろうが、粉屋の娘であろうが何であろうが差しつかえないと私は考えておるのであります。

こういう点において、私は欣快にたえないと考えておりますが、その婚約の過程においていろいろの謀略、策略が行われておるということが、最近の週刊雑誌やその他の刷りものにおいて世間に流布され、これによって国民が非常な疑惑を抱いて、国民の頭は割り切れないような感じになっておるのであります。この際それが事実であるかいなかを長官から明確に発表されて、そうして流説の真偽を明らかにして下さるならば、国民は晴れやかな気持になり得ると思うのであります。

私はもう時間がございませんので、端的にせんじ詰めて要点々々だけ申し上げますから、長官も簡単にお答えを願いたい。
 まず第一にお伺いしたいのは、この婚約の前に、美智子嬢は二十五人の見合いをしておられた。そして最後に波多野という青年と婚約、これを破棄して皇太子の方に振りかえたというようなことが流布されております。

週刊雑誌に出ておりますが、これは事実でありましょうかどうか。

片一方にそういう婚約がありながら、これを破棄して婚約をするということは、世俗、人情に反し、道義をじゅうりんし、将来の国民の象徴たるべき人を作り上げるにはふさわしいことではないと思うのでございます。

そういう婚約者があるかどうか、その点をお伺いいたしたい。波多野という青年です。

(意訳:自分としては皇太子妃が平民でも全然構わないが、彼女が25人もの人と見合いをし、その中で波多野という男性と婚約していた。にも関わらずそれを解消して皇太子妃に決まった。もしこれが本当なら大変な問題です。はっきりと答えて下さい)

宇佐美説明員 全くないものと考えます。

菊池委員 もう一つ重大なことは、この婚約を運ばれた方々、運動に当られた方々が全部カトリック教徒である。

前の田島長官もカトリック教徒であり、それから宇佐美長官もカトリック教徒であり、小泉信三氏もカトリック教徒であり、それからしゅうとになられる正田英三郎氏もカトリック教徒である。

それから最高裁判所長官の田中耕太郎氏もカトリック教徒である。

カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が運ばれたという説が流布されておるが、これはいかがであるか、承わりたい。

(意訳:カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が決まったという説が流れているが本当なのか)

宇佐美説明員 関係なさった方々がどういう宗教であるかということは、私調べたことはございませんので、責任を持ってお答えいたしかねますが、私がカトリック教徒であるなどということはとんでもない間違いであります。

ただ出身せられた聖心学院というのはカトリック系の学校でありますが、御本人は洗礼を受けておられない。

あるいはカトリックが将来皇室に対して何らか影響を持たないかという心配をせられた方々が世上あるということは聞いたことがございます。

しかし、もちろん美智子さんは洗礼を受けておられませんし、学校当局においても非常に慎重な態度をとっておられまして、この問題に対しては何ら御心配はないと考えるのでございます。

従って、過去においてこの問題についてカトリック系の陰謀があったなどということは全然根拠がございません。

(意訳:私個人はカトリックではない。美智子嬢は洗礼を受けてない。カトリックが皇室になんらかの影響を及ぼす事はないし、陰謀なんてとんでもない)

 

正田美智子入内決定のニュースは実はアメリカから先に発信されたものだった。

反対派の意見も昭和天皇の諫めによって、鳴りを潜め、正田美智子嬢は皇太子妃となった。

平安時代までの陰謀による妃選びのごとき、近代皇室においてこれだけの疑惑と陰謀説を持った皇太子妃は初めてだったと思う。

旧皇族も旧華族も無力である事を思い知らされた。

以後、皇太子夫妻と旧皇族・旧華族との縁は急速に消えていく。

 美智子妃は皇室の救世主だったのか

昭和34年4月10日に結婚の儀を執り行った皇太子夫妻は、翌2月23日、徳仁親王を得る。

皇太子妃が最初の出産で男子を儲けた事で国民は大喜び。

昭和天皇によって「浩宮徳仁」と名付けられた。生まれながらに天皇になる運命を持った子供だった。

これによって、皇室内での皇位継承問題は解決したかに見えた。

むしろ問題は美智子妃と回りの人達の事。

最初に女官長に就任した牧野純子女官長は、美智子妃に対して完璧な「妃」としての教育を施そうとした。

しかし、美智子妃はそれを真っ向から否定し、皇太子を味方につけて自分流を貫いていく。

一番はマスコミを利用した事で、

マスコミが好みそうな絵を提供する事で、「日本一のブルジョア一家」のイメージは固定化した。

これは生まれて半年目の浩宮を天皇に会わせた時の写真であるが、上が6月、下が7月、7月のこの微妙な空気感がわかるだろうか。昭和天皇も香淳皇后も笑っていない。

皇孫の誕生だというのに、少しも親しみを持っていないのだ。

これは予測でしかないけれど、美智子妃は長男を切り札にしていたのだと思う。決して祖父母には抱かせたりしない、自分だけがこの子の親とすることで地位の安泰を図ったとしか見えない。

最初は好意的だった入江侍従長も、お妃教育当たりから美智子嬢に関してはめんどうな気持ちを抱いていたようだ。

自分が疑問に思ったら徹底的に追求し、論破して行こうという姿勢に可愛げがないと思ったのかもしれない。

興奮するとすぐに倒れてしまう・・という癖もあり、中々難しい。

ゆえに、正田家と皇室の距離は縮まるどころか、より広く空く事になり、正田家の父はスキャンダルを恐れ夜遊びをやめ、母もまた地味な生活を送らざるを得なくなった。

これが恐らく第一の「約束違反」だったのかもしれない。

 

昭和39年9月30日、弟の義宮が津軽華子と結婚。

お見合い一回目ですでに決まったもの。津軽家は元大名家で徳川家とも近い。

義宮は元々体の都合により子供を得られないという事がわかっていたが、華子妃は「華が守ります」と言って入内した。

華子妃の入内を喜んだのは秩父・高松両宮妃で、親戚筋にあたるので話も弾んだ。そういう事がより美智子妃を孤独にさせたかもしれない。

 

余談であるけど、高円宮家の2女王がそうであったように、旧皇族や旧華族に属する家には代々の装束やティアラが保管されており、戦前からそれを貸したり借りたりするのが通例。

しかし、正田美智子はそういう家とは繋がりがないので、以後ティアラは入内時に新しく作られる事に。美智子妃は入内の時の皇太子妃の第一ティアラと、東京五輪を記念して作られた第二ティアラを持っている。

華子妃も複数持っている。しかし、作られたティアラは全て国家財産だ。

 

美智子妃は1965年11月30日に礼宮文仁親王を出産し、これで名実ともに皇太子妃としての地位を確立。

常陸宮家に子供が生まれない以上、皇統はここに集約されるのは運命だった。

ゆえに美智子妃はある意味、皇室の救世主だったと言える。

 

 

 

 

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もしも徳川家康が総理大臣だったら

2024-08-27 07:00:00 | ドラマ・ワイドショー

を、見て来ました。

原作もあるようなので、今度読んでみようかなと。

最初はげらげら笑ってしまって、ラストは涙が止まらなくなって、こんな日本だったら本当にいいのにと胸が熱くなって・・・とにかく泣きました。

ネタバレになるかもしれないけど。

 コロナが流行ったので総理大臣ら閣僚がみんな死んじゃった

 AIで歴代の名政治家を作り出して対処する事にした。

 徳川家康・豊臣秀吉・織田信長・徳川綱吉・徳川吉宗・足利義満・紫式部・北条政子・聖徳太子・坂本龍馬

で・・歴史の流れから言えば織田信長の後、秀吉が政権をとり、その後家康で、綱吉に吉宗は徳川家という事になります。

坂本龍馬が官房長官になって、まず国民に「ロックダウンぜよ」と言う。

そこからほぼ強引に一ヶ月のロックダウンが始まり、一人当たり50万の給付金を秀吉が決め、各地区ごとに直接渡す。

インチキが発生したら「必ず見つけて殺してやる」という過激な言葉も。

失業者を集めて「大農業改革」で農家を増やして自給力を高め国を強くする。

それらを武器に外交力を高める。マスクも逆に売りつけるという強さ。

 

でも何もかもうまくいく中で、一人家康だけが悲しそうな顔をしている。

私は官邸の屋上で浜辺美波を背に立つ家康をみたら、とたんに涙が出て。

だって彼が見ていたのは皇居。あそこに江戸城があったのに・・・

国民は熱狂、まるでアイドルのごとき。

そこに目をつけた秀吉は独裁政治を行う宣言。

そこに待ったをかけたのが家康。

ラスト、家康の長い演説は本当に涙なしでは見る事が出来ず、エキストラさん達も本当に感動して泣いていたような気がします。

要は、政治を人任せにせず若い人も関心を持って自分の国は自分で作ろうという意思を持て、その一歩が選挙なのだと。

馬鹿な国民に一つ一つやるべきことを教えようというのが秀吉なら、家康は「それでも私は信じたい」と言う。

理想の権化で、そんな事言っても国民が動くわけなく、この日本は多分どこかの国に占領されていくんだろうと感じている私には、これが最後の「日本人による日本人の為の映画」に見えました。

 

キャストの素晴らしさ、そのキャストの見せ場を作る脚本、それに感動しました。

野村萬斎の芸達者は知っているけど、ここまでカリスマ性にあふれる家康を拝見するとは思ってもいず、彼が求める「安寧」という言葉こそ、本来天皇が口にすべき言葉じゃないのか?と思いました。

日本は世界最古の国で川の流れのように一本で繋がっている」

それこそがまさに男系で繋がってきた天皇家の歴史であり、それこそが日本の誇り。それを今「愛子天皇」と言う形で断ち切ろうとする輩はやっぱり正しくないと思うのです。

現代によみがえった家康が失望し、けれどまだ希望があると思ったのは、本当に彼の希望なのだ。それを実現するのは他ならぬこれからの日本人ではないかと。

 

竹中直人はもう、いるだけで「秀吉」なんですよね。見慣れ過ぎてまるで秀吉が乗り移っているような。悪役になった時のすごみも素晴らしかったし、ラストの去り際もすごかった。

GACKTの信長は、何だろう・・・かっこよすぎて言う圧倒されちゃって。

彼が刀を振り回しながら「密室・密集・密閉」三密を訴えたCMは大好評。こういうCMだったらみんな従ったのになと思いました。

また、国会で「目を覚ませ!」と眠っている議員を起こすシーンも笑いました。

坂本龍馬の赤楚衛二は新しい龍馬を演じ、千葉さな子似の浜辺とちょっといい雰囲気になるんだけど、常に物事はっきり言ってくれて、遠回しではなく、きちんとはっきりと主張してくれないとわからないなと思いました。

 

紫式部の観月ありさは本人と気づかない程のメイクで楽しかったです。

古典を広め、ちょっとした古典ブームを巻き起こします。

とにかく全員キャラ立ちしててすごかったけど、個人的には山本耕史の土方歳三ですね。

ちょこっとしか出てこないのに・・・あ、土方さんだと思う自然さ。

その土方が坂本龍馬と協力し合う図というのも、また見られない事で珍しく面白かったです。

 

この映画は若い人にこそ見て欲しい。

どうせ自分なんか何も出来ない」と思っているとAIに頼らなくてはならない時代になるよ。AIに教えられる人生なんてつまらないでしょ。

 

世界が戦争へ走り、日本は侵略の危機に陥っている今、自分達のアイデンティティを守る為に何をすべきか教えてくれる素晴らしい作品です。

 

 

 

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秋篠宮両殿下・悠仁殿下 昆虫学会へ

2024-08-26 07:00:00 | 皇室報道

無事に両殿下と悠仁殿下は京都に入られ、昆虫学会へ。

両殿下は、「公務」として開会式への出席、悠仁殿下は事務局から「ぜひ」と言われて開会式へ。

本当は26日に京都入りする筈でした。

殿下の笑顔が眩しい。本当に楽しそうで私達もとても嬉しいです。

Xは荒れきって、僅か18歳になろうとする若い学者の芽を摘もうとする。

これが日本人でないなら、日本は完全に中韓に侵略されている。

私はね、別に韓ドラや華流をみたり音楽を聴いたりする事には否定的ではありません。

しかし、それはあくまであっちでやっているものを見ているだけだからいいのであって、日本の放送局まで乗っ取ったり、こうやって皇室の事にまで悪口を書きこむような行為は「外国人」であるからこそ許せません。

「愛子天皇」を叫ぶ人達の心根の悪さが日本中を覆って、だからこそこんなに毎日雷だ、地震だ、大雨だっていうんでしょう。

神様だって浄化しきれません。

 

日本の皇室で、学問にはげむ事は唯一皇族に許された事です。

だから眞子様も佳子様もそれぞれの分野を極めようとしていたし、それは三笠宮家でも同じです。

秋篠宮殿下も佳子様もライフワークとしての学問をお持ち。

上皇も、昭和天皇もそうだし、香淳皇后は非常に日本画がお上手で雅号をお持ちでしたし、組みひも等にも秀でていらした。美智子皇后は文学の分野、特に和歌で名を馳せた。

清子内親王は盲導犬協会の総裁を務められ、公務の合間にはアニメオタとして有名でいらした。

今上もビオラに始まったクラシック好きは今も健在で、今やそれだけが趣味みたいになってますよね。

それに引き換え、適応障害になった皇后は皇太子妃時代から「ライフワークを持て」と言われているのに、好きな事は遊園地に飽食です。

愛子内親王は卒論をきちんと仕上げ、文学好きであるなら、それ系の名誉総裁になってもおかしくないと思う。

でも、ここ数か月静養も行かずにどこで何をしているやら。

そういう人を天皇に担ぎたいなんておかしい。

 

悠仁親王はたまたま父君が生物が好きで、その影響もあって昆虫に興味を持たれ、上皇がわざわざ専門家の指導を受けるようにさせて下さった。

上皇は悠仁親王の昆虫好きを喜んでいたのです。

もし、愛子内親王が小さい時から平安時代などに興味を持っていたら、必ず上皇后が手助けをしてくれたと思う。

悠仁親王の今日は、彼一人で築いてきたものではない。

両親と祖父である上皇陛下のお蔭です。

しかし、そのチャンスを無駄にせず、自らせっせと学んできた結果が今なのです。普通の家の子だって、それくらい出来るけどやらない。それが現状なのです。

「さんまの東大方程式」を見ていて、東大に入る人達はなんらかの特殊能力があるのかなと思うし、一方で非常に偏っている部分もあると思いました。

バランス感覚に秀でている人は案外よそから来てたりするし。

沢山いる東大生のほんの一部なんだろうなと思います。

自由に学問が出来るという意味では筑附と似ているのかもしれないけど。

「愛子天皇」を言う人達は、今時の高校をよくわかってないというか、私立のがちがちに校則に縛られた学校をイメージしているのかもしれない。

でも私服の高校って授業中何をやっていても叱られないし、成績さえよければ何も言われない。

はるか昔のうちのジュニアの高校も私服でしたけど、1年で大検受かったからもう学校に来ないという人もいたし。

自分で勉強をしないとついていけないのが進学校。

その点、私学は非常に面倒見がよく、あれこれ言われるから親としては安心な所もありますよね。

そして進学方法も、百恵ちゃんの時代みたいに(御免、例えが古すぎて。ほら赤いシリーズの)一発試験で合格と思い込んでる輩がいる

違うのよ。

大学によって特色が違ったりして、受験も様々で、夏にはほぼ推薦が決まっている子もいる。うちもそうでした。

だから何で「受験生なのに公務」「受験生なのに園遊会」「受験生なのに学会」と言われるのかわかりません。

受験生は勉強以外、何もしちゃいけないのか?そんなあほな。

アイドルなのに受験生も一杯いたんじゃん。

 

本当に誹謗中傷がひどすぎて、頭は痛くなるわ悲しくなるわ。

ふぶきはアキシンの象徴やな」という書き込みがあったけど、これは誉め言葉と思う事にした。

結構ですとも。第一人者は高清水さんとremmikkiさんですけど、無名ふぶきもお守り致します。

その為に頑張ります。

悠仁殿下が心から笑顔でいて下さることが日本の幸せです。

 

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皇室ウイークリー

2024-08-25 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

皇嗣家

8月18日・・・佳子内親王 → 「第41回全国高校生の手話によるスピーチコンテスト」出席

8月21日・・・両殿下 → 皇宮警察本部長表彰の永年勤続功労者に会釈

 夏休み期間と言う事で天皇家の日程なし

 「愛子天皇」の署名運動は続いているようです。

 上皇夫妻 軽井沢で静養

22日から上皇夫妻は軽井沢で静養。

 すっかり定番化した「軽井沢」静養です。

若い方はご存知ないし、何の疑問も持たないと思うのですが、かつて軽井沢は上皇夫妻が皇太子夫妻だった時の避暑地でした。ホテルは堤家のプリンスホテルを使っていたのです。

御用邸があるのになぜ?と思うかもしれませんが、誰も文句はいいませんでした。

上皇は正直那須は暗くて嫌いと発言した事もあり、平成の終わりから軽井沢→草津とハシゴ静養も当たり前になりました。

しかし、即位した頃には「なぜ御用邸があるのに軽井沢に」と批判が出て行かなくなったんです。上皇になれば好き放題に民間施設を利用出来るわけですね。

皇后を悪くは言えないでしょう。

昭和34年2月6日の国会審議は非常に様々な問題を論じていますが、最終的には当時の皇太子、つまり上皇陛下の行動に「問題あり」と考えていた人達が数多くいたと言う事です。

その理由は、第一に

 自由恋愛して結婚を決めたこと

 一般人と同じような遊びを堂々として、それをマスコミが持ち上げて取り上げている

終戦から僅か10年近く、国民は敗戦によって心のよりどころを失くした。

唯一、昭和天皇のありようだけが国民の心のよりどころであるのに、皇太子は自由に行動し結婚し、さらに御所を作るより先に東宮御所を作ろうとしている。

これは果たして皇太子としてふさわしい行動なのだろうか。教育係の小泉信三にも責任があると追及しています。

皇太子は結婚後は「マイホーム主義」と言われて批判されました。公務よりも家庭優先。

その批判をかわす為、皇太子夫妻は自ら営業して公務を増やし、その見返りとして軽井沢静養や、ハシゴ静養を得ていたような気もする。

 

色々秩父宮邸を改修した秋篠宮邸が愛子天皇派によって批判されているが、時の東宮は本来は赤坂迎賓館を東宮御所にしなくてはならなかった。

しかし、その当時、迎賓館は国会図書館として使用されていた為、渋谷の東伏見邸を東宮借り御所として使用。

昭和天皇らは「御文庫」と呼ばれる防空壕にお住まいだった。

国会では東宮御所の建設に対し、保守派は「もう少し我慢すべき」と言った。

当時はゼネコンによりほぼ奉仕のような状態で東宮御所を作る案があってもなお。

しかし、1960年、貞明皇后が住んだ大宮御所を潰して新東宮御所を作った。

仮御所は常陸宮邸になった。

第一子が男子だったと言う事で、もう美智子妃には怖いものがない。

上記の写真を見ても、どっちが皇太子かわからない程。

そういう意味では現天皇とよく似ている。

 

ちなみに、「女帝論」を唱える人達もいた。

昭和天皇が秩父宮の臨終に立ち会えなかったこと、香淳皇后が実母の臨終に立ちあえなかった事を「人権侵害」とも言っている。

しかし、それほどに天皇皇后は「穢れ」に触れてはいけない存在なのである。

イギリスにも女王がいるのだから女帝も認めるべきと言っているのは、社会党系の人達。

つまり社会主義の人達なのだ。

戦後すぐから、このようにいわゆる皇室の伝統を壊し、「一般人」化したい人達がうごめいていたのだった。

 

私は秋篠宮があのような環境下でよくぞ、ご立派に皇室を理解し、お子様方の教育を全うされているものだと感心してしまう。

上皇も兄もどちらかと言えば「自己愛」に満ちた皇室を作り上げてきたのに、秋篠宮はその逆を行っている。悠仁殿下もまた若いながらに父の薫陶を受けている。

昭和天皇との繋がりや高松宮家との付き合いなどが価値観を醸成したのかもしれない。

そして最も素晴らしかったのが紀子妃を選んだ事だ。

紀子妃の存在がなかったら秋篠宮家もまた天皇家と同じ道を辿ったかもしれない。

そう思うと、本当に皇統は常に綱渡りと思わざるを得ない。

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悠仁親王誕生への道   3

2024-08-23 07:00:00 | 皇室報道

私はヴァイニング夫人が皇太子を洗脳したなどとは書いていません。

ただ、根本的なキリスト教と神道の違いはあると思います。

 キリスト教 → 偶像崇拝しない。教義がある。神の前ではみな平等。

         絶対王政では「王権神授説」となり、王位は神から授かった事になっていますよね。

 神道 → 天照大神を頂点とし、天皇はその子孫として尊い血筋である。

       自然界、いたる処に神が宿る。教義はない。

ヴァイニング夫人は恐らく、永久に「天皇家の血筋による尊さ」を理解出来なかったと思うし、時の皇太子は「果たして天皇という存在は正当なのか」と真面目に考えたでしょう。そういう事を言いたかったのです。

  昭和天皇の誤算

 昭和天皇の昭和天皇は戦後、皇太子と共に生活出来て幸せだったようで。入浴の様子を見に来て「おお入ってるね」とおっしゃったり、「東宮ちゃんは人気者だね」と嬉しそうだったり。

こんな笑顔の時もあった。

けれど、時が経つに連れ、世間では「天皇の戦争犯罪」について言及する書物が出回り始めま。「反天皇制」を堂々と掲げる人達も出て来ました。

今までは現人神だったけど、人間宣言したのだから好き勝手に批判出来るというわけだ。

と、同時に週刊誌が台頭し皇太子を始め、皇族方の事を好きに取材して、書き始める。

昭和の友納尚子である小山いと子などは、香淳皇后について「あたかも見て来たような」本を皇太子のお妃問題は、まるでアイドルの結婚のように。

昭和天皇は戦争についてあれこれ語らなかった。

自分が悪かったとも悪くなかったとも。それが皇室を守る唯一の事だったから。

しかし、皇太子は次第に「何も語らない父天皇」に疑問を抱き始めたのではないかと。

昭和天皇は皇太子が歴代の天皇のように、自分を制御し、一切を語らず公にのみ存在する者となるように望んでいただろうが、皇太子ははそうはならなかった。

学習院時代、こっそり皇居を抜け出して学友と銀ブラした事件は有名で、やんちゃといえば聞こえがいいけれど、どこかで「一般人と同じように楽しみたい」気持ちが出て来たのだと思う。

それが昭和天皇からすると誤算だったといえる。

また、昭和28年、弟の秩父宮が亡くなり、高松宮家には子が生まれず、唯一男子を授かった三笠宮家では殿下自身が社会主義者ではないかと疑いをかけられ「赤い宮様」と呼ばれるようになった。

なかなか頭の痛い問題だった。

 

 小泉信三と入江相政

皇太子のお妃選びが始まったのは、成年式を終えた直後から。

近代皇室において、東宮妃は五摂家(近衛・九条・一条・鷹司・二条)か、皇族から迎えるのがしきたりになった。

当然、皇太子妃もこれらの家から選ばれる、つまり学習院の女子同窓会である常盤会メンバーが選出するものと思われていた。

当時、最有力候補が北白川肇子嬢。世が世ならば北白川宮家の姫である。

家柄的にも常盤会的にももっとも有力で誇れるお妃候補だった。

しかし、これで決まるか・・・というその時、突如登場したのが正田美智子嬢である。

正田美智子が皇太子妃候補になった背景には、東宮御教育参与であった小泉信三と、入江相政侍従長の影の暗躍があった。

この二人の共通点は「クリスチャン」だった事。

入江相政は藤原定家から始まる冷泉家の血筋で、昭和天皇の侍従を長く勤めていた。

昭和の最後の方はほぼ「支配」していたと言っていい。

二人がなぜキリスト教徒だったのかは知らない。

けれど、いわゆる「宮中改革派」であったことは間違いない。

つまり、

 伝統としきたりを破壊

 開かれた皇室と言う名の庶民的な皇室を作る

という点で思想が共通していた。昭和天皇は戦後、沈黙を貫きほぼ、この二人が皇太子妃選びに積極的に参加しても、何も言えない立場だったし、まさかそこに「皇室破壊の芽」を植え付けようと画策していたとは思いもしなかっただろう。

 

 

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両陛下 二人だけの静養

2024-08-22 07:00:00 | 皇室報道

という事で、今回は二人だけの静養になりました。

車に乗っているけどマスクして・・・・

去年、9月になだれ込んでの静養で「愛子内親王にはお仕事がないの?」という批判がよほど気に障ったらしく、今年は愛子内親王は「日赤のお仕事」があるので一緒じゃないと発表。

テレビで見たけど、二人とも目を合わせないし、似たような事言ってて相手の言葉を聞いてないなあと。

ゆっくり出来るといいですね」って天皇陛下はおっしゃったけど、あの・・・ほとんど公務がない状態なのに皇居ではゆっくり出来ないのかしら?

皇后陛下は「歩きたい」とか言ってたけど、私は夜中の徘徊を思い浮かべました。

今年、電車で来なかった理由は「体調の波」だそうです。

お出迎えが負担・・・というか、時間通りに行動出来ないらしいです。

 

娘を間にして会話が成り立っていた夫婦が、いきなり二人だけでとなったら、殺伐とした空気が流れそう。

何というか、年齢的に行ってももうこれ以上はよくならないし。

むしろ、悪化の一途をたどるだけでしょう。

誰の言葉にも耳を貸さず、ひたすら娘が天皇になる夢を見ている。

その為に「天皇にしてくれないと働かない」みたいな状態なのかな。

愛子内親王だって本当は働きたくないと思います。

原爆の日などに「黙とうの為に日赤を半休」したと書かれているけど、そんな事を「素晴らしい」と思う職場は・・・ないっ

バリキャリを目指すとか一生けん命に雑誌に持ち上げられてはいるけど、ボランティア課で広報誌を作る仕事でバリキャリって言われてもね。

でもそういう「嘘」がどんどん拡散されていくんですね。

 

相変わらず女性誌や新潮・文春は悠仁殿下をこれでもかという程叩いてるけど、いいの?

これ国会図書館にずっと残るんだけど?

100年後にこういう記事を発見されたら、必ず「令和天皇と〇〇皇太后の皇位簒奪にマスコミが大いに関与した」って事になります。

私は絶対に生きているうちに国会図書館で、昭和30年代からの女性誌を閲覧し、どういう形で「慈愛の美智子妃」が出来上がったか、しっかりと確かめたいと思っています。

罪のない秋篠宮家をいかにして苛め抜いたかもしっかり記録しておこうと思います。

後世の為に。

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悠仁親王誕生への道   2

2024-08-21 07:00:00 | 皇室報道

 皇祖神は徳川を選ばなかった

明治天皇は一つの事を大切に思っていた。それは「戊辰戦争」で負けた側への配慮。配慮というのがおかしいなら「同情」というべきか。

常に弱者の味方である皇室において、同じ皇族が敵味方に分かれて戦った戊辰戦争は、忘れられない記憶だったのかもしれない。

後に西南戦争で敗れる西郷隆盛の事も好きだったようだし。

そのような明治天皇のお気持ちに沿うように、まず廸宮(昭和天皇)のお妃には久邇宮家の良子女王が選ばれた。久邇宮家は戊辰戦争で負けた側であり、経済的にも他の宮家より苦しかった。

淳宮(秩父宮)には松平勢津子。いわゆる会津藩松平容保の孫を妃とし、光宮(高松宮)には徳川喜久子、つまり徳川慶喜の孫を妃とした。

ちなみに末っ子の澄宮には高木百合子(子爵家で1万石の大名家)を妃に迎えた。

大正天皇と貞明皇后の間に4人の親王が生まれたおかげで、とりあえず皇位継承問題は解決したかに見えた。

しかし、1924年に結婚した昭和天皇と妃の間には1933年まで親王が誕生しなかった。

兄より先、1922年に勢津子妃を娶った秩父宮家にも子供が誕生しない。

1930年に結婚した高松宮にも子供がいない状態。

三笠宮はまだ子供で、結局の処、明治時代の「皇位継承の危機」が10年近く続き、その責任はもっぱら昭和天皇と香淳皇后に委ねられたのである。

昭和天皇は結婚にあたって

 女官達を泊まり込みから通いに

 独身の女官をおかないように

 側室制廃止

を決め、この事がきっかけとなり貞明皇后との間があまりうまくいかなくなる。

姑からすれば「嫁の気持ちを大事にしすぎる。夫を取られたくなかったら自分で努力すべき」という考えだったのだろう。

しかし、昭和天皇も決めた以上は何があっても皇統を繋げようと努力し、2年おきに子供を授かり、そして9年目に継宮を、その3年後に義宮を授かった。

ここまで、では誰が皇嗣だったのかと言えば、秩父宮殿下である。

昭和天皇には親王を授かる可能性があったので、公に秩父宮が「皇嗣」を名乗った事はないし、秩父宮家にも親王がいなかったので、「皇位争い」どころではなかったと思う。

私が皇祖神は徳川家を好まないと書いたのは、かつて、徳川秀忠の娘、和子が後水尾天皇に入内した事がある。でも天皇と徳川の仲は最悪で投げやりに長女を天皇にすると譲位してしまう。

結局、親王は生まれたけど早世、明正天皇も独身のまま生涯を終える。もし、明正天皇が即位せずどこぞに嫁いでいたらその血筋は皇室の中に深く入ったかもしれない。

また、和宮と将軍家茂の結婚も子供を持つに至らなかった。

この時点で「皇祖神は徳川を好まない」と思った人はいなかったと思う。

しかし、結果的に秩父宮、高松宮に子女はなく、唯一、三笠宮家にのみ3人の親王が生まれた。

戦前生まれは継宮と義宮のみで、三笠宮家の男子は全て戦後生まれ。

皇統の危機に真の意味でほっとしたのは戦後になってからという事。

勿論、明治天皇のような布石も打った。

それは、長女照宮を東久邇宮家に嫁がせたこと。東久邇宮妃となった照宮は1945年3月10日、防空壕内で親王を出産。信彦王だ。彼は昭和天皇の初孫であり、男系男子でもあった。

(余談ですが、昭和天皇も成年式を誕生日からずらしていた事をしりました。また百合子妃の父君は昆虫学者として名を馳せたけど、華族制度の解体で標本など全てを失って自殺しました)

 

 戦後の悲劇

昭和天皇と皇太子の間の微妙な空気は、その時代、つまり昭和の後半を生きた人にかわからないと思う。

妙によそよそしいというか、滅多に天皇に笑顔を向けずむしろ敵認定したかのような表情に、当時の私は「この人、天皇陛下が亡くなったら弔辞を読む事出来るのか」と思った。

望まれて望まれて漸く生まれた日嗣の皇子であり、戦前は親子別々に暮らしたけど戦後は普通の親子のように親しい関係になった筈。

それなのになぜと。

継宮が生まれてから日本は中国やアメリカと戦争が始まり、昭和天皇は「大元帥陛下」としての役目に負われていた。

元々戦争は避けるべきと思っていた天皇にとって、226事件以後の軍部の台頭に頭を痛め、睡眠不足が続き、身体が時々痙攣するような事もあったそう。

太平洋戦争に突入すると、海軍は3ヶ月で終わらせると言ったのに、全然戦争が終わる気配がない。負け続けても止めない。

昭和天皇は自分の無力さに心を痛めた事と思う。

当時の子育ての慣例として3歳くらいまでは親元で暮らし、その後は女子は呉竹寮に、男子は御殿に入る。週に一度は面会をして交流する。それが甘やかさずに帝王学を叩きこむための育て方だ。

大正天皇は身体が弱すぎてそうもいかなかったけれど、昭和天皇は川村伯爵邸に預けられ、乃木希典を師として勉学に励んだ。

しかし、戦争中は(どの家庭もそうだが)家族団らんというわけにいかず、東京では集団疎開も行われ、皇太子と義宮は日光へ疎開。

時々軍が戦況の説明に来るが、皇太子はどちらかというと批判的に見ていたようだ。

 

戦後、GHQが11宮家を臣籍降下させ、華族制度を廃止し、上流階級の人々は辛酸をなめた。

マッカーサーは昭和天皇とその家族、弟宮家だけは残した。

この時、皇太子も義宮も未成年。三笠宮家は長男寛仁親王が生まれたばかり。秩父宮は結核を患い、子供なし。高松宮家にも子供がいない。

結果的に「皇室解体」の根はここで張られたのだ。

宮家が臣籍降下しても、昭和天皇はいずれ復活すると信じていた。

つまり日本が独立を果たした時に宮家が復活すると思っていたのかもしれない。

しかし、それは果たせなかった。

昭和天皇はアメリカ人を理解する為に、皇后らにキリスト教を学んだり、聖書を読ませたりした事もあるが、極めつけはGHQの指令で皇太子にヴァイニング夫人という美しい家庭教師をつけたこと。

彼女は熱心なクエーカー教徒で、皇太子に「ジミー」とあだ名をつけて呼んだ。

いうまでもなく、キリスト教的価値観の元、人間宣言した昭和天皇は普通の人であり、人間はみな平等であると教わったのではないかと。

さらに、アメリカの立場から見た反戦意識も植え付けられたのではないかと思われる。

 

戦争に負けたことで、日本は完全な悪役にされて、原爆を落とされた事にさえ「日本が悪い」という自虐史観を学校で教わる。

「寅に翼」にあるように被爆者がアメリカではなく日本という国を相手取って訴訟を起こすというおかしな出来事が起こったりする。

生き残った兵士達は「戦争に加担した」と責められ、次第に口をつぐむ。

戦後わずか1年でマッカーサーは人気者となり、日本はアメリカ大好きな国民になっていく。

 しかも、東京裁判が皇太子の心を病ませる。

A級戦犯の死刑執行日が、12月23日。つまり誕生日だったのである。

A級戦犯がなぜそうなったかという事を冷静に考える暇はなかったと思う。

とにかく父である昭和天皇は「戦争責任」を取らない。

子供時代は豊かなものではなかった・・という記憶も相まってその静かな怒りの矛先を父君に向けたのではないかと私は思っている。

アメリカ人からみれば、日本の皇族というのは「孤独」に見える。

一般の家庭というものしか知らない外国人に皇室独特のしきたりとか文化は、異様に見えたかもしれない。ヴァイニング夫人にもそう見えたと思う。

知らないうちに「自分は孤独なんだ」と思い始めた皇太子。

しかし、彼の姉達も弟も妹も屈託なくお育ちであったのだから、やっぱり皇太子のみがそう感じていたんだと思う。

その事が結婚にも大きな影響を及ぼすのだ。

 

 

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